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土屋 敏昭

つちや・としあき


山形県
19450427生(土屋他[1989:201])
198304  気管切開
1984   人工呼吸器(バード)をつける

■土屋 敏昭・NHK取材班 1989/01/20 『生きる証に――目で綴った闘病記』,日本放送出版協会,234p.,1500円+税 ※

◆山形大学附属病院へ(1981年)

「 五月十二日、検査のため入院した。初めの一週間ぐらいは検査をするでもなく、ただ毎日寝ですごした。その間、敷地内を散歩してみた。ゆっくり歩いてであるが、ひと回りするのにゆうに四十分はかかった。
 一週間もすると検査が始まった。心電図、脳波、筋電図、血液検査と、ありとあらゆる検査をしたのち、検査は「家族を呼べ」であった。「それでは家内を呼びます」と言ったところ、「誰か男の人はいないか」と言われ、「これはただごとでない。きっと命にかかわる病気に違いない」と思うと、その夜は一睡もできなかった。」(p.21)


「 運転できないというものは、いったいどういう病気なのか。自分の病気の名前も知らないというのも癪であった。かといって妻に聞く勇気もない。考えあぐねた末、家にある百科事典を調べてみた。そこには私の症状によく似たような病気があった。その名は、「筋萎縮性側索硬化症」という、今までに見たことも聞いたこともないような、まるで舌をかみそうな長ったらしい名前であった。(p.23)
 それによると、筋肉がだんだん衰え、最後は呼吸困難に陥り、やがて死に至る、と書いてあった。またそれには、現代の医学では原因も治療法もわかっていない、とあった。そしてこの病気は、発病して普通四、五年で死亡するとも書いてあった。
 うすうす命にかかわる病気だとは感じていたが、いざ現実に知った時のショックは、味わったことのない人には理解できないだろう。それを知った時、いろいろなことが頭の中をかけ巡った。まず最初に浮かんだのは、家族のことであった。親は昔からいるからしかたがないとしても、こんなことになるなら結婚などしないで独身だったら、どんなに気が楽だったかしれない、とも思ったりした。
 しかし、現実には年老いた両親と妻子がいる。幸いなことに、子供は小学校四年生になる娘がひとりだけだった。しかし、家を建てた住宅ローンもまだ始まったばかりだ。百科事典に書いてあるように、このまま動けなくなったらどうしよう。働けなくなったら、家族五人どうやって生活していったらいいのだろう。
 いろいろなことを考えて、しばらく眠れない夜が続いた。それでも家の百科事典は十年くらい前のものだからと思って、本屋に行き最新の家庭医学書を読んでみた。結果はどの医学書も同じようなことしか書いてなかった。「さあ、これは大変なことになった。俺の(p.24)人生もこれまでか」と思うと、目の前が真っ暗になり、今まできずきあげてきたものが足元から音を立ててくずれてゆくような感じがした。」(pp.23-25)


