19380718 | 群馬県前橋市に開業医の子として生まれる。 |
1957 | 群馬県立前橋高等学校を卒業し東京大学理科一類に入学。 |
1961 | 東京大学理学部化学科を卒業(核化学)。日本原子力事業(NAIG)に入社しNAIG総合研究所核化学研究室に勤務。 |
196507 | 東京大学原子核研究所助手となり宇宙核化学を研究。朝日学術奨励金を得たプロジェクトでアルミニウム26の検出に従事。 |
1969 | 論文「宇宙線ミュー中間子と地球物質との反応生成物の研究」で理学博士号取得(東京大学)。7月、東京都立大学助教授に就任(理学部化学教室)。このころ同人誌『ぷろじぇ』に参加。三里塚闘争にかかわり始める。 |
197205 | 5月から独ハイデルベルクのマックス・プランク核物理研究所客員研究員(73年5月まで)。 |
197308 | 東京都立大学を退職。 |
1974 | プルトニウム問題を考える自主グループ「プルトニウム研究会」を組織。 |
197508 | 京都で「反原発全国集会」。 |
197509 | 原子力資料情報室が設立され(武谷三男代表)、専従世話人となる。 |
1976 | 内部告発による美浜原発1号の燃料棒折損事故を追及。(プルートーンの火、社会思想社教養文庫) |
1978 | 反原発運動全国連絡会『反原発新聞』創刊。編集長を務める(88年まで)。 |
19790328 | 米スリーマイル島原発事故。 |
198509 | 日比谷公会堂での「三里塚・東峰裁判完全勝利をめざす集会」実行委員長。 |
19860426 | チェルノブイリ原発事故。秋、ヨーロッパを訪問。 |
198701 | 原子力問題の講師養成のため「反原発出前のお店」開講。 |
198705 | 原子力資料情報室の代表に就任。 |
19880424 | 反原発運動全国集会(原発止めよう2万人行動・日比谷公園)事務局長。脱原発法制定運動を提起。 |
1991 | 原子力資料情報室とグリーンピース・インターナショナル共催「国際プルトニウム会議」(大宮市)。 |
1992 | 多田謡子反権力人権賞を受賞。 |
199301 | 「日本の脱プルトニウムへ向けた希求と、日本政府のプルトニウム政策転換を求める強い意志を表わすため」(「脱プルトニウム宣言」)科学技術庁前でハンスト。 |
199309 | 原子力資料情報室がシンポジウム「今、なぜプルトニウムか」を開催(日本原子力産業会議と共催)。『マリー・キュリーが考えたこと』でサンケイ児童出版文化賞を受賞。 |
199511 | 国際MOX燃料評価(IMA)プロジェクトを開始。研究代表を務める。イーハトーブ賞を受賞。 |
199711 | IMA最終報告書"Comprehensive Social Impact Assessment of MOX Use in Light Water Reactors"(MOX燃料の軽水炉利用の社会的影響に関する包括的評価)を発表。 |
19971203 | 長崎被爆者手帳友の会平和賞を受賞。 |
19971208 | スウェーデンでライト・ライブリフッド賞を受賞。 |
199708 | 原子力資料情報室代表を退任。 |
19990907 | 原子力資料情報室が特定非営利活動法人の認証を受ける。 |
19990930 | 茨城県東海村のジェー・シー・オー東海事業所で臨界事故。 |
20000702 | 第9回田尻賞を受賞。 |
20001008 | 午前0時55分、東京都中央区の聖路加国際病院で死去。 |
参照: