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大屋 雄裕

おおや・たけひろ




●経歴
昭和49年 (1974年) 生まれ。東京大学法学部卒業。専攻は法哲学。現在、名古屋大学大学院法学研究科准教授。

●著作
◆2002,「エゴイズムにおける「私」の問題」『名古屋大学法政論集』193: 1-28.
◆2003-2004,「規則とその意味:法解釈の性質に関する基礎理論」『国家学会雑誌』(1)116-9・10: 1-42,(2)117-3・4: 1-72,(3)117-5・6: 78-154,(4)117-7・8: 1-54,(5・完)117-9・10: 1-56.
◆2004,「情報化社会における自由の命運」『思想』2004-9: 212-230.
◆20060210,「他者は我々の暴力的な配慮によって存在する―自由・主体・他者をめぐる問題系」『RATIO』1: 240-260.
◆20061110,『法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ』勁草書房.
◆20070910,『自由とは何か―監視社会と個人の消滅』筑摩書房(ちくま新書).
◆2007「憲法とは政治を忘れるためのルールである―理念から決め方の論理へ」『RATIO』4: 150-173.


「他者は我々の暴力的な配慮によって存在する―自由・主体・他者をめぐる問題系」

■大屋雄裕20060210,「他者は我々の暴力的な配慮によって存在する―自由・主体・他者をめぐる問題系」『RATIO』1: 240-260.

■引用(下線は原著者による強調)
 私が私自身に対して抱いているようなこの私という感覚、そのような感覚を持ち得る主体性が、どこから来るのか。もちろん他者のこの 私は私のこの私と同じではない(同じだとすればそれは「私」が二つの異なる肉体を持っていると呼ばれるべき事態である)。私と異な る・だが私と同種の存在としての「私」がどのように存在するか、どのように存在すると考えるべきかというこの問いを私秩序の問題と呼ぼう。 (: 243)

 対象の中に心があるから、それを私が他者として認識するのではない。私が相手を「心ある者」と見るとき、相手の動作が心ある者の意味ある行為として私に 立ち現れる。私秩序は世界にではなく、私の思いのうちにあるのだ。世界の客観的な見方とされるのも、心の存在を仮定しないという特定の私秩 序による世界の見え方、相貌なのである。(: 245)

 「名古屋大学という法人など実在しない」ということを前提にしてしまえば、その行為も存在しない。従って私の行動はすべて私の行為だということになろ う。一方「名古屋大学は実在する」と言えば私の動作の一部がその大学の行為として位置づけられることになり、結果として行為する主体としての法人が姿を現 わす。主体としての法人は、あると思えばあり、ないと思えばないのである。/このような事態を、「思い為し」という表現で呼ぶことができるだろう。我々の 「思い」が、対象を主体に「為す」。だがここで思うことと為すことは、異なる二つの動作ではない。それは思うことによって為すという手段・ 目的の関係(by-relation)ではなく、思うことにおいて為しているという関係(in-relation)、一つのことの二つの側面なのである。 /我々は我々が「他者」であると考えるものに他我の存在を託し、それに基づいて世界を見る。大森荘蔵はそれを、アニミズムと呼んでいる。「アニミズムは決 して迷信や虚妄ではない。森や湖に心を付することが迷信ならば、人間仲間に心を付することもまた迷信でありアニミズムなのである。それは何ものかを等しく 『私に擬して』心あるものとして理解することだからである」[大森 1985『大森荘蔵著作集第7巻』: 19]。(: 246-247)

 他者を他者として認めることによって世界のある相貌が可能になるのであり、それを裁く外部は存在しない。世界のある相貌が基底的であった り論理的に唯一の正解であったりするわけではない以上、「他者を他者として扱うこと」は暴力的ないし無根拠な行為であると言うしかない。そこにあるのは、主 体を主体として認める配慮なのだ。主体の誕生は、その根底において他者からの配慮に依存している。(: 252)

 しかもこの配慮が、常に当人の利益を約束するわけでもない。例えば我が国の刑法39条1項は「心神喪失者の行為は、罰しない」と定めている。当人に「精 神の障害により事物(事理)の是非・善悪を弁別する能力、ないしそれに従って行動する能力」[前田雅英 1994『刑法総論講義』: 324]がないとしてその主体性を否定してしまえば、彼は刑罰を免れることができる。彼の中にこの私としての資格、倫理的緊張を持ち得る力を認めれば、彼 は責任能力ある「人」として監獄に送られるだろう。主体性と責任は一つのことの両面として同時にやってくる。そして彼を「人」として認める我々の認識自体 は、あくまでこの私の思い為しとして、すなわち彼の主体の倫理に従ってではなく私の配慮の論理のうちに、為されるのだ。(: 254)

 他者を生み出す配慮もまた、遡及的に承認されることへの賭けであり、その当否は(最終的には)生み出された他者にその配慮が肯定されるかどうかによって判断されるよりないだろう。我々は暴力的に他者の存在を措定することによって、同時にその他者の与える苦痛を他者の暴力として描くことになる。他者を認めることは他者の暴力を受け止めることである。他者を他者として扱う配慮とは、それが肯定されるだろうことを信じて投入される賭けなのである。(: 258)


UP:20080219 REV:
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