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白木 博次

しらき・ひろつぐ
1917年10月22日 - 2004年2月19日


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%8D%9A%E6%AC%A1

 しらき ひろつぐ、1917年10月22日 - 2004年2月19日)は、日本の医学者。神経病理学の国際的権威。東京大学医学部長。東京都出身[1]。
経歴
 東京帝国大学医学部教授白木正博の二男として生まれる。父の九州帝国大学医学部への着任により福岡に転居し、福岡県中学修猷館、旧制福岡高等学校を経て、1941年12月、東京帝国大学医学部を卒業。太平洋戦争開戦に際して、海軍軍医として戦艦武蔵に乗艦。復員後、東京帝国大学医学部に復帰し、内村祐之教授の東大附属脳研究室第一部に入室。1949年、助手となる。1950年、「原子爆弾症脳髄の病理」により医学博士の学位を受ける。1953年1月、東大附属脳研究施設脳病理部門講師、1956年11月、助教授を経て、1959年3月、東京大学医学部附属脳研究所教授に就任。
 1964年1月、入鹿山且朗熊本大学教授らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表、これが1968年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がっていく。1966年、日本神経病理学会初代理事長に就任、のち国際神経病理学会名誉会長となる。
 1968年4月、美濃部亮吉東京都知事の要請により、東大教授現職のまま、新設された都立府中療育センターの初代院長に就任。1968年11月、東京大学医学部長に就任。1970年7月、美濃部都知事から委嘱され、都知事のブレーンである東京都参与となり、医療行政に関与している。このころ、東京都参与として、都知事から老人医療の無料化の相談があったが、そうなると老人が外来あるいは入院という形で病院に押し掛け、青年層や壮年層が病院を利用しにくくなることが予想されるため、老人の専門病院を作る必要があると都知事に提案した。その結果、1972年6月に板橋区に東京都老人医療センターが設立された。白木はその時の開設準備委員長も務めている。
 その傍ら、スモン訴訟、水俣病訴訟で患者側の証人として法廷で証言し勝訴に導いている。スモン訴訟では、1975年7月15日に東京地裁で患者側証人として出廷し、田辺製薬[2]がスモンのキノホルム原因説を裏付けるデータを隠蔽していることを証言したことにより、その後の裁判の流れを大きく変えることになった。
 1975年12月、定年を前に東京大学を辞し、白木神経病理学研究所を主宰して、在野から患者の側に立ってスモン、水俣病、ワクチン禍の因果関係の解明などに取り組む。そして、ワクチンによる健康被害の判定基準として、後に多くの裁判において採用されることとなる「白木四原則」を策定する。2004年、肺炎のため死去。

 白木四原則 ワクチン接種と健康被害の因果関係判定基準
・ワクチン接種と接種後の事故(疾病)が時間的、空間的に密接していること
・疾病について、ワクチン接種以外の病因が考えられないこと
・接種後の事故と後遺症が原則として質量的に強烈であること
・事故発生のメカニズムが、実験、病理、臨床などの観点からみて、科学的、学問的に実証性や妥当性があること


◆1951 『精神病の常識と看護』(未見)
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000883803-00

◆196406 「水俣病を追う――その医学的・社会的背景」,『世界』222

◆白木 博次・佐野 圭司・椿 忠雄 196804 『脳を守ろう』,岩波新書

◆197105 「美濃部都政下における医療の現状と将来像――わが国における医学と医療の荒廃への危機との関連で」,『都政』1971-5:31-72 ※

◆197209「環境破壊から健康破壊へ――水俣病はいまや一地域病ではない」,『世界』322(1972-9):173-184 ※

◆1973 「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」『ジュリスト臨時増刊』548 ※

◆197303 「医学と医療――重症心身障害の考え方との関連において」,『思想』549(1973-03) ※

◆1973 「スモン患者の社会復帰によせて」『スモンの広場』4

◆1973 「水銀汚染の実態――健康破壊への危機の一例として」『公害研究』第二巻第三号(一九七三年)

◆1973 「市民の健康――環境汚染による健康破壊への危機」『現代都市政策第一〇巻』(岩波書店、一九七三年)※

◆197504 「重症心身障害総論――胎児性水俣病とその周辺を中心に」,『神経研究の進歩』19(2), p205-214, 1975-04(重症心身障害<特集>)
 https://ci.nii.ac.jp/naid/40001885043/

◆白木 博次 19780501 「はしがき」,川村・木下・別府・宇尾野[1978:1-3]
◇川村 佐和子・木下 安子・別府 宏圀・宇尾野 公義 19780501 『難病患者の在宅ケア』,医学書院,176p. ASIN: B000J8OLMQ [amazon][kinokuniya] ※ n02. als.

◆白木 博次 19981225 『冒される日本人の脳――ある神経病理学者の遺言』,藤原書店,316p. ISBN-10:4894341174 ISBN-13:978-4894341173 3000+ [amazon][kinokuniya] ※ d07smon. m34. d07

◆白木 博次 20010930 『全身病――しのびよる脳・内分泌系・免疫系汚染』,藤原書店,296p. ISBN-10:4894342502 ISBN-13:9784894342507 3200+ [amazon][kinokuniya]

 ※入手



□1949

◇サンケイ新聞社会部東大取材班 19781030 『ドキュメント東大精神病棟――恐るべき東大のタブーを暴く』,光風社書店,208p. ASIN: B000J8LMO6 [amazon] m.※

 「また、石川〔清〕講師は士族の出身であることを盛んに強調した。祖先は三河の十万石の吉田藩の家老だったという。この家系を継ぎ、祖父は戦艦「三笠」の軍医長であり、司馬遼太郎の小説△089 に登場したこともある。父親は一高−東大を卒魚して、大正二年、東大医学部第三内科にはいった。松本市営病院(信大医学部の初代病院長)を経て、青山で内科を改行していた。石川講師はこのような華々しい家系をみずから積極的に話した。
 彼自身は都立一中(現日比谷高校)をなて、戦時中、医師不足を補うために設置された東大医学専門部に入学、二十四年に卒業、松沢病院(現在は都立)でインターンを経験した。この時、石川講師は東大医学部、白木〔博次〕教授(当時)の執刀によるロボトミー手術を体験、その後、この手術を人体実験として糾弾することになる。そのときのことをこんな表現をつかって語った。「脳の動脈を切ると、血がピューピューと出た。私は患者の脈や血圧を測定していたのですが、そのうちに脈博がなくなり、血圧も一〇〇、八〇と下がってしまった。白木教授に手術をやめるようにいくら言っても、フン∞フン≠ニいうだけだった。患者さんは二時間の手術が終わると同時に死んだ。その時、こんな病院は将来、ぶっつぶしてやると決意した」
 インターン一年をへて、文学部哲学科に再入学、二十八年東大付属病院の精神神経科助手。三十三年八月、同医局長、翌年の九月、同病棟医長、三十七年四月から付属病院講師兼東大保健センター精神衛生主任になっている。」(サンケイ新聞社会部東大取材班[1978:89-90])

石川 清(精神科医,1924〜) 松沢病院でインターンの時期に白木博次のロボトミー手術を目撃。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%B8%85
 サンケイ新聞東大取材班 1978 『ドキュメント東大精神病棟』,光風社書店 *

