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斎藤 芳雄

さいとう・よしお
1939〜

last update:20101209

1939年、東京都大田区生まれ。
1966年、東京大学医学部卒業。東大研修医をへて、72年、新潟県小千谷総合病院へ着任。同年9月より、大和医療福祉センター建設計画に参画。75年より大和町へ移住。
現在、町立ゆきぐに大和総合病院院、特別養護老人ホーム「八色園」施設長。
共著に『わたしたちの健康医療』(現代出版)がある。(斎藤[1992]奥付)

1939年、東京都大田区生まれ。
1966年、東京大学医学部卒業。東大研修医をへて、72年、新潟県小千谷総合病院へ着任。同年9月より、大和医療福祉センター建設計画に参画。75年より大和町へ移住。
現在、町立ゆきぐに大和総合病院院、特別養護老人ホーム「八色園」施設長。
著書に『死に場所づくり――地域医療・地域福祉のめざすもの』(教育史料出版会)が、共著に『わたしたちの健康医療』(現代出版)がある。(斎藤[1997]奥付)

■著書

◆斎藤 芳雄 19921210 『死に場所づくり――地域医療・地域福祉のめざすもの』,教育史料出版会,222p. ISBN-10: 4876522383 ISBN-13: 978-4876522385 1470 [amazon][kinokuniya] ※ a07
◆斎藤 芳雄 19970125 『人生九〇年時代 老い方・死に方』,教育史料出版会,209p. ISBN-10: 4876523096 ISBN-13: 978-4876523092 1575 [amazon][kinokuniya] ※

■言及

http://www5f.biglobe.ne.jp/~osame/omoukoto/18-wa-shoshinnni/18-wa-shoshinnnikaere.htm
思うこと 第18話 2004年7月23日記 、7月25日追記、 2005年8月31日再追記
今一度初心に帰ろう!
ー焼けぽっくりに火がついてー

 「昨日、大分に出張の機会に、大分県立病院長の谷口一郎先生を表敬訪問した。通常のご挨拶のあと、雑談しているうちに、先生が東大医学部を昭和43年に卒業の予定であったが、「インターン制度完全廃止」をスローガンにした闘争の委員長を務め、昭和44年9月まで卒業を延長して闘い、ついにそれを実現させた人物であることを知った。それを知った途端に私にとって谷口先生は共に闘った同志として、いきなり当時にタイムスリップして話のオクターブが上がり、熱い熱い会話となった。私も昭和41年(1966年)に医学部を卒業した当時、「インターン制度完全廃止」をスローガンに闘った41青年医師連合の1員であったからである(といっても、結果的には当時3000人の医学部卒業生の全員がもれなく闘争に参加したのであるから、私は3000分の1にすぎなかったがーーー)。当時、鹿児島大学で研修していた我々に、東大41年卒の斉藤芳雄君がオルグに来て、一晩飲みながら話を聞き、そして、31人の研修医の全員の心に火が付いたのであった。その後、全員が血判書を押して闘いを誓い合い、全国のインターン生に向けて、「我々鹿児島大学のインターン生は、明治100年を記念して、桜島の燃ゆる心で闘いぬくので、諸君らも立ち上がれ」の檄文を送ったのであった。この檄文が、全国の運動に、まぎれもなき加速剤となったのであった。結局3000人のインターン生全員が1人のもれなく医師国家試験ボイコットに参加し(当時はインターン1年終了後医師国家試験を受ける制度であった)、我々の運動は最終的には「インターン制度完全廃止」を勝ち取ることに成功したが、しかしながら、運動に参加した人間達はその後大学の管理支配体制から激しい締め付けに会い、私を含め、殆どのものが大学を後にし、「いい医療を実践する」という心の火だけを守りながら、今日を迎えているのである。したがって、経歴に医学部41年卒または42〜44年卒とあれば、初めての出会いでも、共に闘った同志としてすぐに旧知の友の関係になるのである。私みたいに井形先生のような理想の師(井形先生こそは、昭和28年の第一回全国インターン闘争の闘争委員長を務められ全軍を指揮された方である)に出会えたものは、大学の中にもどって、そこで心の火をともし続けることが出来たのであったが、私の場合は稀なケースであるといえよう。さて、先述の斉藤芳雄先生との出会いのことを谷口院長に話したところ、「彼こそは闘争本部で行動を共にした同志だ」とのことで、話はますます熱を帯びたのであった。斉藤芳雄先生が築き上げた新潟ゆきぐに大和総合病院は、厚生労働省からもモデル病院として注目され、病院のあるべき姿と全国から注目を集めている病院である。当時の闘士たちの殆どは斉藤芳雄先生のように、大学にはもどらず、各地で本当の医療を求めて活躍しているのである。ちなみに、究極の離島医療の実践者として有名な甑島の瀬戸上健二郎医師(Dr.ゴトーのモデルになった先生)も先述の血判書の31人の一人で我々の同志である。谷口先生も院長としての立場から、大分県立病院を患者さん本意のいい医療を提供する理想の病院にさらに発展させていかれるにちがいない。私は、今朝、大分からの帰りの列車の中でも、「そうだ、今一度あの時の初心に帰って、頑張ろう!」と自分に言い聞かせることであった。谷口先生との出会いが、焼けぽっくりに火をつけてくれた!今、自分に出来る、最も大事なことは何か? たどり着いた答えは、「患者さん本意の医療を燃えて実践する若い医師を育てること。そのためのシステム作りに今まで以上の情熱を注ぐこと。」であった。 ともあれ、いい時に、いい出会いがあった。感謝!」(強調は引用者)

