土屋 融
つちや・とおる
山梨県
◆著書
土屋 とおる 19930111 『生きている 生きねばならぬ 生きられる』,静山社,198p. ISBN-10: 4915512282 ISBN-13: 978-4915512285 \1325 [amazon]/[kinokuniya] ※ als n02
◆「パソコンのおかげです」
『JALSA』025号(1992/09/22)
◆本の紹介 19930510 「土屋とおる『生きている 生きねばならぬ 生きられる』」,『JALSA』27: 34
1991年2月発症
3月16日山梨県立病院
8月16日山梨県立中央病院神経内科入院
8月1日国立王子病院
8月16日山梨県立中央病院神経内科 診察・入院
8月22日「昨日の筋電図検査の結果、神経性の筋萎縮ということ」(p.174)
9月25日「昨日は、病気のこととこれからのことについて主治医の先生と話す。大変な難病とのこと、現代の医学をもってしても適切な治療はないとか。愕然として昨夜は一睡もできず。今日も身体が重い。」(p.176)
10月15日「このところ呼吸が苦しく、肩で息をするようになった。」(p.176)
10月29日「数日前から呼吸が十分出来ないと困るので、人工呼吸器をつけなければという話は聞かされていた。」(p.177)
11月1日「昨晩も電気が赤く見え、様子が変だった。夜の九時過ぎに汗をびっしょりかいて困っていたところ、看護婦さんが来てきれいに拭いてくれた。それまでの不快感が吹っ飛んでしまい、その後すぐ眠ってしまった。
そして二十四時間意識を失っていた。その間のことを、後に家族から聞いた様子が次のとおり。
午前6時頃、妻が様子が変なのに気が付き、「看護婦さんにすぐ来てもらい、緊急の人工呼吸をしてもらった。[…]十時過ぎ、どうやら鼻に呼吸器をつけることができた。しかし、血圧が極端に下がってしまい、危篤の状態になった。[…]その日の夕方、集まってきた人たちの顔が分かるようになった。」(p.178)11月8日「呼吸器を鼻からつけていたのを気管へつなげるため、緊急に切開手術をし、カニョーレ(管)を入れる。」(p.179)
「少し早めに人工呼吸器を装着したほうがいいからと、主治医の石原先生が、一般に考えられる進行速度よりずっと早目に準備してくださっていた人工呼吸器を、十一月一日の午前九時につけようとしていたのに、その日の早朝に、自発呼吸が止まってしまうという、考えられぬスピードで病状は進行した。」(姉 深尾恭子 p.190)
◇ALSという重い荷物 山梨県立中央病院神経内科 石原修 pp.4-7
「[…]ご自身は病名を知っておられます。入院当初よりカルテの上ではこの診断がついていましたが、主治医からは病名は告げられていませんでした。
私どもの病院に転院後、一カ月のお付合いの中で、土屋さんが何事にも挫けず、どんな状況でも堅い意志をもって生きていくことのできる方だということがよくわかりましたので、ご本人に疾患の説明をすることにいたしました。
まだ原因のわからない疾患で、決定的な治療法がないことをお話ししましたが、病名はそのままは伝えず、神経原性筋萎縮症として説明させていだだきました。「筋萎縮性側索硬化症」は患者さんと家族にとって、それだけ重い荷物となる病気です。ご家族には病名を告げ、姉上がALS(筋萎縮性側索硬化症)協会に入会され、姉上(p.4)より送られた協会の出版物などを通して、この病名は本人の知るところとなりました。」(pp.4-5)
1992年2月22日 「山梨大学の山下先生らの尽力により、意思伝達装置「パソパルPC」
が私たちのような病人にも送られてきた。早速使ってみる。打った文字が画面と音声になって出、ワープロと同じように印字もできる。口や手で意思の表示が出来ない私たちにとってこんないいものはないと、新しい世界が生まれてきたような気がする。」(p.182)
「病室で富士が見えるようになったのも、看護婦さんかのはからいであった。長いこと天井ばかり見ていたのでは、気が滅入ってしまうからと寝台の位置を変えてくれたら、全く別の世界がひらけてきた。そこには富士が見えていた。」(p.9)
●立岩の文章における言及
