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奥村 敏
おくむら・さとし


1956年生
1991年3月末  検査入院
1991年     岸和田市民病院でALSと診断される
1993年     呼吸器装着
1999年5月24日 逝去

 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura.htm

・生年1956年(昭和31年)
 ……
・1991年、岸和田市民病院にてALSと診断され、93年呼吸器装着
・「ベッドにつながれたサイボーグ」と自ら形容する状態を、点滴を外し、チューブをとり、人工呼吸器だけを持って自宅に帰るまで8ヶ月間、地域では前例のない在宅人工呼吸療養は、奥村敏の奮闘から実現した
 (上掲ホームページより)

◇連載 「あすをしんじて」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki.htm
 『日本ALS協会近畿ブロック会報』


・「自己紹介」
 『近畿ブロック会報』19(199506)
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki1.htm

・「自覚症状」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki2.htm
 「平成3年の1月から岸和田市民病院で受診するようになったのですが、先生は直接病名は言われず、筋肉の神経がおかしいようだとだけ聞かされました。しかし、その時点で既に家内には病名とどういう病気かは告げられていたようで、この時には家内は相当悩み苦しんだと思います。」

・「告知」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki3.htm
 「しかし検査の結果自体も先生からはっきりした説明もなく、医療費が無料になるので、特定疾患と身体障害者手帳の申請をするようにと言われ、申請することになったのです。そして特定疾患受給証が来た時に、家内にしてみれば病名は私には隠していたために、どうしようかと思い悩んだものの、いつまでも特定疾患受給証を見せない訳にもいかず、その時に私は正式な病名を知ることになったのです。そしてその特定疾患の病名欄には、筋萎縮性側索硬化症と書かれてあり、「ああ、やはりそうだってのか」と思いましたが、それまでに自分自身ではある程度医学書などを見て分かっていたので、自分自身では不思議とそれ程のショックは感じられませんでしたが、ALSがどういう病気かというのも知っていたので、これから先は、もちろん自分も辛いが若い頃に比べると今は収入も安定してきているし、少し余裕も出てきた頃なのに、それがいずれ近い将来仕事もできなくなり、収入もなくなってしまう。それにも増していずれ体も全く動かなくなり、家族の助けなくては生きて行けなくなるというのが、本当に家族に対して申し訳ないなという思いで一杯になりました。ましてや子供にとっては、その時はまだ11歳という年齢でまだまだ遊びたい盛りだし、これから中学、高校、大学と自分の人生にとっては、大事な頃に差しかかって行く時に、勉強はしなくてはいけないし、私のめんどうも見なくてはいけないという大きな負担ををかけてしまうのではと思いました。そういう諸々の事を考えると後10年間、いや、たとえ5年間でもいい、今は何とか仕事もできている状態なので、せめて進行が今の時点で止まってくれたら、あとは、5年後には子供も何とか一人ででも頑張れる力が付いているのではと淡い望みをもったものの、その願いもかなえられることはなかったのです。
 それから告知については大変難しい問題だと思います。もちろん患者さん本人の性格と考え方により、告知するかしないかが一番になるとは思いますが、告知する側の医師の前向きな考え方と家族の大きな協力があれば、私は告知する方が本人にとっても家族にとっても、有意義な闘病生活を送るのには良いのではないかと思います。
 そして、私は告知をされるうえで患者本人にとっては、ALS協会、会報の存在は非常に大きく意義のあるものであるし、これからもそうであって欲しいと思います。というのは、私自身ALS協会に出会ったのは平成3年の夏に、新聞にたまたまALS協会の紹介の記事が載っているのを見つけ、ああこういう患者会があるのかと思い、早々に家内に相談し自分にとっては、これから闘病生活を送る上できっとプラスになることがあるに違いない、ということを話したうえで、自分自身で協会に入会の申し込みをしたのです。しばらくして会報が送られてきたのですが、その会報を読んで私は大変驚かされました。その内容が一般の医学書や医師の言われるような患者にとっては冷たく希望のない言葉ではなく、この病気は大変な病気ではあるが、こういうふうにやれば今残された機能を最大限使ってこんなこともやれるし、精一杯頑張って生きていけるんだという、患者さん本人の生の声を聞くことができたし、病気自体のことや現在研究されていることも詳しく知ることができたことにより、どんなにはげまされたことか分かりません。そしてそういうことの知識があるのとないのとでは、告知や闘病生活を送るうえでどんなに大きな違いが生まれてくるか計り知れないと思うのです。
 それからALS自体、世の中に知られなさ過ぎると思います。そのために悲惨な状態に陥っておられる患者家族の方が大勢おられるような気もします。そのためにも、ご苦労様ですがALS協会の方々にもっともっと頑張っていただき、一般の人々にALSの現状を知ってもらう事により、ALSを理解してもらい、さらには治療研究が大いに進められることにもつながり、告知もごく普通に行われ、それからの闘病生活も、希望の持てるものになっていくのではないかと思います。
 告知を受けたら、まず自分が今おかれている現実を家族共々しっかりと受け止めてください。そしてその現実から逃げずに、自分の病気のことを良く知って下さい。それをすることでそこから初めて次の段階に進むことができ、闘病生活を送るうえでの前向きな姿勢が生まれてくるのではないかと思うのです。」

