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瀬戸山 晃一

せとやま・こういち


・瀬戸山 晃一(せとやま こういち)

大学研究者総覧 http://www.dma.jim.osaka-u.ac.jp/view?l=ja&u=4556
個人ホームページ  http://ksetoyama.com/index.html
科研ホームページ  http://ksetoyama.com/gpgd2010/
公共圏における科学技術教育研究拠点 http://stips.jp/
リーディング大学院超域プログラム http://www.cbi.osaka-u.ac.jp/staff/

研究業績

 *以下はたいへん古い情報です。上記の各ページをご覧ください。

◆1996  「医療倫理におけるパターナリズムの射程」
 文部省平成7年度科学研究費助成金・総合研究(A)『応用倫理学の新たな展開――倫理学におけるマクロ的視点とミクロ的視点の総合をめざして』132頁以下。(課題番号06301005、研究成果報告書1996年)所収、研究代表者:佐藤康邦教授。
◆1996  「法介入の正統化諸原理」
 松村和徳、住吉雅美編『法学最前線』窓社1996年,59頁以下
◆199706 「現代法におけるパターナリズムの概念──その現代的変遷と法理論的含意」
 『阪大法学』第47巻第2号(1997年6月号)233頁以下。
◆1998   「自己決定権とパターナリズム──インフォームド・コンセントと「癌の告知」問題を中心に」
 竹下賢、角田猛之編著『マルチ・リーガル・カルチャー──法文化へのアプローチ』晃洋書房1998年、72頁以下。
◆20010930 「法的パターナリズムと人間の合理性(一)──行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」 『阪大法学』51-3(213):589-613 ※贈抜刷
◆2001130 「法的パターナリズムと人間の合理性(二・完)──行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」 『阪大法学』51-4(214):753-775 ※贈抜刷
◆20020320 「遺伝子情報異質論の批判的検討:遺伝子情報の特殊性と他の医療情報との区別可能性――果たして遺伝子情報は独自の特質を有しているのか?」
 『医療・生命と倫理・社会』Vol.1 No.2
 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ1-2/setoyama.htm
 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ1-2/index.html
 cf.遺伝子…

●翻訳

◆共訳:Richard A. Epstein, TAKINGS, Harvard U.P., 1985.
  松浦好治 監訳、木鐸社2000年(第7章・8章担当)。
◆共訳:Will Kimlicka, MULTICULTURAL CITIZENSHIP, Oxford U.P., 1995.
   角田猛之・石山文彦 編訳、晃洋書房1998年 (第4章共訳)。

●その他

◆修士論文「現代におけるパターナリズム論の射程」(1994年)
◆卒業論文「リベラリズムとパターナリズム」(1992年)
◆「パターナリズムと自己決定権」(成城大学法学論報【学生紀要】第7号1992年)

◆「自己の生命の処分について」(1991年度第12回成城大学学長懸賞論文最優秀賞受
賞)
◆「安楽死とその立法化について」(成城大学法学論報【学生紀要】第5号1990年)

 
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◆瀬戸山晃一 199706 「現代法におけるパターナリズムの概念──その現代的変遷と法理論的含意」
 『阪大法学』47-2:233-261
 紹介作成:樋澤吉彦

はじめに―問題の所在と本稿の目的・方法論の限定―

「法は、どこまで我々の自己決定や自由を正統に制約し得るのか」233

「本稿では、自己決定・自由・自律を人間存在にとって極めて重要な価値とし、法によってその自己決定の行使(自由)を制約する場合には、当該法(規制主体側)に目的・動機としていかなるものを正統な根拠としえるかという挙証責任を課し、自己決定の及ぼす影響(危害)の視角から批判的に考察していこうとする知的伝統の中で検討を進める・・・英米のリベラリズムの伝統的方法論に属するものであり・・・」233‐234

