「自らの遺伝情報を隠す権利」は「プライバシー権」に基づく。「プライバシー権」とは基本的には「自己に関する一定の情報を他人に対して秘密にしておく権利」である。このような意味でのプライバシー権は後に述べる「積極的(現代的)プライバシー権」との対比から「消極的プライバシー権」あるいは「伝統的プライバシー権」などと呼ばれている。なお医療情報に関する「伝統的プライバシー権」は、刑法134条(医師等に対する秘密漏泄罪の規定)等によって保護されている。医療従事者のもつ自分の遺伝情報を第三者に「知られない権利(隠す権利)」はこの刑法134条によって保護することができる。
また遺伝情報のプライバシーを守るためには遺伝データの蓄積と利用を規制する必要がある。例えば政府や自治体等の行政機関や警察、保険会社、信用調査会社等が遺伝子テストによって得られた遺伝情報をもとに、「遺伝子データバンク」をつくる可能性があり、人々の遺伝データを集積して売買するような会社が生まれる可能性もある。またある人の遺伝情報が本人に無断で、遺伝病の研究やヒトゲノムのマッピングといった研究目的のために利用される可能性もある。このような遺伝的データの利用も法的に規制する必要があるだろう。
またハンチントン舞踏病や家族性アミロイドポリニューロパシーのように、「保因者診断は可能だが治療法は無い」という遺伝病に関する遺伝情報の取り扱いには特に注意を要する。特に〈治療法が無く、かつ確実に死に至る遺伝病〉については、「自分の遺伝情報を知らないでいる権利」を保証する必要がある。そのような遺伝病の保因者診断は本人の希望がある場合にのみそれを行うべきであり、またそれを行う場合にも、遺伝的カウンセリングと十分なケアとともにそれを行うべきである。またそのような遺伝病については安易なスクリーニングテストを行うべきではない。
そして本人の「自己決定権」を尊重するなら、遺伝病の保因者診断については、あくまでも本人が希望する場合にのみそれを行うべきであって、家族を含めた第三者の希望によってそれを行うべきではない。また基本的には家族や血縁者に対するテスト結果の開示についても、本人の了承を条件とするべきであろう。本人の自己決定権を尊重するなら、自分の遺伝情報を誰に伝え、誰に伝えないのかを最終的に決定する権利は本人にあると考えるべきだからである。
そしてプライバシー権はこれらの権利の基礎としても理解することができる。プライバシー権とはただ単に「自分に関する情報を他人から保護する権利」にとどまらない。プライバシー権に基づいて女性の人工妊娠中絶の権利を認めたアメリカの「ロウ対ウェイド判決(1973年)」等でも見られるように、プライバシー権とは基本的には「政府等の介入を受けないように個人を保護し、個人が自由に活動できる領域を創り出すための権利(一人にしておいてもらう権利 the right to be let alone)」と考えることができる。
そしてプライバシー権とは「ある種の重要な意志決定における自主権」のことでもあり、それは結局自己決定権、つまり自律(autonomy)の権利(他者に危害を加えない限り自分のことは自分で決定することができる権利)のことである。このような「意志決定の自主権」という意味を踏まえて、近年プライバシー権は上記のような「消極的な」意味でのプライバシー権にかわって、「積極的・能動的プライバシー権」として理解されるようになってきた。この「積極的プライバシー権」は「現代的プライバシー権」とも呼ばれている。それは一言で言えば、「自己情報コントロール権」つまり「自己に関する情報の流れを自分でコントロールすることができる権利」であり、「自己情報管理権」「自己情報決定権」などとも呼ばれている。この権利は「自己に関する情報をいつ、どのように、またどの程度他人に伝えるかを自ら決定できる権利」である。そして従来のプライバシー権が、どちらかと言えば、知られたくない情報か否かという情報の内容に着目するのに対して、この「現代的(積極的)プライバシー権」は、情報の収集・蓄積・利用の仕方に着目している。
このような「自己に関する情報の流れを決定する権利」としての「積極的プライバシー権」は、自らの遺伝情報を自分が「知る権利」(自分の遺伝情報に対するアクセス権)、自分の遺伝情報を「知らないでいる権利」(自己に関する情報が自分に入ってこないことを決定する権利)、「自分の遺伝情報を誰に伝え、誰に伝えないのかを決定する権利」としても理解することができる。またこの「積極的プライバシー権」は「自己情報管理権」でもあるから、自分の遺伝情報を研究目的のために利用することについて決定する権利ともなる。なお遺伝情報を含めた医療情報について、現代的プライバシー権を想定した法律は、実質的にはまだ無いと言われている4)。
文献
1)蔵田伸雄「成人に対する遺伝子スクリーニングと遺伝情報のプライバシー−自分の遺 伝情報を知る権利、知らない権利、知らせない権利−」(加藤尚武 責任編集『ヒトゲノム解析と社会との接点 研究報告集』京都 大学文学部倫理学研究室 1995 pp.138-150)
2)茂木毅「ヒト遺伝子をめぐる科学技術とその倫理的・法的諸問題」(『ジュリスト 1017』有斐閣 1993.2.15 pp.125-134)
3)−「遺伝子プライバシー−第三者による遺伝子診断の利用とその制限−」(『ジュリスト増刊 May,1994 情報公開・個人情報保護』有斐閣 pp.249-253)
4)渡邊亮一「医療情報とプライバシー」(『ジュリスト増刊 1994 May 情報公開・個人情報保護』有斐閣 pp.244-248)
5)Andrews,Lori B.&Jaeger,Ami S.‘Confidentiality of Genetic Information in the Workplace’American Journal of Law & Medicine Vol.]Z Nos.1&2 pp.75-108
6)Andrews,Lori B., Fullarton,Jane E,Holtzman, Neil A.& Motulsky, Arno G.(eds.)Institute of Medicine“Assessing GeneticRisks:Implications for Health and Social Policy”National Academy Press 1994
7)Macklin R.‘Privacy and Control of Genetic Information’in G.J.Annas,S.Elias (eds.)“Gene Mapping”Oxford University Press 1992 pp.157-172
8)Wertz,D.C.& Fletcher,J.C ‘Privacy and Disclosure in Medical Genetics Examined in an Ethics of Care’Bioehics vol.5, No.3,1991 pp.212-232