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島 成郎
しま・しげお
1931〜2000


1931 東京で生まれる
共産主義者同盟(ブント)書記長
1964 東京大学医学部卒業
1965 東京大学医学部精神医学教室
1967 国立武蔵野診療所勤務
1972 宜野湾市・玉木病院に勤務、沖縄保健所嘱託医
2000 逝去

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%88%90%E9%83%8E

◆島 成郎 19821010 『精神医療のひとつの試み』,批評社,307p. ASIN: B000J7K9NW 2100 [amazon] ※+[広田氏蔵書] m,

◆島 成郎 19970925 『精神医療のひとつの試み 増補新装版』,批評社,405p. ISBN:4-8265-0236-2 2625 [amazon][kinokuniya] ※ m,

◆島 成郎 19990210 『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』,批評社,221p. ISBN-10: 4826502699 ISBN-13: 978-4826502696 2100 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◇198011 「「保安処分」に思う」,『精神医療』臨時増刊号・特集:保安処分新設阻止のために→島[1982::289-304→1997:289-304]*
*島 成郎 19970925 『精神医療のひとつの試み 増補新装版』,批評社,405p. ISBN:4-8265-0236-2 2625 [bk1] ※

 「近代的処遇の一方の極に、まだ生々しく記憶にのこされているナチス・ドイツの悲劇があります。
 数百万に及ぶユダヤ人大虐殺の暴挙はひろく世に知られていますが、ここに至る過程でまず最初の血祭りにあげられたのが七〇〇〇余名の幼い重度心身障害児と十数万もの精神病者であったことは意外と余り追求(ママ)されていません。そしてこの人類史上類をみない現代の残虐性が、ナチズムの狂気の沙汰としてのみ葬り去られていることに私は恐ろしさと不可思議さを覚えざるをえません。
 人類近代文化の数々を生んだドイツ、優れた技術のもと世界有数の高度近代社会を築いたドイツが、ただ一人の政治指導者の恣意によってこのような「野蛮な奇蹟」をなしえるでしょうか。
 むしろ私は、精神障害者は民族−社会にとって役立たずをもらたすものであって、その管理と保護に労力と金をかける価値はないと判断する近代国家の論理血が極致にまで進んで、その最も合理的解決としての大量抹殺がはかられた、すなわちこの悲劇は決して一煽動家の狂気の沙(294)汰によってでなく、近代国家の理性的判断によったのだと考えるのです。そしてこの恐怖の「安楽死」計画立案に世界的に著名な精神科医が多く参画していたことを知るとき、決して遠い他国の過ぎ去った事件として看過すわけにはいかないのです。
 私は今保安処分新設を目論む刑法改訂の作業と議論のなかに、天皇制日本とナチス・ドイツで極端な形で示された精神障害者の処遇のなかに「民主主義」諸国家にも共通する近代国家理念をみないではいられません。」(pp.294-295)

 cf.優生・ナチス・ドイツ

◆島成郎記念文集刊行会 編 20020615 『島成郎と60年安保の時代I――ブント書記長島成郎を読む』,情況出版 2600 ※ *

◆島成郎記念文集刊行会 編 20020615 『島成郎と60年安保の時代II――60年安保とブントを読む』,情況出版 2600 ※ *

◆藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m

◆島 成郎・島 ひろ子 20100615 『ブント私史――青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ 新装増補改訂版』,批評社,262p. ISBN-10: 4826505264 ISBN-13: 978-4826505260 [amazon][kinokuniya] ※