「しかし、高度に発達し、専門化が進んでいる現代社会や福祉国家においては、刑法上のいわゆる「被害者なき犯罪」や、私法上の契約の自由に対する様々な法的規制・制約などの、必ずしも他者に危害を及ぼさない法規定や法制度・法政策などミルの「危害原理」ではその正統性を必ずしも充分に説明不可能と思われる法現象が多数存在している」
「従来の議論においては、これらの危害原理では、その正当性を充分証明しえない法の自由への介入を、社会全体の道徳秩序の維持といった「モラリズム」的原理によって説明されてきた。しかし、社会や人々の間に「個の尊厳」と「自由主義的価値体系」が定着し、社会の多数派の共有する実定道徳の押しつけに対し、批判的な風潮が醸成されていく中で、モラリズム以外のリベラリズムの立場からも許容可能な制約原理が模索されることになる。そこでその正統性説明原理として注目され登場する自由制約原理が、本人の自己決定の他者にではなく「本人自身の利益」に与える影響を法的介入の説明の根拠とする「パターナリズム」である」234−235

「本稿が考察対象とするのはパターナリズムの概念の現代的変遷とその含意の再検討である」235

「なぜなら、後に述べるように、パターナリズムの定義とその是非を峻別し、パターナリズムの射程範囲を明確にし、パターナリズムの概念を価値中立的に捉えることによって、はじめてパターナリズムの可能性と限界の考察が学問上可能となると考えるからである」235

@(中村教授論文から10余年が経過しているが)「日本においてその研究成果の含意についての考察」が不十分であり、
A日本では「頭から否定されるべきものとして『パターナリズム』が捉えられ」、分析概念として適切に把握されておらず、
BAのように既に価値判断が含まれて理解されているため、「パターナリズムの射程範囲の確定が曖昧となり、パターナリズムの必要性とその意義、並びにその機能、問題性を学問上、客観的に分析・考察し、認識することが妨げられていると強く感じているからである」236

第1章 日本における「パターナリズム」の捉えられ方の特質
(モラリズムに対抗する原理として)「この文脈においては一般にパターナリズムは、既存の法規定や法制度・法政策の説明(正当性)原理として捉えられ」、
(リベラリズム(リバタニアリズム)からは)「・・・その文脈においては、パターナリズムが非難されるべき、悪しき用語として用いられている」237
(さらに医療の分野では)「・・・パターナリズムは患者の自己決定やインフォームド・コンセント(中略)や自律を蹂躙する、時代遅れの古き、悪しき医師の「独善的、専断的権威主義的」態度を非難する文脈で、根絶されるべき「おまかせ医療」の代名詞として用いられ、悪玉のレッテルが貼られ、捉えられている」238
 等々・・・238


「一方で、「パターナリズム」の用語は、現代の福祉国家・行政国家における「過剰な法規制」や「余計な法介入」を批判する常套文句として否定的含意を込めて「専断的権威主義」「家父長主義」「大きなお世話」「余計なお節介」「善意の押しつけ」などとほぼ互換可能な同意語表現として非難的に用いられ、他方では様々な法現象を説明する正当化根拠原理として「正当化されるもの」として論じられているという相反する文脈で用いられているということができる」238

第2章 英米におけるパターナリズム概念の現代的展開
(1)目的・動機・根拠―パターナリズムの理念―
「全ての論者のパターナリズムの諸定義に共通する要素は、その介入を受ける者の自己決定や選択、それに基づく行動や行為の「他者」や「社会道徳」ではなく、「本人自身」に与える影響を問題とし、「法の介入を受ける者自身のため」という愛他的、善行的動機づけを法介入の目的としていることである。これはパターナリズムの概念において、いかなる定義においても欠かすことの出来ない核心的要素であるので、「パターナリズムの理念」と呼ぶこととする」241→「ケア」
 →実際に「本人のため」になるかどうかは定かではない。

