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杉山 進
すぎやま・すすむ



・静岡県
日本ALS協会静岡県支部
・20001126逝去


◆杉山 進 19981125 『負けてたまるか,負けたら俺の男がすたるよ――神経難病ALSと闘う日々』,静山社,262p. ISBN-10: 4915512355 ISBN-13: 978-4915512353 \1785 [amazon][kinokuniya] ※ als c07 n02 v03
 * この本は一般書店で注文して購入することができます(2002.03)
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 1988年6月 自覚症状
 1989年1月 「脳梗塞の軽いもので、治るにしろ悪くなるにしろ、進行の程度は年単位とのこと。勤めを続けながら通院するようにと診断された。
 その後、念のために妻へも話しておきたいから呼んでほしい、と言われる。」
 「私が自分の病気についてほとんど知った後になって、妻が九州大学病院の先生から説明された診断内容を聞いた。私の病気は急激に年をとる病気で、中には五年から十年も生きる人もいるが、ほとんどの人は三年以内に死ぬ、と言われたそうだ。」(杉山[1998:15])
 「市立図書館に行き、係員に医学書を出してもらう。九州大学病院に入院する時に書いてもらった診断書の病名と、生命保険会社に入院手当金を請求する時に書いてもらった証明書の病名を頼りに、目次を調べた。診断書の病名は「神経源性筋萎縮症疑」、証明書の病名は「運動ニューロン疾患」である。
 "運動ニューロン疾患"という項目が、私の目に飛びこんでくる。夢中でそのページを開くと……、あった。病名は「筋萎縮性側索硬化症」で、症状はそれまでの私の症状とまったく同じ。自分がこの病気であることを、確信した瞬間だった。
 だが、これまでの私の症状と同じことしか書いていない。後は、「予後不良、治療方法がないため国の難病に指定されていて、申請をすれば医療費がただになる」とだけ書かれている。
<予後不良>だけではどういうことか分からない。もう一冊本を出してもらって調べるが、やはり(p.22)同じことしか書いてない。
 これ以上何冊調べても同じだと重い、そのページをコピーしてもらって、家に帰った。
 結局病名だけは分かったものの、こんなに恐ろしい病気だとはまだ気づかなかった。治療方法がないと書いてあっても、現在の医学の急速な進歩に、医学書が追いつかないということは十分考えられる。その辺を…」(杉山[1998:22-23])

◆1989/07/24 pp.23-24

「平成元年七月二十四日
 妻と東京大学病院へ行く。叔母も紹介状を持って、同行してくれた。
 簡単な診察を受けた後、私の方から、私の病気は筋萎縮性側策硬化症ではないのですか、と尋ねた。先生は無言。さらに、医学書には治療方法がないと書いてありましたが、優秀な先生たちが研究をしているでしょうから治療方法がまったくないとは思えません。まだ公式に認知されていない方法でもいいですから試してください、とも頼んでみた。しかし、先生の返答は、「この病気には、そんな展望はまったくありません。治療を求めて病院を探し回るのは無駄ですから、やめた方がいいですよ」というものだった。(p.23)
 その後で、「家が沼津なら、国立静岡病院に宇尾野先生といういい先生がいる」と教えてくれる。私は、病院を探し回るのは無駄だと言いながら国立静岡病院のことを教えてくれるなんて、変なことを言うなと思っただけで、その時点では聞き流してしまった。
 後で分かったことだが、先生は「治療を求めて」というところにほかの意味を含めて言ってくれたのだと思う。この病気の本当の恐ろしさはまだ分からなかったが、さすがにショックを受け、病院から東京駅に向かうタクシーの中で、涙がこぼれたのを記憶している。」

◆1989/08 p.24-25
「平成元年八月

 とりあえず難病の申請だけはしておこうと、保健所へ行く。担当者に病名を告げ、申請用紙をもらいたい旨を伝える。担当者は申請用紙と一緒に、何かの役に立つかもしれないと、静岡県富士市の難病連の会報を添えてくれた。その小さな親切が、それからの私の幸運続きのきっかけになるなどとは思わず、黙って受け取る。
 車の運転席に戻ってから、申請書類を見て驚いた。
「構語障害」(p.24)
「嚥下障害」
「呼吸障害」
など、予想もしていなかった症状の項目がずらりと並んでいる。即座に、死が近いことを覚悟した。その瞬間、頭に浮かんだのは、「親はなくても子は育つ」という言葉だった。
 その後は、胸につかえていたモヤモヤが落ちてすっきりした気分になり、東京大学病院で受けたようなショックはなかった。」

