山本 正
やまもと・ただし
〜2012.04.15
last update:20120418
■略歴
1936(昭和11)年生まれ、享年76歳。上智大学を経て、米国セント・ノーバート大学卒業、マーケット大学院より経営学修士号取得。
1964年に故小坂徳三郎氏(信越化学社長)のもとで、日米の財界人の民間交流を開始し、小坂氏の衆議院議員転出に伴い独立、
1970年に
日本国際交流センターを設立した。
以来、日本における民間の国際交流のパイオニアとして数々の事業を推進し、下田会議、日米議員交流、三極委員会など、
戦後日本の国際化を進める知的交流プログラムを推進したほか、近年は、
「人間の安全保障」概念の普及と地球規模課題における日本の国際的役割の強化にも尽力した。
また、独立・民間の非営利組織としての立場を貫き、日本の非営利セクターの強化や国際化を支援した。欧米、アジアの政財界、官界、学界、財団界、
NPO界などに広汎な人脈を築き、日本と海外をつなぐ架け橋となってきた。(日本国際交流センターサイトより)
三極委員会(トライラテラル・コミッション)アジア太平洋ディレクター
日英21世紀委員会ディレクター
日独フォーラム幹事委員
日韓フォーラム代表幹事
世界基金支援日本委員会ディレクター
「21世紀日本の構想」総理懇談会幹事委員(1999年)
■著書・ブックレット・インタビュー他
山本 正・伊藤 聡子 編 20070515 『迫りくる東アジアのエイズ危機』連合出版,318p. ISBN-10: 4897722209 ISBN-13: 978-4897722207 \2500+税
『山本正 旭日中綬章受章記念――活動の軌跡』受章記念制作ブックレット(2011年10月)
http://www.jcie.org/japan/j/pdf/intro/Celebrating_Tadashi_Yamamoto.pdf
「「市民外交」の伝道師」『日本経済新聞』(2007年5月14日-18日連載)
http://www.jcie.or.jp/japan/others/kiji/2007/200705nikkei.html
■受章・受賞歴
2011年 旭日中綬章
2004年 第3回井植記念アジア太平洋文化賞
2003年 オーストラリア名誉勲章(AO)(オーストラリア)
1998年 大英勲章(C.B.E.)(イギリス)
1990年 ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章(ドイツ)
■訃報
平成24年4月15日
日本国際交流センター理事長 山本正は、かねて病気療養中のところ、2012年4月15日午前0時23分、逝去いたしました(享年76歳)。
ここに生前のご厚誼を深く感謝し謹んでご通知申し上げます。通夜ならびに葬儀ミサ・告別式は下記の通り執り行います。
記
通夜:2012年4月17日(火)19:30〜20:30
葬儀ミサ・告別式:2012年4月18日(水)13:30〜15:00
場所:聖イグナチオ教会(東京都千代田区)
喪主:山本太郎(長男)
本件に関するお問い合わせ:
公益財団法人 日本国際交流センター 電話:03−3446−7781
弔電を賜ります場合:
4/17 聖イグナチオ教会
4/18 日本国際交流センター(東京都港区南麻布4−9−17 Tel: 03−3446−7781)
生花を賜ります場合:(株)テイハナ (Tel 03−3357−1187, Fax 03−3357−0087)
■追悼記事
山本 正さんを偲ぶ――「エイズと社会」ウエブ版67
公益財団法人日本国際交流センターの山本正理事長が4月15日午前零時23分、亡くなりました。新聞の記事によると死因は胆のうがんということです。76歳でした。
日本国際交流センターの公式サイトに「訃報」が掲載されています。
http://www.jcie.or.jp/japan/obituary.html
《日本における民間の国際交流のパイオニアとして数々の事業を推進し、下田会議、日米議員交流、三極委員会など、
戦後日本の国際化を進める知的交流プログラムを推進したほか、近年は、「人間の安全保障」概念の普及と地球規模課題における日本の国際的役割の強化にも尽力した。
また、独立・民間の非営利組織としての立場を貫き、日本の非営利セクターの強化や国際化を支援した》
外交・国際交流分野における幅広く、かつ輝かしい山本さんの業績については、多くの方がそれぞれの立場で高く評価され、追悼の文章を書かれることと思います。
その全体像は到底、つかめるものではありませんが、私はHIV/エイズについて長く取材を行ってきた新聞記者であり、
同時に特定非営利活動法人エイズ&ソサエティ研究会議の事務局長でもあるという立場から、
HIV/エイズ対策分野における山本さんの貢献を振り返ってみたいと思います。
山本さんのHIV/エイズ対策分野におけるお仕事は、世界基金支援日本委員会の運営が中心でした。この委員会は、
2002年1月に世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)が設立されたのを受け、
《エイズ、結核、マラリアの三疾患に対する意識喚起と日本の国際的役割の向上》などを目的にして2004年3月に設立されています。
世界基金自体、2000年7月の九州沖縄サミットで当時の森喜朗首相が、途上国の感染症対策に関する「新たな追加的資金」
