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太田 武二

おおた・たけじ

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■立岩のメモ:1990年前後+少し

・*CP "27歳から12年間施設 (緑風園), 青い芝神奈川県連合会に75入会 (『あゆみ』26(75):44) ・85年かたつむりの家を経て自立。
三多摩在障会・会長 24時間介助必要 ヘルパー4/週(もとボランティアをヘルパーとして登録1人→4人?) →47000 /月, ボランティア35
〔聞 86.7.25 86.11.19 87.4.24 〕 [90]国立市矢保→国立市西2-3-7→91 山口(山梨?)に→91秋 東京に帰る[91]

・1946?生
・1973?(27歳?) 緑風園
・19850204〜3か月間かたつむりの家に
・198505(39歳?)谷保に暮らし始める



◆太田 武二 i1986 インタビュー 1986/07/25 聞き手:安積遊歩・石川准・立岩真也・尾中文哉・岡原正幸 於:太田氏宅
◆太田 武二 i1987 インタビュー 1987/04/24 聞き手:立岩真也 於:太田氏宅



宮本 泰輔 i2020a インタビュー・1 2020/12/17 聞き手:立岩真也井上武史 タイ・バンコク間Skype for Business使用

「宮本:そうですね、もともと教職希望だったので、大学2年のときにちょうど早稲田の文学部に、まあ必修じゃなかったんですけれども、「障害児の生理と病理」という講座ができたんですね。板橋区にある整肢療護園というところのPTの人が教えに来てたんですけれども、その授業をたまたま取って、そのときに「ボランティアとか何もしないやつには単位をやらん」と言って(笑)、要するに整肢療護園を運営している日本肢体不自由児協会の夏のキャンプのボランティアのチラシをそこで配られたんですよね。それでそのボランティアに入って、で、そのときのボランティアやってたちょっと年上の人たち、ちょうど立岩さんぐらいのお歳の人たちぐらいの人から、まあ当時、ですからまだ介護制度も、そんな介助制度もない状態で、「国立に一人暮らししてるおもしろいおっさんおるから来ない?」って言われてですね、太田武二さん、『生の技法』の最初のほうの、今の版はわかりませんけど、途中のあの挿絵というか写真が入ってる太田武二さんの、
立岩:あのきったない写真ね。
宮本:(笑) 麺食ってるやつですよね。あれに介助に、夜は完全無給のボランティアでしたけど、入ってましたね。あの当時は昼は生活保護の他人介護料加算とか、東京都の全身性障害者介護人派遣事業とか組み合わせてお金が払われてましたけど、夜は無給でしたね。そこに月1、2回入ってました。
立岩:ちょっと戻すね。太田武二を紹介してくれたのはどういう、誰でした?
宮本:日本肢体不自由児協会のキャンプに来てた、ちょっと古株のボランティアさんたちです。
立岩:ああ、なるほどね。キャンプに来てたけど、整肢療護園の人ってわけじゃなくて、そこの人たちが設定したキャンプに来てたちょっと古いボランティアに。国立、僕も太田さんちに行ったことあるし、なんとなくあの人の感じは覚えてて。なんとなくじゃなくてわりと特色のある人なので、みんな覚えてるよね、太田武二さんのことはね。あれ僕の記憶間違いでなければ、加藤秀一っていう今、明治学院でフェミニズムのこととかそういうのを教えてる社会学者が僕の下でいるんですけど、彼も一時期入ってたんじゃないかな。そんな感じでボランティアに、太田さんのところに、それは2年生のときですか?
宮本:そうですね、2年生のときです。
立岩:ということは、宮本さんは現役で入られた? 早稲田。
宮本:そうです。付属上がりなので。
立岩:じゃあ、89入学ぐらいですか?
宮本:そうです。
立岩:じゃあ90年とか。
宮本:90年ですね。そうです。
