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和田 博夫

わだ ひろお

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last update:20220529


■紹介

「1917年福岡県生まれ。九州大学医学部卒業。国立東京第一病院整形外科を経て、浦和整形外科診療所開業後、南多摩整形外科病院を開院し、院長、財団法人ひふみ会理事長を務める。94年没。」
honto著者紹介より引用

■資料

 「在宅生活を続けていた山崎は 1972 年ごろ、整形外科医の和田博夫に会うために浦和市(現・さいたま市)内の「浦和整形外科診療所」を訪ねた。和田は身体障害者の機能改善医療を専門にしており、脳性マヒ者やポリオ患者の手足の拘縮をなおして歩けるようにする医者として「障害者の神様」と崇められる存在であった。勤務していた国立身体障害センターの方針転換によって和田が別の病院に配転されようとしたときには、反対する障害者によって厚生省への抗議活動が展開されたほどである。和田は、まだセンターに勤務していた時期から診療所を開業し、本業の合間を縫って手術を行っていた。また和田は、自身のシンパであった障害者とともに「根っこの会」★04 を組織しており、診療所が根っこの会の本拠地になっていた(二日市[1979:80]、根っこの会編[1992]、小佐野[2007])。
 和田は医師業だけでなく、複数の施設経営にかかわっていた。山崎は当初、施設入所の相談をしたいと考えていただけで、診察してもらうつもりはなかった。しかし和田は、施設に入るためには手術して歩けるようになったほうがいいだろうと勧め、山崎はいつの間にか勧めに応じて手術を受けた(山崎[1975:4-5]、和田[1978→1993:308])。
 診療所は入院病床も備えており、山崎は何回か手術を受けながら入院生活を送った。施設入所の経験がなかった山崎にとっては、初めての長期間の団体生活であった。診療所のなかでも重度者であった山崎は、軽度者からつまはじきにあいながらも入院を続けた。それは、退院したら以前のように、家族に気兼ねしながら過ごす生活に戻ってしまうと思ったからであった。入院から2 年近く経った 1974 年、いよいよ真剣に今後の人生を考えなければならなくなった山崎は、八木下に対して「教育問題も大事だけれども、くそ・小便すらも保証されていない障害者の現状がある。これをどうする」と問い詰めた(山崎[1975:5])。この山崎の訴えがきっかけとなり、生きる場をつくる会が結成されることになった。
 会の結成にあたり、まず趣意書が作成された。」
◇増田 洋介 202203 「失敗に終わったとされたケア付き住宅建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の軌跡」,『遡航』1:74-97  [PDF]
http://aru.official.jp/m/SOKOU001.htm

「 すすめる会は当時、脳性マヒ者の沼尻ふさ江が代表を務めていた。沼尻は、国立身体障害センターに入所していた1955年に、足の手術を受けた。手術を行ったのは、センターに勤務していた整形外科医の和田博夫であった(沼尻 1992)。和田は、身体障害者の機能改善医療を専門にしており、手足の拘縮をなおして歩けるようにする医者として、障害者から「神様」と崇められる存在であった。センターの方針転換にともない、和田が別の病院に配転されようとしたときには、反対する障害者によって厚生省内で座り込みが行われるなど、激しい抗議活動が展開されたほどである。和田は、自分のシンパであった障害者とともに「根っこの会」6)を組織しており、沼尻もその会員であった。また、沼尻が住む浦和市(現・さいたま市)内で和田が経営していた「浦和整形外科診療所」が、根っこの会の本拠地になっていた(二日市 1979: 80)7)。  八木下は1970年4月に、小学5年生として入学を果たした8)。しかしこれは、八木下が知らないままに「小学校生活を経験させる」との目的で、聴講生扱いとして編入させられたものであった。教材が配られず、手を挙げても教師から指されず、通知表も渡されなかった。また、ほかの生徒よりも文字を読んだり書いたりするのが遅いこともあり、なかなか授業についていくのが難しかった(北村 1972)。」
◇「もうひとつの「ケア付き住宅」建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の足跡」, 増田 洋介(立命館大学大学院/東京通信大学) 2020/09/19 障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催. [リンク] 「 ちなみに横塚はその後、五五年四月国立身体障害センター(現在は国立障害者リハビリテーションセンター)――ここも国立の身体障害者更生指導所として四九年、日本で最初に開設されたセンターだった――に入所(五六年三月退所)している。時期的にはこの後になるが、このセンターでは和田博夫・田中豊らがポリオや脳性麻痺の人たち他に行なっていた手術がセンターの方針で打ち切られそうになると入所者らが抗議行動を起こし、センターと長期に渡って対立することになった。この闘争・事件についてはそこに入所しこの闘争にいっとき関わった二日市安の記述がある。その著書に二日市[1979][1982][1995]。彼も「しののめ」の同人であり、またのちには「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」や「障害児を普通学校へ全国連絡会」の中心的な存在の一人だった。そしてこの闘争についての一次資料を用いた歴史研究として鈴木雅子[2012]がある。」
光明養護学校/東京都立光明特別支援学校.

「 「☆18 正式名称は国立身体障害者更生指導所。四九年に当時唯一の肢体不自由者更生施設(現在は四八)として開設、後に所沢市に移転した。開設当初は傷疾軍人が多かったが、次第にポリオ、脳性マヒ、脊椎カリエス等の障害者が多数を占めるようになった。文献として主に二日市[1979]等、他に若林[1986:45-58]、『しののめ』六三年一月号、青い芝の会との関係について岡村[1988:119-124]、また当の医師が当時を省みた文章として和田博夫「国立身障センター物語」(『根っこの会会報』一〇号から連載)。」([199010→201205:335])  このセンターでの手術のことにごく短くふれているのは河合[2011:23-24]。そのセンターに務めて手術を行なったり関わったりした和田博夫と田中豊は、センターを辞めた後埼玉県で「まりも会」という法人に関わった。埼玉の障害者たちが要求して建設が認められた「しらゆりの家」が、約束が反故にされたうえで、その法人が経営委託を受けると、対立が生じた。『生政治史点描』で、福嶋あき江が、たぶんその争いのことは知らずに、そこに見学に言ったりもしていることを記した。こうした埼玉での動きについて増田洋介が研究を始めている(増田[2019])。 ★08 私たちは二〇一一年の会の会員に公開インタビューを行ない、その記録が『季刊福祉労働』に収録された(人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>[2011,2012])。」」
◇脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy)[リンク]

■関連頁

『福祉と施設の模索』(障害者の医療はいかにあるべきか 1) 和田 博夫 19930910 梟社,369p.


UP:20220529
0519〜0522・東京〜新潟・7:和田博夫・田中豊  WHO
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