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

 インターン闘争 56-
 「僕が方針出して、議案書を実際に書いたのは斉藤芳雄です。そうとう分厚い方針書を書いて、全国から来るノンポリ代議員を分担して全員とっつかまえ、大会前日の晩にそれぞれの下宿に引っ張り込んだ。方針書を示しながらオルグですよ。方針の中味は端的に、「インターン制度廃止。」(市田・石井[2010:57])

 斉藤芳雄 註10 「医師。新潟県南魚沼市にある「ゆきぐに大和病院」で病院長を長く務めた。第五章にも登場する(同章註10参照)」(市田・石井[2010:99])

 「「ゆきぐに大和病院」はブント系の医者のたまり場というか、亡命先でね。亀も五、六年はいたかな。それから斉藤芳雄(10)も。芳雄ちゃんが黒岩から院長職を引き継いだ。ブント系でもって先駆的な、二木立が言うところの「医療・保健・介護複合型」施設を整えていったんてず。でも結果的に富と、その先駆性が足を引っ張ることになっちゃった。介護や在宅のほうに引っ張られて、地域病院としては非常にまともなんだけど、医療本体のほうが追いつかなくなるんです。脳外科、循環器科、さらに心臓も外科と内科に区別する、というふうに専門分化していく医療の高度近代化をやりきれなかった。
 それに対して諏訪中央病院のほうは[…]」(市田・石井[2010:231])

 註10「一九三八年生れ。一九六四年、東大医学部在学時に医学連委員長。六五年のMLブント分裂(年表参照)に際しては、石井と同じ統一推進派に。しかし六九年には機関中央派(第三章参照)の立場だった。ブント首都圏委員長を経て、赤軍派を除名した第九回大会で中央委員となる。現在、ゆきぐに大和名誉委員長」(市田・石井[2010:266])

◆二〇〇四年に第13回黒岩卓夫が序若月賞受賞。この時の受賞記念祝賀会。この時の発起人は、樋口恵子(高齢社会をよくする女性の会代表・第13回若月賞選考委員)、鎌田實(地域医療研究会代表世話人)、伊東弘泰(NPO在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク副会長)、石井暎禧(医療法人財団石心会理事長)、斉藤芳雄(ゆきぐに大和総合病院院長)、阿部知子(衆議院議員)。  http://www.chiiken.com/kuro/kuro-kinen.htm

http://www.kihu-kai.jp/kihu-kai/huukei3.html

 「[…]在宅看護、在宅死
 […]父には、死にぎわなんか気にするなと、教えられたようだ。(「死にぎわなんか気にするな」とは、ゆきぐに大和総合病院院長の斉藤芳雄さんが、「人生九〇年代、老い方、死に方」教育史料出版会、で述べている。死にたいところで死ねるような医療・福祉体制をめざした大和町では、在宅死が半分くらいになっている。)[…]」


UP:20101209 REV:20101228
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