Y事件と裁判闘争の現状
多摩川保養院を告発し地域精神医療を考える会 19750701
はじめに
Y裁判は、病院・保健所・警察などからなる「地域精神衛生網」がいかにして「患者」を作り上げ、病院に収容し抑圧していったのかということを、この間、証言などを通して明らかにしてきた。実際、「地域精神衛生網」の問題点は、「精神障害者」に対する管理抑圧体制そのものとか、保安処分制度の先取りであるとかいわれているが、まだ、私たちのなかに実感をもって受けとめるまでには至っていないと思われる。しかし、このY裁判をみるならば、みなさんは、その問題性をよりリアルに感じることであろうと思う。
経過
1969年10月4日〜11日に至るまで
川崎市に住むY氏(当時19歳)は大学進学などをめぐり、両親、とりわけ父と対立していた。約半年後の受験を控えて、対立はこのころ頂点に達した。父は、Y氏とぶつかることから、10月4日市精神衛生相談センター(以下、市センター)におもむき、市センターワーカーに相談をした。同ワーカーは、短時間父の話を聞いただけで、「これは、精神分裂病だ。放っておくと大変だから、すぐ入院させます」といい、その場で早速、精神病院にあたった。白衣を着て、医者のようにふるまうワーカーをみて、父はてっきり「医者だ」と思い、「精神病だ」といわれたことにショックを受け帰宅し、母にこれらのことを話した。母は「なぜ、そんなところに行ったのか」と怒り、父母話し合いのうえ、@相談を打ち切ること、A家庭訪問を断ることを市センターに電話した。
市センターは、父母の電話を受けてもなお、大師保健所と連絡をとり、同保健所のIワーカーは10月6日訪問し、Y氏をいちべつしただけで、「表情が硬い」と記録に記載するとともに、訪問を断った母に対して、「これが仕事である。病気を隠すと本人のためによくない」旨、対応し、「また来る」といって帰った。
11日当日
午前中にY氏と母との間に、ささいなことでトラブルがあった。そして母は保健所を訪れ、保健所Iワーカーの訪問を断るとともに、肩腰のことでどこかいい病院はないかと相談した。母はY氏が7月から再三腰を痛めているので、Y氏を整形外科医に診せたいと思って知人にその手配を依頼していたほどであった。しかし保健所は、市センターからの「精神病だ」という先入観にとらわれ、整形外科ではなく、精神病院収容の方向でことを進めてしまった(入院先行)。母が保健所に出向いたのに応じ、保健所側は、すぐさま収容の体制を整え、警察にも連絡するという手まわしのよさであった。また、多摩川保養院にも手配を済ませ、同院では入院受け入れのための看護士を居残らしめていた。
さて、Y氏の収容に向かった保健所の予防課長らは、Y氏宅で説得を始めたが、屋内外には警察官を1名ずつ配置していた。Y氏は、室内で静かにしていた(証言で、保健所・警察も認めている)。同課長は、Y氏と話し合いをするというのではなく、入院を前提として「肩が悪いなら病院で診てもらおう」と一方的に話を進めた。Y氏は、夕方に突然見知らぬ来訪者が来て「受診」をするようにというので、「その必要はない」と答え、そしてトイレに行こうと立ち上がった。
すると、Y氏の前に警察官が立ちふさがり、背後から応援にきていたワーカーが飛びつきY氏を転倒させたうえ、警察官が手錠をかけて病院まで運んだのである。保健所はこういったことまで「サービスとしてやった」と主張しているのである。
「サービス」とは、権力者側にとって、何と便利なコトバであろうか。
多摩川保養院で
保養院に着いてからY氏は、警察官とともに廊下に待たされ、その間(5分間くらい)父は入院手続きをとった。その後、Y氏は2階の保護室に入れられ、注射をされた。この入院手続きには、両親の同意が必要であるにもかかわらず、片方の親からしかとらなかったという問題があり、法廷での争点の1つである。また、入院前から入院当日にかけて、精神科医による診察は一切なされていない。
