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>HOME >WHO にしかわ・ながお Nishikawa, Nagao : English Page http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/nn01 ・立命館大学大学院・先端総合学術研究科(200304〜) ・立命館大学大学院・先端総合学術研究科のHP http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/nn01 ・業績リスト http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/nn01/w.htm ・業績リスト(要旨付) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/nn01/ws.htm ・専門分野:比較史・比較文化論 ・文学博士(立命館大学) ・所属学会:フランス語・フランス文学会、18世紀学会、日仏歴史学会 ・立命館大学国際関係学部(〜200303) ◆西川 長夫・高橋 秀寿 編 20090330 『グローバリゼーションと植民地主義』,人文書院,376p. ISBN-10: 4409240811 ISBN-13: 978-4409240816 2940 [amazon]/[kinokuniya] ※ ◆西川 長夫 2008/11/30 「方法としての旅」 特集国際シンポジウム「イタリア観の一世紀――旅と知と美」『立命館言語文化研究』20-2: 137-138 ◆西川 長夫 2008/11/30 「はじめに」 08年度プロジェクトB4研究報告(2)「戦後の農民運動と農村の変容」 『立命館言語文化研究』20-2: 197 ◆西川 長夫・大空 博・姫岡 とし子・夏 剛 編 20030423 『グローバル化を読み解く88のキーワード』 平凡社,294p. 2000 ISBN:4-582-45223-X →[kinokuniya]/[amazon]/[bk1] ◆1984 『フランスの近代とボナパルティズム』 岩波書店 * ◆1988 『日本の戦後小説――廃墟の光』 岩波書店 * ◆1992 『国境の越え方――比較文化論序説』 筑摩書房 * ◆19951005 『地球時代の民族=文化理論――脱「国民文化」のために』 新曜社,224+24p. 2100 ※ * ◆西川 長夫・渡辺 公三・McCormack, Gavan 編 19971020 『多文化主義・多言語主義の現在――カナダ・オーストラリア・そして日本』,人文書院,305p. ISBN:4-409-23026-3 2310 [kinokuniya]/[bk1] ※ ◆19980301 『国民国家論の射程――あるいは<国民>という怪物について』 柏書房,289p. 2500 ※* ◆19991001 『フランスの解体?――もうひとつの国民国家論』 人文書院,306p. 2400 ※* ◆西川 長夫・渡辺 公三 編 19990228 『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』,柏書房,532p. ISBN:9784760117147 (4760117148) 6090 [amazon]/[kinokuniya] b ◆20010201 『[増補]国境の越え方――国民国家論序説』 平凡社ライブラリー,477p. 1300 ※* ◆20020724 『戦争の世紀を越えて――グローバル化時代の国家・歴史・民衆』 平凡社,269p. 2400 ※* ◆西川 長夫・姜 尚中・西 成彦 編 200006 『20世紀をいかに越えるか――多言語・多文化主義を手がかりにして』,平凡社,496p. ISBN:4-582-70226-0 3400 [amazon]/[kinokuniya] ※ b http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0006nn.htm ◆西川 長夫・大空 博・姫岡 とし子・夏 剛 編 20030423 『グローバル化を読み解く88のキーワード』,平凡社,294p. 2000* ◆牧原 憲夫 編 20030601 『<私>にとっての国民国家論』,日本経済評論社,369p. ISBN:4-8188-1505-5 3200 ※ [bk1] ◆19970530 「国民文学の脱構築」,三浦信孝編[1997:246-261]* *三浦 信孝 編 19970530 『多言語主義とは何か』,藤原書店,340p. ISBN:4-89434-068-2 2940 [kinokuniya]/[bk1] ※ *m01 「もし多文化主義・多言語主義が徹底して追究されれば、現在の国民国家的秩序は根底からつくがえらざるをえないはずである。」