 1989年9月に入院
 1990年 日本ALS協会に入会 p.34
 1991年3〜9月
 「一日に数時間、呼吸苦が襲うようになってきた。食べ物も飲み物も、まったく飲みこめない。」([36])
 1991年10月3日「妻が病院に行ってみたら、と勧める。特別な車でないと移動できなくなっていたので、電話で車の都合を聞くと、たまたま次の日が空いていたので予約をした。」([36])
 1991年10月4日「順天堂病院に着くと、それまで耐えていたものが一度に崩れ去る。中島先生が自分の喉に人さし指を置き、「やるか」と聞く。私は何のためらいもなくうなずいた。」([36])
 1991年10月5日「気管切開をすると同時に、人工呼吸器を着ける。」([37])
 

 http://www.nanbyou.or.jp/library/als-3.htmlの紹介*より
 *表紙写真掲載。ご覧ください。

「負けてたまるか 負けたら 俺の男がすたるよ」
−神経難病ALSと闘う日々−
発行日:1998年11月25日
著 者:杉山 進
発行者:松岡佑子

発行所:株式会社 静山社
    〒162-0814 東京都新宿区小川町9番-10-701
    電話:03-3267-6941 / FAX: 03-3267-6940
定 価:(本体1,700円+税)

全身の運動機能がおかされるALSの発病から10年、人工呼吸器を着け、寝たきりになっても、生きる意志を強く訴える貴重な闘病記。

目次より
患者の「鏡」−日本ALS協会会長 松本 茂
追悼「松岡幸雄さんに捧げる」
第一部 発病、そして「道のり」
 第一章 予兆
 第二章 直面
 第三章 闘い
第二部 呼吸器を着けて生きる
 第一章 ベッドで交わすメッセージ
 第二章 病室にやってきた”夢多き若者たち−実習生とのふれあい−”
 第三章 エールを、ありがとう
あとがき−杉山 久美子
神経難病ALS、その症状と対処 聖隷浜松病院副院長 渥美 哲至

 

■20001126逝去

http://member.nifty.ne.jp/shiomi-apu/25syunen.htm

 「大変残念なことではありますが、筋萎縮性側策硬化症、ALSのために闘病いたしておりました杉山進さんが、昨年の十一月二十六日に逝去されました。
 この難病に対する世間の啓蒙と理解を得るべく、本人自ら病床から苦難をおして発信し続け、同病者の広告塔たらんとした強く尊い意志に私達は感動し、五年前より基金の援助部門より支援を続けてまいりました。
 この難病に苦しむ多くの患者さんやご家族に、一日も早くしかるべき援助の手がさしのべられることを、会員一同心より願いつつ、杉山進さんの勇気ある奮闘に、敬意を表し、慎んでご冥福をお祈り申し上げたいと存じます。」

◆杉山 久美子 2001 「天国の夫へ 一二年間ありがとう」,『JALSA』52:48-49

 

