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長尾 義明

ながお・よしあき
1947/11/15〜


日本ALS協会・副会長
日本ALS協会徳島県支部・支部長

◆長尾 義明 20150910 『難病ALSを生きる――足で描いたALS患者の絵』,エミール出版,250p. ISBN-10: 499085800X ISBN-13: 978-4990858001 1852+ [amazon][kinokuniya] ※ n02. als.

□著者について
S22年11月15日 徳島市名東町生まれ 本名 長尾義明
H2年9月ALS告知を受ける
H4年12月気管切開・胃ろう造設
H10年パソコンスイッチの図面を書く(足専用)
H11年ALS協会徳島県支部設立
H13年6月絵を描き始める
H17年日本ALS協会副会長就任
H19年日本ALS協会会長就任

◆2009/02/21 「懇親会挨拶」Speech at the Welcome Party(英語版)
 東アジアALS患者在宅療養研究シンポジウム

「女王の村里」(JPG 677kb)
「エッフェル塔」(JPG 570kb)
「8027アレッチ」(JPG 594kb)

◆「まばたきよ歌え――難病ALSと生きる」
 『徳島新聞』2000-09-13〜10-03
 http://www.topics.or.jp/rensai/mabataki/

 昨年、自殺者は三万三千人を数え、過去最悪となった。一方で頻発する凶悪な少年犯罪。物質的な豊かさを達成した社会の裏側で、命の希薄化が進んでいるようにも思える。いや応なく生と死に向き合わざるを得なくなった難病患者の姿を通して「生きること」の意味をもう一度考えたい。(2000年9月13日から10月3日まで連載)

1.歳 月 2.発 病 3.進 行 4.あえぐ 5.呼吸器
6.退 院 7.転 機 8.再 生 9.仲 間 10.笑 顔
11.故 郷 12.夫 婦 13.幸 せ 14.出 発

□歳 月

◇一語ずつ文章をつくる

 「余命はあと三年。治療法もないと…」
 「鉄工所は、たたむしかないか」
 一九九〇(平成二)年十月中旬、奈良県内の医大構内。人目を避けるように植え込みに腰を下ろした中年夫婦、交わす言葉は少ない。
 板野郡板野町中久保で鉄工所を営む長尾義明(52)は当時四十二歳の働き盛り。工場を新設して十年余、事業は順調に拡大していた。「もうだめかもしれない」。傍らの妻・美津子(53)は声を上げて泣いた。
 医師から下された病名は筋委縮性側索硬化症(ALS)。筋肉が次第に収縮し手足や言語機能がまひ、食べたり、息をすることさえできなくなる原因不明の難病で、人工呼吸器を装着しなければ数年で死に至る。患者は全国で五千百八十七人(九九年度現在)。うち県内は五十二人。

◇蚊を振り払えず

 運動神経のみが冒され、知的障害や感覚障害は起きない。「全身まひ」「呼吸困難」…。症状を文字で連ねても、患者の置かれた状況は容易に想像できない。鹿児島大学で長年、治療に携わった徳島保健所長の佐野雄二(48)は、ALS患者の抱える困難を次のような例えを挙げて説明する。
 「蚊が体に止まった。刺すのも分かる。それでも振り払うことはできない。病状が進めば動くのはまぶたぐらい。かゆい。手助けを求めようとしても声を出す能力が失われている。気付いてもらおうとまばたきを繰り返すが、すぐそばにいる人にすら訴えが伝わらない。すべてが分かりながら、どうすることもできないのがこの病気の特殊性」
 病名を告知され、いろんなことを思ったはずだが、もう美津子の記憶はおぼろげになっている。ただ病院内で、近くに座った女性のストッキングに穴が開いていたことは不思議と覚えている。「見てみろ。ここにもお前と同じような人がおるぞ」。日ごろ冗談を口にすることのない義明が言った。「こんな時につまらんことを」と笑った。
 「人間は忘れることができるから、どんな苦しみにも耐えられるんじゃないかしら」。美津子は近ごろ、そんなことを考える。

◇運動機能を失う

 二〇〇〇年夏。義明はすでに運動機能のほとんどを失い、二十四時間介助が必要な寝たきりの状態。一人では寝返りも打てず、人工呼吸器がなければ息ができない。腹部から胃に通したチューブで栄養剤を注入し、空腹を満たす。意思伝達の手段は、ひらがなで五十音が書かれた透明の文字盤。わずかな足の動きを拾う特殊なスイッチを使って、ワープロも打てなくはないが、時間がかかる。
 義明が奥歯をきしませた。何か言いたいらしい。美津子の人さし指が文字盤を「あ」「か」「さ」「た」「な」と横にすべる。義明がまゆをあげた。「違う」というサイン。もう一度最初から。再び「あ」をさした途端、義明は目を閉じた。「そうだ」という合図。次にあ行を縦に。「い」を差したとき、まぶたが動いた。「『い』やね」と確認する美津子。こうした作業を繰り返し、一つの文章に組み上げていく。
 網戸の向こうには太陽に正対するヒマワリ。「い・き・と・つ、ああ、生きとってよかった、と言いたいの」。美津子は聞き返した。左目をしっかり閉じる義明。ここまで来るまで、そんな気持ちになれるまで十年かかった。(敬称略)

□発病

◇体が硬直「足が痛い」

 一九九〇(平成二)年七月中旬、台所わきの勝手口で体を硬直させ、部屋に上がろうとしない夫の長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=をいぶかり、妻の美津子(53)は声をかけた。絞り出すように義明が叫ぶ。「足が、足が痛いんじゃ」。日ごろから「しんどい、苦しいは言うな」と家人を諭し、熱があっても仕事を休まない気丈な義明のこと。美津子は容易ならざる気配に驚いた。聞けば、仕事現場でも動けなくなったという。
 義明が現在、闘病を続ける筋委縮性側索硬化症(ALS)。筋肉が次第に収縮して四肢のまひ、呼吸障害が起きる原因不明の疾患で、筋肉が縮む過程で激しい痛みを伴う。義明夫婦は、このときまだ、そんな病気があることさえ知らなかった。

◇人ごとのように

 民間病院の勧めで、徳島大学医学部付属病院を訪ねた。告知はあっさりしたものだった。「筋委縮性側索硬化症ですね」。九〇年九月六日、医師は聞いたこともない病名を口にした。復唱もできず「何ですか、それは」というほかなかった義明。「一年後には車いすを使わねばなりません」と、畳み掛けるように医師は話す。同席していた医学生らしい若者が隣で辞書をくった。
 「それからは」
 「まひが進んで、寝たきりの状態になるでしょう」
 「それから」
 「人工呼吸器も必要になります」
 「それから」
 「あと二、三年の命です」
 まるで人ごとのように聞こえた。
 「この手足がそのうち動かなくなる。三年で死んでしまうって…」。医師の言葉を頭の中で繰り返すが、どうしても実感がわかない。大学からの帰り道、自宅を通り越し、見慣れたスーパーの前でようやくわれに返った。「誤診だ」。そう思い込めば、少しだけ気持ちが落ち着いた。