 第3章 精神医療の経験
 「一九七四年の臺教授退官に際して、連合でも自主管理闘争の終結か継続かが討論された。若手世代を中心とした継続の意見が結局、連合の意見を集約した。医学部当局の精神科管理は、七四年八月に高安久雄医学部長、石田正統病院長、土居健郎精神衛生学教授、逸見武光同助教授の四者体制となり、その後、七五年四月に五者(酒井文徳学部長が交代して入る)体制へと移リ、さらに学部長交代(吉川政巳医学部長)を経て佐藤寄男精神科科長代行となり、七九年一月に土居健郎教授、八四年四月に原田憲一教授と変遷した。当時、自主管理側は、肇教授の松沢病院時代の人体実験、佐野圭司脳外科教授の鎮静的定位脳手術、白木博次脳研究所元教教授が赤レンガで四九年におこなった「生体解剖」死などを、医局講座匪制の引き起こした事件として取り上げ糾弾していた。」(富田[2011:261])

 参考資料「白木糾弾――東大脳研教授白木博次の犯罪性を暴く――白木博次糾弾共闘会議」一九七五年 (富田[2011:265])

◇白木博次糾弾共闘会議 1975 『白木糾弾――東大脳研教授白木博次の犯罪性を暴く』(未見)

◆1951 『精神病の常識と看護』
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000883803-00

◆196406 「水俣病を追う――その医学的・社会的背景」,『世界』222

◆196501 「水俣病――とくにその有機水銀説をめぐって」,『科学』34-1

◆19660309 衆議院科学技術振興対策特別委員会に参考人として呼ばれる。
 「[…]すくなくとも、現在、水銀農薬によって、次の世代の素質が低下しつつあるという証拠は、まだあがってはいないが、国は、疑わしきは使用せず≠ニいう強い態度で、その使用禁止の方向にふみ切るべきであると警告した。コトパをかえると、当時、明確な哲学が、そこにあったわけではないにしても、この場合、疑わしきは罰せず≠ニいう刑法的概念を、そこに適用すべきではなく、また自然科学的視点からの因果論的実証をまつまでもなく、民法的概念というより、政治的勇断のものを、そこに適用すべきであるとの勧告であった。
 しかもこの可能性は、人体実験を通じて、当時、すでに証明されかけていた。なぜなら、当時、まだ決定的ではなかったが、胎児性水俣病(先天性水俣病)は、母親自身は発病していないか、軽度の神経障害しか示していないのに、その母親から生まれた幼児は、大脳の発達阻害による高度の精薄(自痴)と、運動神経の発達停止にもとづぐ手足の運動マヒ(高度の脳性マヒ)とのダブル・ハンデイキヤッブの児童達で、私天性の重症心身障害児にほかならなかったからである。」

◇19670423 美濃部亮吉東京都知事初当選

□1968頃

◆白木 博次・佐野 圭司・椿 忠雄 196804 『脳を守ろう』,岩波新書

◆1968年4月 美濃部亮吉東京都知事の要請により、東大教授現職のまま、新設された都立府中療育センターの初代院長に就任
 →府中療育センター/闘争

◇中嶋 理 2015年12月1日 インタビュー NHK *
 https://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100428_00000

 「これを構想したのが東京大学の医学部の教授だった白木博次先生。白木先生が美濃部知事の時代の東京都顧問だったんですね。圧倒的な力をお持ちでして。保険医療面については全面的に白木先生の指揮下にあったみたいなぐらいに強い力をお持ちだったですね。美濃部さんとどういうご関係か私どもは知らないんですけれど。非常に信頼関係が厚くて。ですから顧問に就任されて。それでこのことを構想されたんですね。」

◆19680915 「大学医学部の立場からみた医療問題――東大医学部の現状分析と将来計画を中心に」白木博次
 『ジュリスト』1968年9月15日号(No.406)
 http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/detail/014009
【特集】医療制度の問題状況
 ◇医療史からみた医療制度の問題点……川上 武
 ◇医療制度のしくみとその問題点……唄 孝一
 ◇大学医学部の立場からみた医療問題――東大医学部の現状分析と将来計画を中心に……白木 博次
 ◇医療保険制度の問題点――抜本改革試案をめぐって……佐口 卓
 ◇医療をめぐる紛争――その経緯と根源……今井 一男
 ◇医療紛争の根元と問題点……小山 路男
 ◇医師法の一部改正……黒木 延
 ◇医育者の反省……懸田 克躬
 ◇青年医師連合の理論と実践――医療の帝国主義的再編に対決するわれわれの闘い……青年医師連合中央書記局

◆白木博次 1968 「東京大学医学部将来計画」,『医主と医療』1-2:161-170
 http://www.lib.keio.ac.jp/publication/medianet/article/HAKKAKUTO5.pdf

◆1968年11月、東京大学医学部長に就任

◆医学部長白木博次 臺弘病院長 1968(昭和43)年12月23日 「東大病院の診療科再編成(案)」
 https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400059325.pdf

◇東大精神科医師連合 19840620 『坐りこみニュース』No.2

 「宇都宮病院に最も深くかかわっていた東大医学部の医師の一人である、保健学科精神衛生学教室講師・浅香照雄に対し六月十四日、全学有志の仲間と一緒に追及を行なった。
 なんと、なんと、浅香は“処分”でほっとして、人類遺伝学の講義を図々しくもやっていた。浅香は、自らの“研究”テーマ・遺伝学の“研究”を宇都宮病院の患者を“つかって”やっていた。彼が宇都宮病院から出した最初の論文は一九六八年なのだ! 六八年と言えば、その頃、東大医学部では、教授会が十七名の大量処分を出し、六月、機動隊船名が学内になだれこみ、医局講座制批判のまきおこっていた真最中だ。生体解剖の責任を追及され教授を辞任(‘75)した脳研病理の白木博次=宇都宮病院でも脳集めをしていた。が、“東大闘争のせいで学内は研究がしにくくなった。マテリアル(脳)が散逸しないためには800床ぐらいの病院がほしいですね”とこぼしていた頃でもある。」

◆東京大学医学部長白木博次 1969(昭和44)年1月10日 「医学部学生諸君へ」(学生向け配布文書)
 https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400059325.pdf

◆197003 「医学と医療――重症心身障害の考え方との関連において」,『思想』549(1970-3):408-422 ※

◇197006 大島一良府中療育センター院長に就任(森山[108])

◆1970年7月、美濃部都知事から委嘱され、都知事のブレーンである東京都参与となり、医療行政に関与
 このころ、東京都参与として、都知事から老人医療の無料化の相談があったが、そうなると老人が外来あるいは入院という形で病院に押し掛け、青年層や壮年層が病院を利用しにくくなることが予想されるため、老人の専門病院を作る必要があると都知事に提案

◇1970.12.14 重度障害者も人間です (朝日新聞)

