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Thomas




  Thomas において自由意志の問題はどのように捉えられているのか。(7)
  彼は、「目的(finis)」と「手段(medium)」を、「自発性(volantarium )」と「自由(libertas)」を、「意志(volantas )」と「自由意志(libertas arbitrium)」を、「知性(intellectus)」と「理性(ratio)」を分ける。
  ここで目的は、自然本性(natura)によって人間にあらかじめ与えられている。すなわち、目的そのものを意志する(ville)という「意志の第一の行為は理性による秩序づけにもとづくものではなく、むしろ自然の誘発(instinctus naturae)による」(『神学大全』、引用は稲垣[1979:159])とされる。そして、石の落下運動が、石の自然本性にもとづく「傾向性(inclinatis)」であるという意味において「自然本性的(naturalis)」であるように、究極目的に向かう意志の傾向性もまた人間の自然本性にもとづくかぎり、「自然本性的」であるが、人間の場合は究極目的が認識され、内在化されているところから、「自発性・意志性(volantarium)」の性格をおびるとされるのである。(稲垣[1979:171)
  これに対して、目的との関係において手段を「選択する(eligire)」のは、理性によってであり、ここに自由意志が関わる。知性が或ることを端的かつ一挙に把握する能力であるのに対して、理性は中間過程を経て或ることの認識に到達する能力である。それは自らが手段に関して下す判断について(目的への振りかえりを通じて)判断しうるのであり、それゆえ(手段に関して)一つの判断にあらかじめ確定されることがない([同:173])。稲垣は次のように記している。

「……自由が自発性にたいして概念的に付け加えるものとは、対象に対する一種の超越性である。……それは意志が、選択されるべきいずれかの手段にたいしてもあらかじめ確定されてはいない、ということである。究極目的を意志する行為は自発的ではあるが、自由ではない。なぜなら自然本性によってあらかじめ確定されているからである。その意味で究極目的を意志する行為に関しては、われわれは当の行為の「主」ではない、といわれる。それにたいして、手段を選択する行為においては、われわれは常にそうした行為の上に立つ「主」であり、それが「自由」の意味である。
  ところで、自由が自発性にたいして概念的に付加するものを、対象にたいする一種の超越性というように言いあらわしたが、この超越性は直接には理性を通じて獲得されるとはいえ、最終的には実は自発性によって基礎づけられている。すなわち、理性は目的へのふりかえりを通じて(いわば目的の高みに立つことによって)手段についての判断を下しうるのであるが、或る手段が「善いもの」「為すべきもの」として判断されるのは、最終的には目的へと向かう意志の自然本性的な傾向性、すなわち自発性にもとづくものだからである。
  こうして、トマスの自由概念は、われわれが自らの行為の「主」であるのは、われわれがその「主」ではないような根源的な意志の傾向性ないしは行為に基づく、という極めて逆説的な洞察をその核心とするものである。」([同:174-176])

ここで、逆説的な洞察、と言われるのは、結局のところ自由意志と自然本性の両方の存在を認め、それを目的・手段に振り分ける、ということである。
  自由意志はAugustinus と同様、異論の余地のないものとして認められる。くり返せば人間は、「なされるべきことがら(operabile)」について自然的な本能に促されて判断するのではなく、「理性による一種の比量(collabtio)」に基づいて判断する。「種々異なった方向におもむく可能性を持つものとして、自己の自由な判断に基づいてはたらく」。「人間が理性的なものであるというまさしくこのことのゆえをもって、人間は自由意志を有するものでなくてはならぬ」(Thomas[1268=1960-:(6)232])とされる。

「人間は自由意志を有している。さもなくば、忠告とか勧告とか命令とか禁止とか報奨とか処罰とかは無意味たらざるをえないであろう──。」([同:231])