・「進行」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki4.htm

・「気管切開」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki5.htm

 「[…]平成5年10月に少し体調を崩し、風邪を引いてしまったのです。微熱がずっと続き、食欲もまったくなくなり、食べ物を少し口にすると気分が悪く、もどしてしまうようになり、健康な時のベスト体重で52〜53kgぐらいだったのが、この頃には30kgを切っていたと思います。前もって保健婦さんに往診してもらえる医師を見つけていただいていたので、さっそく往診していただき、注射や点滴をしてもらっていたのですが、一向に熱も下がらず、回復しませんでした。それどころか動悸がしだすし、息苦しさも感じるようになってきたのです。そして11月4日の夜には息苦しさもひどくなってきたので、家内と相談して明日入院して調べてもらおうと決めたのですが、それからも息苦しさはひどくなったり少し楽になったりの繰り返しとなり、5日の明け方にはその息苦しさは普通ではなくなり、人工呼吸をしてほしいと家内に頼んだのですが、家内も人工呼吸などやったことがなかったので慌てるばかりでした。家内もこれは普通ではないということで救急車を呼んでくれたのですが、そうこうしているとまったくの呼吸困難になってしまい、救急隊の人が来た時には意識もなくなり、その後はまったく覚えていません。
 そして気がついた時には、病院のベッドの上で口には気管内挿管され、頭の方ではシューシューという人工呼吸器の音がしているは、点滴の針が肩口に縫い付けられているし、鼻には経管チューブが入り、心電図のモニターがつながれ、自動血圧計もつながれ、尿の管までつながれていました。まるでベッドにつながれているサイボーグのようでした。  後で家内に聞いた話ですが、救急隊の方の処置が悪く、血圧は測れないくらい下がるし、酸素マスクを当てるだけで人工呼吸はしてくれず、病院に運ぶのも相当手間取ったため、かなり危ない状態だったらしいです。気管内挿管されて人工呼吸器をつながれてからは、呼吸不全の心配はなくなったのですが、尿がまったく出なかったので、先生には、ここ1週間が山でしょうと言われ、家内には気が気ではなかったようですが、それもしばらくすると少しずつですが出始めたので、ホッとしたそうです。しかし気管切開をするまでも、かなり意識もうろうとした状態が続き、一点を見つめたまま家内が声をかけても全然反応しないので、あまりにも心配になり、看護婦さんに、私の頭がおかしくなったのではないか聞きにいったくらい相当心配したそうです。
 いよいよ気管切開の手術が行われたのですが、手術自体はほんの30分程度で済んだらしいのですが、術後に出血が止まらず、その処置に2時間以上かかってしまい、大変だったようです。気管切開については、声を奪われ、楽しみの一つでもある家族とのコミュニケーションが取れなくなると言うことが、私にとっては耐えられないくらい嫌だったために呼吸困難になるまではしないつもりでした。命にかかわってくればもちろん気管切開し人工呼吸器を装着してでも、残された命を精一杯家族と一緒に頑張るつもりだったので、覚悟もしていたのでまったくショックはなかったとは言いませんが、別に自分自身そんなに動揺することはありませんでした。気管切開で悩んでおられる方には、ぜひ気管切開をして、人工呼吸器を装着するくらいなら死んだ方がましだというような考えは持たないで下さい。どんな形であっても、家族にとってはあなたは大事な一員であり、かけがえのない人であることには間違いないはずです。どうか自分自身はもちろん家族のためにも頑張ってみて下さい。きっと生きていてよかったなと思われるはずです。」