◇19710423 美濃部亮吉東京都知事再選

◆197105 「美濃部都政下における医療の現状と将来像――わが国における医学と医療の荒廃への危機との関連で」,『都政』1971-5:31-72 ※ *

 「一方、東大医学部に端を発し、全学のみならず、全国の大学に拡大した大学紛争の、その後の経過は、日本の医学と医療の将来を予測するにあたって、きわめて重大な意味をもつものといわねばならない。つまり、多少の程度の差はあれ、現在、東大医学部のみならず、全国の大学医学部は、一見、静穏さを取り戻したかに、外見にはみえるかもしれぬが、この紛争を通じ、教授、助教授、中問層、また、学生達、また、国自身が、この紛争をどう正しく受け止め、現在から将未にかけて、これに、どう積極的に対処しているかを考えた場合、かなりはっきりいって、絶望的とまでいうのは、いいすぎであることはもとよりとしても、悲観的要素が多すぎるものと表現せざるをえない。なぜなら、まず、紛争を通じて、各層の人々の問に、いろいろな考え方が生まれ、両極に△033 走るか、四分五裂し、その結果、相互問にかもしだされた不信感は、いかに設備がよくなり、また、かりに高額の予算がついたとしても、もはや、それだけで解決できる問題ではなく、そこに相互の気持の和がなければ、与えられた予算や施設をも、決して正しく生かしてゆくことはできないと思われるからである。そして、このような相互の不信感が、今後、五年、一〇年にわたって、続くかもしれないという前提にたって考えると、それだけでも、大きな問題が、そこにあると思考せざるをえない。」(白木[197105:32-33])
 「医学と医療の本質は、教育のそれと同じであるとの発想をとるべきである。つまり、医療なり、医学なりに投資された財政的支出は、それが、そのまま収入として、黒字の形でかえってくるというような、会計上の収入、支出という概念で、バランスされるものが採算医療であり、医学であるという考え方は、基本的に誤りであるといわねばならない。[…]
 要するに、医学や医療についても、会計的、予算的にみれば、赤字投資が行なわれたようにみえても、それによって、はじめて、国民の生活が正当に守られ、また、社会に復帰で△035 」(白木[197105:35])
 「要するに、医学や医療についても、会計的、予算的にみれば、赤字投資が行なわれたようにみえても、それによって、はじめて、国民の健康が正当に守られ、また、社会に復帰できる人々が数多く生まれてくること、あるいは、それによって、病気が予防される、また、不幸にして社会復帰できない人達に対しては、社会の連帯責任において、手厚く保護してゆく基本的姿勢と対応、などの一連の事実と考え方こそが、黒字採算そのものであり、それこそが、コトバの真の意味での採算医療、また、採算医学と考えられるべきであろう。」(白木[197105:35-36])

 「不採算医療の倫理」
 「しかしながら、前述のように、医療が、なぜ、コトバの正しい意味での不採算でなければならぬかという哲学、あるいは、論理、また、学問体系は、やはり、うちたてられなければならず、それは単に、直観的、情緒的、宗教的なものに終止してよいとは考えられない。つまり、そのこと自体も、専念的な研究対象とすべきであり、片手間でできるものとは考えられない。つまり、今後、都に設立されてゆく医学関係の、それぞれの研究所のなかに、純医学的な研究部門と併行して、とくに疫学、社会学、心理学などの諸部門を中心として、そのような側面を、専念的に研究してゆく体制がとられなくてはならない。このことは、つまり、都立病院が、今後、重点的にうけもつことになるであろう、きわめて慢性、症状もひどく、治りにくい、あるいは、ほとんど不治と考えられる疾患について、とくにいえるところである。」(39)

 「本質的なアプローチの初期段階としては、たとえば、このような患者を抱えている家族達が、どれだけ、時間的、経済的な損失をうけているかというデータを、正確にとらえてゆかねばならず、そして、一見、不採算医療を行なっているかにみえる病院や施設に、収容することによってかかる費用と、患者からの重い負担から開放されることによって、家族達に浮いてくる時間的、経済的、また、心理的な利益の両者を秤にかけてみる必要があろう。
 が、それは、むしろ純経済的、社会対策的な側面に主体がおかれていることを意味するわけであるが、それ以上に、決定的に重要なことは、結局、モラルの視点からの、この問題への認識であろう。つまり、そのような不採算医療を、社会の連帯責任において、なぜ、やってゆかねばならぬかの必然性、そのモラルが、やはり、体系的、学問的に思弁され、研究されねばなるまい。」(40)

