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菅原 和子

すがわら・かずこ



・岩手県
 1979年5月発症 岩手県立中央病院に入院
 1980年4月22日人工呼吸器を装着
 1987年5月31日逝去

◆19870415 「生かされて生きる」
 日本ALS協会編[1987:081-097]*
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※

◆19890401 『忘れな草――ある難病患者の記録』
 静山社,157p. 1050 [amazon][kinokuniya] ※

 

◆19870415 「生かされて生きる」
 日本ALS協会編[1987:081-097]*
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※


『忘れな草――ある難病患者の記録』pp.11-13 1979年8月
「[…]検(p.11)査結果を聞きに行くと、先生は「脊髄の病気のようだが、整形外科的なものではない。一度神経内科で診てもらうように」と言って、県立中央病院第一内科の鈴木孝輝先生を紹介された。
 脊髄の病気、そして初めて耳にする神経内科――その夜私は、夫と一緒に書店で買った家庭医学書を開き、脊髄の病気を調べてみた。いろいろな病気がある中、「筋萎縮性側策硬化症」という耳慣れない病名が目についた。

 筋萎縮性側策硬化症
 大脳から指令を伝える運動神経の経路が侵され、刻々と筋肉が萎縮し、嚥下障害、言語障害、呼吸障害もみられ、予後不良で数年以内で死亡する疾患。症状はまず、手足が麻痺することから始まり、物を飲み込んだり、喋ったりすることが難しくなり、やがて身体全体が麻痺し自由がきかなくなる。現在のところ、治療法はない。

 息もつかずに読み終えたとき、一瞬、目の前が真っ暗になった。夫が何か言ったのも耳に入らず、「予後不良で数年の命」「治療法はない」といった言葉が頭の中を駆けめぐり、しばし茫然としていた。が、やがて気を取り直し、自分に言い聞かせた。いや、そんな筈はない。こん(p.12)な恐ろしい病気に、今まで何の病気もしたことのない自分がなる筈がない。私は物を飲み込むのは普通だし、喋ることも異常がない。違うにきまっている。こんなことを考えるなんて疲れているせいだ、と。――しかし、どんなに打ち消しても心の不安はぬぐえず、悶々として夜を明かした。
 翌八月二十三日、私は書いていただいた紹介状を持って、県立中央病院を訪ねた。」

◆pp.13-14
「 私は昨夜本で読んだことを思いきってたずねてみた。
「先生、私は筋萎縮性側策硬化症ではないでしょうか」
先生は少し驚いたようだったが、「いや、違いますよ」と細い目で笑って言った。
「筋萎縮性側索硬化症というのは、アミトロ、ALSとも言いましてね、脊髄のほかに延髄も(p.13)侵され、物が飲み込めなくなってむせたり、言葉がもつれてくる病気です。あなたは舌の萎縮もありませんし、ちゃんと喋れるでしょ。アミトロではありませんよ。
 でも、たしかに筋肉がやせているので、一応筋萎縮症≠ニいっていいでしょう。これにはいろいろなタイプがあって、まだ一回の診察で断定的なことは言えませんが、あまり心配しないでしばらく通ってみて下さい」
 それからしばらく、夫に連れられて毎日通院し、ATPニコチン酸の点滴療法と針治療を受けたが、残念ながら、目立った効果はなかった。」

◆pp.14-15
「○鈴木孝輝主治医のコメント
 菅原さんの病気の進行は急速で、四肢の筋萎縮、線維性収縮(筋肉のピクピクした痙攣)が明らかで、運動神経疾患であることは、臨床所見だけで十分診断できました。
 しかし、嚥下障害、構音障害、舌萎縮といった球麻痺症状はみられず、腱反射も低下していましたので、ALSの仮性多発性神経炎型かSPMA(脊髄性進行性筋萎縮症)が考えられました。SPMAはALSより予後が良好ですが、運動神経疾患として包括されます。
私はALSの患者さんには、初診の時は直接病名を告げず、包括的な意味で筋萎縮症と言うようにしています。また経過にはかなり個人差があることをお話し、ALSの予備知識を(p.14)持った患者さんが落胆しないように心がけています。事実、ALSであっても、一〇年以上頑張ってる患者さんが全国には何人もおられます。」

◆p.15
「いくら治療しても段々悪くなっていく私を見て、先生も困った顔をされ、一度、神経内科の大家である新潟大学の椿忠雄先生か、東京大学の杉田秀夫先生に診てもらってはどうかと勧めてくれた。新潟まではとても遠く、身寄りもないので、私は東大へ行くことを希望した。東京なら、横浜に妹がいて心強く、何かと便利だ。さっそく私は、鈴木先生の紹介状をたずさえて東京へ出発し、東大神経内科を受診した。
 杉田先生の診断も、大方鈴木先生と同じようだった。はっきり治るとは言われなかったが、病気に負けないよう気を強く持って、ひき続き盛岡で治療を続けるようにと励まして下さった。」