 「六〇年安保闘争」で学生運動の主流を成していた共産主義者同盟(ブント)の元書記長で、沖縄で長く精神科医として活躍してきた島成郎さんが十七日午前七時半、胃がんのため北部地区医師会病院で死去した。六十九歳。自宅は本部町瀬底二〇六の一。告別式は未定。喪主は妻博子(ひろこ)さん。
 島さんは東京都出身。一九五〇年東大入学後、レッドパージ反対闘争で無期停学処分を受けたが、その後東大医学部に再入学しブントを結成。その思想や行動は大衆運動に大きな影響を与えた。
 六八年に厚生省の派遣医として来沖、七一年に再来沖し、宜野湾市の玉木病院に勤める傍ら、那覇保健所嘱託医として地域医療に努めてきた。その後沖縄を離れたが、九四年から名護市にメンタルクリニックやんばるを開いていた。
 八二年には著書「精神医療のひとつの試み」で沖縄タイムス出版文化賞を受賞している。そのほか「精神医療―沖縄十五年」「ブント私史」などがある。
 今年七月初めに、名護市内の病院で胃がんの手術を受け、療養中だった。
 山里八重子県精神障害者福祉会連合会会長の話
 島成郎さんは県内では精神科における地域医療の草分け的存在だった。とくに久米島をモデルとして県内で最初の家族会を立ち上げた意義は大きい。それが、今年の全国大会や国際シンポジウム開催につながる大きな成果だっただけにとても残念。私たちの活動にも高い評価をくださり、これからも当事者と地域が一緒に暮らせる状況づくりをやっていきたかった。先生の足跡を引き継いで地域福祉の拡充に努めたい。(『沖縄タイムス』2000-10-17夕刊)



1931 東京で生まれる

共産主義者同盟(ブント)書記長

1964 東京大学医学部卒業

1965 東京大学医学部精神医学教室

1967 国立武蔵野診療所勤務

 「当時の教授は秋元波留夫先生で、島さんの復学にお力添えがあったと聞いている。然し、精神科志向は学生の頃から決めていたと後で島さんから聞いた。秋元先生と島さんとの関係は以後島さんの死に至るまで続いていたが、島さんの沖縄行きへの重要な契機の一つに秋山先生の存在がある。」(中川[2001:13])*
*中川 善資 20010810 「島さん――東大精神神経医学教室入局から国立武蔵療養所を経て、沖縄へ発つまでの6年間」,藤沢・中川編[2001:34-41]

1972 宜野湾市・玉木病院に勤務、沖縄保健所嘱託医

2000 逝去

■言及

◆浜田 晋 20100324 『老いるについて――下町精神科医 晩年の記』,岩波書店,192p. ISBN-10: 4000224042 ISBN-13: 978-4000224048 1700+ [amazon][kinokuniya] ※ m. a06.

「友人、島成郎が死んだ。[…]活動家の彼を私は知らない。共産主義も、それをスターリン主義と批判し、新しく組織した共産主義者同盟(ブント)も私には無縁の世界だった。 私が彼を知ったのは、一九六八年、私が東大で勤めだし、東大闘争のさなかだった。当時東大精神科教室はその渦中にあった。よく会合がもたれ、当時国立武蔵診療所に精神科医として勤めていた島は、時々そこに参加していた。みんな緊張し、暗く、激しい口調でしゃべっていたが、<0060<彼は明るく、悠然として、笑顔が美しく、私にはきわだって大きく見えた。その論旨は明快で、政治オンチの私にもよく理解できた。ハンサムで、男っぽく、そして何よりもやさしくて繊細だった。当時はまだ遠くから彼を眺めていただけだった。私が東大闘争に見切りをつけ、一九七〇年、東大を去って、地域活動に入って、東京中をかけずり回っていた頃、彼は私の行動を眺めていたのであろうか。
 その後彼は沖縄へ渡った。彼なりの思いがあったのだろうと。そして何年か経って、わたは彼に呼ばれて沖縄に講演に言った。私は目を見張った。数年の間に彼は沖縄の保健婦や役所職員や家族たちを含めて地域をすっかりオーガナイズしていたのである。[…]たいていの人は彼にほれてしまう。私もその一人だった。ところが彼は、私を「わが師」と読んでいたことを葬儀の日、奥さんから聞かされた。私は一一月一一日青山斎場で彼への弔辞を読みながら泣いた。
 老いとは次々と友人に先立たれることである。」(浜田[20100324:61]、初出は200101)

