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渡辺 春樹
わたなべ・はるき
◆2003/07/03 「ALS患者の医師が自叙伝 難病との戦い、米国研修、趣味の乗馬への思い 長女が1年かけ口述筆記 売り上げは研究費に」
『河北新報』
「進行性の難病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため、人工呼吸器を着けて闘病生活を送る仙台市眼科医、渡辺春樹さん(69)が自叙伝
「蹄跡(ていせき)――ALS患者となった眼科医の手記」
を発行した。米国での研修と開業、仙台に移ってからの多忙な診療生活、病気の無念さ、学生時代から親しんだ乗馬への思いなど、さまざまなエピソードで半生をつづっている。
渡辺さんは仙台市青葉区で渡辺春樹眼科医院と平成眼科病院を経営していたが、1998年にALSを発病した。運動神経が侵され、全身の筋肉がやせ衰えていく原因不明の難病で全国で約6500人の患者がいるとされる。
現在は、自ら体を動かすことも自力で呼吸することもできない。足の指のかすかな動きで操作できるパソコンと、わずかに動く目の周囲の表情で意思を伝えている。
執筆は気管切開で人工呼吸となる前の2000年3月から1年以上にわたり、渡辺さんの口述を長女の長谷川マリさん(32)が書き起こして進められた。
渡辺さんは山形県山辺町出身で東北大医学部を卒業。じゅうたん製造業を営む父の影響で、戦時中の国民学校時代に英語を習い始めた。卒業後は特技の英語を生かして米軍基地内の病院などでインターンを経験し、渡米した。通算12年の海外生活では、米国眼科学会専門医試験に合格し、アラバマ州立大助教授を務めるなど異色の経験を持つ。
母の病気を機に帰国し、76年に仙台市で開業。大学在学中に乗馬部に入って以来、乗馬の魅力にとりつかれ、卒業後も母校の監督やコーチとして活躍した。
執筆時は、病気を患いながらもまだ診療ができたころで、当時の心境を「ALSに罹患(りかん)してから治せない患者様の診方が変った。病気に罹(かか)ってからの方がそのような患者さんへの私の対応がより良く受け入れられている気がする」「ALSになってようやく一人前の医師になったのだろうか」と記す。
渡辺さんは発行に際し、「自分のやってきたことを吹聴する気は毛頭ない。治療法がいまだ見つからないALS患者に寄与することができれば」としている。
著書の売り上げはALS治療の研究のため寄付されるという。
359ページ。2300円。問い合わせは西田書店03(3261)4509へ。」
◆2003/06/21 「山辺出身眼科医 ALS闘病渡辺さん 渡米し診療 帰国し開業成功、そして発病 疾走人生の記録 難病研究の力に 売り上げ、寄付へ」
『山形新聞』2003/06/21
寝たきりの状態で難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)と闘っている山辺町出身の眼科医、渡辺春樹さん(69)=仙台市在住=が、これまでの人生を振り返った
「蹄跡(ていせき)」
を出版した。
勉強一筋の山形東高時代、馬術に打ち込んだ東北大学時代、通算12年余りに及ぶアメリカでの診療活動、母親の病気をきっかけに決断した帰国、仙台市での開業などを回顧。渡辺さんの希望で、本の売り上げはALS治療の研究ために寄付するという。
ALSは運動神経が徐々に侵され、筋肉がやせていく進行性の難病。病気が胸の筋肉に及ぶと呼吸ができなくなり、気管切開して人工呼吸器を付けないと死に至る。原因はほとんど分からず、根本的な治療法ほない。国内の患者は約6500人。渡辺さんの場合は1998年、右手の疲れを感じたのが始まり。次第に体の自由が失われ、2001年には気管を切開して人工呼吸器になった。現在は、足の指先で操作する特殊なワープロでコミュ二ケーションを行っている。
大好きな馬にちなんだ「蹄跡」は、気管切開で声を失う前に口述した内容を、長女の長谷川マリさんが まとめた。馬の疾走のようにエネルギッシュな渡辺さんの人生が活写されている。父謙三さんは太平洋戦争中、敵国語として禁止されていた英語を、国民学校生だった渡辺さんに自宅で教えた。大学時代の渡辺さんは乗馬部の活動に熱中したほか、学内外の英会話教室に出席。
1959(昭和34)年に卒業した後は埼玉県にある米空軍病院、シカゴの病院でインターンを経験、アラバマ州立大医学部の准教授となる。山辺町の母ががんになったのを機に、76年帰国。
仙台市で開業し、医師として宮城県内の高額納税者のトップクラスにランクされるほど成功する。
難病にかかった後も診療を続けた結果、治せない患者への対応が「より良く受け入れられている」と感じるようになったという。渡辺さんは出版に当たって「ALS患者は、最終的にすべてを人に頼らなければならず、家族の負担や治療費が膨大。できるだけ多く人にALSのことを知ってほしい」とメッセージを寄せた。
西田書店判で2300円。問い合わせは同書店03(3261)4509.
◆2003/06/29
「蹄跡 ALS患者となった眼科医の手記 渡辺春樹著 日米で奮闘――男の自叙伝」
『山形新聞』2003/06/29
経歴にアメリカ留学を書く医師は多いが、多くは研究での短期留学である。スレーブ(奴隷)とも揶揄(やゆ)される過酷な米国のインターンを経て、レジデント(研修医)から眼科専門医となり、その後米国で診療ができる医師免許をも獲得し、アラバマ州立大の准教授となった男の自叙伝である。
母親の胃ガンの知らせに、教授目前で州でただ一人の名声ある神経眼科医が帰国を決意し、日本での開業資金づくりに米国で開業する。本人は「山辺町のじゅうたん屋のせがれだから」と言うが、家族のきずなの強い東北人の血を感じる。仙台でのビル内での開業、母の死。繁盛し手狭になり共同病室という、数人の医師が共同で使用する入院手術専門の診療所を造る。入院患者が増え共同で使うのが困難になり、有床診療所の共同手術室は分離する。
昭和63年度には仙台市の所得番付一位になり、医療法人化し平成七年に郊外に三階建て三〇床規模の病院を建築する。病院には従業員が安心して勤務できるように、敷地内に保育園と遊園地を造るなど、斬新であった。
順風満帆のようであるが病院が完成する前に愛妻をがんで失い、自分も最も嫌な難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵される。手足は全く動かせず、食物ものみ込めず呼吸すらできなくなる神経の病気である。五年ほど前会った時、「背中のバッグを外してくれ、手があがらない」と言うので、五〇肩だろうと笑ったが、それが病気の始まりだった。
昔眼科学会で、山東高自主的居残り受験勉強組以来偶然に会い、なぜ眼科医になったのと尋ねたら「馬に乗りたかったので眼科医を選んだ」と言う馬好きである。それで自叙伝の題名も馬の足跡になったらしい。
アメリカのインターンから腕一本で臨床の教授になり、開業まで経験したのだから、ぜひ彼我の違いや経緯を書いてくれと頼んだが、忙しく駄目だった。それが病気で手が駄目になってから、このような形で思いもかけず文字になった。
〈評〉 武田和夫、元日本眼科医会常任理事(山形市)(西田書店、2300円)
※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:
立岩 真也
・UP:20030714 REV:0728, 20100922
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