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Xolani Nkosi (Nkosi Johnson)

コラニ・ヌコシ/ヌコシ・ジョンソン


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◆追悼 コラニ・ヌコシ

斉藤@足立区です。

以前、AJF-INFOへ投稿した追悼文を転送します。

英インデペンデント紙に掲載された追悼文を長谷さんが訳してくださいました。

ヌコシ・ジョンソン Nkosi Johnson

2001年6月2日
Xolani Nkosi (Nkosi Johnson)、運動家。1989年2月4日、南アフリカ
Daveytonに生まれる。2001年6月1日、Johannesburgにて死去。

十代を全うすることこそかなわなかったが、ヌコシ・ジョンソンは多くの人
々の心に感動を与えた。その短く、そして苦痛に満ちた生涯を通じて、彼は
南アフリカにおいてかつてないほどに、エイズによるアフリカの危機的状況
への意識を高めるために力を尽くした。この少年は母親の胎内でヒト免疫不
全ウイルス(HIV)に感染し、その母親は後に彼を捨てた。同様に苦しんで
いるアフリカの子供達の多くは2歳を待たずしてこの世を去っている。5歳を
迎えられる子供はほとんどいない。ヌコシは生き続け、そして12歳を迎えて
いた。

2000年7月にNkosiが一躍有名になったのは、南アフリカのダーバンで開催さ
れた第8回国際エイズ会議の開会式で、その思いを語ったときである。彼の
スピーチはターボ・ムベキ南アフリカ大統領に続くものであった。聴衆が驚
き、身震いをおぼえたのは、ムベキ大統領がそのとりとめなく続く演説の中
で、相も変わらずHIVがエイズを引き起こすことに疑問を示したことであっ
た。ヌコシがマイクを手にしたとき、一張羅のぶかぶかのジャケットに身を
包み、真新しい靴をはいた彼のその姿は実に弱々しく、年齢の割には小さく
見えた。しかし、この少年の言葉は大統領をしのぐ力強さを感じさせた。

その小さな手にはあまりにも大きすぎるマイクをしっかりと握りしめ、代表
たちで埋め尽くされた会議場に向かって、そしてテレビ中継を見ている何百
万もの人々に向かって彼は言った。「僕はエイズです」そして聴衆に、自分
のような子供たちにも愛情をもって接してほしいと強く訴えた。「感染して
いるひとに触っても、抱きしめても、キスをしても、その手を握り締めたと
してもエイズはうつりません。僕たちを愛してください。そして受け入れて
ください。みんな同じ人間なんです。僕たちを恐れないでください」彼のス
ピーチは総立ちの拍手喝さいを浴びた。420万ものHIV感染者を抱える国です
らいまだこの病気はタブーとされており、感染者はしばしば社会から追放さ
れている。しかしNkosiの行動は感染者に勇気を与え、エイズを患っていて
もいなくても、隣人はあくまでも隣人であることを非感染者に認識させる手
助けをしている。

ヌコシは1989年、ジョハネスバーグの東の端、イースト・ランドのデイベイ
トンでコラニ・ヌコシとして誕生した。彼の生みの親は社会から追放される
ことを恐れ、その子を捨てた。父親がいることを知ったのは、母親の葬儀で
顔を会わせたときだった。ヌコシを引き取った白人女性ゲール・ジョンソン
は、彼が幼児期を過ごした施設の経営者であった。その施設は失敗に終わっ
たが、ジョンソンはヌコシを自宅へ迎え入れ、その後8年間養母として彼と
生活をともにした。

ジョンソンは1999年に新しい施設を開き、その名をヌコシの名にちなんで“
ヌコシの天国”と名づけた。感染者である25名の貧しい母親とその子供たち、
そして孤児たちに生活の場を提供したのは、「感染しているお母さんやお父
さんを子供たちから引き離すなんてこと、絶対にしないで」というヌコシの
気持ちを汲んでのことである。ゲール・ジョンソンは南アフリカ全土に同じ
ような“天国”をいくつか作る計画をしている。

サハラ以南アフリカには1,300万人ものエイズ孤児がいると推定される。祖
母やおばがその面倒を見るというケースがほとんどである反面、凄まじい数
の子供たちが捨てられたり、最終的にはストリートチルドレンとなっている。
ヌコシのように第二の家族に暖かく迎え入れられた子供たちは、そのことを
幸運に思うと同時に、自分たちが置かれている状況のもろさを感じることも
多い。

ヌコシの大きな瞳と愛嬌のある笑顔は出会ったものすべてに愛情を求めてい
た。彼の家を訪れると忙しい母親が帰宅するまで、紅茶かコーヒー、そして
相手に合わせた会話でもてなしてくれる。エイズ孤児に関する書物を調査し
ている際、私が最初に彼に会ったとき、私たち二人はソファに腰掛け、そこ
でヌコシはまるで大人がするように(その日の学校で、顔に犬の絵を描いて
いたことを除けば)彼の思いを打ち明けてくれた。「ゲールはとっても疲れ
ているみたいだから、ぼく、料理を習いたいんだ。そうすればもっと彼女の
お手伝いができるのに」

7歳にしてヌコシは、HIV/AIDSに感染している子供の中で一番長く生き続け
た子供となった。愛情に包まれ、栄養のある食事にも恵まれたことで彼は生
き続けることができた(さらに亡くなる年には、アメリカからの寄付で高価
な薬品が提供された)。HIVに感染しているアフリカの子供は、就学年齢に
達する前に亡くなることが多いため、そうした子供への正しい接し方を理解
している学校はほとんどない。ヌコシの最初の学校では、親が児童の健康問
題を入学書類に記入することを義務付けていた。ジョンソンは“HIV”と書
き入れ、学校は彼の受け入れを拒否した。ジョンソンは学校側と争い、そし
て勝った。国全体にとって人道的な先例が打ち立てられた。

ヌコシは学校を楽しんでいた。オーブリイという親友もでき、自分のことで
意地悪や無知なことを言う子供たちのことは無視するよう強く言った。養母
であるジョンソンは、強くなるために自分にまっすぐあるよう教えた。「風
邪をひいたからといってその子を無視するなんてナンセンスでしょ。その子
供はなぜ自分が他の子と違っているのかを理解しなくてはいけないの。そう
すればそのことと上手に向き合っていけるのよ」しかしジョンソンは、実の
母親が子供に感染の事実を知らせるのはもっとつらいことだと認める。なぜ
ならその際、どのようにその子供たちが感染したのかをも説明しなくてはな
らないからだ。

エイズ会議の後、ヌコシの生活は多忙を極めた。体調が悪化してもなお、ア
メリカへの演説旅行を実行した。“ヌコシの天国”への寄付が殺到した。し
かし彼自身は苦心していた。「ヌコシの使命」というドキュメンタリー番組
の中で、彼がディズニー・ワールドを訪れた際にぼう然とした様子や、知ら
ない人たちが食事の場をもうけてくれるたびに困惑した様子が映し出されて
いる。彼は12月に重態に陥った。5週間前、半ば昏睡状態でベッドに横たわ
っているとき、3人の強盗が寝室に押し入り、テレビとCDプレーヤー、そし
て彼のために南アフリカのサッカーチームのキャプテン、ルーカス・ラデベ
が直筆でサインをしてくれたサッカーシューズを盗んでいった。

結局エイズはヌコシ・ジョンソンを打ち負かした。しかしヌコシの活動は他
の感染者が、エイズそのものは無理でも、少なくともそこにつきまとう汚名
を打ち負かす手助けをしてくれることだろう。
(Emma Guest)


UP: 20030319 REV:0606
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