多摩川保養院に着いてからも、Y氏はそこで診察を受けていないといっているが、このことは、病院側にも入院当日の記録がないことで裏づけられる。
今までの病院側証人は「診察した」とはいっていない。せいぜい「したはずだ」「したと思う」というレベルにすぎない。この入院時の無診察問題は、やはり本裁判での重要な争点となっている。次にカルテの内容をみると、@初めから精神分裂病という先入観があるから、Y氏の思考を「やや滅裂」と記しても、その「滅裂」の具体的内容については、まったくふれられていない。AY氏は落ち着いていると記しつつ、他方で大量の精神安定剤を処方している。B担当医に抗議した父母のことを「精神病の知識がない」旨記載し、市センターからきた“メモ”に疑いをもっていない。C他医の見解(11月3日)は、分裂病ではなく、「心因反応+精神病質」、11月19日退院時診断は「心因反応+精神病質?」となっており、この間の診断・処置についての反省的考察はなされていない。
退院後
1969年11月19日、入院後40日、総合病院で受診させるということで退院したY氏は薬漬けなどで苦しみ、すぐ行動を起こすことができなかった。1970年1月、母が市の法律相談で市のやり方の不当性を訴えた。市センターは正当性を主張。Y氏は同年4月、横浜地方法務局人権擁護課に訴えた。@入院同意の点、A診察をしなかった点で手続き上の違反があったことを9月に認める。しかし同課は、「院長らに注意したから、あとは黙っていたほうが得た」とY氏に話した。1971年5月に、Y氏は多摩川保養院に質問状を送り、それに対する回答がないので、1971年12月1日、多摩川保養院を相手どって、損害賠償請求の民事裁判を争うこととなった。
裁判
裁判当初は、@片親からしか同意をとっていない、A無診察による入院、B入院による「身体自由の不法なる拘束による人権侵害」を掲げて闘ってきた。その後、1973年夏に、弁護陣を強化してからは、賠償請求の拡張を行った(「原告の意に反する違法な監禁を強いられ」「治療に名をかりた、人間性を一切無視された取扱いを受けた」など)。
一方、病院側は、1972年1月に、@無診察で入院させたことを認める。A市センターの資料によって、精神分裂病の疑いをもったと主張。しかし、その後「入院当夜の注射の指示・処置簿が発見されたからY氏を診察している」旨、主張を変えている。また、Y氏入院時の当直医はアルバイトであり、そのような場合は診察してもカルテに書かないことになっているなどと主張している。さらに、「警察官が一緒に来たときには・・・・・・・求められるままに入院させていた」という。驚くべき正直な(?)見解まで述べているのである。精神医療に携わるPSWのみなさんは、これを読んでどう感じたであろうか?
証人尋問
証人尋問は、今まで(1975年7月1日現在)のところ、8人行われている。主な証言内容に簡単にふれると、多摩川保養院Nワーカーは「Y氏のこと、そのものについては覚えていない」と答えている。市センターワーカーは、診察を勧めたこと、入院依頼をしたというのは病院の受け入れ体制を聞いた者であること、入院そのものは保健所が行ったものであり、市センターの手から離れていることなどを答えているが、これらは、父の証言とは相いれない内容であるし、責任を保健所にもっていこうとする証言内容である。多摩川保養院の看護士は「当日、入院に来ることをあらかじめ知らされており、業務命令で待機していた」「当直医の顔は、覚えていない」「本人は暴れてはいなかった」「診察には立ち会っていなかった」旨、証言。多摩川保養院の当直医は、法定内でY氏をみても、その当夜入院した人物かどうかわからないという。ほとんどのことについて「わからない」「覚えていない」の連発で、カルテについても書いたことは書いた(実際に記録はない)と説明のつかない証言をしている。