[89]土屋融(山梨県)は一九九一年二月に発症、三月山梨県立病院、八国立王子病院、八月十六日山梨県立中央病院神経内科で診察・入院。二二日「昨日の筋電図検査の結果、神経性の筋萎縮ということ」(土屋[1993:174])、九月二五日「昨日は、病気のこととこれからのことについて主治医の先生と話す。大変な難病とのこと、現代の医学をもってしても適切な治療はないとか。愕然として昨夜は一睡もできず。今日も身体が重い。」(土屋[1993:176])
[90]土屋融を担当した石原修(山梨県立中央病院神経内科)。「ご自身は病名を知っておられます。入院当初よりカルテの上ではこの診断がついていましたが、主治医からは病名は告げられていませんでした。/私どもの病院に転院後、一カ月のお付合いの中で、土屋さんが何事にも挫けず、どんな状況でも堅い意志をもって生きていくことのできる方だということがよくわかりましたので、ご本人に疾患の説明をすることにいたしました。/まだ原因のわからない疾患で、決定的な治療法がないことをお話ししましたが、病名はそのままは伝えず、神経原性筋萎縮症として説明させていだだきました。「筋萎縮性側索硬化症」は患者さんと家族にとって、それだけ重い荷物となる病気です。ご家族には病名を告げ、姉上がALS(筋萎縮性側索硬化症)協会に入会され、姉上より送られた協会の出版物などを通して、この病名は本人の知るところとなりました。」(石原[1993:4-5])
[284]土屋融[90]。「病室で富士が見えるようになったのも、看護婦さんかのはからいであった。長いこと天井ばかり見ていたのでは、気が滅入ってしまうからと寝台の位置を変えてくれたら、全く別の世界がひらけてきた。そこには富士が見えていた。」(土屋[1993:9])
●立岩の文章における言及
[173]土屋融[89]は一九九一年二月発症、八月山梨県立中央病院神経内科診察・入院。十月十五日「このところ呼吸が苦しく、肩で息をするようになった。」、二九日「数日前から呼吸が十分出来ないと困るので、人工呼吸器をつけなければという話は聞かされていた。」(p.177)十一月一日「昨晩も電気が赤く見え、様子が変だった。▽夜の九時過ぎに汗をびっしょりかいて困っていたところ、看護婦さんが来てきれいに拭いてくれた。それまでの不快感が吹っ飛んでしまい、その後すぐ△眠ってしまった。/そして二十四時間意識を失っていた。その間のことを、後に家族から聞いた様子が次のとおり。/午前六時頃、妻が様子が変なのに気が付き、「看護婦さんにすぐ来てもらい、緊急の人工呼吸をしてもらった。[…]十時過ぎ、どうやら鼻に呼吸器をつけることができた。しかし、血圧が極端に下がってしまい、危篤の状態になった。」(p.178)八日「呼吸器を鼻からつけていたのを気管へつなげるため、緊急に切開手術をし、カニョーレ(管)を入れる。」(土屋[1993:176-179])「少し早めに人工呼吸器を装着したほうがいいからと、主治医の石原先生が、一般に考えられる進行速度よりずっと早目に準備してくださっていた人工呼吸器を、十一月一日の午前九時につけようとしていたのに、その日の早朝に、自発呼吸が止まってしまうという、考えられぬスピードで病状は進行した。」(土屋[1993:190]、姉の深尾恭子の述懐)
*▽△で囲ってある部分は、雑誌では省略してあります。
[304]土屋融[173]は一九九一年二月発症、八月山梨県立中央病院神経内科入院。九二年二月。「山梨大学の山下先生らの尽力により、意思伝達装置「パソパルPC」が私たちのような病人にも送られてきた。早速使ってみる。打った文字が画面と音声になって出、ワープロと同じように印字もできる。口や手で意思の表示が出来ない私たちにとってこんないいものはないと、新しい世界が生まれてきたような気がする。」(p.182)
※おことわり
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・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあり、本から引用されている部分等はその全体を紹介するものではありません。その記述、主張の全体については、当該の本・文章等に直接あたっていただきますよう、お願いいたします。
・作成:立岩 真也
・更新:20011210,1227,20021015,20030412, 20101002