◇民間療法に大金

 九月末、美津子も徳大の医師から告知を受けた。「よりによって、お父さんがそんな病気にかかるはずがない」。美津子も診断が信用できなかった。親類に相談すると、ALS関連の診療では奈良県内の医大が有名だという。すぐ二人で訪れたが、病名が変わることはなかった。
 同じ重い病気でも、がんなどの一般的な病気なら、自分たちがどんな状況に置かれたのか理解もできただろう。ところが、名前を聞いたことさえなかったALS、何がどうなるのか全く分からない。二人は途方に暮れた。
 今動いている手足がやがてなえてしまうとはとても考えられなかったし、病気が治らないなど思いたくもなかった。「医者は絶望的なことを言うが、何か方法があるんじゃないか」
 占いでは「春には治る」と出た。あやしげな気功師に金を貢いだ。手足を温める器械を法外な値段で買わされ、土地が悪いと言われては安値で売り払った。何にでも効くというワクチンを購入するため東京に飛ぶ。居間には新興宗教の祭壇が鎮座…。民間療法につぎ込んだ金は百万円をはるかに超える。
 治療法がないとされる病を、現実のものとして受け入れるのは簡単なことではない。わずかでも光が見えればと、正体の知れないものにもすがりついた。「ばかなことを、と思われるでしょうがね」と美津子は振り返る。(敬称略)

□進行

◇歩行・呼吸 ままならず

 一九九〇(平成二)年十二月二十四日。長尾義明(52)=板野郡板野町中久保=は、鼻の骨を折る大けがをした。経営する鉄工所の二階事務所から下りてくる際、最後の一段を踏み違えたのだが、体を支えようとしても手が出ず、顔から倒れ込んだ。筋委縮性側索硬化症(ALS)は、確実に義明から身体の自由を奪っていた。

◇同病者を訪ねる

 二カ月ごとに病状は進む。片手で書けた建築材の設計図面も、翌年春には両手でペンを握らないと仕事にならなくなった。五月以降は思うように手を動かせなくなり、図面も描けなくなる。義明四十三歳。
 そのころALSとよく似た症状の脊髄(せきずい)性進行性筋委縮症患者・勝瑞基補=九八年九月、七十二歳で死去=の新聞投稿を読んだ。患者と家族の支援団体「日本ALS協会」の徳島県支部結成を呼びかける内容だったと義明は記憶している。
 少しでも多く病気の情報が欲しかった義明は、妻の美津子(53)と徳島市西須賀町の勝瑞宅を訪ねた。カエデやマツ、ウメなどがしょうしゃにまとめられた庭は、勝瑞のまじめな性格を現しているかのよう。
 七九年に発病した勝瑞は「心配しないで。私も三年の命といわれたが、こうして生きています」と励ましてくれたが、傍らの妻テル子(73)に通訳してもらわないと理解できない。病気のため勝瑞には言語障害があった。初めて見た同病者の姿。帰りの車中、義明は「あんなふうになるんやな」と言ったまま口をつぐんだ。美津子にはかける言葉がない。
 勝瑞宅を訪れたころは、つえをつけば歩けた。それからひと月。徳島市名東町の実家で営まれた母親の法事には、板野町役場で車いすを借りて出席した。もう一人では歩けない。この月、車いすを購入。

◇まだ希望捨てず

 さらに二カ月。十月ごろには食事をよく噴き出すようになる。ALSの症状の一つで、飲み下しができない嚥下(えんげ)障害。息苦しくなり、あくびも増える。病気は、横隔膜筋などの呼吸筋の機能も侵し始めた。「歩行も呼吸もできなくなる」。どうしても信じられず、実感もわかなかった医者の言葉が、着実に現実のものになる。
 九一年十二月。徳大に検査入院。「きちんと調べてもらえば、どうにか治療法も見つかるだろう」。義明はまだ希望を捨てていなかった。研究の役に立つならと、ALSの症例モデルとして大勢の学生の前に体をさらした。いくら努力してもろれつが回らず、恥ずかしかったが、「これが病気の特徴」と紹介された。
 二カ月ほど入院したが検査以外、することがない。暇に任せて一日中、喫煙コーナーでたばこを吸いながら、ぼんやりとしていた。抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちた男の子、パーキンソン病の男性…。同じ病棟には難病患者がいる。「今、ここにいる自分も、その一人にすぎないのか。ほんまに治らんのやないか」。不安が確信に変わり始めた。
 「余命三年」と宣告されても毎日毎日、死の恐怖におののいているわけではない。体を動かすことができるなら、わずかでも治る見込みがあるのなら、あせりもした。今なら、残された機能をどう活用するか懸命に考えただろう。「こんな手足で」とあきらめていた義明にとっては、ただぼう然と一日一日を重ねるだけだった。窓枠から伸びる影が、気が付けば方向を転じている。生きる意味を見失いかけた者に「死」が持つ意味の大きさを測る余裕はない。(敬称略)

□呼吸器

◇患者や家族 極限状態

 自宅で呼吸困難になり、徳島市内の病院に入院してから二カ月余。一九九三(平成五)年十二月七日夕、筋委縮性側索硬化症(ALS)患者・長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=の呼吸は再び止まった。全身がけいれんし、付き添う妻の美津子(53)らが手足を押さえる。「みんな、こうして死んでいくのか」。小指の先ほどの便が出たような気もする。やがて意識が薄れた。
 義明が入院した当初、美津子は病院の看護婦に「救急車の中で息を引き取ってくれていたら…。お父さんのためにも、その方が良かったのでは…」ともらしたことがある。「余命は三年」と徳大付属病院の医師に告げられてから、すでに三年がたっていた。