「 二月に風邪をひき、痰がからんで息が苦しくなったとき、夕方から病院に行って点滴をしてもらい、夜の九時頃帰ってきたことがあった。その時、主治医や家族の者から入院することを勧められたが、入院すれば二度と家にもどって来ることができないことはわかりきっていることだから、私としては必ず入院せざるをえない事態が起きるまで、絶対に入院はしたくなかった。
 だが、その入院せざるをえない事態がそれからまもなく生じた。それは四月二十七日、ちょうど、私の三十八回目の誕生日であった。その日は、午後から痰がからんで調子が悪かった。いつものように椅子を倒して寝ていたが、あまり咽るので寝室に床をとってもらい、そこに移って寝ていた。そのうち痰が気管につまって呼吸ができなくなってきた。母(p.59)は台所で夕飯の支度をしていた。六年生になったばかりの娘は、隣の茶の間でテレビを見ていた。
 私は苦しさのあまり、できるかぎりの大声で叫んだつもりであったが、私の声は、原に力が入らず、普段でも聞き取りにくいのに、寝室から一番遠い台所にいる母には聞こえるわけがない。ましてやテレビを見ている娘には、テレビのボリュームで聞こえるはずもなく、ひとりで苦しんでいた。
 そのときの苦しさは、今思い出してもぞっとする。苦しさで、目の前がだんだん暗くなり、普段は寝返りさえもできないのに、その時ばかりはふとんから少しはみ出していた。いくら大声で呼んでも誰も来ないし、苦しくてのどをかきむしりたくても手は動かないし、そのうちに目の前が真っ暗になり、やがて何も見えなくなってしまった。
 目が見えなくなっても、しばらくは意識があった。薄れていく意識の中で、「俺の命もこれまでか。誕生日が俺の命日になるのか」などと考えていた。やがて意識もなくなり、何もわからなくなってしまった。気がついたら病院のベッドの上であった。死ぬような目にあった人がよく言う「きれいな川があって、向こう岸には美しいお花畑があって、そこできれいな女の人が手招きをしているが、どうしても向こう岸には渡れなかった」というよ(p.60)うな経験はしなかったが、その一歩手前までいったようであった。
 病院には救急車で運ばれたそうだ。私の家の所は山あいの静かな所である。救急車などはめったにこないものだから、静けさを破ったけたたましい救急車の音に、隣近所の人たちは「何事が起きたのか」というように、みんな家の前に出て眺めていたそうである。私は救急車の中で、かすかにであるが救急車の音を聞いたような気がした。それは一瞬のことで、いまだに夢だったのか、本当に意識が回復していたのかわからない。
 病院のベッドの上で目をさました時は、のどの辺りがおかしく、声を出そうとしても出ないのである。まわりを見渡せば、親戚の人たちや家族の顔が見える。私は事情がのみこめなかった。そういえば私は家で苦しんでいたのであった。目の前が真っ暗になり、あとは何もわからなくなってしまったのであった。
 やっと事態がのみこめた私は、命が助かったことを知った。気管を切開して息がつけるようにしてくれたのである。命は助かったが、それと引き換えに私は声を失った。
 命が助かったのだから、声が出なくなったぐらい大したことではないと思うかもしれないが、私にとって声が出せないということは、意志を伝達する手段を失ったということなのである。声が出る時でさえ他の人にはわかりにくかったのに、声が出なくなってしまっ(p.61)ては、どうやって意志を伝えたらいいのだろうと思い、先行き不安になってきた。」(pp.59-62)


「 現在、山形大学付属病院に入院している、同じ病気の患者は四人いる。全員、人工呼吸器の世話になっている。考えてみれば、こうして入院していられる私たちは幸福である。この病気の患者は受け入れ先がなく、自宅療養を余儀なくされている患者も多いと聞く。そのような患者は、いつも死の影を背負いながら、こうしたワープロの恩恵にもあずかれずに、毎日、単調な生活を強いられていることだろう。
 また、看護する家族にしても、いつどのように容態が変わるかわからないので、いっそう不安をかき立てられることだろう。家族にとっては、まるで爆弾を抱えているような思いだろう。その思いは、入院している患者の家族として当然だろうが・・・・・・。
 入院している患者の家族は、病院にいるということで一応の安心感が持てる。また、入院していればこそ、看護婦たちが至れり尽せりの看護をしてくれ、散歩にも連れて行ってくれる。自宅にいればそうはいかない。車イスに乗せるにしても人手がいる。第一、個人で車イスやワープロを購入するとなると大変な出費になる。その点、入院していれば病院のものが使える。そういう点でも私たちは恵まれている。」(p.166)

◆198604
 「しゃべれない私たちにとって素晴らしいプレゼントがあった。それは病(p.91)院でワープロを買ってくれたのである。たったひとつ残念なことに、そのワープロはひとりでは操作できないという欠点があった。誰かにボタンを押してもらわなければならないのである。付き添いがいるのだから、そんなことはどうでもいいことだが、とにかく私たちには素晴らしい贈り物には違いなかった。
 […]たとえば、画面に五十音が全部出るから、その五十音の上をカーソルという四角い棒状の物が動く。「あ」を書きたいとき、まずカーソルが「あ行」にきたら目で合図を送る。すると付き添いがボタンを押す。」(pp.91-92)

◆198704
 「画期的なことがあった。それはポータブルバードを買ってもらったことである。今までのバードは病院に備えつけられてあり、外に持ち運びはできなかった。しかし、今度のポータブルバードの場合は、家庭の電源、カーバッテリー、それに内蔵バッテリーに充電もできるという、三電源方式の素晴らしいものである。このポータブルバードを使えば、いくらでも遠出ができるというものである。」(p.107)