(2)正当性・価値判断―定義と正当化論の峻別―
「一九七〇年代のパターナリズムの様々な議論をふまえた上で八〇年代にパターナリズムの体系書を著したJ・クライニグやD・バンデビアは、ハートやドゥオーキンが定義に正当化の要素を含め、パターナリズムという言葉が、既に価値判断が付与されて用いられていることを批判する」242
「近年の英米のパターナリズム論はこのように定義と正当化論を分離、峻別していっているところに一つの主要な特徴があるといえる」242
「ハートのように正当化される利他的介入のみをパターナリズムとしたり、逆に正当化されない利他的介入のみをパターナリズムとすると正当化論を先取りして定義に持ちこむことになり、各々の論者によって正当化範囲が異なっているため、パターナリズムの事例の範囲を曖昧にしてしまうと同時に、正当化論の客観的な分析を阻害し、パターナリズムの議論を徒に混乱させてしまうことになる」242

(3)被介入者の「自己決定能力」と「意思の不一致」―弱いパターナリズム―
「・・・能力を前提にすることは、それらが定義の際に備わっているか否か確定できていなければならない。しかし、どれだけの判断能力があれば、その判断を有効であるとみなすのか、あるいは、どれだけの自己決定阻害要因が認められれば、その「自己決定」を「任意的でない」とみなすのかという問題の確定は、異論の余地なく容易に一義的・客観的に認定できるものではなく、論者によって同意能力の線引きの閾値が異なる道徳的にコントロバーシャルな意見の分かれる問題であり・・・」243

「初めはパターナリズムに異を唱えていた自律的な者が、恒常的なパターナリズムによって受動的・他力本願的に依存する他律的存在へと家畜化・幼児化され、そのパターナリズムに基づく法介入に次第に同意・承諾するようになった場合、このような場合にこそパターナリズムの真の問題性の一つがあるにもかかわらずパターナリズムではないということになってしまいパターナリズムの問題性とその批判的考察の余地を覆い隠してしまうことになり問題であるように思われる」244

(4)手段・方法―非強制的・情報操作としてのパターナリズム―
「この様に自己決定を絶対視し、本人自身のために自己決定を望んでいない者や、他者に決定を他律的に委ねる決定を行っている者に対し、その意思を無視し、自己決定を押し付けることは紛れもなくパターナリズムに他ならないことになる。従って、第一章でみたような、パターナリズムとインフォームド・コンセントを対立したものとして捉え、パターナリズムは自己決定を常に否定するものであるとの一面的認識図式は見直される必要があると思われる」246


(5)態様・形態―危害原理との区別可能性―
「高度に複雑化した現代社会は、現代法の多様化・変容を生み、「法の射程範囲・限界」の問題も、自由に対する法的強制だけでなく、法による規制・制約・制限・干渉・介入・操縦(manipulation)・配慮・保護・後見といった法現象の多様な側面や形態を視野に収めつつ検討を進めることが不可欠である」248

(6)危害内容―モラリズムとの区別可能性―
「これに対しC・L・テンは、「決定」の側面と「帰結」の側面を区別し、デブリンは帰結の側面しか考慮していないのでパターナリズムとモラリズムを混同していると批判し、「決定」の側面においてパターナリズムは任意的でない決定から本人を保護するという動機にもとづいており、共有された社会道徳の保護・維持自体を目的とするモラリズムとは区別可能であるとしている」248−249

※ファインバーグ
 「リーガル・モラリズム」→「本来的に不道徳であること」をもって根拠とする
「モラリズム的リーガル・パターナリズム」→「行為者自身に対する道徳的危害(自らの道徳的退廃、堕落)を防止すること」
「便益付与的リーガル・パターナリズム」→「・・・根拠を本人の道徳的特性を改善・向上・完成に置く道徳的な・・・」249