立岩:ああ、じゃあちょうど僕らが本出した年ですね。その太田さんの、汚いって言ったらなんだけれども、写真が章の扉にあるやつね。ちなみにあのときの写真は実は、あの本藤原書店から出たんですけど、藤原書店がお願いしていた印刷屋さんが倒産して、そのときの版下が消え失せて。それと同時に、どっかうち探せば、あの写真僕撮ったりしてたのであるかもしれないけど、とにかく版下はなくて。それで今第3版なんですけど、写真どれも使えなくなっちゃって、というちょっと残念なことになってるんです。彼の麺食ってる写真と、それから彼の部屋にあった「介護はこうやるんだ」みたいな、「こうやってしっこ出すんだ」みたいな、きったないその説明書きみたいなやつ、久しぶりに思い出しました。
 じゃあ1990年に入って、それは夏ですか? キャンプのあとってことですよね。
宮本:あとですね。冬かな? 90年か91年の始めかそれぐらいですよね。
立岩:じゃあその夏のキャンプのあとに。太田さんところはちょっと続いたんですか?
宮本:太田さんがそのあと一回山口に引っ越されたんですよね。
立岩:あ、なんかそんなことあったな。
宮本:そのあいだ私は太田さんのとこに行けなくなったので、そのときちょうど新宿で、早稲田の授業で鈴木陽子先生という教授がいらして、彼女の特殊教育学とかいうの取ってたんですよね。そこに新宿ライフケアセンターという、JILの会員さんの団体ですけれども、新宿ライフケアセンターのコーディネーターがちらしをもって宣伝に来たんですね。で、それに申し込んで何軒か入ってたら、コーディネータの人が「宮本くんは障害者運動とかごりごりしたのが好きそうだねえ」とか言って、「三澤さんっていう人がいてね」とか言うんで三澤さんのとこに介助に入らされたんですけども、それが最初ですね(笑)。
立岩:「ボランティアしないと単位あげないよ」的なやつでしょうがなく行くって人はあるんだろうけど、でもそれでも行かないとか、行ってそれで終わりになるって人も、そっちのほうが普通かもしんないじゃないですか。その中でなんとなくというか、早稲田で講義があったとか単位があったとかいうこともありつつ、そこに新宿…行ったっていうのはどういう、今から振り返ると自分的に何かあったのかなと思います?
宮本:何ですかねえ。まあ額は少ないですけど、お金が入ったっていうのはありますよね。あとは何だろうなあ。まあサークルとかに入ってなかったので、サークル活動の延長線上のようなものですよね、ある意味。うーん、それぐらいかな。特段なんかそこで「社会の矛盾に目覚めて」とかそういう感じの人間ではなかったので、なんとなく流されるがままに来ましたけれども(笑)。[00:15:06]
立岩:10年違うと、たぶんそれはかなり違うんでしょうね。僕らの場合は学生運動とか自治会の活動とかそういうものとつるんでるというか絡んでた部分は、その10年前にはあったと思うんですけど。まあ早稲田はそういう意味で言えば○○派がずっとうるさい大学であり続いたことは続いたわけだけれども、じゃあそういうものとはほぼ関係ないって感じだったってことですかね?
宮本:そうですね。革マルの人はもう私の学年ではほとんどいなかったですから。オルグに来るのもかなりもう何留もしてるような人が来てましたから。
立岩:それに革マルはあんまり障害者のことには熱心ではない党派だったように思います。ただ、ずっと遡ると70年ぐらいに仙台の西多賀病院ってところの筋ジストロフィーの人たちに入った学生さんの中には革マルさんの人もいたみたい。そういうちょっとおたくなうんちく話もないことはないんですけど、まあ基本関係なかったっていうことだろうと思います。
 それで太田さんが山梨に戻るっていうか行っちゃって、新宿で、で三澤さん…、その新宿の事務所にまず行ったわけ?」


■言及

◆安積 遊歩・立岩 真也 2022/**/** 『(題未定)』,生活書院



https://twitter.com/ShinyaTateiwa 20220714

 「障害者(の運動)史のための資料・人」リンクされる頁を幾つか作成→http://www.arsvi.com/d/d00p.htm 知りたいことたくさんあります。教えてくださいませ。まず東京都国立市におられた(今もいらっしゃる?)太田武二さんのこと。今日とりあえず作った頁→http://www.arsvi.com/w/ot20.htm


UP:20220714 REV:
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