・「入院生活」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki6.htm

・「在宅療養」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki7.htm

 「在宅療養に移る際には絶対に、人工呼吸器の管理、衛生材料、消耗品等の負担分担等については、自分が充分納得できるまで病院側と話し合って下さい。例えば、人工呼吸器だけについても、保険点数は在宅人工呼吸指導管理料が2000点、陽圧人工呼吸器使用による加算点が5400点、合計で7400点(74000円)の枠があるのです。ですから、病院側の経営上人工呼吸器の購入貸出は無理だとしても、何とか人工呼吸器を手に入れれば、業者との保守契約料は充分賄えるどころか、衛生材料、消耗品についても在宅時医学管理料3000点、在宅患者訪問料680点、在宅患者訪問看護指導料480点という保険点数が用意されているのですから、そういうことを知ったうえで病院側と充分話し合えば、患者側の負担もできるだけ押さえることができるものと思います。  これは、訪問診察をしてもらえる病院があるだけでも良いほうなのに、というような負い目みたいなものを感じているのに、それ以上は言えないという人もおられるかも知れませんが、患者側としては当然の権利なので、病院側と充分話し合うことで双方とも理解し、納得できるものになっていくと思います。」

・「人工呼吸器」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki8.htm

 「幸いにも私の場合、今年度から大阪府では在宅の人工呼吸器の補助事業という制度が始まり、担当の保健婦さんはもちろん保健所長さんまでご助力していただき、その審査をパスすることができ、人工呼吸器購入に補助が出ることに決まり、非常にラッキーだったと思います。こういう生きていくために最低限必要な医療器具は、日本全国どこへ行ってもまったく無制限でどんな人にも同じように貸出や援助が受けられるようになってこそ、公平な医療であると思うのです。」

・「コミュニケーション」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki9.htm

・「明日を信じて」
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~tahara/okumura/shuki/shuki10.htm