  次に、Thomas は罪とそこからの救いをどのように語るのか。以下中島文夫の記述に従って紹介する。
  創造にあたって、人間は「神の似姿」としてつくられたが、この「似姿」は不完全なものであり、人間の自由意志は誘惑の力によって圧倒される危険を常に宿していた。アダムは「神のごとくになり、独り知り、独り定め、独り歩むようになりたい」という誘惑に屈し、神から離れ、「神との相似」を失って、なお「独り歩む」ことができると考える傲慢の罪、「原罪(pecatum original)」を犯す。原罪によりアダムは神とのつながりを断ち切られたが、その悲惨な境遇はまた、アダム以来のすべての人間の姿でもあった。原罪により人間は「罪と悲惨からの自由」を失った。Thomas によれば「原罪は本性の病気」であり、自由意志は傷つき病み、力は著しく減じている。とはいえその力は全く失われたわけではない。
  原罪の故に「不義」の状態に陥っている人間が救われ、神の子とされるためには、「罪の状態から義の状態へ」移されねばならず、そのためには神の恩寵(gratia)が不可欠である。恩寵を「成聖の恩寵(gratia sanctificans)」と「助力の恩寵(gratia actualis)」に、さらに後者を「充足的恩寵(gratia sufficiens)」と「効果的恩寵(gratia efficax)」に分けることができる。充足的恩寵は、すべての人間に対して、無償で、平等に、そして十分に与えられるが、それによってすべての人間が信仰に達するのではなく、神の助けによって強められた自由意志、すなわち「神によって動かされた自由意志」によって罪から起き上がろうと努力するとき、恩寵と自由意志との「共働(cooperatio)」がなされるとき、成聖の恩寵が与えられ、罪のため傷つき病んでいる自由意志は癒され、健やかな意志へと変化せしめられる。この恩寵によって人は義とされる。とはいえ、それにより人間は可能的に善き主体となるにすぎず、しかもその可能性は不安定、不確実であり、ひとたび大罪(peccatum motale)を犯せば、成聖の恩寵は失われる。人は成聖の恩寵を受けた後も、常に助力の恩寵の第二のもの、効果的恩寵を受け続ける必要があり、それによりはじめて人は、現実に善き行為の主体たりうる(中島[1968:71-76])。
  この節の冒頭に示唆したことがここまでのAugustinus とThomas についての記述でほぼ確認されよう。すなわち、内省・罪の自覚・救い、という方向と、自然本性的な善への傾性、という方向の混在、並行がみられる。
  自由意志は2つの場面に関わる。1つには、悪、罪そして帰責。善なる神と悪の両立は人間に与えられた自由意志によって説明される。(8)また、行為が当の者の自由意志に発しているがゆえに、その者に行為についての評価(賞罰)を帰することができるとされる。第2には、救い。自由意志によって救いを得ることができるのかということが問題となった。Augustinus 、Thomas は(自由意志による)罪の堆積によってそれを不可能とするが、両者は全く同じ主張をしているわけではない。Augustinus はとりわけその後期において、自由意志が救いに力を持たないことを強調する。Thomas はその「共働説」において、第一次的には恩寵が必要としつつも、同時に自由意志の果たす役割も認めている。またAugustinus の時代にはPelagius が自由意志の力を主張しているし、また11世紀にはAnselmus(1033/4-1109)が、原罪によって自由意志が全く無力になっていることを主張した。この救いへと至る自由意志という観念について指摘してよいと思われるのは、それが善に志向する人間の自然本性と切り離し難い側面を持つこと、善行→善い報いという「業」の重視に繋がる限りでは、この行為→結果という連鎖は独自の項としての人間の観念を不要にすることである。
  この項の最後に、人間と善との自然本性的な繋がりを表現する観念である「シンテレーシス」について、次節で検討するLuterの思想との相違を明らかにしておくためにも、概観しておくことにしよう。
  「シンテレーシス(Syntheresis)」概念は、Hieronymus(1365頃-1416)において初めて用いられるが、当初は「良心(conscientia)」──内心にしるされた道徳法則──の意味で使われていた。この概念は中世神学上の論争の主題となり、シンテレーシスおよび心は認識する力なのか意志する力なのか、またシンテレーシスは自然本性的なものか獲得されるものか、良心はシンテレーシスと同じものかといったことが論じられた。Thomas においては、そして中世神学の主流においては、シンテレーシスは人間の理性と意志のうちに生具的に、不滅に備わっている神と善についての本源的な知識であり、個別的状況において働く判断作用である良心とは区別されることになった(金子[1975:205-208])。金子は次のように述べている。

「シンテレーシスについてのスコラ学説は、人間の内的なる本性的善・神的なるもの、神関係の形而上学的基礎を確保しようとする試みであり、人間において創造の善性が全て壊敗しているのではないことを保証せんとするものであった。人間はシンテレーシスにより普遍的道徳的な原理もしくは自然法についての無謬的知識をもっているが、個別的状況の判断においては過誤に陥ることのある良心をもっているにすぎない。……生じうる「良心の過誤」を防ぐために、教会は『良心の事例集』(Summae de casibus conscientiae)により助言を与えたのである。」(金子[同:208])

  1522年、Luther(1483-1546)がウォルムスの国会での審問で、「私の良心は神の言にとらえられています。良心に逆らって行動することは、確実でもなく正しくもありませんから、私は何ごとも取り消すことはできませんし、また欲しもしません」と宣した時、審問官は、Luther の良心が誤っている、と述べる。それは教会が、時に誤る良心を導くことができるとされていたことによっている。


UP:20041007
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