(p.258) 「多文化・多言語主義がこうした旧来のナショナリティ概念にもとづくかぎり、それはいたずらに多数のミニ・ネイションとそれらの諸集団のあいだの紛争を生みだすだけであろう。多文化・多言語主義が国民文学、したがって国民国家に対する真に有効な批判となりうるためには、それが依拠する文化概念、言語概念を根本的に疑い、変革しなければならない。文化にかんしては私はこれま(259)で、文化は交流し変革を続けること、文化はつねに雑種的であり、純粋で孤立的な文化などはありえず、したがって民族が虚構であると同様、国民文化(日本文化、フランス文化、等々)も虚構であることをくりかえし指摘してきた。それは変容し続ける自己の他者性や複数性に通じる議論でもある。 ここごは同じことを言語について強調したい。言語は交流し変容する。言語は常に雑種的であり、純粋で孤立した言語などはありえず、国語(日本語、フランス語、等々)は虚構である。」(pp.259-260) ◆19971020 「多文化主義・多言語主義の現在」 西川・渡辺・McCormack編[1997:9-23]* *西川 長夫・渡辺 公三・McCormack, Gavan 編 19971020 『多文化主義・多言語主義の現在――カナダ・オーストラリア・そして日本』,人文書院,305p. ISBN:4-409-23026-3 2310 [kinokuniya]/[bk1] ※ 「第五に、多文化主義・多言語主義の理論的な問題にふれておきたい。多文化主義が政策として登場したという事情から、その理論的な検討がなおざりにされる傾向があった。だが運動としての多文化主義も、政策としての多文化主義も、理論としての多文化主義によって深められ裏付けられない限り、方向を見失う恐れがないとは言えないだろう。本稿で私がここまで疚しさと煩わしさを感じながら、「多文化主義」のあとに「多言語主義」ということばを付してあえて「多文化主義・多言語主義」という書きかたを続けてきたのは、一つには多文化主義のあいまいさとある種の詐術を意識化したいという気持が働いていたからである。言語は文化の最も重要な要素である。もし多文化主義を唱えるならば、あるいは多文化主義を押し進めるならば、それは論理的に当然、多言語主義を伴うはずであるし、多言語主義を伴わなければそのことについて何らかの説明を必要とするはずである。」(p.16) 「文化はあいまいな概念であるから、多文化主義を唱えることは容易である。それはたいして我身にかかってこない。だがひとたび多文化主義の必然的な帰結である多言語主義が導入されれば、事態は急変する。多文化主義を受けいれながら多言語主義を拒否する理由の説明は、いままで私の知りえた限りでは、経済的効率のみである。それは妥協によって成立つ現実政治の観点からは説得的な理由である。では、文化的多様性を認め、それぞれの文化的自立と共存を積極的に推し進めようとする多文化主義は、経済的な効率によって左右されるような性質のものであろうか。そこには論理的あいまいさが残されており、その理論的なあいまいさにあえて立ち入ろうとしない姿勢がうかがわれるのである。」(p.17) cf.立岩真也『自由の平等』 ◇序章注15 「集団としての規定・同一性の肯定性が主張されるとともに、それが他の範疇の人々の排除やそこで規定される属性に回収されるものでない個人の抑圧につながりうることが問題にもされる。そしてそれに分配の問題が重ねられるという具合になっていて事態はなお複雑なのだが、しかしそれでも私は議論がおおまかすぎると感じる。例えばテイラーが持ち出すケベック州でのフランス語の問題についてどこまでのことが言えるのか、言語は他のものとどこが共通しておりどこが異なるのかを考えるといった仕事を一つずつ積んでいくことが必要だと思う。」 テイラー/ハーバーマスの『マルチカルチュラリズム』*中の文章について *Gutmann, Amy ed. 1994 Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition,Princeton University Press=19961018 佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳,『マルチカルチュラリズム』,岩波書店,240+3p. 2600 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400ga.htm ※ 「テイラーとハーバーマスという、世界的な名声を得ている第一級の哲学者たちの、多文化主義をめぐる言説のあいだに見え隠れするあいまいさや矛盾あるいは言い落としの部分のなかに、今後展開し深めなければならない多文化主義の重要な理論的課題、むしろ彼の性といったものが示されているのではないかと思う。