 「たとえば、都立府中療育センターの重症心身障害児(者)の問題を考えてみると、すくなくとも、現在の段階の医学と医療では、どのように頑張っても、まず、社会復帰の見込みはないといってよく、社会復帰できるとすれば、それは、死亡、退院するときであるという、冷厳な現実が、ここで、指摘されるのである。にもかかわらず、そこでは、九五%の赤△040 字をだす、濃厚な、いわゆる不採算医療が行なわれている。つまり、月平均、一人の障害者に対し、都から約一六万円の援助を受けていることになり、要するに、その分が都民の税金から交付されていることになる。しかし、それは、社会的、経済的両効果からみれば、どう考えても、そのみかえりを期待できない、ホープレスな患者が、その対象となっているわけである。
 にもかかわらず、なぜ、そうしなければならぬかを考えてゆくと、それこそが、医者のヒューマニズムであり、良心であり、生命への尊厳、それへの畏敬から発する行動そのものであり、それは、理屈や、論理以前の問題であるといってしまえば、それは、医師仲間にとっては、それでも通ずる論理であるとしても、医者以外の人たちが、それを、どう受けとめるかとなると、問題は、そう簡単ではなくなってくる。
 つまり、東京都の政治情勢なり、何なりが変わった場合、重症児(者)達が、どのような扱いを受けるか、かならずしも、予断を許さないし、大きな危機が訪れないとはいいきれない。なぜなら、国なり、地方自治体の考え方が、何を指向するかによって、この問題は、前進することも、また、逆に、大きく後退する可能性も、そこに秘められているからである。どう考えても、社会に役立たない人間は、その存在自体に意味がない、あるいは、それ以上に、悪であるという考え方が優位となれば、予算も、何もかも、切られてしまうことも起こりうるし、一方、それこそが、本当の医療であり、福祉であり、わが国のGNPを伸ばしてゆく真の目標は、各論的にみれば、まさに、そこにあるのだという発想が定着してゆくならば、幾らでも前向きにすすんでゆく可能性もある。つまり、重症児(者)という対象そのものが、きわめて深刻なだけに、また、その成り行きについても、情勢次第では、きわめて安定性を欠く問題が、そこに存在するといわねばならない。
 ところでく本年二月、医学総会において「重症心身障害児(者)の問題点」のシンポジウムがもたれた。その席上、島田療育園の小林提樹園長によって、第一の医学が健康保持増進医学、第二が予防医学、第三が治療医学、第四の医学をリハビリテーションとすれば、そのいずれにも包含され難い重症医学が、第五の医学として、そのいずれにも包含され難い重症医学が、第五の医学として、登場することも考えられるのであって、リハピリテーションンとは、別の次元に立つ生命保持医学としての立場が重症心身障害に対しては、最も自然なあり方として対応するであろう、との意見がのべられた。
 ここで、小林園長の、この重要な提言の詳細を論ずる余裕はないし、一ロに、社会復帰が、きわめて困難か、それが不可能な難病といっても、その内容次第によって、社会防衛論、社会責任論、そして、社会福祉論のなかで、それぞれ△041 どのように位置づけ、また、それによって、個々の対応のヴァラエティをどう考えてゆくか、幾多の難問が山積している。が、要するに、医学、また、医療は、疾病の予防からはじまって、福祉との連続線の中にのみ存在するもので、医療は、それ自体、孤立してあるものではなく、予防医学と福祉との緊密な連鎖の一環として、はじめて、その存在意議を主張できるという認識を、明確化してゆかねぱならぬことに変りはなかろう。
 したがって、もし、それへの認識が切実であるならば、単に、病院を作っただけではすまなくなってくるであろう。なぜなら、医学的リハビリテーションを強力に行ない、社会復帰を目指すとなると、そこには、当然、復帰できる人と、できない人とがでてくる。それなら、復帰できない人をどううけとめるか、これは単に、医療を中心とした病院だけを考えるより、むしろ、生活の場を与えていく福祉的施設に、重点をおかなくてはならなくなるからである。さらに収容できない人、病院にも入れない人をどう処遇するか、そうしたいくつかの側面を、深く、慎重に、考慮した上で、その相互間の緊密な連繋を、はかってゆかねばならなくなるからでもある。したがって、これには膨大な予算をくうことになるが、一方、それに対応してゆく都の行政を考えてみると、そこには、まず、各局によるセクト主義が止揚されねばならぬという大前提がある。いずれにしても、それらを一歩一歩、実現してゆくことは、政治と行政の、今後の正しいあり方と方向性を示すものであり、また、日本や都の経済成長の過程において、それは、決して不可能とはいえないであろう。なぜなら、その証拠に、幾多の困難があったが、長い歴史の厚みにささえられながら、都の老人対策については、やっと一貫した一つの体系、っまり、医療と福祉の連続性の思想がうちたてられ、それへの実践が、漸くその緒につこうとしているからである。
 しかし、老人対策はまだしも、それ以外の諸領域の医療と福祉については、医者ひとり一人に、また、行政と政治の責任者側に問題があるのは、もとよりとしても、それが、コトパの真実の意昧で、国民や都民の普遍的な世論となっていない現実を厳しく受けとめるとなると、その実現には、非常に骨の折れる、長い、忍耐強い実践行動に期待するほかはないであろうが、その実現の日まで、まず、医療面での荒廃のテンポが、その速度をゆるめてくれるという保障は、なにもないという厳しい現実が目前に迫っている。△042」(白木[197105:40-42])
 「医学と公害」(白木[197105:43-45])  「欧米との考え方の違いと歴史的背景」(白木[197105:45-47])
 「日本の近代医療の発展の歴史」「国立大学医学部を中心」「お上が作り、国民や都民に与えたもの」「医師と患者との傾斜性」
「一方、欧米医学の歴史的発展の跡をたどってみると、数百年前から、地域住民達が、自分たちの身のまわりにとって、必要欠くことのできない医療を考えたあげく、まず、収容施設的なものを作っていったのが、現実の姿であり、体系化された医学と医療は、あとからそこに入りこみ、育っていったのが実情と思われる。したがって、国民なり、地域住民は、それらを、自分達の分身そのものとして受け取ってきたわけであり、したがって、かれらは、それらの施設や病院をよくするために、財政的、また、精神的な意味でも、積極的に支援し、また、チェックしつづけてきたとみられる。」(45-46)
 「公的医療崩壊を阻止する基本的条件」(白木[197105:47-50])
 「いずれにしても、医療と医学の本質は、地域密着性の基盤をぬきにして考えることはできない。この点については、現在の国立関係の公的医療機関は、それに充分対処できるフィールドと施設、また、それへの基本的な思想性をそなえているとは考えられない。なぜなら、そこには、保健所や慢性病棟を欠いている上、福祉との連続性なども、まずまず、皆無に等しいからであり、したがって、疾病の予防からはじまり、治療が終った後、社会復帰に連続してゆく一貫した体系は、確立されているとはいえないからである。」(49-50)
 「施設建設における基本的考え方」(白木[197105:50-59])
 「病院の老化をふせぐ要因」「必要不可欠の指導的要員」「診療と教育の二面性をもつ」「あくまで医療を前提とすべき」「病院建設に教育・研究のスペースを」「財源は一般会計から求めること」「適切な一ベッド当りのスペースを」「一ベッド当りの人員の増加を求める」「総合診療的アプローチを尊重すべき」「病院と地域の関係への視点」「保健所の役割と都立病院との連けい」「産院の基本的改革が急がれる」「医療関連技能者の養成とチームワーク」
 「研究所の新設とその基本的考え方」(白木[197105:59-67])
 「組織と運営」(白木[197105:59-67])
 「おわりに」(白木[197105:71-72])

◆1972年6月に板橋区に東京都老人医療センター設立。開設準備委員長も務める。

◆197206 「水俣アピール」
 「水俣アピール」は英文で印刷、国連人間環境会議中(1972年6月)のストックホルムで、広く世界の市民に訴えられた。
 http://www.soshisha.org/jp/about_soshisha/history/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E3%82%A2%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%AB
「呼びかけ人
社会学者前東大教授・日高六郎
評論家・谷川健一
展望編集長・原田奈翁堆
参議院議員・望月優子
劇作家・木下順二
朝日新聞論説委員・篠山豊
東大医学部教授・白木博次
東大工学部助手・宇井純
水俣病市民会議会長・日吉フミコ
水俣病を告発する会代表・本田啓吉
(順不同)」

◆19720414 第68回国会の衆議院社会労働委員会「特定疾患対策に関する件」。参考人として虎ノ門病院長沖中重雄、スモン調査研究協議会会長甲野禮作、帝京大学教授清水保、東大教授白木博次が意見陳述


◇白木 博次 1973 「市民の健康――環境汚染による健康崩壊への危機」,岩波講座『現代都市政策] 都市社会と人間』269-304
 「「難病」とは、昭和四七年四月、国会の社労委員会における筆者の証言をもってすれば、原因の明・不明を問わず、その状態像の深刻さ、つまり、社会復帰が極度に困難か、それが不可能であるという事態からみても、医療・福祉、また社会のいずれからも、疎外されつづけているという現実をも加味した、医学的・福祉学的・△298 社会学的総合概念にほかならないといえる。したがって、厚生省のように、もともと純医学的視点から発想された原因不明、これという治療法もなく、長期の療養を必要とする特殊疾患、奇病的概念が、即、難病概念と考えられてしまうわけにはいかない。」(白木[1973:298-299])

◇木下 安子 19780725 『在宅看護への出発――権利としての看護』,勁草書房,304p. ISBN-10:4326798394 ISBN-13:978-4326798391 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ n02. a02
 「厚生省の定義とは別に、スモン患者の発生、および救済をめぐって国会で論議がされている折、白木博次☆02前東大教授は、衆議院社会労働委員会において、難病とは何かを次のように説明している
 1 原因の明、不明を問わない
 2 状態像の深刻さ
 3 社会復帰が極度に困難であるか不可能であること
 4 医療・福祉・社会から疎外されている
というものである。病気の種類ではなくて、その患者が陥っている、身体的・社会的状況の深刻さをメドとして考えるので、いわゆる狭い意昧の医学的な定義ではない。
 スモンの患者が、しびれをはじめ、身体的な苦痛に痛めつけられ、なおかつ、再び社会復帰できない下肢の不自由、失明などに嘆き、さらに迫い撃ちをかけるように伝染病だ≠ニ騒がれ、その結果、家主から追い立てられ、パン屋から買いに来ないで≠ニ断わられる。こうした社会疎外が、身体的苦痛にもまして患者を痛めつける。事実、新聞紙上にスモン患者の自殺が次々と報道され、スモン感染説が否定された現在でさえ、一般の人々より高い自殺率である。
「(2) 白木博次「市民の健康――環境汚染による健康崩壊への危機」岩波講座『現代都市政策] 都市社会と人間』二六九〜三〇四頁、一九七三年。」