警察官は、「入院させるための応援」として行ったこと、Y氏は、保健所職員が説得していた当初はおとなしかったこと、途中からY氏が立ってきたので制止したこと、手錠をかけたこと、病院では当直医とは会っていないことなどを証言。また、事前に裁判所に出した詳しい報告書が「入院直後に書かれた」ものではなく、Y氏が動き出したあとになって作成されたものであることが法廷で明らかとなった。さらに、Y氏の入院にかかわったのは、「・・・・・・・興奮してきたので異常と思い」「Y氏が立ち上がってきた時点で警職法を発動した」からだという。
大師保健所予防課長は、市センターの依頼でかかわりをもつようになったこと、Y氏とは会っていないが、まわりの人の話と家のなかの様子から、常識で了解できないので精神病を疑ったこと、自分は専門医ではないが、専門医に診せれば入院になるだろうと考えていたこと、そして入院できる病院を探したこと、なんとこれらは「保健所サービス」であるとのこと、病院に受診に連れて行くまでの保健サービスを行ったことなどを証言している。
これら、病院・市センター・保健所・警察からの証言および準備書面を総合すると、
@多摩川保養院は、県の同意に関する指導が間違っていた、誤診で敗けたとするなら、その大きな原因は、市センター・大師保健所・警察官にあるとしている
A市センターは、入院は保健所が行ったのだから、センターの手を離れている
B保健所はサービスでやった
C警察は入院の応援で行った
と、それぞれ自らの責任を回避しようとしている。
裁判闘争
裁判を闘うなかで、私たちは地域精神衛生網を問題にしてきた。Y氏は病院・保健所・市センター・警察などのいわゆる「網」にからめられ、自らの意志とはまったく関係なく精神病院に入院させられたが、私たちは、今病院を相手に裁判を闘っている。だからといって、単に病院の問題だけに終わらせるのではない。「網」そのもののもつ問題性を明らかにするためにも、私たちはこの3年間、PSW大会に問題提起してきたつもりである。
行政側では、まず市センターのワーカーが、本人不在のところで精神分裂病であると判断し、次にこれを受けた保健所側が、先入観から入院を先行させるという誤りを犯している。
これらを裏づけるものとして、大師保健所Iワーカーは、本人とはまったく話し合ったことがないのに、「本人の性格、最近の行動、思考内容を考えると、分裂病の始まりのように思われる」とか、「本人は寝ていたが、水飲みに起きてきたところをみると表情が硬い」とかの記載をし、精神病と判断してしまっている。さらに、保健所記録では、「説得入院の可能性がうすい」「移送上の保護を警察に依頼、収容費用は市センターで出費することに決定」と記している。そして、次に病院が診察もなく、安易にしかも市センターのワーカーの資料から判断して入院させたことは、重大な誤りであるといわねばならない。入院中のことについても、その非人間的なやり方を裁判のなかで明らかにしていくつもりである。
最後に退院をめぐるやりとりについてふれておきたい。入院中、父母が精神病院入院のキメ手となった。市センターの“メモ”に誤りがあることを知り、担当医にこのことを話すとともに、退院を要求した。担当医は、「これは保健所からきたもので間違いはない。これをもとにして診察した。不満があるなら保健所にいえ」との旨をいって、抗議と要求を突っぱねた。それで母は、保健所に行った。同所のIワーカーは、担当医に電話で聞いたことをうのみにし、入院継続のみを考え、母の要求には一切耳を貸さず、「書類が間違っていてもよいではないか。本人は現に入院しているのだから医者に任せておきなさい。何なら八王子の病院に移す」などの対応をしている。
これらのことは、当初精神病らしいという先入観が市センターから、保健所・病院へとそのまま持ち込まれ、今度は逆に病院によって権威づけられたものとして、保健所に返されるなかで、ますます先入観のとりことなっていったことを示している。要は市センター・保健所・警察が一体となって、「どうも暴れていて危険らしいし、精神分裂病でもあるらしいから、すぐ入院させてしまおう」と考え、Y氏をひっくくっていった(=保安処分の実態)のが本事件の本質である。
*作成:桐原 尚之