第3章 価値中立的広い概念定義とその法理論上の含意
(1)英米におけるパターナリズム概念定義の特徴
※近年のパターナリズムの特徴を典型的に表している二つの定義
J・クライニグ(クライニッヒ)
「・・・個人主義的観点から自由主義的伝統の中に位置づけた上で、「 ― 」・・・」249
 →もっぱら「分析概念」として

J・カルトジェン(John Kultgen)
「・・・ケアの観点からパターナリズムを捉え返し・・・「ある行為がパレンタリズム的であるのは、それが彼[被干渉者]の同意とは関係なく、彼の利益のための彼の生への干渉となっている場合である」([ ]内は引用者)と非常に緩やかに定義している」250

→「すなわち、行為者を客体に影響を与えることのできる者全てとし、客体にパレンタリズムによって直接間接に影響を受けうる全ての者を含め、目的を客体の危害の防止と利益の増進とし、手段を強制、欺き、情報不開示など客体の利益に影響を与えるもの全てを含むよう広くパターナリズムを捉えている。そして福祉政策や国家の安全保障まで、国家によるパレンタリズムが具体的に問題となる領域として考察している」250

「・・・そして、パターナリズムの概念定義と正当化を完全に分離し・・・正当化論においてはじめてそのパターナリズムの定義に該当する介入行為の規範的評価(価値判断)が考察されるようになってきている」251

(2)価値中立的広い概念定義の方理論上の含意
「・・・価値的にニュートラルに広く分析概念として捉えることは、(T)パターナリズムの問題性が隠蔽されてしまい、(U)パターナリズムの正当化範囲が拡大されるのではないか。あるいは(V)正当化されないまでも、パターナリズムの適用範囲が拡大し、法現象の殆どのものがパターナリズムの事例とみなされてしまい、例えば、福祉立法などは、分配的正義や実質的平等や社会権などの概念で説明可能であり、わざわざパターナリズムを持ち出さなくとも良いのではないか、という反論が予想される」252


(T)については・・・
   →むしろ意義と問題性を可視化するための準備作業である
(U)については・・・
  →概念定義と正当化要件を区別していないことからくる疑問である
(V)については・・・
  →「・・・従って、福祉立法をパターナリズムの事例として捉え、その是非を考察することは、正義や平等や権利の問題として捉えることを排除するものではない。むしろ、正義や平等や権利の観点から考察されている事例を、パターナリズムという異なったアングルからの再検討を可能にし議論を深めるところにパターナリズム論の一つの実践的意義があると思われる。現実の様々な具体的法規制は、危害原理、パターナリズム、モラリズムの交錯として捉えられる」253

おわりに―暫定的まとめ―
「・・・パターナリズムと自己決定を論理必然的に対立するものとして捉える理解は再考の余地があることや・・・」254

「パターナリズムは、リベラリズムにとって正当化されるものとされないものがあるとされ、その正当化範囲も同じリベラリズムに立脚する論者においても意見の分かれる限界ゾーンである。恐らくそれは、自発的奴隷契約や自殺の「自己決定」などのように「自己決定の自由」は、自由の放棄や自己決定の存立基盤を不可逆的に或いは修復不可能なまでに侵害してしまう可能性を有しており、そこには「自由を自ら阻害・放棄することになる自己決定の自由をどこまでリベラリズム許容しえるのか?」という理論内的アポリアが存在しているからであるように思われる。この問いに答える一つのアプローチとして、パターナリズム論は意義を持ち得ると考える」254

「・・・また不合理な選択をする存在である・・・。このようなリベラリズムが前提とする人格像から外れて、自己危害を引き起こしてしまう自己決定を行う者や、自己決定自体が何らかの内的外的影響によって任意的・自発的とは見なされない場合をいかに扱うべきであるのかという問題に深くかかわっているのがパターナリズムの是非の問題である」255

 
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◆瀬戸山 晃一 2001 「法的パターナリズムと人間の合理性(T)──行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」、『阪大法学』51(3)
 紹介作成:樋澤吉彦