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀』,生活書院

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2011/01/01 「社会派の行き先・3――連載 62」,『現代思想』39-1(2011-1): 資料

◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
『造反有理――精神医療現代史へ』表紙

 「とすると聞くことになる。書きたくないことを書かないなら、話したくないことを話さないのも同じではある。しかし、わざわざ文章にするのは面倒だが、昔のことでもあり、聞かれれば話してもよいというぐらいには思っている人もけっこういることをこのごろ強く感じる。ただ、話すのを聞くことができる時間は人が生きて話せる時間のうちに限られている。できることをできるうちにと思う。その仕事は本来はきりがない。ただ、そうこうしているうちに、多くの方々が亡くなっている。本書のもとになった連載が掲載された『現代思想』の二〇一一年三月号に「島成郎は二〇〇〇年に亡くなってから十年を越えたが、二〇〇八年に小澤勲 が、二〇〇九年に藤沢敏雄が、二〇一〇年に浜田晋が亡くなった」と記したが、その後、広田伊蘇夫が二〇一一年に亡くなった(そして遺された蔵書を寄贈していただいたのだ)。加えて、「運動」に直接加担した側の人ではないが、なだいなだが二〇一三年に亡くなった。本書ではまったくふれない「本人」の運動の先駆者では、大野萌子が、同年、亡くなった。同年、本書に出てくる人たちとはおおいに立場を異にした小田晋が亡くなった。」

 「◇島成郎[しま・しげお](一九三一〜二〇〇〇)。六〇年安保闘争時に共産主義者同盟(ブント)書記長、六四年に東京大学医学部を卒業、六五年東京大学医学部精神医学教室、六七年国立武蔵野診療所勤務、七二年宜野湾市・玉木病院に勤務、沖縄保健所嘱託医。著書として『精神医療のひとつの試み』(島[1982]、その増補新装版が島[1997])、『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』(島[1999]、新装増補改訂版が島・島[2010])。他に『島成郎と60年安保の時代I――ブント書記長島成郎を読む』、『島成郎と60年安保の時代II――60年安保とブントを読む』(島成郎記念文集刊行会編[2002a][2002b])、『精神医療』別冊の島追悼特集号を単行本化したものとして『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』(藤沢・中川編[2001])。」

 「◇徳田虎雄(一九三八〜)。大阪大学医学部卒業。医療法人徳洲会理事長、医師。自由連合代表、元衆議院議員(当選四回)、元沖縄開発政務次官。鹿児島県徳之島町名誉町民。著書多数。徳洲会の関係者が「地域医療研究会」(後出)に参加していたことがあったこと等が市田・石井[2010:232-233,267]に記されている。一九八二年に島成郎から徳田を紹介され唐牛健太郎(一九三七〜一九八四、六〇年安保闘争時の全学連委員長)がその選挙活動や医療広報活動にあたったことがある。評伝に青木理[2011]。」

 「最後に、その人たちは、出版等、医療関係者そして/あるいは病者・関係者その他、人々に向けて知らせる活動を行なってきた。本書で多くの文献をそこからあげている――ゆえに偏りも出てくるのだが――『精神医療』(cf.藤沢・中川編[2001]精神医療編集委員会編[2010]はその別冊)は一九七〇年に「東大精神科医師連合」の機関紙として創刊された(浅野[2010a:81])。島はその刊行に関わり、表紙は島の妻の島博子がデザインした(中川[2001:17])。精神医療編集委員会の独自発行(第一次)、岩崎学術出版から刊行の時期(第二次)、悠久書房の時期(第三次)、そして現在の批評社からの刊行(第四次)と移ってきたこの雑誌(松本[2010:127])で、広田・藤沢・森山はその編集委員を務めてきた。次第に」

