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植田 健夫

1975〜

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■2018/12/24 第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれからで報告
 以下発表の全文 写真などもそのうち掲載し(てもらい)ます。パワーポイント資料→[PPT]〜いっこいっこの写真など掲載してもらようにしたいと思っています。

こんにちは。筋ジス当事者の植田健夫(たけお)です。
よろしくお願いします。
2000年、宇多野病院入院。2018年11月19日、宇多野病院を退院。
退院して今日で、「1か月と5日」になります。
いまの暮らし。これは僕の部屋です。思ったよりも大変なことが多かったです。
大変なことばかりだったので戸惑いました。宇多野病院の中では気がつくと、冷蔵庫のことばかり考えてました。
買い物が多くて、ヨドバシカメラで冷蔵庫を見ている写真です。
ヨドバシカメラに、ハマってしまいました。
ヨドバシの入り口です。
食事のメニューは、考えたことがなかった。最初の一週間はインターネットがつながらなくて、
レシピを調べられなかったです。いまはインターネットを使ってレシピ検索をすることができます
中華料理が好きなので、料理ができるヘルパーさんが多くて助かっています。
人工呼吸器のマスク交換にむずかしさを感じて研修をたくさんしました。かなり頑張りました。
この写真は自分の部屋で呼吸器を使っている写真です。
これからのこと。
京都探索をしたいです。旅行もたくさん行きたいです。これは京都タワーの写真です。
こないだは桐原さんの「へんな飲み物を飲む会」☆01に参加しました。
そこではなぜか、スッポンをさばいてスッポン鍋やスッポンの生き血を飲んだり振る舞われたりしてましたが、僕は食べませんでした。
いまは外出しても生活のための買い物ばかりだけど、カフェや喫茶店をめぐりたいと思っています。写真はスターバックスで珈琲を飲んだときの写真です。
どうやって退院したか
ここからはヘルパーさんに代読をしてもらいます
ぼくは、1975年に京都府舞鶴市で生まれ、1978年3歳の頃に筋ジストロフィーの診断をうけました。南丹市の特別支援学校で寮生活をおくった時以外は、ほとんど自宅で父母と一緒に暮らしました。25歳の頃に父が亡くなったことをきっかけに宇多野病院に入院することになりました。一人暮らしをしたいと思ったのは今年の4月。退院は11月でした。
ぼくは一人暮らしがしたいと考えてからわずか7カ月で退院しました。多くの人が退院に苦労するなか、ぼくはなぜこんなに早く出ることができたのでしょうか。簡単にぼくが出るまでの経緯を話します。
4月に重度訪問介護のことを知りました。6月には病院の相談員さんがつくってくれていたサービスプランを自分で計画を立てるセルフプランに変えました。重度訪問介護を住民票があった亀岡市に申請しました。宇多野病院では重度訪問介護をつかったのはぼくが1人目でした。
初めての外出をしたのは6月7日。8月21日、22日にはJCILの自立生活体験室で外泊をしました。車いすの人も住んでいて、入居の条件も厳しくない公団住宅に住むことにして、10月27日には内覧、11月6日には契約。11月16日に京都市担当ケースワーカーと面談、11月19日に退院しました。退院まで、外出7回、外泊7回、カンファレンス3回をもちました。
 この写真はJCILからもらった、重度訪問介護のチラシです
ぼくの退院には病棟が全面的に協力してくれました。主治医の先生は「今年の春頃にテレビで地域生活を送る人工呼吸器の人の番組を見て、こんなことができるんだと思った。植田さんもきっと地域で暮らしたいタイプと思った」と言って、後押ししてくれました。病棟の看護師長さんはバリバラという障害者のテレビ番組を見ていて、障害者がいろんな困難はありながらも自分らしく地域で生きていく選択肢があることを理解してくれていました。相談員さんも重度訪問介護のことを教えてくれました。ぼくの場合は、心臓が弱かったり、鼻マスクで自発呼吸がなかったりとはじめは危険という雰囲気もありました。でも主治医の先生が「全身状態は安定しているから大丈夫」と言ってくれました。在宅の主治医の先生も宇多野病院のことをよく知っておられたので、やりとりはスムーズでした。
病棟の看護師さんたちも、ヘルパーさんたちに移乗の研修をしてくれたり、毎回の外出でもちものチェックを丁寧にしてくれたりしました。外出や外泊を重ねて、最終的には16名のヘルパーさんの研修をしました。
ぼくの場合は病院が協力してくれたことがいちばん大きなことでした。
この写真は、重度訪問介護を使った初めての外出の写真です。
母と家の内覧をしたときの写真です。
次はJCILのスタッフの方のお宅を内覧させていただいたときの写真です。
先ほど病院の協力が大きかったという話をしましたが、何もなかったわけではありません。二つお話を紹介します。
◇エピソード1
加湿器と門限
この時ぼくは病院の壁をあらためて感じました。ぼくが外出の研修から帰ってくると、病棟の看護師さんたちが移乗やマスク交換、人工呼吸器の回路のとりつけをしてくれていました。ある時、この呼吸器の回路が加湿器につながっていないことがありました。それが問題になり、病院全体での話し合いになりました。日勤の看護師さんがまだ残っている17時までに帰ってほしいというお願いがありました。ぼくの側からすると、病院側のミスだったのに、外出時間が制限されるなんておかしい、そもそもぼくは加湿器をつかっていないのでそんなに騒ぐことではないと思って、くいさがったことを覚えています。病院側からすると、ぼくらの命を守るために、限られた人の数で、結果的に管理を強くすることがある、という現実をあらためて知りました。いまぼくの生活には門限はありません。いつ帰るかを決めるのはぼくです。
◇エピソード2
鼻をふきたい
二つ目です。前にぼくは、鼻マスクを付けているので鼻マスクを外したりズラしたりして鼻をしっかり拭いてほしいとお願いしました。でも、危険だからと鼻を拭いてもらうことはできませんでした。退院間際に支援者が呼ばれて、最初は「ご本人は鼻マスクを外して鼻を拭いてほしいと言われるけど病棟では外さない」と強めの口調で話があったそうです。でも、自分で計画を立てるセルフプランで今後もやっていくという話やぼくがヘルパーさんに介助方法を教えているという話を支援者がしたら、
「え ?植田くんが? わたしはそういう視点で植田くんのことを見たことがなかったので。。。そうなんですね。さっきの鼻マスクの話ですが、きっと在宅の先生やみなさんとで植田くんが決めてやっていかれますよね」
と話してくれたと聞きました。ずっと一緒に生活してきた看護師さんが理解してくれた瞬間と思いました。
病院の管理体制はぼくのいのちを守ってくれました。でも何かがかみあわなかったらこうはいかなかったかもしれません。先生が「出せません」と言ったらぼくはいまここにいません。看護師さんが協力してくれなかったら、いまぼくはここで話せなかったかもしれません。でもぼくはここにいます。ぼくが地域に出て生きる意味をみなさんが理解してれくれたから、ぼくはいまここにいます。そもそも在宅と病院の支援は文化がちがうと支援者が言っていました。それでも衝突する瞬間はあっても上手にまざりあうことでスムーズな地域移行ができると思います。
これからも全国の筋ジストロフィーの人たちが地域に出てくるかもしれません。病院はぼくたちを守るためにぼくたちの自由を制約することもあります。他の方の話のように、地域に出てくる時に、牢獄のようにぼくたちの前に立つこともあります。でも今回のぼくのように、病院は牢獄になるのではなく、ぼくたちの安全な出入り口になることもできます。これからもぼくは宇多野病院に通院します。