はじめに
※新たな新潮流として・・・
「・・・人間行動の合理性概念をめぐって展開されている・・・。「行動心理学的『法と経済学』(Behavioral Law Economics)」である」34

「法的パターナリズム(Legal Paternalism)とは、法的規制や介入の正統性根拠として、規制される者自身の広い意味での利益の保護や増進を意図するものを指す理論ないし原理をいう。従ってパターナリズムは、社会道徳に反する行為の法的禁止(道徳強制主義(Legal Moralism))や、第三者や社会全体への危害防止を目的とする法的規制や介入(危害防止原理(Harm Principle))から区別されるものである」34

「他方、「法と経済学」あるいは「法の経済分析」と呼ばれる潮流も、パターナリズムの議論が隆盛しはじめるのとほぼ同時期の一九七〇年にミクロ経済学を法学に応用した・・・。そこにおける問題意識は、主として自由市場への政府の法的規制や介入、法的判断の効率性をミクロ経済学を分析ツールとすることによって批判的に検証するというものであった」34

「一九六〇年代から七〇年代にかけてのアメリカは、政府の福祉国家的法介入が、ジョン・ロールズ(John Rawls)の格差原理に代表される福祉国家型リベラリズムによって理論的正当化が得られる一方で、そのような市場や個人の私的領域への法化に対する批判的視座が、自由至上主義(リバタニアニズム)や、法と経済学などによって強化された時代であったと言えよう。パターナリズムの議論の出発点も当時のこのような知的雰囲気と無関係ではなかったであろう。すなわち、パターナリスティックな法規制・介入が増大していく中で、それらを批判的に検討していこうとする問題意識がパターナリズム論の根底にはあったと言える」35

「本稿では、パターナリズム論と法の経済分析が別の流れに乗って来た真の理由は、それぞれが照準とする主たる対象領域がずれているためではなく、実は両者が拠って立つ人間行動モデルに関する基本前提や想定の相違にあることを浮き彫りにしていく」35

※行動心理学的「法と経済学」→「現実の人間一般が有する様々な合理性阻害要因」に着目36

第1節 法と経済学理論における人間像とパターナリズム
「すなわち、人は自らの満足や人生の目的などの自己利益の最大化を試みる合理人と捉えられている。そして、その合理的最大化は、意識的な計算に限定されるものではなく、精神状態がどうであれ、合理的選択モデルに一致している限り、行為は合理的と見なされるものであるとする。つまり、意識的であれ無意識的であれ、またその人が有する目的が何であれ、その内容は問わず、その目的を最大限に達成するために選択していれば、合理的とみなされるのである(合理的選択モデル)」37
→(注11で)「またその際、自己利益は、単なる利己的であることと混同されてはならなく、他人の幸福や不幸も自らの満足を構成するものとして包含できる射程を有した概念であると説明している」54

「ところが法と経済学においては、(パターナリズムの対象となるような −ひざわ注)上述のように行為自体の実質的な内容は目的は問わず、またたとえ個人の特異性から合理性を逸脱する行為・意思決定を行う場合があっても、それは全体の中で相殺され得るアトランダムな例外や誤差にすぎず、合理性仮説を修正するまでには及ばないものとして考えられている」38

第2節 行動心理学的「法と経済学」の誕生
※38−40を参照
※サンステイン

第3節 行動心理学的「法と経済学」の問題意識と反−反パターナリズム
「全ての人間は・・・自らの効用を最大化し、最適の量の情報を集めるものとしてモデル化されるとし、法と経済学の仕事は、市場・非市場におけるそういった効用の合理的最大化行動の法的含意を決定することであるとする。行動心理学的「法と経済学」の議論の出発点は、法と経済学が立脚するこのような人間行動に関する合理性モデルに対する懐疑にある」41→「これまでの」例としてアマルティア・セン「合理的な愚か者(rational fool)」

