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山之内 俊夫

やまのうち・としお

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◇(NPO)障害者自立応援センターYAH!DOみやざき
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◇1969 宮崎生
◇別府 国立リハビリテーションセンター
◇1995 東京・多摩市・自立ステーションつばさ
◇〜1999 旅行:ネパール、インド、カンボジア…
◇1999末 宮崎の実家に戻る
◇2000 「宮崎に戻って来て一人暮らし始めてCILを作ろうと思った時に、仲間をどうしようかっての、もう真っ先に永山さんが浮かんで。で、永山さんとコンタクト取ったら、永山さんも中西さんからそういう話が来て、僕も、」
◇2001 アパートを見つけて一人暮らしを始める 生活保護・他人介護加算大臣承認
◇2002 設立総会を開き、尾上さんに来てもらう
◇2003 ヘルパー派遣事業をスタートして、実質的に活動がスタート
 ……



◆山之内 俊夫 i2018 インタビュー 2018/09/26 聞き手:立岩真也 於:宮崎 ※



◆立岩 真也 2019/09/10 「はじめに・いきさつ」
 青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,pp.3-10
 「[…]
                二〇一九年七月 調査をしなかったのに調査者を代表して 立岩真也

 *挨拶が終わった後の補足
 八〇年代の調査は、さきに記したメモと文字起こししたものを綴じたファイルによると、八五年六月から八七年四月にかけて三四回は――「は」、と言うのは、相模原でのもののように記録が失われているものもあるから――行なわれた。『生の技法』の「はじめに」を見ると、一〇〇人余りの人に話をうかがったとある。また五三名の方々の名前が列記されている。こちらにある調査の経緯についての記録は本書出版前には公開する。文字起こしした記録も、手書きのものありワープロで入力して印字したものあり(もとのファイルはない)なのだが、可能でまたその気になったものについては、入力しなおすなどして公開できればと思う。ただ、あの時のものだって使えるかもと思ったのはほぼ今日なので、その過去の記録は本書にはほとんど生かすことができない。
 それでも、こんなことを付記するのは、(「ぎりぎり」の後の)ほんとうの作業最終日の今日(七月二一日)は参議院議員の選挙の日で、れいわ新選組から木村英子が立候補しているのだが、私と石川准はその人に、一九八六年三月、東京都国立市の喫茶店スワンでインタビューしているのだ(赤窄[i1986]=木村[i1986])――今回は文献表に同じものを二つ載てみた)。当時は赤窄(あかさこ)英子だった。B5の紙三四頁の記録がある。それ以来、彼女にはたぶん一度もお会いしていない――「たぶん」、と言うのは、「はじめまして」と挨拶すると、高い割合で相手からはじめてではないことを言われて恐縮するからだ。ただ、何度か彼女のことを聞くことはあった。近いところでは二〇一八年九月、宮崎市で山之内俊夫にインタビューした時(山之内[i2018])だ。山之内は東京でずいぶん木△011 村に鍛えられて宮崎に戻ったのだと話した。さらに加えれば、私は昨日(=投票日の前日)、二〇一六年七月二六日に相模原の施設で起きた殺傷事件に関わる本の紹介を『朝日新聞』に書いたのだが(立岩[2019d])、そこで紹介した本の一冊は「生きている!殺すな」編集委員会編[2017]で、そこには木村の「私が地域へ帰るとき」(木村[2017])も収録されている。さらに、その事件の翌年の五月「津久井やまゆり園事件を考える集会」が開催され、「津久井やまゆり園の建替えに関する提言書」が出された時、そのよびかけ人のところに、「室津滋樹 グループホーム学会」(横塚[1975→2007:157])とともに「栗城シゲ子 くえびこ代表」を見た時、ああとても長い時間の後で、と思い、あれからずっと活動されてきたのだなと思った。こんなふうに、途切れながら、いろいろがつながっていく。ここまで書いて、寝て、七月二二日夜明けのだいぶ前、最後の仕事をと起き出したら、木村英子当選確実〜当選、との報あり。」([11-12])

◆立岩 真也 2019/09/10 「分かれた道を引き返し進む」
 青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院,pp.255-322

 「3 二人について複数について
 最後にもう一度、運動の方に戻ろう。さきに述べたのは、いろいろなやり方があってもよいこと、あった方がよいこと、そのぐらいいろいろとやって、ようやく取るべきものがいくらか取れるということもあるということだった。つまり、複数の声があったほうがよいということだ。声色を変えて、いろいろやってみるのがよい。ただ、ときにはやり方・言い方を間違えると損することもあるから、そのことはわかっておいた方がよい、注意した方がよいことを加えた。間違えると自分を安くしてしまい、結果、かえって損することもある。そのことがわかったうえでなら、二枚舌がうまく使えることはよいことだ。
 しかしそれを、どんなふうに、どんな人が言うかというはある。それをすべて一人でまかなおうとすると、不自然な、嘘っぽい感じになりそうだ。時と場合によって言い方を変える人、何を考えているのか本当のところがわからない怪しい人、ずるい人ということにされてしまうことがある。だから、一人でなく、複数の人がいた方が、最少なら二人いた方がよいということは言える。ワンパターンの刑事ドラマで、取調べの時に、おどす人とそれをなだめる人が出てくる。漫才だとぼけとつっこみということになる。白石と橋△308 本は、この二通りのいずれでもないだろうが、しかし、二人でやってきた。そういえば、と、私は私が知る何組かの二人組のことを思った。立川(自立生活センター・立川)には、高橋修と野口俊彦がいた。宮崎(障害者自立応援センターYAH!DOみやざき=やっど宮崎)には永山昌彦と山之内俊夫がいる★49。
 本章で述べたのは、道はたいがい複数あって、どちらかを選ぶかは難しいところはあるが、選ばなければならない場合もある、その時に間違えないようにしようということだった。ただ、複数あればよいことも、もちろんたくさんある。基本的な道は一つであるとして、それがどんな道であるかを示す示し方や、どんな具合にその道を歩いて行くかは複数あるし、あった方がよいのだ。福島にはその複数があってきた。これからもそうなら、きっとそれはうまくいく。そして楽しい。」(〔308-309〕)
 「★50 高橋について、高橋と野口の立川でのことについて書くことは述べた(立岩[2019g]に収録)。永山と山之内には二〇一八年にインタビューしている(永山[i2018]、山之内[i2018])。」([322])



UP: 20190731 REV:20190925
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