◆pp.17-18
「 ある日、県の難病検診が行われると聞き、出かけてみた。一通りの診察を受けた後、係の人か(p.17)ら「この病気は五年以上生きることは難しい」と言われた。今まで、どの医師からも、治りにくいとは言われたが、はっきり後何年と言われたことはない。あまりのショックに食事も喉を通らず、悲嘆にくれる日々が続いた。」

◆1980/04/22▽

「 昭和五五年四月二二日、私は呼吸困難のため、県立中央病院第一内科に二度めの入院をした。
 入院時、胸のレントゲン写真を撮られたところまでは覚えているが、その後のことははっきりしない。母の話によると、二二日夜、急に痰がつまって苦しがり、全身チアノーゼをきたしたため、夜勤の看護婦さんが大急ぎで吸引し、すぐに先生に連絡、主治医の鈴木先生と麻酔科の先生が駆けつけ、私を眠らせて鼻から管を入れ、人工呼吸器を取り付けたという。あまりのものものしさに、家族は、私がもうダメではないかと思ったそうだ。」(p.22)△

 「ふと意識が戻った時、のどに穴をあけられ、大きな器械につながれている自分の姿に、私は大変なショックを受けました。恐怖と絶望、虚しさ、何とも形容のしようのない哀れさが心に入り乱れ、ただただ驚くばかりでした。気管切開しているため、しゃべる言葉が声になりません。それも驚きでした。家族には手術前、医師から、声が出なくなると説明があったようですが、私は知らされていないため、どうして声が出ないのかわかりません。いくら叫んでも、声が出てこないのです。そのうえ、人工呼吸器(ベネットMAI型)についている蛇腹(一回換気量モニター)が上下する音が耳元でし、うるさくてたりませんでした。私はその時、「あと数日の命ではないか……」という思いにかられました。」(菅原[1987:84])

46-49
「 九月に入り、私の精神状態はますます落ち込んでしまった。ときどき器械の調子がおかしくて呼吸が苦しくなったことも重なって、焦燥感と不安感がつのり、あと何年苦しまなければならないのか∞呼吸まで苦しい状態で、生きる価値はあるのか∞気が狂いそう≠ニ口述筆記で日記に書き連ねる日が続いた。
 せめて自分で文字が書ければ、気もまぎれるのだろうが、それができないため、さらにイライラがつのり、病室が牢獄に見えた。ベッドに寝かされ、病室から一歩も外に出られない毎日。私にはもう耐えられない。
 九月下旬、菊池主任さんに泣いて訴えた。「どうなってもいい、ここから出してほしい」と。
 それから数日後、鈴木先生が回診に見えられた時、
「菅原さん、車イスで散歩してみましょう」
と言われた。菊地主任さんが話してくれたのだろうが、あまりに突然で、私はびっくりした。もちろん、ここから出たい。でも、どうやって?今の私は、レスピレーターを外したら五分ともたない。(p.46)
「アンビューを使えばいい。何とかなりますよ」
と鈴木先生。アンビューというのは風船の形をした手動式の蘇生器で、手で揉んで空気を送り込む。これを気管切開口のカニューレ(管)に取り付け、手で揉みながら移動しようというのだ。不安はあったが、先生がついていて下さるというので、やってみることにした。
一〇月二日、秋晴れ。いよいよ今日決行ということになった。
 ところが、いざとなると怖気てしまい、「行かない」と断る始末。そんな私におかまいなく、鈴木先生は、
「大丈夫、大丈夫。廊下に出るだけだから」
と気軽な口調で言い、呼吸器を外した。その途端、恐怖心と緊張で全身がこわばり、生きた心地がしない。先生と看護婦さんに抱えられて、車イスへ。すぐさまアンビューが取り付けられ、先生が押してくれた。ビューッ、ビューッと肺に空気が送り込まれる。意外と苦しくない。先生が何度か押して下さっているうちに、気分も落ち着いてきた。寒くないように足元を膝掛けでくるんでもらい、病室を出た。
 看護婦さんが車イスを押し、横から鈴木先生がアンビューを押し押し、廊下を進む。すれ違う人たちが呆気にとられたような表情で私を見た。
 四病棟を通り抜け、三病棟の廊下の端へ。そこで車イスを止め、窓の外を眺めた。久しぶり(p.47)に見る外の景色、明るく、まぶしく、とても新鮮だった。右前方に見える中津川には新しい橋がかかり、その向こう、愛宕山の中腹にグランドホテルが――。あそこで私たちは結婚式を挙げたのだ。涙がポロポロ出てきた。緑の山、中津川のせせらぎ、なんて素晴らしいんだろう。生きている。私は生きているんだと、心の中で叫んでいた。
 わずか一五分の散歩だったが、この時を境に、私の闘病姿勢がはっきりと変わっていった。これまでは次々と機能が失われてゆくことに、ともすれば絶望しがちだったが、どんな身体になっても生きていよう、生きていたいと思うようになった。いつか菊地主任さんが「生きていればこそよ」と言われたことがあるが、つくづくそうだと思う。
 鈴木先生は私の慶ぶ顔を見て、「また散歩に出よう」と言って下さった。その時が待ち遠しくてならない。まるで小学生がお父さんにどこかへ連れて行ってもらうのを楽しみにしているような、そんな気分だった。