※このアプローチの意義として・・・
(1)「実証的考察(positive task)」→「法の内容と効果の説明」
(2)「処方的考察(prescriptive task)」→「社会的に望ましくない行動を抑制するなどの特定の目的を達成するために法がいかに利用できる」
(3)「規範的考察(normative task)」→「法システムの目的の検討」
 →この3つのうちで「パターナリズム」が再評価されるのは、「規範的考察」において。42

※しかし、「これは反―反パターナリズムであって、パターナリズムの積極的な擁護ではないとしている。なぜなら、限定的合理性はパターナリスティックな法の被介入者のみならず、国家や政府などの介入者にも同様に当てはまると考えられているからである」43


第4節 行動心理学の洞察―バイアスと合理性からの乖離―
「サンステインらは、伝統的「法と経済学」の合理性想定であるホモ・エコノミクス(中略)としての仮想的人間行動モデルに対し、法における現実に生きる人間(real people)の行動の含意を探求しようとする」44
 →そのうえで、「限定的合理性」「限定的意志力」「限定的自己理解」の3つの人間行動モデルに分類する。

(1)限定的合理性(Bounded Rationality)
「つまり、我々は多かれ少なかれ不完全な計算能力や記憶しか有していないということである。従って現実の判断は、標準的な経済学モデル想定するようなバイアスから自由な合理的人間というシナリオからはシステマティックに乖離しており、また現実の決定はしばしば期待効用理論の公準に従っていない場合が多々ある」44

※そのうえで、法律上考慮に値するバイアスとして・・・
(A)極端回避(嫌悪)性向(Extremeness Aversion)
「これは端的に言えば、人々は一般に極端を嫌う傾向があるというものである」45

(B)あと知恵バイアス(Hindsight Bias)
「これは、人々は、いったんある出来事が生じると、それが実際にはたまたま偶然に生じたものであったとしても、必然的に起こるべくして生じたものであると思い込みがちであるというバイアスである」45

(C)楽観性向的バイアス(Optimistic Bias=Overoptimism)
「たとえ統計的データや正確な事実認識を十分有していたとしても、過小評価しがちであるというバイアスである」46

(D)現状維持志向型(Status Quo Bias)
「つまり、ある特定の現状が人々の判断に決定的な影響を与えるという意味で合理的判断を制限するバイアスとされるのである」46

(E)自己本位的・利己主義的性向(Self‐Serving bias)
「つまり、人々は他の者が自分を評価する以上に自分は評価に値すると考えがちである」46

(F)喪失嫌悪型(Loss Aversion)
「これは、人間は一般に現在所有しているものを失うことを嫌うという経験的洞察である」47

(G)利用可能性ヒューリスティック(Availability Heuristics)
「・・・すなわち、最近耳にした出来事は、たとえそれが大した問題でなくとも法的対応を人々は要求しがちであり、また人種が関係する犯罪や環境問題のように目立つ事件に対しては、法的な介入が実際に効果的かどうかに関わらず求められやすいのに対し、目に留まらないものは実際には法的対応が必要であったとしても無視されがちであるという現象を生むものである」47

(H)アンカーへの依存性(Anchoring)
「これは、しばしば人々は、はじめの価値(initial value)やアンカー(anchor)に基づいて可能性を判断してしまいがちであるという経験的洞察である」48

(I)前例依存性(Case−based decisions)
「ありうるべき他の代替案の便益と費用を計算することが難しい(判断コストが高い)場合には、一般に人々はその事例自体に関連する費用便益を考察することなく、過去の事例からの推論によってその複雑性を単純化しがちである」48


(J)精神的金銭計算(Mental Accounting)
「これは、人々は日々の生活の中で予算を管理するにあたって、生活費充当用、学費用、退職用、旅行用といったように予算を分け、それぞれの中で金銭判断をするのが一般的である経験的洞察を概念化した用語である」48