◇延命させるよりも

 「どうせ長く生きられないのなら(手術で)切ったりはったりして無理に延命させるより、きれいな体のままいかせてあげたい」と美津子は思い、義明自身もそう望んでいた。
 しかし、いざ義明が危篤状態になると、そんな考えは吹き飛んだ。「どうにかして」と叫び、義明の足にしがみ付いた。急を聞いて駆けつけた取引先の妻が「社長、社長」と泣きじゃくる。それからのことは美津子の記憶にない。
 鮎喰川の岸にカンドリ船をつけ、死んだはずの知人が義明に声を掛けた。「あの世はきれいな花畑というが、うそやな」。船に乗ろうと足を上げた途端、聞き覚えのある看護婦の声がした。「検温してみますか」。夢からさめた。意識を失ってから十四時間。
 一時的に救命できたものの呼吸機能の低下は明らかで、人工呼吸器を付けないと生きるのが難しい状況になった。同十日、気管を切開し呼吸器を装着。主治医だった徳島健生病院医師の宮崎祐治(34)は手術の際、義明の目から涙がこぼれ落ちたのを覚えている。

◇闘病の大きなヤマ

 人工呼吸器の装着はALS闘病の大きなヤマ。付ければ命は延びる。しかし装着後、本人や介護者には想像を絶する負担が待っている。嫌になってももうはずせない。生きるのか、死ぬのか、患者や家族は極限状態に置かれ、呼吸器を拒んで亡くなる人もいる。
 取り乱した状況の中で、美津子は冷静な判断を下せたのか。装着は正しかったといえるのか。義明が生きる意欲を取り戻すまで宮崎は悩み続けた。「病気の本当の怖さを知らなかったから、今があるのかもしれない」と美津子も言う。
 のどの付け根から伸びるじゃばらのホース。機械的に送り込まれる空気。「わしは無理やり、周りのものに生かされている」。まな板の上のコイになったようで、やりきれない。
 自分のものであるはずの命が、他者に操られているような感覚。義明はいらだちながらキーボードを押さえる。「ここから(四階)飛び降りることもできんようになった」。プリンターから滑り出てきた用紙には、そんな文章が印刷されていた。自分のことをミノムシと呼んだ。
 病気になる前には考えもしなかった生きる意味を、義明は何度も何度も自分なりに突き詰めてみた。「生き生きと活動してこそ人間。生きるは活(い)きると違うやろか。そうだとしたら呼吸器につながれ、身動きできなくなったわしは何だ」。ベッドの側で呼吸器が「カタ、シュー」と音を立てた。(敬称略)

□退院

◇在宅以外 行き場失う

 筋委縮性側索硬化症(ALS)のため呼吸機能が衰え、人工呼吸器を装着した長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営。呼吸はなかなか楽にならず、「無理に生かされた」という思いが、さらにいらいらを募らせる。頻繁に行われるたんやつばの吸引。のど元に開けられた穴から差し込まれる吸引チューブの角度が少し違っても、無性に腹が立った。栄養補給は点滴だけ。常に空腹だったことも影響していた。
 主治医の宮崎祐治(34)に相談すると、腹部からチューブを通し、胃に直接栄養剤を注入する「胃ろう」を提案された。空腹だけは胃ろうで回復できる。手術は一九九四(平成六)年二月。また一つ、体に穴が開いたが、胃が満たされていく感覚はたとえ栄養剤としても、何とも気持ちを落ち着かせるものだった。
 翌月、親類に手紙を出した。「死んでも悔いはないけど、未練は残る」。義明が医師として信頼する宮崎には「尊厳死」や「安楽死」を記した手紙を渡した。「どうしたら楽に死ねるのか」。そんなことばかり考えながら病院の天井を見詰めていた。「死ねるなら、死んでいた」と義明。
 思いもかけなかったことだが、症状が安定し始めると病院から退院を促される。「人工呼吸器をつけたまま家に帰れというのか」。義明らの訴えは理解できたが、研修医だった宮崎には転院を勧めるほか、どうすることもできなかった。

◇長期入院で報酬減

 現行の保険制度では、入院が長期にわたると診療報酬は次第に下がる。町立三野病院(三好郡三野町芝生)の院長・中西嘉巳(47)は「ALS患者といえども長期療養を認めると、一般の病院では経営上問題が生じる。患者の受け入れ先が少ない根本原因は保険制度の矛盾にある」と憤る。
 二〇〇〇年四月の診療報酬改定で逓減性が緩和され、難病患者に配慮した特定疾患入院医療管理料も新設されたが、患者団体「日本ALS協会」は「実効性があるかどうか見守りたい」と、手放しでは喜んでいない。

◇自費で呼吸器買う

 看護に多くの人手を必要とし、数台しかない人工呼吸器の一台を独占する。手がかかることをいとい、利益を追求すれば、一般病院にALS患者を受容する余地はない。良心的な病院は少なくないものの、ALS患者が生活圏内で入院先を確保するには困難が伴う。
 転院した病院で不本意な扱いを受け、療養所にも入りたくなかった義明は、在宅以外に行き場を失った。最近は、生活の質を考え、人工呼吸器装着後も在宅での療養を望むALS患者が増えつつある。しかし、義明が在宅を選んだのは、決してそんな積極的な理由ではない。
 国が在宅患者の支援に力を入れ始めたのは、ここ数年のこと。現在は医療機関を通じて無償で借りられる人工呼吸器でさえ、六年前は自費で買うしかなかった。一台二百万円。たんの吸引器が一台十五万円。さらに住宅の改造と車いす対応の自家用車購入に一千万円。病気は経済的にも過大な負担を強いる。
 自宅に戻ったところで、義明の心境にさほどの変化はみられない。「(治すのが)無理なら無理で、アメリカやオランダのように安楽死のことを考えてほしい。私が一番に志願する」(日本ALS協会近畿ブロック会報への投稿)。
 文書を作成したのは九五年春。東海大「安楽死」事件の一審判決で「尊厳死」の要件が示されたころだ。(敬称略)

□ 転 機

◇孫の言葉で外出決意

 吸気と排気、定期的に続く器械音に合わせてベッドに横たわる長尾義明(52)=板野郡板野町中久保=の胸が膨らみ、そしてしぼむ。筋委縮性側索硬化症(ALS)が進行し人工呼吸器を装着、不安を抱えたまま始まった在宅療養。呼吸器や吸引器、文字盤の使用法など、妻の美津子(53)は一つ一つ実地で学んだ。呼吸器が警報音を鳴らすたびに、心細くて仕方なかった。