◇西谷 裕 20061024 『難病治療と巡礼の旅』,誠信書房,208p. ※ n02. md. [MD]
 「第68回国会の衆議院社会労働委員会で「特定疾患対策に関する件」が取り上げられる。参考人として虎ノ門病院長沖中重雄、スモン調査研究協議会会長甲野禮作、帝京大学教授清水保、東大教授白木博次の諸氏が意見陳述。
 この中でとくに「難病」の定義が問題になり、次のように整理された3)。
第1概念:原因不明、治療法未確立であり、かつ後遺症を残す恐れが少なくない疾病(例:ベーチェット病、重症筋無力症、再生不良性貧血、悪性関節リウマチ…沖中による医学的定義)。
第2概念:経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護等に著しく人手を要するために家庭の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病(例:小児がん、小児慢性腎炎、ネフローゼ、小児喘息、進行性筋ジストロフィー、人工透析対象者など…白木による社会学的定義)の2つの概念が浮かび上がってきた。」(西谷[2006])



 「一九七二年六月に約八百床の老人専門病院」「開設準備委員長」
 「この時、「よい専門病院や研究所をつくるとなると、八割は赤字になりますが、いいですか」と、都知事に念を押すと、「それで結構だ」と知事は言われた。知事としては、東京都がまず立派な老人専門病院をつくっておけば、これが手本となって、国は都より低いレベルのものはつくれないだろう、というような心構えを持っていた。……本当の医療をやるからには、不採算医療になるに決まっている。そのことが東京都の一千億円の財源赤字の何割を占めようとも、私は悪い事をしたとは決して思っていなかった。……そういう考え方に立たない限り、社会問題は片付かない。」(白木[1998:270-271])

◆197209 「環境破壊から健康破壊へ――水俣病はいまや一地域病ではない」,『世界』322(1972-9):173-184 [2018b3]

 「[…]すくなくとも、現在、水銀農薬によって、次の世代の素質が低下しつつあるという証拠は、まだあがってはいないが、国は、疑わしきは使用せず≠ニいう強い態度で、その使用禁止の方向にふみ切るべきであると警告した。コトパをかえると、当時、明確な哲学が、そこにあったわけではないにしても、この場合、疑わしきは罰せず≠ニいう刑法的概念を、そこに適用すべきではなく、また自然科学的視点からの因果論的実証をまつまでもなく、民法的概念というより、政治的勇断のものを、そこに適用すべきであるとの勧告であった。
 しかもこの可能性は、人体実験を通じて、当時、すでに証明されかけていた。なぜなら、当時、まだ決定的ではなかったが、胎児性水俣病(先天性水俣病)は、母親自身は発病していないか、軽度の神経障害しか示していないのに、その母親から生まれた幼児は、大脳の発達阻害による高度の精薄(白痴)と、運動神経の発達停止にもとづく手足の運動マヒ(高度の脳性マヒ)とのダブル・ハンディキャップの児童達で、先天性の重症心身障害児にほかならなかったからである。」(白木[197209:174])
 「つまり、明らかに先天的に疾患や欠陥をもち、社会生活に適応できぬか、困難な人達の膨大な集団を目前にして、そこに全国家予算を投入して、その医療と福祉を強化しようとしても、もはや対応しきれぬのは、明白である。筆者は、医学には、第1に健康増進医学、第2に予防医学、第3に治療医学、第4にリハピリテーション医学、そして、 第5に重症医学また難病医学があると考えるものである。そして前述の精薄や脳性マヒは、この第5の医学に属する上、その対応には、膨大な予算と人員を必要とするし、現在、その面の蓄積がすくないわが国において、前述のような事態に直面したときの極度の混乱ぶりは、すでに現時点において、想像にあまりあるものがある。」(白木[197209:180])
 「しかも筆者の専門的立場からみれば、天然資源の乏しいわが国では、頭脳資源こそが唯一のものであるのに、それが低下してゆく危険性があるとすれば、そこに、救いは感ぜられない。なぜなら、神経細胞には、絶対に再生能力はなく、それが減った分だけ、精神、神経的にハンディを負ってゆくからであり、そこに、突然変異がおこるなどとは、人類がつづくかぎり、期待できないからである。」(白木[197209:182])
 「ここで、筆者は、以上のべた事態を、政治や行政の責任者、また科学者達はもとより、各階層の国民が痛切に認識し、その防止のために、すでに強烈な実践行動にふみきっているとはいえず、むしろ衝動的、非建設的、内部分裂的動きをゆるしている一方、滔々たるマイホーム化、レジャー化が促進されつつある間に、結果的には、戦前復帰への臭気が、すでに芬々とただよいはじめている最近の情勢のなか、前述の急転回がおこりうるか否かの見透しを考えてみざるをえない。そしてそれは、今のところ、端的に表現すれば、最大の悲観論は、最大の楽観論につながるというパラドックスを、内省的には、空虚な実感をこめて信じてゆくほかはない。なぜなら、国の存立の基本であり、財政調達的意昧では、絶対に収支パランスするはずはないソーシアル・べネフイット的なものへの過去の蓄積が次第に失われ、また変質しつつあり、しかもそれへの投資が、なお貧弱をきわめているという実態、たとえば、人が人の命を左右する医学と医療、人が人の人格を形成してゆく教育、人が人を裁く司法の3者が、ぐらついてきはじめているという日本の現実のなかで、思考せぎるをえないからである。」(白木[197209:184])
 *府中療育センターについての言及は引用した部分だ。事件についての言及はない。

◇新田 絹子(三井 絹子) 19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」,『朝日ジャーナル』1972.11.17
 http://www.arsvi.com/1900/7211nk.htm

◆19730925 「市民の健康――環境汚染による健康崩壊への危機」,伊東他編[1973:269-304]
*伊東 光晴・篠原 一・松下 圭一・宮本 憲一 編(編集委員) 19730925 『岩波講座現代都市政策]――都市社会と人間』,岩波書店,357p.