(2)限定的意志力(Bounded Willpower)
「これは現実の人間は、ある行動をとることが、自己の長期的利益に反することになることを十分承知した上でもなお、しばしばその行動をとってしまうという人間洞察である」49
→タバコ、ダイエットにはしること、クーリング・オフ制度があること等々

(3)限定的自己利益(Bounded Self‐interest)
→51−52を参照。
「・・・相互的公正を要求し・・・」50
「この意味で行動心理学的「法と経済学」における人間は、伝統的経済理論が想定する自己利益最大化という仮想的人間モデルよりも良くも悪くも行動する存在であるとする」50

「三つの限定性(バウンズ)のカテゴリーで通常パターナリズムとの関連でより頻繁に問題となると思われるものは、むしろ限定的合理性と限定的意志力であろう」51

 
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瀬戸山晃一「法的パターナリズムと人間の合理性(U・完):行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」、『阪大法学』51(4)、2001

第5節 法理論上の含意―パターナリズムと人間の合理性―
(1)ファインバーグの任意性基準論との相違―任意的合理性逸脱―
 →「強い―」と「弱い―」を区別したファインバーグ(Joel Feinberg)のパターナリズム論との相違

「・・・ファインバーグがその「任意性」を阻害する要因として挙げているものは、自己決定の行為者・判断者の無知(誤った情報)、他者からの強迫・強制、アルコールなどの薬物の影響を受けている状態、精神的錯乱状態などである」56
「したがって、このような状況は、伝統的な法と経済学の合理性モデルに修正を加えずに説明可能で、従来の分析枠組みの中で任意性を回復する処方箋を導き出すことができる。なぜなら、人間は合理的であるが故に、外部的強迫に屈して自己の利害を損なうと分かっている申し出にも同意するのであり、また合理的に判断するからこそ、誤った情報のもとでは、実は自己に不利益になる行動を、誤って自己利益になると思い込んでとってしまうと考えられるからである。したがって、その様な外部性を内部化してやれば、合理性モデルに修正を加える必要はないといえる」57

「他方、行動心理学的「法と経済学」が問題にしているのは、前節でみたように例えば情報を正しくかつ十分与えられたとしても、その認知・解釈・評価は様々なバイアスによって歪められるという場合のように、現実の人間一般が有する認知能力や情報処理能力の限界を生むバイアスや意志力の弱さ、あるいは利己心よりも公正さに従う傾向や、社会規範などを内面化しているがゆえに標準的な「法と経済学」が言うところの自己利益にあえて反する行為をとる傾向などであって、これらは個人が置かれた特殊状況に必ずしも依存せず、任意的であっても免れない心理的な内部要因であるといえる」57

「・・・そこで問題とされているものは「任意的合理性逸脱」であるといえよう」58

(2)規範的意義 ―反―反パターナリズム―
「パターナリズムをドグマ的に否定することを不可能にさせ、法的にパターナリスティックな配慮が必要な状況はいかなる場合であるのかという問題を考える土俵を理論レベルで与え、より多くの個別の事例においてパターナリズムの是非を経験的に検証していく道を開拓してくれると言えよう」60

「・・・直ちにパターナリズム的介入が正当化されるとはせず、その本人よりも介入する政府や行政の政策決定者の方がよりよくバイアスから免れている場合に限り介入を正当化し、その際どちらがよりよくそのバイアスから免れて客観的な判断ができるのかということは、経験的実証レベルの問題であるとしている」

(3)経験主義アプローチとパターナリズム―ベター・ジャッジ―
「このような行動心理学的「法と経済学」のアプローチは、ある見方をすれば、ある任意の状況において、自己決定の主体が、本人自身の利益の便益計算においてどれだけバイアスから免れ、合理的に関連情報を認知・判断し得る最善の判断者(ベスト・ジャッジ)であるとみなすことができるのか、あるいはパターナリスティックな介入を行う政府・国家が本人の利益を増進するような判断をバイアスから免れより良く行えるのかという、突き詰めればどちらがベター・ジャッジであるのかという問題にパターナリズム正当化論の全てが収斂されてしまう可能性がある」61