◇眠れない状態続く

 つばやたんの吸引、体位の交換を頻繁に行わないと命にかかわる。介護は二十四時間、夜昼問わず。義明の在宅療養が始まってから美津子は夜、数十分おきに目を覚ます。
 もし義明が声を上げられるのなら、とっさの場合にも気がつく。しかし義明が出せる音は唯一、歯ぎしりだけ。わずかな音も聞き逃すまいと、眠りについても半分は起きているような状態。薄暗い部屋に人工呼吸器の器械音だけが響く。
 一九九五(平成七)年、美津子が十数分間、目を離したすきに、たんがつまり呼吸困難を起こした。再び義明は生死の境をさまよう。「あいつが迎えに来よるかいな」。義明は遠のく意識の中で、三日前に死んだ元従業員のことを思った。どのくらいたっただろうか。目覚めると妻の姿が目に入った。「また死ねなんだ。どれだけ苦しめば病気から解放してもらえるのか」。義明は生き残ったことが残念でならなかった。
 いつまでも元気なころの影を追い、寝たきりになった自分がどうしても認められない。すさんでいたともいえる義明の気持ちを変えたのは、当時二歳の孫啓介(5つ)の言葉だった。九七年九月末、いつものように義明の部屋に入ってきた啓介が言った。「じいちゃん、運動会見に来てよ」
 たった一言が人生を変えることがある。期待もしていなかった孫の言葉が、うれしくてうれしくて。「生きていてよかった」。何か吹っ切れる気がした。
 啓介は病気になる前の義明の姿を知らない。卑下し続けてきた、まさに「こんな体」の自分を孫は必要とし、「じいちゃん来て」と言った。たとえ病身であっても自分は自分。かけがえのなさに何の代わりがあるだろう。
 孫の初めての運動会。町内の体育館に詰め掛けた大勢の保護者に交じり、張り切る啓介の姿を夢中で追った。息子の結婚、孫の誕生。家族が節目を迎えるたびに「もう、いつ死んでもいい」と覚悟を決めてきた。今度は逆に、少しだけ生きる意欲がわいてきたような気がした。

◇協会設立を訴える

 哀れみをかけられるのが嫌で見舞客も追い返していた義明が、外出をいとわなくなる。太陽の光が心地よい。ドライブで立ち寄ったサービスエリアから望んだ明石海峡大橋が、輝いて見えた。
 歯車はさらに回る。九九年七月、大阪で開かれたALS協会近畿ブロック総会。患者、家族であふれる会場には、小さな子を連れた三十代の男性も。「苦しんでいるのは、自分だけやない」。同じ病気を持つ者同士、通じ合えるものを感じ、心が震えた。
 協会を設立すれば情報も仲間も集まってくる。県内にはまだ、かつての自分のように孤独な思いで悩み続けている患者も多いはず。総会でもらった勇気を、義明はほかの患者にも分けたかった。
 「わしが好きでALSになったんやない。ALSの方がわしならできると、選びよったんじゃ。県支部をつくろう」。大阪から帰った義明は、毎日のように美津子や訪問看護婦らに訴えた。(敬称略)

□再生

◇生きる目標 見つけた

 「どこかかゆくても、じっと我慢し、蚊が飛んできても、血を吸い終わるまで待つ情けなさ。毎晩寝る前に、今夜こそはこのまま眠らせてと頼むのだが…」
 頭脳は明せきで感覚も鋭敏だが、身動きも自発呼吸もできない。動くのはまぶたや目などごく一部。介助者に何か頼むとき、歯をきしませるか、まゆを上下して合図を送る。顔の向きも自分では変えられないため視野は狭く、何か音を聞きつけても確認する方法はない。
 長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=はそんな状態に六年間耐え、これからも耐え続ける。選択肢がない以上、耐えるという言葉は適当でないかもしれない。ALSは自殺することさえ許さない。「こんな病気があることを知ってほしい」。義明は静かに叫ぶ。

◇もれ落ちた苦悩

 世間には無数の闘病記が出回り、テレビドラマのテーマにもなる。患者が病を克服して生きる意欲を取り戻すよう期待し、準備された結末に感動する。が、第三者が知り得る事実はごくわずかだ。高倉健の映画に感銘を受け、北島三郎の歌に声を張り上げた十年前の義明もその一人だった。現場には、ストーリーからもれ落ちた大量の苦悩があった。
 病は他人と共有したり、代わってもらうことはできない。絶対的な個別性に直面し、患者は孤独にさいなまれる。「だれにも理解してもらえない」との思いが病気による肉体的な苦しみに加え、精神的な苦痛を患者に与える。
 孫の一言に目覚め、患者との交流で勇気づけられ、「生きる」ことを再開した義明。彼が、生きる意味を見つけ出すのにかかったのと同じだけの時間をかけても、おそらくだれも彼が味わった苦渋を知ることはできないだろう。集約すれば、問いかけはただ一点だったのだが…。「何のために生きているのか」

◇4人介助で入浴

 義明の自宅兼工場は田園地帯の集落の一角。十三人兄弟の末っ子に生まれ、豊かではない暮らしぶりの中で育ち、中学卒業後、名古屋での修行を経て一九七八(昭和五十三)年、現在の場所に工場を設立。貧乏が嫌で懸命に働き、楽をする間もなく発病した。
 車いす用の緩やかなスロープを上がり、療養室の引き戸を開けると、孫の写真が二枚、額に入れて飾ってある。東南の隅には使えなくなった浴室。洋式便器も備えているが、義明が座ることはない。
 不自然なほど頑丈そうなH鋼が天井をL字型にはう。車いすへ乗り移るのに便利なように、室内につり上げ機を備え付けた。すべて義明の設計。月、水、金は入浴日だが、機械を使っても妻と訪問看護婦、ヘルパーの四人がかり。ビニール製の浴槽に体をひたし、目を細める義明。
 「私よりきっと長生きするわ」と妻の美津子(53)は冗談ぽく言うが、介護者が先に参ってしまうケースも少なくはない。「ちょっとは私のことも考えてよ」という妻の思いに無関心を装い、義明は笑うばかり。
 人工呼吸器を装着したころ「かあさんへ」と表題をふった文章を書いた。生きる目標を見つけた今、義明はその内容を明かそうとはせず、美津子もあえて知ろうとはしない。
 昨年暮れから、義明は日本ALS協会徳島県支部創設に乗り出した。わずかに動く足先で、画面に表われた五十音の一文字一文字を拾い、文を作る。ことし四月には、自殺する中高生の話題に触れ、こんな短文をつづった。「死ぬやつはアホ。わしを見に来い」。(敬称略)