○菊地和子婦長のコメント
 この頃の和子さんは、長い間天井ばかり見ている生活にどうしようもない苛立ちと、焦りを感じているのがはっきりわかりました。訪室するたびに「私は何も悪いことはしていない、神様も仏様もない、どうして私だけが」と涙を流し、一言、一言発声するのです。その(p.48)涙を拭いてあげながら、胸が締めつけられる思いでした。何か気分転換になるような援助をしてあげられないものかと、必死に考えました。
 そして「一歩でもいい、病室の外に出たい」という和子さんの言葉をヒントに、鈴木先生にご相談した結果、アンビューバックを使用しての車いす散歩が実現したのでした。」

「一二月。身体障害者手帳が交付された。見ると「一級」とあった。七等級ある障害度のう(p.51)ち、最重度の障害者に認定されたのだ。私の気持ちは複雑だった。
 この病気は治らないとわかってはいても、心のどこかに、もしかしたらという淡い期待を持っていた。その希望が打ち砕かれ、お前は治らないとはっきり宣告されたようで、なんともわびしく、やりきれない。これ以上重い障害はないだろうに、これからずっとこの状態で生きてゆかなければならないのかと思うと、自分が余りにも哀れで、涙が止まらない」(pp.51-52)

 「[…]カニョーレと人工呼吸器をつないでいるコネクターがゆるかったのでしょう。呼吸器から送られてくる圧力で、コネクターがはずれてしまいました。これがはずれると、肺に空気が送りこまれません。私はビックリし、はずれていることを知らせようとしましたが、空気がのどを通らないのですから、声を出すこともできません。[…]やがて母が戻って来、大急ぎで呼吸器を接続してくれました。わずか数分のできごとでしたが、私にとっては長い長い時間でした。/こんなことが二度、三度とありました。[…](p.92)
 人工呼吸器のコンセントがはずれるという事故もありました。[…]」(pp.92-93)

 