 「「造反派」の医師たちには自分で一九七四年に診療所を設立する浜田晋といった人もいた。後に、一人でというわけではないが(そして他職種の人との分業連携が下手であったことを、自らの追悼特集でかつてそこで働いた人に指摘されたりもするのだが)藤沢敏雄も後に診療所で仕事をする(新宿の柏木診療所、立川市のにしの木クリニック)。それ以外、それ以前は病院に雇われる身ということになる。するとその協会を動かす側にはいない。傾いた病院の院長を務めることになる人たちもいた(たんに経営困難というだけでない陽和病院で藤沢敏雄が院長に、次いで島成郎が院長に、二人とも病んでしまう(→73頁)、診療所に移るのはその後)。傾いているのだからその経営は困難である。労働者からも当然つきあげられることになる。そして「地域」「地域住民」の支持が得られるというものでもない。」

 「第4節に記すように「学会改革」については関西の医師たちが企図し寄与した部分が大きい。ただ、先述の『精神医療』★04という媒体をもっていたこと、著作が比較して多いということもあって、ここにあげた人たちは東京大学関係の人たちが多い。そして第1章にも述べたように、六〇年代前から七〇年ほどまでの間、ある人々のある部分については「左傾」が当然のことであったのでもある。そしてその左翼は、大きくは強く反目する二派――もちろん傍観する人達、したい人達もたくさんいるのだが――に分かれる。その一方だけをここでは見ているのだが、さきにもう一方の側にいた(とされる)秋元波留夫(→◆頁 )といった人の名はあげた★05。同じ側に属する人たちは、徒党を組んでことにあたった。長いつきあいもあった。島茂郎はその一人で、島が亡くなった時、多くの人が追悼文を書いている。その一つで広田は島を語り石川にも触れている。振り返られ方も含めて引用しておく。

 「あらためて記すまでもなく、島は日本における戦後、唯一の政治闘争、一九六〇年安保闘争の指導者だった。しかし、私にとっての島は、砂川基地反対闘争以来、心の奥底に居座り続けた信頼の星だった。年月を経て、精神病院の開放運動に一石を投じつづけた私の朋友、石川信義と共に、当時、砂川小学校の講堂に寝泊まりし、降り続く雨の中、デモ隊の一員として国家権力に対峙し、反安保闘争の前哨戦として、一九五九年十一月の国会突入時には、これも石川と共に国会の横柵を越え、正門の鉄扉を叩きつづけた。いずれも島の信条に共感した行動であった。論理を越え、自らの行動をもって、亡びゆかんとする人間的情念を呼び起こす魔性こそ、島成郎の本質だった。」(広田[2001:3])

 森山も島・石川・広田・藤沢・中川らとの関わりを記している。

 「実は安保闘争の直前の一九五九年暮れ、専門科の選択に迷ったわたしはくそ忙しい島さんをまた自宅に訪れ、相談をしていたのです。元来漠然と内科医になろうと思っていたわたしは、インターンで各科を廻っている間に、内科そしてそして医学一般に幻滅してしまったのです。ならばいっそのこと基礎の大脳生理学に進み研究者になるか、それとも当時惨状を呈していたがなにか魅力を秘めている精神科に進むか。悩みに悩んだわたしに対し島さんはえらく明快に、精神科医になることを進めました。理由は、「あんたは人間が好きだろう」でした。これは自分自身を語っているな、とわたしは直感しました。結局精神科に進んだわたしの後に、自治会仲間だった鈴木良雄や宇野正威、そして石川信義や広田伊蘇夫なども続き、外からも藤澤敏雄・中川善資なども集まってきて、けっこう面白い場ができていました。こうしたことから、島さんの精神科選択にはおそらく迷いはなかったと思います。」(森山[2001:38]、石川との対談としては石川・森山[2004])