□仲間

◇だれが欠けてもだめ

 二〇〇〇(平成十二)年一月、長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=は新聞の投稿、広告欄を使って、筋委縮性側索硬化症(ALS)の患者、家族の支援団体・日本ALS協会徳島県支部設立を呼びかけた。ほどなく新聞、テレビにも支部結成の動きが取り上げられ、患者やボランティアから問い合わせが相次いだ。保健所などの協力も得て三月九日、義明の自宅で初めての準備会を開く。患者や家族の願いがいよいよ形になってきた。
 準備会には、義明から「ショックを受けるから来るな」と忠告された大岩日出夫(49)=徳島市飯谷町本村=と妻も顔を出した。まだ体を動かせる大岩が現実を知れば、将来を悲観し、自殺するのではないかと義明は心配だった。「いずれたどる自分の姿でしょ。客観的に見ておいた方がいい」。大岩は飲み込みや言語の障害に始まり、やがて四肢が動かなくなる球マヒ型。声はかすれ、明りょうではない。

◇社長就任の目前

 四月には、徳島市内の自動車会社の社長に就任する予定だった。入社三十年、社員のだれよりも早く出勤し、だれよりも遅く帰った。義明と同様、病気になるまで仕事づめの生活。「生きる意味など考える暇もなかった」
 今年二月、国立療養所徳島病院でALSの告知を受けたばかり。特定疾患の申請に訪ねた保健所の難病総合相談窓口。職員から質問されても涙がこぼれそうで答えられず、事前に医師からもらっていた申請書を手渡すのが精いっぱい。「ひたすら働き、まじめに生きてきた夫がなぜ」。雨でもないのに、車を運転していた妻の照子(49)の視界は曇った。
 「病気になると、社会から疎外されてしまったような気になる。特に数カ月前までばりばり仕事をしていたでしょう」と、大岩は言葉を継ぐ。人前で泣くようなタイプではないが、四月十六日、徳島保健所で開かれた準備会では、おえつをもらした。「支えてくれる仲間がいるんやと思うたらね」。わきおこった感情はもっと複雑だが、問われればそう答える。
 準備会以降の四カ月間にも病状は悪化。握力は十二、三キロに低下し体重も減少した。食事がとれなくなり、胃に穴を開けてチューブをつけた。顔が十分に洗えない。テレビのリモコンが持ち上げられない。「きのうまで動いていた手が、明くる朝にはだめになっている。ただただ、がく然とするだけ。つらい思いも家族がいるから何とかしのげている」

◇地獄を見ないと

 体の変調に気付いて一年。まだ義明ほど前向きな気持ちにはなれない。「長尾さんは、精神的に強い。地獄を見ないと…」。二、三カ月後に起こるであろう状態に備え、一日一日を懸命に生きるだけだ。できれば現状を保てれば、と願う。新薬開発に期待をかけるが「産官学が一体となった研究体制でしょ。全国で五千人しか患者がいないALSは、もうけの対象にならず後回しにされないか」と懸念する。
 支部結成にかかわり、人のつながりの大切さを痛感した。「長尾さんがいてくれたおかげで、随分と違う心持ちでいられる。人間は支え合うことでようやく生きている。だれが欠けてもだめ」。上勝に源を発する勝浦川は、里山の流れを集めて成長し大岩の自宅前で弧を描き海を目指す。
 言いたいことがどうにも伝わらなければ、怒ってしまうときもある。今、言葉を失うことが一番怖い。(敬称略)

□笑顔

◇共に歩む勇気 周囲に

 青い地肌が透けてみえるほど刈り込まれた頭。がっしりとしたほおやあごの骨を包む分厚そうな皮膚。知人は「鬼がわら」と評する。「お前ら、勝手なことばかり、言いくさって」。妻が指す文字盤を通して成り立つ会話のきつい言葉の割に、表情はにこやか。
 生きる意欲を取り戻し、筋委縮性側索硬化症(ALS)の患者団体・日本ALS協会徳島県支部の結成を目指す長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営。容ぼう通りの強い精神力があったから、身動きも発語も自発呼吸もできない状態に耐えてこられたのか。

◇今でも憎い病気

 どうも違う。寝たきりの自分を、そのうち孫が嫌うのではないかと心配し、妻には何でも買ってやれと指示する。女性の話題になると、首まで真っ赤にして照れる。上手に付き合うことが大切と、医者に言われても病気は今でも憎くてたまらない。
 不治の病と半ばあきらめているが、「この瞬間にも新薬が開発されているかもしれない。希望を捨ててはいけない」(佐野雄二徳島保健所長)と聞けば、救われたような気分になり、新しい発見が報道されれば心が躍る。義明が自分のことを語るたび、際立ってくるのは普通の五十二歳。
 お笑い番組を嫌い、かつては冗談を口にすることもなかった。今はいかめしい顔つきを一転させ、よく笑う。普通の人間が極限状況に置かれ、笑顔を取り戻すまで蓄積してきた悩みや苦しみ。人並み外れた精神力を持ち合わせていないことが逆に、周りの者に共感と共に歩む勇気を与えている。笑顔は人懐こい。
 「患者・家族が人間として尊厳をまっとうできる社会の実現を目指す」。県支部の設立趣意書に義明はそう書いた。経営上の問題から入院を拒否され、入院できても本人の望むような生活の質(QOL)がなかなか保てない。在宅となれば、二十四時間の介護に家族は疲れきってしまう。
 人工呼吸器を装着したALS患者として初めて義明が在宅に移ってから、後に続いた患者はこれまで一人。行政の支援施策の頼りなさと地域の看護、介護力の低さから、希望しても家庭に戻るのは難しい。病気になったのは「不運」と割り切ることもできるが、患者を取り巻く現状が「不幸」を生み出している。

◇在宅に多い課題

 義明らを支援する国立療養所徳島病院の神経内科医長の乾俊夫(51)は「医療スタッフができることは限られている。患者のQOLを高めるには在宅が一番だが、介護力や経済力などクリアすべき課題は多い」と指摘する。
 妻の美津子(53)は、一台二百万円もする人工呼吸器の自費購入に迫られた六年前、協会支部のある大阪府などには自治体の貸与制度があることを知った。「患者団体をつくらないと相手にされない。そんな思いに駆られた」
 「ほかのALS患者のためにも、手本となるような療養環境をつくりたい。わしの苦労はわしだけで終わらせる」と義明。見知らぬ一人とつながりができれば、それだけ力もわいてきた。病気によっていったん断ち切られた社会との関係を一つひとつつむぎ直していくことが、生きる張り合いになっている。
 「寝たきりになっても、夫は大黒柱」と妻が言う。頼りにする、そして頼りにされる。網の目のように関係は広がり、社会は構成されている。結び目を一つなくせば、自分が考える以上に、ほころびは大きくなるだろう。「生き続けることはわしの義務」。義明は言う。(敬称略)

□故郷

◇県南の海を見せたい

 筋委縮性側索硬化症患者(ALS)の長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=が、患者団体・日本ALS協会徳島県支部づくりに乗り出したことを知り、榊原佐智子(61)=海部郡海南町大里=は心強かった。夫の供一(62)が発病して四年。ずっと綱渡りのような心境だった。