■立岩真也『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [5]一九七九年・「係の人から「この病気は五年以上生きることは難しい」と言われた。」(岩手県の難病検診で本人に。菅原[1989:17-18])夫は、それ以前、岩手県立病院で「三〜四年の命」と告げられる(菅原[1989:155])。
 [20]一九七九年・「予後不良で数年以内で死亡する疾患」(夫と一緒に書店で買った「家庭医学書」、菅原[1989:133])
 [36]菅原和子(岩手県)[5][20]は一九七九年五月に発症、一九八〇年人工呼吸器を装着、一九八七年五月逝去。
 [87]一九七九年、菅原和子(岩手県)[36]は、脊髄の病気のようだと言われ神経内科を紹介され、その日書店で買った家庭医学書の脊髄の病気にALSを見つけ[20]、翌日紹介された岩手県立病院を訪れる。「先生、私は筋萎縮性側策硬化症ではないでしょうか」/先生は少し驚いたようだったが、「いや、違いますよ」と細い目で笑って言った。/「筋萎縮性側索硬化症というのは、アミトロ、ALSとも言いましてね、脊髄のほかに延髄も侵され、物が飲み込めなくなってむせたり、言葉がもつれてくる病気です。あなたは舌の萎縮もありませんし、ちゃんと喋れるでしょ。アミトロではありませんよ。/でも、たしかに筋肉がやせているので、一応筋萎縮症≠ニいっていいでしょう。これにはいろいろなタイプがあって、まだ一回の診察で断定的なことは言えませんが、あまり心配しないでしばらく通ってみて下さい」(菅原[1989:13-14])
 [88]菅原を担当した鈴木孝輝(岩手県立中央病院第一内科)。「菅原さんの病気の進行は急速で、四肢の筋萎縮、線維性収縮(筋肉のピクピクした痙攣)が明らかで、運動神経疾患であることは、臨床所見だけで十分診断できました。/しかし、嚥下障害、構音障害、舌萎縮といった球麻痺症状はみられず、腱反射も低下していましたので、ALSの仮性多発性神経炎型かSPMA(脊髄性進行性筋萎縮症)が考えられました。SPMAはALSより予後が良好ですが、運動神経疾患として包括されます。私はALSの患者さんには、初診の時は直接病名を告げず、包括的な意味で筋萎縮症と言うようにしています。また経過にはかなり個人差があることをお話し、ALSの予備知識を持った患者さんが落胆しないように心がけています。事実、ALSであっても、一〇年以上頑張ってる患者さんが全国には何人もおられます。」(菅原[1989:14-15])
 [137]菅原和子[36]は本の中にALSの記述を見つける。「息もつかずに読み終えたとき、一瞬、目の前が真っ暗になった。夫が何か言ったのも耳に入らず、「予後不良で数年の命」「治療法はない」といった言葉が頭の中を駆けめぐり、しばし茫然としていた。が、やがて気を取り直し、自分に言い聞かせた。いや、そんな筈はない。こんな恐ろしい病気に、今まで何の病気もしたことのない自分がなる筈がない。私は物を飲み込むのは普通だし、喋ることも異常がない。違うにきまっている。こんなことを考えるなんて疲れているせいだ、と。――しかし、どんなに打ち消しても心の不安はぬぐえず、悶々として夜を明かした。/翌八月二十三日、私は書いていただいた紹介状を持って、県立中央病院を訪ねた。」(菅原[1989:12-13]、この前後について[87])
 [147]菅原和子[36]は、本を読み[137]、病院で病気のことを尋ねた[87]後、「予後」についてはっきりしたことを言われた時の衝撃を書いている。「ある日、県の難病検診が行われると聞き、出かけてみた。一通りの診察を受けた後、係の人から「この病気は五年以上生きることは難しい」と言われた。今まで、どの医師からも、治りにくいとは言われたが、はっきり後何年と言われたことはない。あまりのショックに食事も喉を通らず、悲嘆にくれる日々が続いた。」(菅原[1989:17-18]、[5]でも引用)
 [172]菅原和子[36]は一九七九年に発症、一九八〇年四月二二日「呼吸困難のため、県立中央病院第一内科に二度めの入院をした。/入院時、胸のレントゲン写真を撮られたところまでは覚えているが、その後のことははっきりしない。母の話によると、二二日夜、急に痰がつまって苦しがり、全身チアノーゼをきたしたため、夜勤の看護婦さんが大急ぎで吸引し、すぐに先生に連絡、主治医の鈴木先生と麻酔科の先生が駆けつけ、私を眠らせて鼻から管を入れ、人工呼吸器を取り付けたという。▽あまりのものものしさに、家族は、私がもうダメではないかと思ったそうだ。△」(菅原[1989:22]、この時の経験を記した別の文章として菅原[1987:83])
 [201]菅原和子[172]は八〇年四月に装着、「ふと意識が戻った時、のどに穴をあけられ、大きな器械につながれている自分の姿に、私は大変なショックを受けました。恐怖と絶望、虚しさ、何とも形容のしようのない哀れさが心に入り乱れ、ただただ驚くばかりでした。気管切開しているため、しゃべる言葉が声になりません。それも驚きでした。家族には手術前、医師から、声が出なくなると説明があったようですが、私は知らされていないため、どうして声が出ないのかわかりません。いくら叫んでも、声が出てこないのです。そのうえ、人工呼吸器(ベネットMAI型)についている蛇腹(一回換気量モニター)が上下する音が耳元でし、うるさくてたまりせんでした。私はその時、「あと数日の命ではないか……」という思いにかられました。」(菅原[1987:84])「九月に入り、私の精神状態はますます落ち込んでしまった。ときどき器械の調子がおかしくて呼吸が苦しくなったことも重なって、焦燥感と不安感がつのり、あと何年苦しまなければならないのか∞呼吸まで苦しい状態で、生きる価値はあるのか∞気が狂いそう≠ニ口述筆記で日記に書き連ねる日が続いた。」(菅原[1989:46])
 [266]菅原和子[201]。岩手県立中央病院。「カニョーレと人工呼吸器をつないでいるコネクターがゆるかったのでしょう。呼吸器から送られてくる圧力で、コネクターがはずれてしまいました。これがはずれると、肺に空気が送りこまれません。私はビックリし、はずれていることを知らせようとしましたが、空気がのどを通らないのですから、声を出すこともできません。[…]やがて母が戻って来、大急ぎで呼吸器を接続してくれました。わずか数分のできごとでしたが、私にとっては長い長い時間でした。/こんなことが二度、三度とありました。[…]/人工呼吸器のコンセントがはずれるという事故もありました。」(菅原[1987:92-93])

※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあり、本から引用されている部分等はその全体を紹介するものではありません。その記述、主張の全体については、当該の本・文章等に直接あたっていただきますよう、お願いいたします。
・作成:立岩 真也
REV: 20020812, 0911, 1004, 10, 15, 20030106, 0211, 0408, 0412, 20100922
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