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竹内 章郎

たけうち・あきろう


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1954年生まれ
1978年一橋大学社会学部卒業
岐阜大学地域科学部教授(『「弱者」の哲学』著者紹介による)

■著書

竹内 章郎 20050224 『いのちの平等論――現代の優生思想に抗して』,岩波書店 253p. 2900+税 ISBN-10:4000221477 ISBN-13: 978-4000221474  [amazon] ※ be. e03.

◆竹内 章郎 19930618 『「弱者」の哲学』,大月書店,206p. 1600 ISBN-10: 4272401599 ISBN-13: 978-4272401598 [amazon][kinokuniya] ※ e03.

◆竹内 章郎 19991220 『現代平等論ガイド』,青木書店,222p. ISBN-10: 4250990494 ISBN-13: 978-4250990496 2200 [amazon][kinokuniya] ※

◆竹内 章郎 20010723 『平等論哲学への道程』
 青木書店,365p. ※

◆竹内 章郎 1986   「養護学校義務制と発達観」
 『一橋研究』第10巻第4号、pp.161-177
◆竹内 章郎 1987   「能力と平等についての一視角」
 藤田勇編『権威的秩序と国家』、東京大学出版会
◆竹内 章郎 20000510 「「社会的弱者」という見方の問題」
 『仏教』50:062-068  ※

◆佐藤 和夫・伊坂 青司・竹内 章郎 19881031
 『生命の倫理を問う』,大月書店,238p. 1300 杉並490
◆佐藤 和夫・伊坂 青司・竹内 章郎 19881031 「いのちを決める」
 佐藤・伊坂・竹内[8810:17-64]
◆佐藤 和夫・伊坂 青司・竹内 章郎 19881031 「いのちを育む」
 佐藤・伊坂・竹内[8810:85-120]
◆佐藤 和夫・伊坂 青司・竹内 章郎 19881031 「いのちを守る」
 佐藤・伊坂・竹内[8810:141-189]




◆竹内章郎 1987 「能力と平等についての一視角」
 藤田勇編『権威的秩序と国家』、東京大学出版会

 「日常意識的に言って、能力の全面発達を志向する価値意識は能力の発達による人格の豊饒化を意図し、この点と相即して能力不全や能力が「劣る」ことに対 する忌避の意識や能力〔差〕と人間存在との無媒介的結合―「である」という関係規定―を自明視する意識を育てざるをえず、能力〔差〕による〈人間存在の平 等性〉の否定を内包せざるをえないだろう。他方、〈平等な人間存在〉が能力〔差〕を占有する・「もつ」にすぎないとして能力差〔差〕を捉えようとする価値 意識は、確かに人間諸個人の了解における〈人間存在の平等性〉を強く志向することになるが、たんなる抽象的ヒューマニズムほどではないにしても、能力の発 達・陶冶に関しては消極的立論を提示するにすぎないであろう。平等論を主題としている本稿では後者を軸にした上で前者に接近するという方法を示唆している が、現在までの「人間社会」における現実的問題・事実問題としては、能力〔差〕に関するこの両者は、二律背反的価値意識・二律背反的知として存在している と言わざるをえない。」(pp.513-514、傍点略)(田中紗織「障害と道徳――身体環境への配慮」に引用)

 「もとより、筆者は〈能力〔差〕をもつ平等な人間存在〉という了解を「永遠の真理」として主張するものではない。むしろ損傷や能力不全としての「障害」 を含めて文字通りすべての人の能力〔差〕が個性として尊重され承認され、すべての人がその多様性においてそのまま平等な共同存在者たりうる社会であるなら ば、〈人間存在の平等性〉と能力〔差〕とは「である」という無媒介的結合において捉えられるべきである。しかしそうした社会―それは社会主義的メリトクラ シーをも廃棄した文字通りの共産主義社会であろうが―であれば、〈人間存在の平等性〉を言う必要もないのであって、逆にそうした社会が実現されていない限 りは、つまり能力主義的秩序が存在する限りは、〈人間存在の平等性〉は現実的社会内在的に主張されねばならず、そのためには、上述の「をもつ」という関係 規定が必要だと思われるのである。現代では、こうした点をふまえたうえで「平等の観念は絶対に真理などではない」という発言も捉え返されるべきであろ う。」(p.516)(田中紗織「障害と道徳―― 身体環境への配慮」に引用)