◇なぜ安楽死願う

 看護婦として海南町内の病院に勤務していた十年ほど前、ALS患者の担当になった。七十歳ぐらいの女性だった。ある日、親族が医師に安楽死を頼んでいるのを聞いた。命ある人の死をなぜ願うのか、理解ができなかった。
 身寄りの少なかった女性は、財産を切り売りして家政婦などの療養費に充てていた。次々と衰えていく身体機能。財産をすべて売り払い、女性は死んだ。「家族が、この病気にだけはかかってほしくない」と思った。
 四年前、供一は抱いていた孫を用水路に落とす。水路を流れる孫。慌てて拾い上げた佐智子は「何やってんの」と責め立てたが、今から考えれば病気の兆候だった。翌年一月、告知。
 供一は多くの家を建ててきた大工。ぜんそくの持病はあったものの、柱として一家を支えた。そんな夫が難病に侵されるとは思いもしなかった。九八年十月、県立海部病院に入院。
 義明と同様、供一は激しい呼吸困難に襲われる。そのときの医師の言葉が今も佐智子の耳を離れない。
 「(人工呼吸器を)つけていいんだね。医者でも外せないんだよ。本当にいいんだね」
 看護婦として患者の死を何度もみとった。「患者は患者。この人はこの人の命だった」。そう割り切ることもできた。患者にとっても家族にとっても、大変な病気とは分かっている。それでも死にかかった夫を見て、そのままにはできなかった。「助けなければ後で必ず後悔する。お願いします。責任を持ちますから」。すがるように言った。精いっぱいの気持ちだった。
 しかし、いざ当事者になると予想以上の困難がある。八カ月後「専門医もいないから」と、麻植郡鴨島町敷地の国立療養所徳島病院への転院を促された。断りたくても選択肢がない。徳島病院までは救急車でも一時間三十五分。途中三回、たんがつまった。

◇義父を残し転院

 遠すぎて病院へは通えない。九十三歳の義父を一人自宅に残し、鴨島町内にアパートを借りた。せめて生活圏内に受け入れてくれる病院があれば、と佐智子は願う。
 自宅周辺には訪問看護ステーションもなく、供一の体調が良くなっても在宅療養は望めない。患者の生活に欠かせないたんの吸引などは医療行為とみなされ、ヘルパーには認められておらず、二十四時間一人で介護する必要がある。だが、それは不可能なこと。
 人工呼吸器をつけ、供一は声を失った。長年の日焼けが抜けきらない浅黒い顔に、腕の良い大工だったかつての面影を残す。佐智子はくちびるの形を読み取り、夫の訴えをくみ取る。
 供一がゆっくりと一語一語、確認するようにくちびるを動かした。「生きていて良かった」。声が聞こえたような気もする。
 たまに自宅に帰ると、ほっとする。夫にも県南の海を見せたい。本当に「生きていて良かった」と言ってもらいたい。豊かになりモノがあふれる社会だが、そんなささやかな希望さえかなえてもらえないのは、なぜ。
 テレビや新聞で見る少年の殺人事件や自殺の急増。「命が軽くなっている」。佐智子はくちびるをかむ。(敬称略)

□夫婦

◇困難に耐え希望共有

 「決して、かわいそうとは思いません。かわいそうと思えば、夫の人権を無視することになる」。筋委縮性側索硬化症(ALS)で三野病院に入院している釈子昭文(59)=三好郡三野町太刀野山、真宗大谷派光泉寺住職=の妻道子(53)は、口を開くなりそう言った。口調に勢いがある。
 昭文の病名が判明した三年前、落ち込み泣いた。食事ものどを通らなかった。それなのに、昭文はいつもと同じように夕食をとっている。「食べないとやせるぞ」。かっ幅のいい道子を励まそうとする昭文流のジョーク。

◇泣くのをやめる

 二カ月たっても夫の様子に変化はない。たまらず聞いた。「つらいんでしょう。泣いてください、わめいてください」。困ったように昭文はぼそりと、「しゃあないでえ。代わってくれるか」。病気を懸命に受け止めようとしていた。泣くのをやめた。
 昨年四月、入院。翌月、人工呼吸器を装着するため、気管を切り開いた。僧りょでもある道子は寺の切り盛りも任されている。寺と病院を日に数度往復。付き添いを頼んでいる家政婦の経費もかさむ。
 夫とは筆談でコミュニケーションをとる。道子が手を支えれば、何とか筆ペンを持つことができる。無口な夫もペンならじょう舌。昭文の文章は、一年間で本がつくれそうなほどたまった。
 「出版し、一億円もうけましょう。そして病気の研究に寄付しましょう」。三千万円だけ自分たちで使おうと夫に相談すると、「夢ぐらい自分で見なさい」と怒られた。
 結婚してからずっと、家の嫁で、寺の嫁だった。「自分って何」と、感じていた。夫の介護を通じて、ようやく本物の夫婦になれたような気がする。必要とし、必要とされる。自分をいたわるように夫をいたわれる。
 歩けなくなる、声を失う…。夫の病状のステージが上がるたびに、りつ然とした。何も考えないあきらめの境地にならないと、ALSとは付き合えない。その都度泣いていたのでは、涙が足りない。

◇「今が一番幸せ」

 世界で病気の研究が進んでいる。寺の跡継ぎもできた。今までなら考えられないほど、夫婦で話し合う時間を持つことができる。勇気づけてくれる患者仲間もできた。道子は「病院に喜んで来られる今が一番幸せ。面倒に感じるようになったら不幸でしょうね」と言う。
 昭文は患者や支援者に七月七日付で文章を送った。「…スイカを小さなスプーンでのませてもらいました。おいしかったです…ざんねんですが、スイカはこれっきり。みなさん、私は今しあわせです」
 病気から目をそらすことなく、「幸せです」という二人。少々できすぎの話でにわかには信じられない。「見えを張るとか、農園のハッサクの出来はどうかなど、もうどうでもよくなった」。決して修行によって得た心地ではない。俗世間の煩悩をそぎ落とすように迫ったのは、ALSの病気としての困難さだ。希望を共有することで、二人は生きている。
 すべてを受け入れていたかのように見えた夫が、今年六月、ALSの新しい治療法が始まったというニュースを聞き、見違えるように生き生きとしてきた。「これまで自分を殺してきたのか」と、道子は思った。昭文の状態は薄紙を重ねるように悪くなっている。時にはボール紙を積み上げるくらいに感じることもある。朝、病室のドアを開くのが恐ろしい。(敬称略)