 
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■立岩『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [79]一九九一年「一月から岸和田市民病院で受診するようになったのですが、先生は直接病名は言われず、筋肉の神経がおかしいようだとだけ聞かされました。しかし、その時点で既に家内には病名とどういう病気かは告げられていたようで、この時には家内は相当悩み苦しんだと思います。」(奥村[1995])  [94]「検査の結果自体も先生からはっきりした説明もなく、医療費が無料になるので、特定疾患と身体障害者手帳の申請をするようにと言われ、申請することになったのです。そして特定疾患受給証が来た時に、家内にしてみれば病名は私には隠していたために、どうしようかと思い悩んだものの、いつまでも特定疾患受給証を見せない訳にもいかず、その時に私は正式な病名を知ることになったのです。そしてその特定疾患の病名欄には、筋萎縮性側索硬化症と書かれてあり、「ああ、やはりそうだったのか」と思いました」(奥村[1995])
 [95]妻はこのことを次のように言う。「特定疾患医療受給者証の申請ということから主人に病名を知らせざるを得ず、悩んだのですが仕方ありませんでした。もちろん受給者証を見せただけで私は何も知らないふりをしていました。でも主人は自分なりに調べて病気のことは知っていたようで、その時も特に驚くようなこともなくいつもと変わりなかったのです。私が先生から病名を告げられていることを話したのは最近で、在宅療養に移るにあたっていろいろな方とお話をするようになってからのことです。」(奥村[1995]。奥村は一九九〇年に発症、一九九一年にこうして病名を知る。九三年に人工呼吸器を装着、九九年に逝去。)
 [128]一九九一年、奥村敏[79][94]の妻は岸和田市民病院でALSと告げられる。「告知により希望をなくした私は、主人や子供のことを考えると悲しくなるばかりで、こんな事なら一層のこと三人で車に乗っている時に何かの事故にでも巻き込まれてしまえばいいのにとさえ思ってしまいました。今思えばとんでもないことを考えたものだと反省していますが、その頃の私は二〜三年で主人が死んでしまうかも知れないという不安ばかりで、前向きに考える余裕さえなかったのです。でもいろいろと考えているうちに主人に本当のことを言って、これからどのようにすれば良いかを相談してみようかとも思ったのですが、それは私自身の苦しみを二人で分けて半分にすること、つまりその半分を主人に押しつけることになり、それで自分の気持ちを楽にするのはずるいことだし、逃げてはいけないと思ったのです。だから絶対に言わずにおこうと心に決めました。」(奥村[1995]、この後の記述は[95]、本人の告知についての考えは[161])
 [161]「告知については大変難しい問題だと思います。もちろん患者さん本人の性格と考え方により、告知するかしないかが一番になるとは思いますが、告知する側の医師の前向きな考え方と家族の大きな協力があれば、私は告知する方が本人にとっても家族にとっても、有意義な闘病生活を送るのには良いのではないかと思います。 そして、私は告知をされるうえで患者本人にとっては、ALS協会、会報の存在は非常に大きく意義のあるものであるし、これからもそうであって欲しいと思います。[…]会報を読んで私は大変驚かされました。その内容が一般の医学書や医師の言われるような患者にとっては冷たく希望のない言葉ではなく、この病気は大変な病気ではあるが、こういうふうにやれば今残された機能を最大限使ってこんなこともやれるし、精一杯頑張って生きていけるんだという、患者さん本人の生の声を聞くことができたし、病気自体のことや現在研究されていることも詳しく知ることができたことにより、どんなにはげまされたことか分かりません。そしてそういうことの知識があるのとないのとでは、告知や闘病生活を送るうえでどんなに大きな違いが生まれてくるか計り知れないと思うのです。/[…]/告知を受けたら、まず自分が今おかれている現実を家族共々しっかりと受け止めてください。そしてその現実から逃げずに、自分の病気のことを良く知って下さい。それをすることでそこから初めて次の段階に進むことができ、闘病生活を送るうえでの前向きな姿勢が生まれてくるのではないかと思うのです。」(奥村[1995])
 [170]奥村敏[128]は一九九一年にALSと診断される。九三年「十一月四日の夜には息苦しさもひどくなってきたので、家内と相談して明日入院して調べてもらおうと決めたのですが、それからも息苦しさはひどくなったり少し楽になったりの繰り返しとなり、五日の明け方にはその息苦しさは普通ではなくなり、人工呼吸をしてほしいと家内に頼んだのですが、家内も人工呼吸などやったことがなかったので慌てるばかりでした。家内もこれは普通ではないということで救急車を呼んでくれたのですが、そうこうしているとまったくの呼吸困難になってしまい、救急隊の人が来た時には意識もなくなり、その後はまったく覚えていません。/そして気がついた時には、病院のベッドの上で口には気管内挿管され、頭の方ではシューシューという人工呼吸器の音がしているし、点滴の針が肩口に縫い付けられているし、鼻には経管チューブが入り、心電図のモニターがつながれ、自動血圧計もつながれ、尿の管までつながれていました。まるでベッドにつながれているサイボーグのようでした。/後で家内に聞いた話ですが、救急隊の方の処置が悪く、血圧は測れないくらい下がるし、酸素マスクを当てるだけで人工呼吸はしてくれず、病院に運ぶのも相当手間取ったため、かなり危ない状態だったらしいです。」(奥村[1995])

 [181]奥村敏[170]、一九九三年。「気管切開については、声を奪われ、楽しみの一つでもある家族とのコミュニケーションが取れなくなると言うことが、私にとっては耐えられないくらい嫌だったために呼吸困難になるまではしないつもりでした。命にかかわってくればもちろん気管切開し人工呼吸器を装着してでも、残された命を精一杯家族と一緒に頑張るつもりだったので、覚悟もしていたのでまったくショックはなかったとは言いませんが、別に自分自身そんなに動揺することはありませんでした。」(奥村[1995])

※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
・更新:20011207,20020711,1015
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