◆竹内 章郎 19930618 『「弱者」の哲学』,大月書店,206p. 1600 ※

I 現状に抗して――能力主義を批判するということ
II 現状の中から――能力主義にたじろがなければ
III 現状を越えて――能力主義を越えたところにみえるもの

「…どんな理論でもよいわけではない。しかし、たとえば、脳性麻痺に対するボイタ法などが、損傷の克服につながらないにせよ、ある時期における四肢麻痺の程度を一定軽減しはするように、さまざまな理論は、たとえ一面的にせよ、一定の成果をあげる。」(p.116)
「「弱者」排除を克服するための原理的な思想を成立させるには、能力というレヴェルにまで、共同性概念を深化拡大することが必要ではないか。これまでの社会と文化の在り方では、共同性を営みうる「能力」も含めて、「能力」自体を、皮膚一枚で区切られた諸個人の内部の事柄としてのみとらえる傾向、つまり、個人還元主義的な「能力」把握、あるいは、個体能力観があまりにも強かった。その結果、共同性も、皮膚一枚で外界から遮断された諸(p.144)個人の外側に、したがって、諸個人と諸個人との間に成立する事柄としてのみとらえられた。しかし、こうした共同性の把握では、「能力に応じた」差別を真に克服した新たな社会や文化の創造には至らない。」(pp.144-145)

「「能力」不全が相互関係自体である、というのは、一つには、環境要因が、当の諸個人の生物学的存在に、マイナスに作用してダメージを与え……その結果、「能力」不全が生じる、ということであった。……今一つ……環境要因が、損傷を受けた生物学的存在の働きにうまくマッチできないことから、示された。…(p.147)…この協同→共同がうまく営まれれば、「能力」不全は生じない。」(pp.147-148)

「工夫にみちた取り組みによって、ほほ笑みが生まれるということには、周囲の人間たちの在り方が微笑という能力を生む側面の重要性が現れている」 (p.155)



◆竹内 章郎 19991220 『現代平等論ガイド』,青木書店,222p. 2200 ※

序 いま一度、平等ということを真剣に考えたい
第1章 これまでの平等の語られ方
第2章 伝統的平等論をめぐる諸問題
第3章 現代の平等主義的平等論の概要
第4章 平等主義的平等論の展開

「ニーズの測定(者)は可能なのかという問題があり、福祉国家などが測定するニーズに応じた配分グッズでは、個人にとって外的で個人の善にふさわしくない強制的なものにしかならない、という批判がある」(p.80)

「ドゥオーキンを超えてこの傾向をさらに進め、能力をも平等配分グッズとして、他者による当該者の能力を補填し、この意味での能力の再配分を平等論に組み込む<平等の様態化>が、平等主義の進捗にとっては重要なのである。これがなければ、ハイエクやノージックの新自由主義が能力の個人還元主義や個人責任論に基づいて主張する不平等主義には、最終的に対抗できないからである。そのように、<平等の様態化>を能力次元での平等にまで進める議論の端緒は、本章4で見るように、すでにセンやアーナソン、コーエンによって開かれている。」(p.163)

「平等主義的制度の形成しだいでは、不平等化へのインセンティブを不可欠とする議論とその根元にある私利私欲的人間を変革しうるのであり、そうした展望をユートピアの彼方に追いやる必要はない。」(p.210)



■言及

◆立岩 真也 2001 「自由の平等」,『思想』
◆福島 智 20010623 「盲ろう者と障害学」,リバティセミナー「障害学の現在」 第3回 (20010623)
◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社


REV:..20030721, 20100110
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