の必要性を各国首脳に呼びかけたのが創設のきっかけでした。このことから、日本は今日に至るまで、
世界基金のコンセプトの生みの親として国際社会から高い評価を受けています。
世界基金支援日本委員会は、そうした縁から、日本の官民が協力して世界基金を盛り上げていこうという趣旨で作られています。会長には森元首相、
そして実質的な組織の運営管理を取り仕切るディレクターに山本さんが就任されました。以来8年間にわたり、国際会議の開催や政策対話、
その成果としての書籍の発行、世界基金関係の海外著名人の来日、政府や企業に対する世界基金支援のための働きかけなど、その実績は枚挙にいとまがありません。
世界基金支援日本委員会のサイトにその一部が紹介されているので、ご覧ください。
http://www.jcie.or.jp/fgfj/02.html
この8年の実績は、日米外交をはじめ国際交流分野における山本さんの幅広い人脈、
および山本さんの考え方を具体化させていく日本国際交流センターの優秀なスタッフの存在がなければ、到底なしえなかった偉業だと思います。日本政府は今年、
世界基金に対する拠出の大幅増額を発表し、国際エイズ学会(IAS)など世界のHIV/エイズ対策関係者からもその貢献を高く評価されています。
リーマンショック以降の国際貢献分野における深刻な資金難が世界を重く覆う中で、世界基金自身も大きな試練に直面し、組織の変革に取り組んでいるところです。
東日本大震災という国難に見舞われ、各国からの支援に大きく勇気づけられた日本が、あえてその苦境の中で、国際的な貢献を果たそうとする姿勢を示したことは、
目立たないものではあっても、わが国外交史上の大きな快挙というべきでしょう。こうした選択も、
山本さんを中心とする世界基金支援日本委員会の地道な活動の蓄積と民間レベルからの提言があって、初めて可能となったのではないかと思います。
こうした大きな枠組み作りの一方で、HIV/エイズ対策の現場で困難な現実と闘う人たちへの目配りも怠らないところが、民間外交家としての山本さんの真骨頂でした。
世界基金が発足した2002年には、当時のロバート・フィーチャム世界基金事務局長が来日し、日本国際交流センターの仲立ちで、
日本のHIV/エイズ分野のNPO/NGO関係者と会合を持ったことがあります。そのときすでに、
世界基金日本支援委員会のようなものを作ってほしいという構想がフィーチャム氏にはあったのではないかと思います。
日本のエイズ対策に取り組む人たちとも協力してやっていきたいというお話しがあり、その冷静かつ真摯な説明は出席した人たちの胸を打つものでした。
ただし、私には「国際協力分野への貢献が、結果として、日本の国内で社会的な関心の低下に苦しみながらも、
何とかやっとの思いでHIV/エイズ対策に取り組んでいる現場のNPO/NGOから、なけなしの資金を奪っていくようなかたちになるのでは、協力したくてもできない」
という思いがあり、そのこともはっきりと(たどたどしい英語なので相手には支離滅裂だったかもしれませんが)伝えたことがあります。
フィーチャム氏からは「そんなことにはならないようにしたい。日本のNPO/NGOのエンパワメントにつながるようなかたちで活動をしていきたい」
という回答がありました。フィーチャム氏の頭の中では、世界基金支援日本委員会を統括する人物として山本さんが意中の人になっていたのではないかと思います。
結果的に委員会は日本国際交流センターが事務局となり、それが日本国内のHIV/エイズ関係者の信頼を得ることにもつながりました。山本さん自身はそれまで、
HIV/エイズ対策そのものに深く関与していたわけではなかったのですが、日本国際交流センターの訃報にも紹介されている《独立・民間の非営利組織としての立場を貫き、
日本の非営利セクターの強化や国際化を支援した》という部分で、世界基金という新たな国際組織の運営のあり方や、
それを支援する日本の国内委員会の活動に大いに魅力を感じ、その能力と人脈を生かしてこられたのではないかと思います。それはまさに、
わが国のHIV/エイズ対策の現場には欠けていた得難い能力でもありました。
誤解をおそれずにあえて言えば、HIV/エイズ対策の現場にいる人たちは逆に、山本さんの幅広い人脈の一端を占めることによって、
これまでならやりたいと思っていながらできなかったこと、そもそも無理だと思っていたことが、
少しずつではあっても実現していくという山本マジックを何度も経験しています。これこそがまさしく、
現場の人たちを勇気づけるエンパワメントの最も大きな力だったのではないでしょうか。失われることによって、その大きさを改めて感じます。
世界基金が10年の活動を経て大きな転換期を迎えていることでも分かるように、HIV/エイズ対策はいま、内外ともに大いなる岐路に立たされています。
それは試練ではありますが、同時のこの10年間の国際的なHIV/エイズ分野における輝かしい成果を踏まえ、新たな可能性に踏み出す重要な機会でもあります。
山本さんのような大きな視野と小さな気配りをあわせもった天性のコーディネーターをこの時期に失ったことは大変に残念であり、大きな痛手と言わなければなりません。
そろそろ君たちがしっかりしないとね。山本さんはいま、優しい笑顔でそんなメッセージを日本のHIVコミュニティにも遺して、逝かれたのかもしれません。
後は任せてくださいとは到底、言えない状態ではありますが、最善を尽くすことをお約束するとともに、ご冥福をお祈りします。