 他方、浜田は六〇年代末までそんな関わりはなかったと言う。

 「友人、島成郎が死んだ。[…]活動家の彼を私は知らない。共産主義も、それをスターリン主義と批判し、新しく組織した共産主義者同盟(ブント)も私には無縁の世界だった。
 私が彼を知ったのは、一九六八年、私が東大で勤めだし、東大闘争のさなかだった。当時東大精神科教室はその渦中にあった。よく会合がもたれ、当時国立武蔵診療所に精神科医として勤めていた島は、時々そこに参加していた。[…]当時はまだ遠くから彼を眺めていただけだった。私が東大闘争に見切りをつけ、一九七〇年、東大を去って、地域活動に入って、東京中をかけずり回っていた頃、彼は私の行動を眺めていたのであろうか。
 その後彼は沖縄へ渡った。彼なりの思いがあったのだろうと。そして何年か経って、わたしは彼に呼ばれて沖縄に講演に言った。私は目を見張った。数年の間に彼は沖縄の保健婦や役所職員や家族たちを含めて地域をすっかりオーガナイズしていたのである。[…]彼は、私を「わが師」と呼んでいたことを葬儀の日、奥さんから聞かされた。」(浜田[2010a:61]、初出は二〇〇一年一月)

 そして、一九六〇年代末のできごとも突発的に起こったことではなく、その前の世代の人たち・運動の関わりがあってのことだった。六〇年より前から「医学連」といった組織が様々をなしてきたことを石井が語っていることをさきに紹介した。また安保闘争の指導者であった島は、その敗北の後政治の場から身を引いたということになっている。しかし、再度学生をしていた六〇年代半ばは比較的おとなしかったようだが、島は島でここで見ている意味での政治にずっと関わった。それも後で見る(→◆頁)。

 「六九年のその大会から始まったことは確かにある。ただそれは同時に、その前段の活動があり、それなりに準備されたものでもあった。六〇年安保、安保ブントからの連続性も、市田・石井[2010]に書かれているのとはまたすこし別のところに存在しており、安保闘争以後は運動から引いたことになっている島成郎もこの学会に関与している★09。」

 「また森山はこの件にも島成郎(一九三一〜二〇〇〇)の関与があったことを記している。

 「島さんは幸か不幸か、ちょうど前年の六七年春に東大病院を出て、国立武蔵療養所に常勤医の職をえたばかりでした。さらに六八年の五・六・七月の三ケ月間、派遣医として沖縄にこだわっています。だがそれ以外の時期、彼ははるばる小平から本郷までかけつけ、終始この東大精神科の若手が主導する運動にかかわり、節目節目の大きなところでその運動の基本方針をリードしてきた、と云えます。四つにわけてその活動ぶりを語ってみましょう。
 まず、その活動スタイルです。若手医師は常にラジカルに問題をつきつけ、連合員すべてに対しても告発調になります。島さんはそれを受けながら、できるだけ多勢を糾合しようとし、できるだけ連合を割らないように努めていました。だがいざどうしようもないと判明すると、断固として進みました。つまり彼は、可能な限り構成員民衆の意見を聞き取ろうとし、その上に皆を納得させうる方針をうち出そうとしていたのです。/だが一方で彼は、一般のわれわれの予想を超えた大胆な方針を提起しました。そもそもおそらく後世に残るであろう「赤レンガ病棟自主管理」闘争の発端を提起したのは彼でした。ただし準備は入念で、半年以上も前から若手の活動的医師を集め、東大精神科医師連合の闘いを継続させるために東大病院への「乗りこみ部隊」を組織し、それが闘いを担う主題になるべきことを力説し、その責任者に当時外に出ていたわたしになれと云ったのです。これが後に、「自主管理闘争」に発展していくもとになります。」(森山[2001:39])

 「他方藤沢は、ごく短く松沢病院に勤めた後、秋元に呼ばれる。当初はその気はなかったが、沖縄への医療者の派遣活動に魅力を感じてのことだったという。(島成郎もまず秋元に誘われて沖縄で活動することになった。秋元は島のことを肯定的に著書に記している。島も慕っていたという記述があることを紹介した(→◆頁)。)そして生活療法の看板をおろす前後、運営・経営の困難に陥った陽和病院の院長を引き受ける八一年まで、武蔵療養所に勤務した。六七年から七七年まで二人の所属が重なっている。(秋元退職後の四年間「あとしまつ」をさせられることになったのだとも藤沢は後に述べる。)」



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