 「いずれにしても、筆者の専門領域からみて、前述の四大汚染物質のうち、水銀とBHC、またBHCときわめて類似構造を示すPCBの三者は、まず神経毒とみてよいので、次の世代への悪影響は、その精神的・神経的素質の低下となって現れてくる可能性が予測される。その場合、最初から、誰がみてもわかるような精薄とか、脳性マヒの形態をとるものではなく、軽微な脳神経の損傷、その発達阻害という形態、つまり、次代の精神神経学的素質が、ジリジリと低下していく様相が考えられる。そうだとすれば、その実態把握は、いまのうちから着手し、それをプロスぺクチプに、将来へむかって追っかけていかぬかぎり、手をこまねているうちに、コントロールすらなくなっしまうだろうし、結局は、そのこと自体、不可能となるであろう。しかし、その調査・研究は、きわめて忍耐の要る、しかも膨大な予算と人員動員を必要とすると考えざるをえないだろう。現時点におけるわが国の科学者の心構えや国のあリ方からみて、およそ期待薄として思えない。  したがって、精薄や脳性マヒが増加しはじめ、昨今の交通災害のように、今日は人の見、明日はわが身となりだし△289 てから、はじめて、「市民」の各階層また科学者達の関心の的となりかねまい。しかしそうなってからでは、時すでに遅い。なせなら、誰の目にも明らかとなる時点では、すでにその数量が、膨大なものに達しているからである。したがって、現時点で、この側面について、医学領域から強力な発言をしなければならぬとすれば、それは、自然科学的因果関係論を主張するだけでは、到底、その迫力は感ぜられない。むしろ、学際的にみて、前者にかわりうる論理や哲学がありうるかどうか、という点にしぽられざるをえない。  一つの問題点は、わが国には、天然資源がきわめて貧弱であるという現実があり、したがって、その面で、唯一のものが考えられるとすれば、それは頭脳しかないとも極言できよう。そして、以上のべてきたところからも明らかように、もしこのまま推移すれば、とくに次世代の素質低下の面を介して、唯一の天然資源を失うおそれが大きいとすれば、そこでは、日本民族の将来は、絶望的であるという論理が、まず成立しえよう。
 次に、われわれ現代に生きるもののうち、とくに現社会で、現在、その責任ある位置にあるものはもとより、大多数の「市民」は、こうした環境汚染や環境破壊が発生しつつある場合、その責任と軽重性の点からみて、多少の差はあっても、被害者であると同時に、また加害者としての責任の一半を担っていないとはいえない。一例をあげれば、マイカー族は、大気汚染に手をかしているわけであり、またすくなくとも、過去の多くの公害に対して、強力に発言し、行動してこなかったという、消極的な意昧での責任はなかったとはいえぬであろう。したがって、それなりの因果応報を、自分自身にうけるのも、また止むをえないという意昧では、多少の救いも、そこに感ぜられなくもない。しかし、次代を担うわれわれの子孫は、この事態に対しては、なんの罪とががないわけである。しかもわれわれ現代に生きるものが、このまま推移すれぱ、加害者階級の立場で、かれらを一方的に、被害者階級にしたてていく可能性があることになる。したがって、その事態が決定的となった時点では、どのような申しひらきがたつといえるであろうか。そこに、救いはまったく感ぜられないことになろう。また考えようによれば、現代に生きる大人の生命は、い△290 つかは失われるとしても、それは、次代の生命のなかに受けつがれ、復活していくという連続性こそが、永遠の生命現象そのものであるとすれば、現代と次代を、それ自体、階級的対立関係として捉えるよりも、むしろ、次代への圧殺は、そのまま、現代の自殺行為に通ずるといっても、決して過言ではない。」(白木[1973:289-291])

 「医学には、すくなくとも、五つの主柱がある。第一が健康増進医学、第二が予防医学、第三が治療医学、第四がリハビリテーション医学、そして第五が「難病」医学である。第一の、健康増進医学は、水銀汚染による一億総不顕性中毒に代表されるように、それは現在、絵に画いた餅になりつつある。前述のように、現在、世界に冠たるわが国の四大汚染物質である水銀、BHC、PCB、カドミウムのうち、前三者は、多少にかかわらず神経毒性があるわけであるから、まず胎児への悪影響によって、次代の国民の精神的・神経的素質低下が発展していく可能性がある。その極限の形態は、先天性の精薄や脳性マヒということになるが、両者に対しては、それ自体、有効な治療法は期待できないし、通常の社会への適応も、まず考えられない。また後天的に、以上の汚染物質によって、脳神経△297 がおかされていく場合でも、神経細胞には、絶対に再生能力はないので、それが減った分だけ、精神・神経的にハンディを負っていくことは不可避である。この事態は、人類がつづくかぎり、不変の原則であり,したがって、汚染物質に対する慣れとか、抵抗力の獲得などを期待することは、絶対に不可能である。
 第二の主柱である予防医学と第四のリハビリテーション医学(社会復帰医学)の両者は、矛盾に充ちた医療保険制度によって、崎型的に巨大化した第三の主柱である治療医学によって、圧倒されつづけてきたため、その実態は、きわめて未発達か、むしろ退行・変質しつつあるといえる。その主因は、医療保険制度と「採算医療」との癒着性によって、そこに膨大な財政支出が、結果的に生じつつあるが、このことが、もともと「医療保障」の一貫性のなかに緊密に組みこまれるべきであり、したがって、そこパランスのとれた財政支出が、当然なされるべき領域に属する第二・第四の医学に対しては、相対的にみて、きわめて貧困な投資しか行われていない現実を招きつつあるところに求められる。
 一例をあげれぱ、予防医学の第一線であるぺき保健所に対する人的・予算的投資は、貧弱そのもので、したがって、とくに汚染・公害の側面を通じて、流動し、激化していく地域のニードに対して、ほとんど対応できぬほどの質量的低下を招きつつある実態にある。
 以上、わが国の医学の四主柱は、それ自体、数々の矛盾をもち、また貧困そのものであり、これによって、「市民」の健康維持に、よりよく対応できるとは思えない。ここでしかしながら、第五の主柱として、難病医学が厳存している事実が、さらに無視され、軽視されつづけてきたというほかはない。ここで、「難病」とは、昭和四七年四月、国会の社労委員会における筆者の証言をもってすれば、原因の明・不明を問わず、その状態像の深刻さ、つまり、社会復帰が極度に困難か、それが不可能であるという事態からみても、医療・福祉、また社会のいずれからも、疎外されつづけているという現実をも加味した、医学的・福祉学的・△298 社会学的総合概念にほかならないといえる。したがって、厚生省のように、もともと純医学的視点から発想された原因不明、これという治療法もなく、長期の療養を必要とする特殊疾患、奇病的概念が、即、難病概念と考えられてしまうわけにはいかない。なぜなら、後者の考え方に準拠していけば、水俣病またスモンは、その原因が、それぞれ有機水銀、またキノホルムであることが判明した現在、「難病群」からはずされていく危険性があるからである。また交通外傷のうち、たとえば、頭部外傷を考えてみると、その原因はきわめて明白、その治療法も、脳の外科手術をふくむ対応がはっきりしているものの、時間的・技術的適切性を欠くことによって、植物人間におちいった場合、結局は、経済的・心理的に、それが崩壊家庭につながっていくことは、火をみるより明らかであるからでもある。つまた、救急医療の欠陥、専門医不足、医療と福祉の両施設と体系の不備・不足、どれ一つをとってみても、前述の概念規定にしたがえぱ、まさに「難病」にほかならない。周知のように、水俣・阿賀野の水俣病、富山のイタイイタイ病、また四日市のぜンソクについての、いわゆる四大公害裁判は、いずれも原告倒の勝訴に終ったし、それ自体、確かに画期的なものであった。またかなりの試行錯誤があったにしても、科学としての医学が,勝訴に寄与した貢献度については、かなりのものがあったことは、確かに否定できない。にもかかわらず、「勝利なき勝訴」といえる索漠とした空虚感が、そこに根強く残ってしまう。なぜなら、その犠牲者の大部分は、医学的・社会学的にみて、いずれも「難病群」に属することは、きわめて明白であるからである。したがって、企業だけからの対応としての年金制度も、医療保障も、その真の解決とはなりえないし、その背景にあって、それへの対応を怠ってきた国や地方自治体の政治と行政の過去のあり方こそが、もっと重視されねぱならない。
 いずれにしても、以上のぺた五つの医学の主柱は、それ自体、並列的・孤立的に存在するものではなく、ことと次第によっては、第一の医学というより、それ以前の状態から、いきなり、第五の医学にふみこんでくる危険性・連続性すらないとはいえない。なぜなら、たとえぱ、再々のべてきたようこ、もし四大汚染物質、その他の公害物質によ△299 って、先天性の清薄、畸型児などが発生しはじめたとしたら、それは、まさに「難病群」に属することは明白である以上、第一から第四の医学を素通りして、いきなり、第五の難病医学にふみこんできたことになるからである。とすれぱ、それへの基本的対応は、第一から第五の医学以前のものということになる。言葉をかえると、第一から第五までの医学は、その結果現象を、単に受身の姿勢で受けとるだけに終始してくかぎり、いずれは、その膨大な量の前に崩壊をみるほかはあるまい。
一方、第五の難病医学は、第一から第四までの医学の連続性としての終末点でもある。それは、前述の頭部外傷の例にも明らかであるが、ここで極言すれば四百四病に対して、四百四病の難病医学がありうるともいえる。
 しかもこの医学は、福祉学・社会学とのきわめて密接な連繋なしには、到底対応できぬという事実が、またそれ以上に、軽視されつづけてきたというより、なか意識的に回避され、したがって、過去から現在にかけて、それへの対応、その蓄積性を欠きつづけたという実態を明示している。」(白木[1973:297-3001])