□幸せ

◇妻と一緒 命を大事に

 緩やかに流れるしわが額の位置を示す。中央部で存在を誇示する鼻、はれぼったい上くちびる、うりざね顔。ベッドに横たわる表情には、こざかしい子供にやり込められてしまいそうな、そんな人の良さもにじみ出ている。病を得てそうなったのか、もともとそうなるように月日を重ねてきたのか。
 筋委縮性側索硬化症(ALS)のため入院中の釈子昭文(59)=三好郡三野町太刀野山、住職=は、毎日、手をつないだ子供たちを描く。妻の道子(53)に手を添えてもらえば筆ペンが握れる。

◇山崩れ生き埋め

 同病者の長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=から患者団体の会報用にと、だるまの絵を頼まれたことがある。義明はだるまに身動きできない自分たちをだぶらせ、それでも生きるという患者の力強い決意を表現してもらおうと思っていた。昭文は拒否した。
 「長尾さん だるまは歩きません みんなと一緒に助け合ったら歩けます」。しっかりと手を握り歩く、男女二人の子供の絵が会報の表紙を飾った。
 一九八一(昭和五十六)年二月十八日、寺の裏山が崩れ、生き埋めになった。とっさに机の下に潜り込み、けが一つなく、自力ではい出した。直後のインタビューで「生きた心地がしなかった。本当に幸運」と話し、「まだ興奮覚めやらぬ表情だった」と、当時の徳島新聞は報じた。
 それから十六年。難病の告知を受けた。「困ったなあ しゃあないなあ どうしよう 道子にきこう どうなっても宿業といただいていくよりしゃあない」。治療不可能と宣告され、あがきようもなかった。
 「不安はありますよ 道子が病気にならんか 寺がまもれるか 自分のことは不安ない お任せの世界に生きています なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)です」
 入院し、妻と過ごす時間が増え、妻のことが初めて分かってきた。幸い、好きでいられる。妻が病院に来るのが待ち遠しい。

◇延命薬に“効果”

 岡山大で六月から、神経栄養因子を脊髄(せきずい)腔(くう)内に直接投与する新しい治療法の臨床研究が始まった、と聞いた。延命効果があるという「アメリカ製の薬」(リルゾール)もよく効いているように感じる。変化が機能喪失と同じ意味だった日常にも、よりよき変化の希望が持てるようになった。「百二十歳まで生きましょう」。妻と約束した。
 「命は大事です 殺さんでも人間一遍は死ぬのです命を大事にせないかんです一人では生きていません」
 ベーブ・ルースとともに米大リーグをわかせた名選手ルー・ゲーリックが、この病気のためバットを置かざるを得なくなったころに比べ、はるかに療養環境は良くなっている。医学書に「発病後三年」とある余命も、人工呼吸器療法が定着し格段に延びた。医学は急速に進歩しており、近く治療法が見つかる可能性がないとはいえない。治療への近道は、生き続けていくこと。
 昭文はペンを運ぶ。「生きるということは今おるということ 好きに思うことありがとうということ だれとでも出会うということ何でも見るということ 妻といっしょにおるということ 生きとることが すなわち幸せでしょうね そう思います」
 病室からは、四国山地の中心部を目指し高度を上げようとする三加茂の山が望める。(敬称略)

□出発

◇「再び、これからや」

 「生かしていただいた以上、わずかに残っている機能を最大限に生かし、何か人のお役に立てればと思っています。人はみな自分の命でありながら自分の命ではないと思います」
 六月四日午後一時すぎ、徳島市内の県青少年センター。患者・家族の支援団体「日本ALS協会徳島県支部」の設立総会で、代表に就任した長尾義明(52)=板野郡板野町中久保、鉄工所経営=は、妻が代読する自分の文章を身を引き締めて聞いた。「再び、これからや」
 動くことも自発呼吸もできなくなる難病「筋委縮性側索硬化症」(ALS)。総会には患者をはじめ、志半ばで倒れた勝瑞基補=一九九八年九月、七十二歳で死去=の妻テル子(73)、支部づくりを支援してきた徳島健生病院の松浦智恵美(40)ら訪問看護婦、保健所職員、医師、ボランティアの顔もある。協力し合ってこの日を迎えた。

◇協会支部が誕生

 だれもがかかる可能性があるにもかかわらず、患者数が少ないため医療・福祉施策に意見が反映されにくい。「私たちの声が届かない」。患者や家族にとってはもどかしい日々だった。義明が設立に着手し県支部が発足するまで、わずか半年。病気の情報を集め、施策の不備を訴えていく団体が、それだけ必要とされていたということだろう。日本ALS協会県支部はこうして生まれた。
 百十八の難病のうち、国が特に対策を定めているALSなどの特定疾患は四十五。県内に合わせて三千五百人を超す患者がいるが、支援団体のある疾患はまだわずか。
 支部長となった義明は動く。県の患者支援策もようやく九七年に始まったが、まだ満足できるレベルではない。福祉施策の向上などを求め、七月には県に要望書を提出。同じ病気の患者がいると知れば、病院や自宅に訪ねて励ます。望む患者すべてが在宅療養のできる環境づくり、難病看護の態勢が十分に整った短期入所施設の確保−などが当面の目標。
 病気になる前は「どんな難局も一人で切り開き、生き抜いてきた」という自負があった。他人のことを気にする余裕もなかったが、結局、自分のことばかり考えていた。
 今は少し違う。自分の人生に意味があるとしたら、多くの人との関係の中にしかないと思う。介護が必要になったからではない。病気になるまで気付かなかっただけだ。「人は生かし、生かされている」と確信し、「ALS患者の力になる」ことが生きる目的にもなっている。
 九月十五日、今世紀最後の五輪が開幕した。シドニーに集い、連日熱戦を繰り広げるトップアスリートたち。スタジアムには数万の観客。同じ時間に同じ競技を見詰める視聴者は、億単位に上るかもしれない。歓喜に震える人、悲しみにくれる人、楽しい時間を過ごす人、苦しい時を耐える人…。テレビの向こうには、いろいろな人がいるのだろう。義明は思う。「生きる意味も、その数だけあるはずだ」

◇かけがえない命

 台風の影響で続いていた雨が久しぶりに上がった。東向きに開いた窓から光が差し込む。「病気にさえならなければと考えても無意味。わしにはまだ、一ミリでも動かせる足がある。言いたいことを何とか伝えられるまばたきがある。季節の変化を感じられる体も…。かけがえのない命がここにもある」
 夏に幕を引くように現れたモズは、明日の朝も、かん高い声で秋を歌うに違いない。「太陽を浴びに外に出よう」。だれかれなく呼び掛けたい、そんな気分で今を生きる。(敬称略)=(おわり)