次の四点を指摘しておきたい。 (1)先住民問題[…](19)[…] (2)新しいタイプの自由主義の提案にせよ、民主的立憲国家の成熟にせよ、ここでの議論は既成の国民国家の存続を前提して、国民国家の枠の中で、統合形態の再編、デモクラシーやシティズンシップの新たな形態を問うという形で進められている。[…] (3)[…]彼らが用いる文明、文化、エスニシティ、民族、アイデンティティ等々の主要な概念が、基本的には国民国家時代に形成された古い概念のままであって、そうした概念に対する根本的な懐疑や批判が、いくつかの興味深い提案はあるものの、いまだ十分に行なわれていないところ[…] (4)二人の哲学者の緻密な論理が時にあいまいで欺瞞的に思われるのは、エスニシティや民族問題(20)の背後にあってつねにその根本的な原因になっている、差別(あるいは搾取と被搾取)のシステム、形を変えた新しいタイプの植民地主義、といったものに対する指摘や考察の欠如、あるいはそうした差別のシステムと多文化主義がいかなる関係にあるかについての考察の欠如が感じられるからではないかと思う。」(pp.19-21) ◆「多文化主義・多言語主義」,小林・遠藤編[2000:197-217]* *小林 誠・遠藤 誠治 20001015 『グローバル・ポリティクス――世界の再構造化と新しい政治学』,有信堂高文社,238p. ISBN:4-8420-5541-3 3360 [kinokuniya]/[bk1] ※ *m01 1 歴史的徴候としての多文化主義・多言語主義 2 アメリカ・カナダの場合 3 オーストラリアの場合 4 ヨーロッパ的統合と共和国モデル 5 多文化主義とアジア 「多文化主義(multiculturalism)ということばは、1970年代の初めにカナダとオーストラリアで新たな国民統合の形態を示す国是として採用されて以来、急速に普及した。もちろん新語であって、英語の辞書(Randam Houseの新版)によれば65年、フランス語の辞書(Le Petit Robertの新版)によれば71年の日付が記されている。この英語とフランスの日付のずれは、多文化主義が英語圏からヨーロッパに広がっていったことを想像させると同時に、地域による多文化主義の差異を予想させる。英語やフランス語の多文化主義は一般的には、ある集団や共同体のなかで複数の文化が共存している状態を指すと同時に、そのような多文化の共存を好ましいと考え積極的にその推進をはかろうとする政策や思想的立場を意味する。 多言語主義(multilingualism)も新語であり、現在では多文化主義にともなってあらわれ、多文化主義ほどに定着していない印象を与えるが、実際は(197)多文化主義より古い用語である。[…]文化には言語が含まれる。したがって、多文化主義政策は論理的には多言語主義をともなうはずである。だが、多文化主義は現実には、カナダは二言語多文化主義であり、オーストラリアは一言語多言語主義であることからも分かるように、必ずしも多言語主義を含まない。一見明らかなこの論理矛盾をどう考えればよいのだろうか。そこには文化と言語の一様ではない複雑な関係が示されていると同時に、多文化主義のある種の詐術が隠されている。」(pp.197-198) 「先住民から奪った土地に居座り続けることは、いかなる論理によって正当化され、奪った者たちの現存と現在の諸制度はいかなる理由によって正当化されるのであろうか。かつて「文明化の使命」と「無主の地」の教義が果たした役割を今ではグローバリゼーションの理論と多文化主義・多言語主義が果たそうとしている、という側面を見落してはならないと思う。他方、アジアの可能性がアジアの豊かな多様性にかかわるものであるとすれば、われわれは多文化主義・多言語主義を単に欺瞞として退けるのではなく、その可能性を異なった角度から追求する必要があるだろう。それは、大航海時代以来の歴史の大転換がもたらす歴史のアイロニカルな課題の一つである。」(p.216) ◆19991001 『フランスの解体?――もうひとつの国民国家論』 人文書院,306p. 2400 ※ I フランス文化への疑い フランス・イデオロギーをめぐって II パリ・一九六八年五月の記録 一九六八年五月 壁の言葉 III 革命二〇〇年のパリ、そして日本 フランス革命の功罪 フランス革命二〇〇年とリン・ハント ハイチ革命とフランス革命 IV ナショナリティ概念をこえて――欧州連合とポスト国民国家時代の可能性 多文化主義の観点からみたヨーロッパ統合――地域と移民の問題を中心に 欧州連合と文化摩擦 多文化主義とアジア V 現代における「翻訳」の問題――いま仏和辞典を作ることは何を意味するか フランス的明晰とは何か――言語と精神 ◆20020724 『戦争の世紀を越えて――グローバル化時代の国家・歴史・民衆』 平凡社,269p. 2400 ※ I 開戦の記憶と戦後の原風景 映像と記憶――九月十一日をめぐって 戦争と文学――文学者たちの十二月八月をめぐって 廃墟と検閲――異文化としての戦後体験 II 戦後という時代と歴史学 戦後歴史学と国民国家論 戦後歴史学と国民国家論、その後 『国民国家論の射程』韓国版の序 民族という錯乱――民族論のためのノート ◇「戦後歴史学と国民国家論、その後」より 「第二は、国民国家にかわるもの、代案つまりオルタナティヴを示さないで、国民国家批判をやるのは無責任だ、というものです。