◆197311 「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」,『ジュリスト臨時増刊』548:242-248 ※

 「著者は、最近、現代都市政策一〇巻(1)に、「市民の健康」の項について執筆したが、その末尾こ総括し、また昭和四八年大月六日、「公害対策策並びに環境保全特別委員会」の席上、それをよみあげた八項目(2)を、以下こそのまま頁目別にとり、多少、付帯的説明を加えていきたい。」(白木[197311:242])
 「おわりに
 読者諸賢は、与えられた課題に対して、筆者がのべた内容には、自台体と国との役割分担、私的医療と公的医療との相互関係、自治体としての東京都の特殊性、とくに都の医療行政の具体性などがもられていない点について、不満をもたれるであろう。しかし、それは、前述のように、今まで多少とも実践してきたものへの正しい評価は、筆者自身、なおかなりの歳月を経てみなければ、とても獲得できぬであろうし、またトライアル・アンド・エラーのなかで、また激動する環境変化に対応して、今後、かなり、弾力的に軌道修正を必要とすると考えるからにほかならない。したがって、すくなくとも、筆者自身が、計画を立案し、またたそ△247 れを実践に移すにあたって、その最も基本的背景であり、これだけは、ほぼ不変不動であるものはなにか、コトバをかえると、客観的にみて、できるかぎりの正確な認識に立つ今後の見通しのなかで、また毀誉褒貶のあらしのなかで、身を見失うことなく、忍耐強い実践行動への発条となりうるものがなにかかをのべたつもりである。したがって、それは、筆者自身のものであり、読者諸賢こ押しつけるつもりはない。」(白木[197311:247-248])
 *府中療育センター事件についての言及はない。「毀誉褒貶のあらしのなかで」がその事件をめぐることを指しているのかもしれない。

◇1973.12.25 白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者 (朝日新聞 735
◇1973.12.28 身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求 (朝日新聞 807)

◆1973 「スモン患者の社会復帰によせて」『スモンの広場』4

◆1973 「水銀汚染の実態――健康破壊への危機の一例として」,『公害研究』2-3

◆197504 「重症心身障害総論――胎児性水俣病とその周辺を中心に」,『神経研究の進歩』19(2), p205-214, 1975-04(重症心身障害<特集>)
 https://ci.nii.ac.jp/naid/40001885043/

 「すでに筆者の論文でふれたように、重症心身障害は、もともと医学から発想された概念とはいえない。むしろ重度の精薄と重度の脳性マヒをダブルに持つため、日本という特殊な風土の中で、医療と福祉の双方から疎外され続けていた悪条件下に発展した社会的要請、とくに重症児を持つ家族たちの強い要請と運動にその主体性があった。この非情な現実は最近、問題視されつつある“難病群”にもあてはまる。なぜなら筆者の見解によれば、難病とは原因不明、治療法もなく、長期療養を含めて、原因の明、不明、治療法の有無を問わず、社会復帰が極度に困難か不可能な上、長期、慢性に経過する状態像を意味し、したがって医療と福祉の両面から緊密に対応するほかはないからである。しかも“難病群”は、医療からも福祉からも疎外され続けているという現実をふまえた医学的・社会学的・福祉学的な綜合概念に△205 △206(図)△207(図)ほかならぬからである。この視点からすると、重症心身障害も、まさにこの範疇に属する。
 本特集号は、それを受けて立った医学とその周辺領域に重点をおきつつ、現時点における一応のまとめといえる。その詳細は各論にゆずるが、筆者は、まさに重症心身障害児にほかならぬ胎児性水俣病とその周辺の実態把握から出発して、この課題をより広い視野から考えてみたい。△210」

◇19750423 美濃部亮吉東京都知事3選

◆19780501 「はしがき」,川村・木下・別府・宇尾野 19780501 『難病患者の在宅ケア』 ◇川村 佐和子・木下 安子・別府 宏圀・宇尾野 公義 19780501 『難病患者の在宅ケア』,医学書院,176p. ASIN: B000J8OLMQ [amazon][kinokuniya] ※ n02. als.

 「推せんのことば
 難病とは何かという基本的議論はさておくとしても、精神神経疾患の多くは一般的にいって難病的性格が強烈である。が、そのなかでも筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、私の知るかぎり、難病中の難病といっても決して過言ではない。あるいは著者の方々の記憶にはないかもしれないか、著者らが難病の地域医療、家庭看護の実践に踏みきるにあたって、神経経疾患をその対象に選んだ時点で、私自身、一つの提案を申しでたことがある。それは、著者らにはあるいは残酷かもしれないが、難病中の難病であるALSをまずその対象に取りあげるべきである、その理由は、そこからそれなりの成果が獲得できれば、神経系の諸疾患をはじめ、他の数多くの難病への対応がより容易であることは間違いない、という側面が期待できるからである、という提案であった。と同時に、いつの日かその成果を忠実、克明かつ科学的に詳述し、そのなかから学際的間題点の数々を、看護の側面を通じて提起してほしい、という希望でもあった。
 ところで、私のこの種の提案と願望は、端的にいって、本著のなかにみごとな開花を示しているといって過言ではない。なぜなら、まずALSのどの医学関係の論文や成書の記載よりも、ALSの医学的本態が、具体的かつ克明な記述を通じて、強烈かつ鮮明にとらえられているからである。一方、一家の支柱である井伊さんがALSに躍患し、進行性かつ絶望的に次第に悪化していく過程で、家庭生活の崩壊とそれへの必死の対応、そこから必然的に派生するやり場のない苦悩と絶望、だが終局的にはそれらを乗り越えた不思議な明るさと前向き姿勢と対応の数々が、患者と家族、ホームドクター、訪間医療チーム、地域社会との相互の力動関係において、単に医学と医療の問題を越えて、社会学、経済学、 心理学、倫理学、宗教△001 学、政治学、行政学等々の諸科学に関連する問題点の数々を示唆し、提起しているからである。言葉を変えると、ALSが難病中の難病であるがゆえに、難病全般に通ずる学際的指向の緊急性と重要性を、みごとに浮彫りさせているといえよう。ここで著者らは、声高らかにこれらの学際的視点を指摘しているのではなく、むしろひかえ目におさえた形で表現し、終始しているだけに、かえって読者の心情により強烈に訴えることになるのは、疑いないであろう。その意昧では、本著は、医学と医療の関係者はもとより、むしろそれ以外の境界領野の方々の目に触れる機会がより多いことをとくに切望するものである。
 やはり本著に原稿を寄せられた大河内先生と私は、かつて井伊さんの自宅に見舞ったことがあるが、その折、すくなとも私は、不思議な明るさに満ちた清潔な雰囲気に一驚した記憶が、現在でも生々しい。しかし考えてみると、その時期は井伊さんにとってはむしろ闘病の末期に近い時期であったし、そこに到達するまでには、言葉に尽くせない絶望と苦悩、また数々の試行錯誤のくり返しかあったことを、本者を通して克明に知ることができたわけである。
 ここで本著の成果のみならず、著者らが実践し、着実に成果な積み重ねつつある難病関係の地域医療が、将来、質量的に拡大し、体系化されるためには、社会保障の理論的中核に位置され、またそれを政治と行政に対して強力に反映できる立場におられる大河内先生への期待が大きいとしても、神経病理学という医学の側面を通じて、長年、日本のみならず、他民族のALSにアプローチしてきた私をはじめとする神経学者の責任もまた重大である。が、全世界的規模でのALSの研究が、長年月にわたって続けられてきたのにもかかわらず、端的にいって、ALSの原因の詳細はまだ不明であるというほかはない。したがってALSの原因的、根源的治療が日の目を見るまでには、今後も苦闘に満ちた看護が必然的に要求されるであろう冷厳な現実がそこにある。
 本著の意義は、ALSのより高次で正確な看護への基盤を提供できた点△002 にあることはもとよりであるが、それ以上に、難病中の難病であるALSも、専門病院と地域の医療従事者との緊密な連けいがあれば、家庭環境においても十分看護できる実態を指摘できた点にむしろ求められるべきであろう。それは、専門病院の不足をカパーするという消極面よりも、むしろそれによって患者の闘病への勇猛心と、それによって家族の生き甲斐に対して建設的役割を与えるという積極面が、より大きく評価されねばなるまい。なぜなら、たとえ患者が不幸な転帰をとったとしても、遺族の方々の将来の生き方が、それによって建設的方向に大きく指向できるであろうからである。
    前東京大学教授 白木博次」(白木[1978:1-3]、全文)