最後に一言。
退院して一ヶ月と5日が経ちますが、退院して大変なこともありますが、充実して、自由に楽しく過ごせています。
入院していた病棟には2人、人工呼吸器を付けている筋ジスの人で、退院を目指している人がいます。その2人にはドクターストップがかかっていて、退院にすごく手間取っています。
ぼくの場合は主治医の先生が理解のある方で、すんなり退院できました。
ぼくの目から見ると、この2人の主治医の先生は「安全面」「安全面」ばっかり繰り返して、ぜんぜん退院を許可する(に協力する)気配がないように見えます。
ぼくの考えですが、「退院させて患者に何かがあったら」と考えているのだと思います。何かあったら主治医の責任、宇多野病院の責任になると考えている。と思えているぐらい、壁になっている気がします。
病院は一生入院するとこやないし、入院は、退院とかはもう、個人の自由だと思うんで、病院がそういう壁になっていることは理解できません。その辺を考えて頂きたい。
その2人を一日も早く退院させてあげてください。
以上で終わります。
今日は、ぼくにしては大一番だったので、メジャーリーグのイチロー選手は大舞台の試合の朝にカレーを食べるそうなので、ぼくもカレーを食べてきました。それだけです。

☆01 そのすっぽんは3匹いて、「しんや1」「しんや2」「しんや3」という名前でした。私は、その殺スッポン幇助をして(スッポンにかませたタオルをひっぱって断首しやすくした)、断首されたその3者の生き血(のオレンジジュース割り)を飲みました。あっさりして飲みやすかったでした。(立岩真也記)。

■「入院17年 人工呼吸器の筋ジス男性が京都で自立一人暮らし」
 2018年12月16日 19時20分 京都新聞社

 写真:人工呼吸器を使う筋ジストロフィー患者で1人暮らしを始めた植田さん(京都市南区)。地下鉄でヘルパーと買い物に出かける
 ご覧ください→https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181216000088