■立岩『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [11]一九八八年・「妻が九州大学病院の先生から説明された診断内容を聞いた。私の病気は急激に年をとる病気で、中には五年から十年も生きる人もいるが、ほとんどの人は三年以内に死ぬ、と言われたそうだ。」(杉山[1998:15])
 [44]杉山進(静岡県)は一九八八年に症状を自覚、妻は「ほとんどの人は三年以内に死ぬ」と言われる[11]、一九九八年に闘病記(杉山[1998])を出版、二〇〇〇年度も日本ALS協会静岡県支部の運営委員をつとめ、二〇〇〇年十一月に逝去(杉山[2001])。
 [72]一九八九年・「脳梗塞の軽いもので、治るにしろ悪くなるにしろ、進行の程度は年単位とのこと。勤めを続けながら通院するようにと診断された。/その後、念のために妻へも話しておきたいから呼んでほしい、と言われる。」(杉山[1998:15]、一九八八年六月に自覚症状、翌年一月の診断)
 ……
 [76]一九八九年四月「妻と東京大学病院へ行く。叔母も紹介状を持って、同行してくれた。/簡単な診察を受けた後、私の方から、私の病気は筋萎縮性側策硬化症ではないのですか、と尋ねた。先生は無言。さらに、医学書には治療方法がないと書いてありましたが、優秀な先生たちが研究をしているでしょうから治療方法がまったくないとは思えません。まだ公式に認知されていない方法でもいいですから試してください、とも頼んでみた。しかし、先生の返答は、「この病気には、そんな展望はまったくありません。治療を求めて病院を探し回るのは無駄ですから、やめた方がいいですよ」というものだった。」(杉山[1998:23])  ……
 杉山進(静岡県)[44]は、一九八八年六月に症状を自覚し、医師に尋ねたが答のなかった八九年四月[76]の前、八九年一月には次のように――前回の最後[72]にも引用した――言われているのだが、同時に妻には別のことが伝えられる[11]。  [77]八九年一月「脳梗塞の軽いもので、治るにしろ悪くなるにしろ、進行の程度は年単位とのこと。勤めを続けながら通院するようにと診断された。/その後、念のために妻へも話しておきたいから呼んでほしい、と言われる。[…]/私が自分の病気についてほとんど知った後になって、妻が九州大学病院の先生から説明された診断内容を聞いた。私の病気は急激に年をとる病気で、中には五年から十年も生きる人もいるが、ほとんどの人は三年以内に死ぬ、と言われたそうだ。」(杉山[1998:15])  [93]一九八九年、「市立図書館に行き、係員に医学書を出してもらう。九州大学病院に入院する時に書いてもらった診断書の病名と、生命保険会社に入院手当金を請求する時に書いてもらった証明書の病名を頼りに、目次を調べた。診断書の病名は「神経原性筋萎縮症疑」、証明書の病名は「運動ニューロン疾患」である。」(杉山[1998:22])
 [100]医師にALSかと聞いて答のなかった[76]杉山は翌月、一九八九年八月「とりあえず難病の申請だけはしておこうと、保健所へ行く。担当者に病名を告げ、申請用紙をもらいたい旨を伝える。……/車の運転席に戻ってから、申請書類を見て驚いた。/「構語障害」「嚥下障害」/「呼吸障害」/など、予想もしていなかった症状の項目がずらりと並んでいる。即座に、死が近いことを覚悟した。その瞬間、頭に浮かんだのは、「親はなくても子は育つ」という言葉だった。/その後は、胸につかえていたモヤモヤが落ちてすっきりした気分になり、東京大学病院で受けたようなショックはなかった。」(杉山[1998:24-25])
 [152]杉山進[44]は一九八九年、東京大学附属病院で病名は知らせてもらえなかったが、治療法のない病気だと言われる[76]。「この病気の本当の恐ろしさはまだ分からなかったが、さすがにショックを受け、病院から東京駅に向かうタクシーの中で、涙がこぼれたのを記憶している。」(杉山[1998:24])その後、保健所で渡された申請書類を読む[100]。「予想もしていなかった症状の項目がずらりと並んでいる。即座に、死が近いことを覚悟した。その瞬間、頭に浮かんだのは、「親はなくても子は育つ」という言葉だった。/その後は、胸につかえていたモヤモヤが落ちてすっきりした気分になり、東京大学病院で受けたようなショックはなかった。」(杉山[1998:25])
 [179]杉山進[44]、一九八八年に発症、九一年九月、「一日に数時間、呼吸苦が襲うようになってきた。食べ物も飲み物も、まったく飲みこめない。」十月三日「妻が病院に行ってみたら、と勧める。特別な車でないと移動できなくなっていたので、電話で車の都合を聞くと、たまたま次の日が空いていたので予約をした。」四日「順天堂病院に着くと、それまで耐えていたものが一度に崩れ去る。中島先生が自分の喉に人さし指を置き、「やるか」と聞く。私は何のためらいもなくうなずいた。」五日「気管切開をすると同時に、人工呼吸器を着ける。」(杉山[1998:36-37])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります(〜2004.03)。
・作成:立岩 真也
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