◇19790423 鈴木俊一都知事当選

◆白木 博次 19981225 『冒される日本人の脳――ある神経病理学者の遺言』,藤原書店,316p. ISBN-10:4894341174 ISBN-13:978-4894341173 3000+ [amazon][kinokuniya] ※ d07smon. m34. d07

 「私は水俣病に限らず、特に精神・神経疾患の臨床像を解析していく時、他覚的にとらえようとしてもおのずから限界があることを絶えず意識し続けてきた。例えば、水俣病の四肢や口周のしびれ感ひとつを取ってみても、誘発電位や筋電図などを使ってそれらを明瞭に数値化し、客観化することは、まず不可能に近いか極めて困難である。またスモン患者の異常感覚等は、絶対に数値化し、模図化し、統計処理するのになじむ性格のものではないのである。
 水俣病の自覚症でも、「物忘れがひどい」「根気が続かない」「疲れやすい」等々、数限りなくある。しかも、自覚症の多彩性、豊富さ、頻度の高さなどは、他覚症に比すべくもなく数多い。
 しかし、医学を自然科学としてのみ認識していく限り、これらの自覚症は医学の対象としては低次元の存在として位置付けられてきた。したがって、医学はもとより、自然科学的医学、もっと拡大すれば生命科学、神経科学の対象として、その価値が初めから、不当に低く評価されてきた。その意味では、医学もまた自然科学のひとつであるとすると、自然科学とは一体何を意味するのか、その限界はどこまでかという考え方が、当然、浮上して来ざるを得ない。」(274-275)
「人間のあり方の実態からみれば、自覚症と他覚症の両者を同じレベル、同じ性格としてとらえていくのは当然のことなのに、わが国だけでなく欧米の医学でも、この点は決して十分ではなく、それが医学の欠陥のひとつであると考え続けてきた。
 言葉を換えれば、本来、医学の最も中心に位置しなければならないのに、無視され続けてきた患者の「自覚症」の問題を、哲学と倫理の領域との関連において明確にさせない限り、水俣病の本質に近付くことはできないと考える。四十年以上を要したにもかかわらず、水俣病がいまだに真の解決に到達していないのは、このためだと思えてならない。」(277)

◆白木 博次 20010930 『全身病――しのびよる脳・内分泌系・免疫系汚染』,藤原書店,296p. ISBN-10:4894342502 ISBN-13:9784894342507 3200+ [amazon][kinokuniya]

◆2004 逝去

◆報徳会 宇都宮病院 元院長 石川 文之進 2004 「白木博次先生追悼原稿」
 http://www.ucatv.ne.jp/~hotoku/bunnoshin/tsuitoubun.htm
 http://www.ucatv.ne.jp/~hotoku/bunnoshin/

 「白木教授とは喧嘩ばかりしていたわけではありません。秋元教授や草間教授、井上教授、笠松教授も交えて、毎年日光カントリーでゴルフを行うことにしておりました。それぞれの教授はご専門の違い同様ゴルフの仕方も異なっておられました。白木教授のは、左右は問わず二五〇ヤード飛ばす豪快なもので、私はいつも「土建屋ゴルフ」とからかっておりました。
 このように思い出をかいておりますと、懐かしさがわき上がってきます。ただひとつ、私に悔いが残るのは、私が宇都宮病院事件を起こして、先生にも多大なご迷惑をおかけしたことで、返す返すも無念なことでございます。白木教授憮然、止む無し。」



◆衛藤 幹子 19931120 『医療の政策過程と受益者――難病対策にみる患者組織の政策参加』,信山社 [120]

 「白木は、患者組織が取り組むべき課題を次のように示唆している。まず、現在の医学には限界があるので、重症のスモン患者の社会復帰は極めて困難か、不可能に近い。医師も患者も、この限界を認識した上で社会生活の支えや生活保障の積極的な展開を考えるべきであり、そのためには患者の社会的側面の援助、即ち福祉援助を大きくクローズアップしなければならない。しかも、日本では、こうした施策がまだ整備されていないので、訴訟に勝って多少の賠償金を得たとしても希望ある生活は全く期待出来ない。  むしろ、スモンが「つくられたもの」である以上、その社会的責任を明確にし、その責任において再び患者が出ないよう、また患者には社会的に福祉と医療の暖かい手がさしのべられるよう「医療と福祉が連続する救済措置」の具体化を訴えることである。つまり、こうした訴えこそ、スモン訴訟の原点なのだと言う。さらに、白木は、この考え方はスモンのみならず難病全般に通ずる問題と一致しており、従ってスモン患者の運動を全体的な難病解決のきっかけをつくる「トップバッター」として捉えるべきだとしている。」(衛藤[115])

森山 治 2006 「美濃部都政下における都立病院政策と白木構想の影響」,『人文論究』75:1-14(北海道教育大学函館人文学会)
 http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/37033

◆小泉 義之 2007/02/10 「<難病と倫理>研究会配布資料・補足資料」,難病と倫理研究会第1回京都セミナー
 www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/n_e_h.doc


◆富田 三樹生 20110223 『精神病院の改革に向けて――医療観察法批判と精神医療』,青弓社,270p. ISBN-10: 4787233254 ISBN-13: 978-4787233257 [amazon][kinokuniya] ※ m.

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1443158188953/simple/omoya.pdf

http://www.y-ata.com/oshima_memorial/pdf/minamata.pdf

◆立岩 真也 2018/08/01 「七〇年体制へ・下――連載・148」,『現代思想』46-(2018-08):-

◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b3)』,青土社 文献表


UP:20180404 REV:20180409, 0524, 25, 26, 27, 0614, 27, 0705, 08, 09
病者障害者運動史研究  ◇「難病」  ◇重症心身障害児施設  ◇府中療育センター闘争  ◇WHO
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