「このようなパターナリズムの名による社会の支配的価値の押しつけを避けるためには、規制の正当化にあたり、パターナリスティックな規制主体が規制客体より、その規制客体の利益の判断に関し、よりよくバイアスから免れているという経験的事実だけでは十分ではなく(傍点ひざわ)、規制客体間の価値観の違い(ばらつき)がどれだけ大きくみられる事例であるのか、また被規制主体である行為者自身と規制者である政府との距離や関係のコンテクストを正当化の判断の際には十分考慮しなければならないと考える」62

「リベラリズムにおけるパターナリズム正当化論においては、たとえ国家が市民よりもその客観的な利益についての判断をより良く行えるとしても、市民の自己決定を否定して代理決定する国親的役目を国家が担うべきなのかという問題意識がある。更に言えば、リベラリズムのパターナリズム論における究極の問いには、外部から客観的にみて本人自身のためにならないと思われるような自己決定、あるいは本人の自由を阻害してしまう自己決定をどこまで許容すべきなのか、うがった言い方をすれば、そこにはいわば「誤る」自己決定をそれが第三者に危害を及ぼさない限り、どこまで認めるべきであるのかという、自由に内在するアポリアに対する真摯な問題意識が存在しているといえる」62

(4)法理論上の学問的意義―パターナリズム論の考察射程の拡大―
「つまり、パターナリズムが問題とされるのは通常、法が想定する法の担い手である行為者の合理的な判断能力が様々な要因によって失われる一部例外的な状況を法がいかに取扱うべきかという法律学全体からするとマージナルな議論領域に限定されていたように思われる。このことは、パターナリズムの議論が生まれたアメリカの法学アカデミズム一般においても言えることである」63

「それはリベラリズム一般にあってもその自由行使の基礎となる自己決定能力を備えた人間が通常想定されており・・・」63

「・・・「自律」という視角から自律を実現あるいは補完するものとしてパターナリズムの議論が活発に展開されるようになってきており、日本の法哲学などの議論においてもそれらの影響を受けてパターナリズム論が展開されてきている」64

「・・・その限りでパターナリズムの議論を個人の価値観の個別性や任意性阻害などの特殊状況を超えた問題として、つまり一般的に重要性をもった議論として展開することを可能ならしめるものと思われる」64

「行動心理学的「法と経済学」の洞察が有する実際の法政策上の一つの潜在的意義は、法のこのようなカテゴリー化の見直しとその細分化に分析道具を与える点であると考える」65


(5)人間の合理性とパターナリズム ―バイアス矯正としてのパターナリズム―
・リベラリズムの見地からの含意
「・・・つまり、ある個人が、自らの判断・決定・行動が自らの利益を損ない、他人の目からは合理的でないと言うことを十分承知の上でも、本人の信条や価値観から敢えてそのような行動に出る場合には、自律性に重要な価値を置くリベラリズムの立場からは、その行動に対するパターナリスティックな法的規制は認めることが難しいであろう。しかし、個人の価値観の相違に基づく特殊性からではなく、誰もが一定の程度不可避的に有するバイアスから合理性逸脱現象が生じていると考えられる場合は、リベラリズムなどの非帰結主義にあってはパターナリスティック法的介入は認められるべきなのであろうか?」67

「帰結主義アプローチをとらない現代リベラリズムにあっては、異質な価値観を有する諸個人が各々の独自の目的を達成することに法は干渉するべきではないことをその規範的主張としている」67

「・・・なぜなら、個人の価値観に基づく特殊性と一般的性向とを区別することは、現実問題としては必ずしも容易ではなく・・・」67

「・・・人々一般が有する合理的判断を阻害しているバイアスを矯正するためのパターナリスティック法規制であれば・・・」68


REV:20121115
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