◆1988
 「母に文句を言う時は、文字板を使うと途中でやめられるから、ワープロに「ばか、あほ、まぬけ」などど思いつくかぎりの悪口を書く。しかし、そう書いてみたところで、胸がスーッとするわけでもないし、後味が悪いだけだ。お互いに気分を悪くするなら、時間をかけてわざわざ書く必要もない。
 一度でいいから、思いっきり叫んでみたい。「ばか野郎!」と。自己中心的な考え方を(p.181)するのは、自分の身体がままならない苛立ちと、今までのつもりつもった気持ちの鬱積をどうしようもない心の焦りが、人間の心まで変えてしまうのかもしれない。」(pp.181-182)


■立岩の文章(→『ALS』)における言及

 [21]一九八一年・「筋肉がだんだん衰え、最後は呼吸困難に陥り、やがて死に至る、と書いてあった。またそれには、現代の医学では原因も治療法もわかっていない、とあった。そしてこの病気は、発病して普通四、五年で死亡するとも書いてあった。[…]家の百科事典は十年くらい前のものだからと思って、本屋に行き最新の家庭医学書を読んでみた。結果はどの医学書も同じようなことしか書いてなかった。」(土屋・NHK取材班[1989:23-24])
 [121]一九八一年、土屋敏昭は山形大学附属病院に入院する。「一週間もすると検査が始まった。心電図、脳波、筋電図、血液検査と、ありとあらゆる検査をしたのち、検査は「家族を呼べ」であった。「それでは家内を呼びます」と言ったところ、「誰か男の人はいないか」と言われ、「これはただごとでない。きっと命にかかわる病気に違いない」と思うと、その夜は一睡もできなかった。」(土屋他[1989:21])
 [142]土屋敏昭は、自分には知らせてもらえないから[121]百科事典を読んだ[21]。「うすうす命にかかわる病気だとは感じていたが、いざ現実に知った時のショックは、味わったことのない人には理解できないだろう。それを知った時、いろいろなことが頭の中をかけ巡った。まず最初に浮かんだのは、家族のことであった。親は昔からいるからしかたがないとしても、こんなことになるなら結婚などしないで独身だったら、どんなに気が楽だったかしれない、とも思ったりした。[…]働けなくなったら、家族五人どうやって生活していったらいいのだろう。/いろいろなことを考えて、しばらく眠れない夜が続いた。」(土屋他[1989:24-25])家にあるのは古いものだからと思って新しい医学書を見たが、同じだった[21]。「さあ、これは大変なことになった。俺の人生もこれまでか」と思うと、目の前が真っ暗になり、今まできずきあげてきたものが足元から音を立ててくずれてゆくような感じがした。」(土屋他[1989:25])
 [286]八七年四月、土屋敏昭[142]。山形大学付属病院。「画期的なことがあった。それはポータブルバードを買ってもらったことである。今までのバードは病院に備えつけられてあり、外に持ち運びはできなかった。しかし、今度のポータブルバードの場合は、家庭の電源、カーバッテリー、それに内蔵バッテリーに充電もできるという、三電源方式の素晴らしいものである。このポータブルバードを使えば、いくらでも遠出ができるというものである。」(土屋他[1989:107])
 [303]一九八六年四月、土屋敏昭[286]。一部は人が受け持つ方法がここでは取られた。「しゃべれない私たちにとって素晴らしいプレゼントがあった。それは病院でワープロを買ってくれたのである。たったひとつ残念なことに、そのワープロはひとりでは操作できないという欠点があった。誰かにボタンを押してもらわなければならないのである。付き添いがいるのだから、そんなことはどうでもいいことだが、とにかく私たちには素晴らしい贈り物には違いなかった。/[…]たとえば、画面に五十音が全部出るから、その五十音の上をカーソルという四角い棒状の物が動く。「あ」を書きたいとき、まずカーソルが「あ行」にきたら目で合図を送る。すると付き添いがボタンを押す。」(土屋他[1998:91-92])  [308]土屋敏昭[303]。一九八八年。「母に文句を言う時は、文字板を使うと途中でやめられるから、ワープロに「ばか、あほ、まぬけ」などど思いつくかぎりの悪口を書く。しかし、そう書いてみたところで、胸がスーッとするわけでもないし、後味が悪いだけだ。お互いに気分を悪くするなら、時間をかけてわざわざ書く必要もない。/一度でいいから、思いっきり叫んでみたい。「ばか野郎!」と。自己中心的な考え方をするのは、自分の身体がままならない苛立ちと、今までのつもりつもった気持ちの鬱積をどうしようもない心の焦りが、人間の心まで変えてしまうのかもしれない。」(土屋他[1989:181-182])


※お断り
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります(〜2004.03)。
・作成:立岩 真也
・作成:2001 更新:...20030408,12,14 20040609

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