 筋肉が徐々に動かせなくなる難病、筋ジストロフィー(筋ジス)で、約17年間、京都市右京区の国立病院機構宇多野病院に入院していた男性がこのほど、南区で一人暮らしを始めた。人工呼吸器を装着して家族介護に頼らない自立生活。24時間公的ヘルパーの介助を受けて車いすでまちに買い物へ。「こっちの方が重低音いいんじゃないですか?」。ヒップホップについておしゃべりし、ある日は音響機器売り場を巡る。自由な生活へと歩み出している。
 植田健夫さん(43)は京都府舞鶴市生まれ。亀岡市に転居した少年時代に筋ジスを発症。人工呼吸器を使い始めるようになり、25歳で宇多野病院の筋ジス病棟に入院した。消灯時間も入浴回数も決まっている病院の生活。外出のみならず、院内を車いすで散歩するにも、ベッドからの移乗を忙しい看護師と調整しなくてはならない。
 一人暮らしのハードルは高く自分にはできないのではないか、と思っていた植田さん。でも今年3月、「重度訪問介護」という障害福祉サービスの存在を知り、可能性が見えると、「むちゃくちゃ自立したい気持ちになった」。
 障害当事者でつくる日本自立生活センター(南区)との出合いがあり、外出や試験外泊、ヘルパー候補との介助方法の打ち合わせを重ね、植田さんは退院へと駆けだしていった。京都市が重度訪問介護でヘルパーを24時間切れ目なく支給することを決定、一人暮らしの家も見つけた。毎日のごはんのレシピを考えるのも、洗濯や金銭管理など自分の暮らしの仕方を自分で決めるのも、新鮮な体験だ。
 […]
 宇多野病院など全国の旧国立療養所・筋ジス病棟は26カ所、約2280床。[…]
 国は2004年に医療費削減のために国立病院を独立行政法人の国立病院機構に移管。筋ジス病棟を特殊疾患療養病棟としつつ、さらに障害者総合支援法による「長期療養」という入所(入院)形態へと移行した。患者から「障害者」へ。重度訪問介護を申請すれば外泊を含めて外出などの際にヘルパー支援を入院中でも柔軟に使えるようになったのが2年前。だが、利用は進んでいない。「重度障害者入院時コミュニケーション支援員派遣事業」(意思疎通支援事業)という、在宅障害者が意思疎通に慣れたヘルパーを入院中でも使える仕組みを京都市などが作っているが、長期入院している人には、在宅福祉と出合うこと自体に、さまざまな壁がある。医師や看護師にも入院中のヘルパー利用について知らない人がいる。植田さんも、重度訪問介護が使えるのを知ったのは今年春のことだった。
 植田さんは12月24日、南区で開かれるシンポジウム「筋ジス病棟と地域生活の今とこれから〜『筋ジストロフィー・クリスマス・シンポジウム』」で、自立生活の経験と夢を語る予定だ。
 シンポでは、8歳から金沢市内の筋ジス病棟に37年間入院していた古込和宏さん(46)も参加し、「この場所で生き続けるのか?」と、重度訪問介護を使って1人暮らしを昨年から始めた思いを語る。
 ロボットスーツ「HAL」の研究開発に取り組み神経筋疾患緩和ケアに詳しい国立病院機構新潟病院の中島孝院長、新著「病者障害者の戦後 生政治史点描」で国立療養所の歴史を書いた立命館大の立岩真也教授らも講演し、医療的ケアや介護体制などの様々な課題がある中、筋ジスの人たちの豊かな暮らしをどう実現するのか話し合う。
 南区の京都テルサで午前11時から、参加費500円。「国際障害者年」連続シンポジウム実行委員会主催。
 筋ジストロフィーの患者は国内推定約2万5000人。「重度訪問介護」は、見守りから身体介助、食事介助、生活支援や外出も含めて、長時間ヘルパーが重度障害者を介助する仕組み。
 植田さんはこう願う。
 「病院の厳重な管理体制はぼくの命の安全を守ってくれた。でも何かがかみ合わず、ぼくは自由とは言えなかった。でも今回は、主治医や病棟を含め理解ある人たちに出会えた。これから全国の病院から筋ジストロフィーの人たちがどんどん退院するかもしれない。病院はぼくたちにとっての牢獄ではなく、安全な出入り口であってほしい」(一部略→https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181216000088をご覧ください。)
■岡山 祐美(JCIL=日本自立生活センター) 2019/06/24 「京都の筋ジス病棟からの地域移行――支援と運動」,第28回全国自立生活センター協議会協議員総会・全国セミナー


UP:20181216 REV:20181218, 31, 20190211, 0818, 1119
筋ジストロフィー  ◇自立生活/自立生活運動  ◇第33回国際障害者年連続シンポジウム・筋ジス病棟と地域生活の今とこれから  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO
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