責任の名においてオルタナティヴのイデオロギーが保守派にも革新派にも蔓延しているようです。だが、またしても、安易なユートピアを示せというのでしょうか。今一般に言われているオルタナティヴは、ある大きな枠組みのなかでの選択肢です。だが、その大きな枠組み自体が崩れようとしている。問題となっているのは誰にも予見できない未来ではないでしょうか。混沌とした現実の歴史の進行のなかで、その場その場の選択を行いながら、試行錯誤の末に、私たちの視野が徐々にひらけていく。真のオルタナティヴは、長い考察と批判の間に、おのずと形成されるものだと思います。」(p.112) 「私はこれまで、意図的に代案を出すことを拒否してきたのですが、それには主として三つの理由があります。一つは、すでに述べたように、代案というのは二大政党制が理想とされるような代議制の、したがって国民国家の枠内での選択を示す、いわば体制内イデオロギーであるということ。第二は、歴史の考え方にかかわってきますが、歴史にはつねに意外性があって、とりわけ現在のような五〇〇年来の大転換期にあっては、未来の予測は困難である。ウォーラーステインはそのことを、プリゴジンの理論を借りてバイファーケーションという用語で説明しています。そういう時代にあっては、一歩一歩、視野を切り開いて、その度ごとに道を選んで進むしかないのであって、もし一挙に代案を出せる(p.138)人がいたら、多分それはいんちきだと思います。第三は、ほぼ第二と同じことですが真の代案を出すためには、その人が感性においても思想においても、根底から変わらなければならないだろう。 代案と言うときに、われわれは手持ちの材料で考えてすぐ代案が出せるような錯覚をいだいています。しかし国民国家の歴史のなかでは、その代案を考える思考力を抑圧する力がずっと働いていて――それが国家イデオロギーというものでしょう――、それはわれわれの感性や思考力を左右している。」(pp.138-139) ■言及 ◆立岩 真也 2002/12/20「二〇〇二年の収穫」 『週刊読書人』2467:3 ◆立岩 真也 2003/01/**「二〇〇二年読書アンケート」 『みすず』2003-1・2 ◆『自由の平等』 ◇序章・注15 「[…]多文化主義、マイノリティ文化の権利についてはKymlicka[1995=1998]、Kymlicka ed.[1995]、工藤[2000]、西川[2002]、等々。また井上[2003a:171-211]では多文化主義とリベラリズムとの関係が検討されている。(井上の言うリベラリズムとこの語の本書での用法とは同じでないが、本書では論者による語の理解の異同を確認していくことはできない。)」 ◇第3章注1 「[…]本文に記したのは現実が変わると意識が変わるという一つの線だが、むろんそれだけが想定されたのではない。両者の間の幾度もの往復が、希望とともに、描かれたのだった。それはたしかに空想的だと思える。しかし、人もまた変わっていくはずであると考えるのは、人はこんなものだろうというところから議論しそこに留まってしまうのと比べて、少なくとも論理的に誤っているということはない。人はどのように変わっていくかわからないのだと、だから「代替案」を示せという脅迫に「誰にも予見できない未来」(西川[2002:112,138-139])を対置することは正しいのだし、論と現実を先の方まで進めていこうとする力に対してリベラリズムが反動として作用することに苛立つ人がいる(Zizek[2001=2002])のも当然なのである。」 2002 『戦争の世紀を越えて――グローバル化時代の国家・歴史・民衆』,平凡社 <319> 2003 「多文化主義から見た公共性問題――公共性再定義のために」,山口・佐藤・中島・小関編[2003:82-106] <295,325> UP:2002 REV 20020912, 17, 20030113, 0519, 0727, 0811, 1212, 20041029,1101, 20050112, 20090411, 1127, 20111117 ◇Nishikawa, Nagao (English) ◇立命館大学大学院・先端総合学術研究科 ◇多文化主義 ◇国家/国民国家 ◇フランス ◇WHO |