 日本ALS協会徳島県支部では、活動を支えるボランティアなどを募集しています。問い合わせは事務局〈電088(663)5995〉へ。

 

立岩の文章(→『ALS』)における言及

 [12]一九九〇年・「「筋委縮性側索硬化症ですね」[…]「何ですか、それは」/「一年後には車いすを使わねばなりません」と、畳み掛けるように医師は話す。同席していた医学生らしい若者が隣で辞書をくった。/「それからは」/「まひが進んで、寝たきりの状態になるでしょう」/「それから」/「人工呼吸器も必要になります」/「それから」/「あと二、三年の命です」」(徳島大学医学部付属病院で、長尾義明に。『徳島新聞』[2000])
 [50]一九九〇年に発症し「余命は三年」と告げられた長尾義明(徳島県)[12]は、その三年後の一九九三年、人工呼吸器をつける。九五年に安楽死が合法化されたら自分が一番先に志願すると日本ALS協会近畿ブロックの会報に投稿。二〇〇〇年六月日本ALS協会徳島県支部設立、支部長をつとめる。
 [139]長尾義明[50]は、一九九〇年に徳島大学医学部付属病院で本人が告知された[12]。「「この手足がそのうち動かなくなる。三年で死んでしまうって…」。医師の言葉を頭の中で繰り返すが、どうしても実感がわかない。大学からの帰り道、自宅を通り越し、見慣れたスーパーの前でようやくわれに返った。「誤診だ」。そう思い込めば、少しだけ気持ちが落ち着いた。」(『徳島新聞』[2000])
 [178]長尾義明[50][139]は、一九九三年十二月七日、「自宅で呼吸困難になり、徳島市内の病院に入院してから二カ月余。▽一九九三(平成五)年十二月七日夕[…]長尾義明[…]の△呼吸は再び止まった。全身がけいれんし、付き添う妻の美津子(五三)らが手足を押さえる。「みんな、こうして死んでいくのか」。小指の先ほどの便が出たような気もする。やがて意識が薄れた。▽/義明が入院した当初、美津子は病院の看護婦に「救急車の中で息を引き取ってくれていたら…。お父さんのためにも、その方が良かったのでは…」ともらしたことがある。「余命は三年」と徳大付属病院の医師に告げられてから、すでに三年がたっていた。△/[…]/どうせ長く生きられないのなら(手術で)切ったりはったりして無理に延命させるより、きれいな体のままいかせてあげたい」と美津子は思い、義明自身もそう望んでいた。/しかし、いざ義明が危篤状態になると、そんな考えは吹き飛んだ。「どうにかして」と叫び、義明の足にしがみ付いた。[…]それからのことは美津子の記憶にない。/[…]/一時的に救命できたものの呼吸機能の低下は明らかで、人工呼吸器を付けないと生きるのが難しい状況になった。同十日、気管を切開し呼吸器を装着。」(『徳島新聞』[2000])
 *▽△で囲ってある部分は、雑誌では省略してあります。
 [292]長尾義明[178]は徳島健生病院に入院し呼吸器をつけた。彼のことを中心に『徳島新聞』は連載記事を掲載した。「思いもかけなかったことだが、症状が安定し始めると病院から退院を促される。「人工呼吸器をつけたまま家に帰れというのか」。義明らの訴えは理解できたが、研修医だった宮崎には転院を勧めるほか、どうすることもできなかった。」(『徳島新聞』[2000])
 [293]先にも引用した新聞連載[292]に徳島保健所長(当時)の佐野雄二の言が紹介されている。「蚊が体に止まった。刺すのも分かる。それでも振り払うことはできない。病状が進めば動くのはまぶたぐらい。かゆい。手助けを求めようとしても声を出す能力が失われている。気付いてもらおうとまばたきを繰り返すが、すぐそばにいる人にすら訴えが伝わらない。すべてが分かりながら、どうすることもできないのがこの病気の特殊性」(『徳島新聞』[2000])
 [294]同じ連載中に同様のことが長尾義明の言葉として引かれる。「どこかかゆくても、じっと我慢し、蚊が飛んできても、血を吸い終わるまで待つ情けなさ。毎晩寝る前に、今夜こそはこのまま眠らせてと頼むのだが…」(『徳島新聞』[2000])
 [317]長尾義明(現在日本ALS協会徳島県支部長)[292][294]。「自宅に戻ったところで、義明の心境にさほどの変化はみられない。「(治すのが)無理なら無理で、アメリカやオランダのように安楽死のことを考えてほしい。私が一番に志願する」(日本ALS協会近畿ブロック会報への投稿)。/文書を作成したのは九五年春。東海大「安楽死」事件の一審判決で「尊厳死」の要件が示されたころだ。」(『徳島新聞』[2000])
 [342]一九九五年に安楽死を志願すると書いた文章をALS協会近畿ブロックの会報に投稿した長尾義明[317]は、九七年九月に二歳の孫に運動会に来てくれと言われ、新聞によれば「たった一言が人生を変えることがある。[…]何か吹っ切れる気がした。」(『徳島新聞』[2000])*
*該当箇所は以下
 「いつまでも元気なころの影を追い、寝たきりになった自分がどうしても認められない。すさんでいたともいえる義明の気持ちを変えたのは、当時二歳の孫啓介(5つ)の言葉だった。九七年九月末、いつものように義明の部屋に入ってきた啓介が言った。「じいちゃん、運動会見に来てよ」
 たった一言が人生を変えることがある。期待もしていなかった孫の言葉が、うれしくてうれしくて。「生きていてよかった」。何か吹っ切れる気がした。
 啓介は病気になる前の義明の姿を知らない。卑下し続けてきた、まさに「こんな体」の自分を孫は必要とし、「じいちゃん来て」と言った。たとえ病身であっても自分は自分。かけがえのなさに何の代わりがあるだろう。
 孫の初めての運動会。町内の体育館に詰め掛けた大勢の保護者に交じり、張り切る啓介の姿を夢中で追った。息子の結婚、孫の誕生。家族が節目を迎えるたびに「もう、いつ死んでもいい」と覚悟を決めてきた。今度は逆に、少しだけ生きる意欲がわいてきたような気がした。」(『徳島新聞』[2000])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織が作成しているページではありません。
・このページは文部省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
UP:20020709 REV:20020928,1015,20030713,0910 20090223, 20160102
日本ALS協会  ◇日本ALS協会徳島県支部  ◇ALS病者障害者運動史研究 
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