◆日本尊厳死協会副理事長・医師
■文章
◆長尾 和宏 2016/08/14 「井形昭弘先生の訃報」,『Dr.和の町医者日記』
http://blog.drnagao.com/2016/08/post-5353.html
■この文章への言及
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社
□第4章 七〇年体制へ・予描1
□2 医(学)者たち
□4 井形昭弘(一九二八〜二〇一六)
※以下で強調(太字)はもとの本にはありません。
「井形は椿より七年遅れて生まれたが、ずっと長く生きて、椿より三〇年も余計に活躍した。長く生きて偉くなった。ここではその人の中身ではなく、その人を巡って互いに肯定し合いまた自分たちを防御しようとする言説とその質を見る。
この人もスモンの解明に貢献したとされる。井形を敬愛する福永秀敏(一九四七〜、鹿児島大学医学部卒、国立療養所南九州病院院長)は次のように言う。
[…](ドクターズマガジン編[2003:169-170])★23
井形は学界・業界の首領となり、様々に関わり、各種要職をこなす。多くの機関の長――鹿児島大学八七年、国立療養所中部病院九三年、あいち健康の森・健康科学総合センター九七年、名古屋学芸大学二〇〇二年――、審議会等の長――公的介護保険開始時の医療保険福祉審議会老人保健福祉部会長、中央環境審議会環境保健部会長、医道審議会会長…――を務めた(cf.天田[2005-])。
このように讃えられる人もまた水俣病について規制を強める側になる。椿を駆動しているようにみえるある種の潔癖さは井形には見られない。なにか思想と呼べるようなものがあって、なにかまとまったことを書いた人でもなかった。規制に関わる主張については同じことを言うしかない。井形[1988]井形他[1988]等で自らは科学的であると言うが、科学的であるその由縁は説明されていない。
その人たちは施設の経営者となることがある。ALSや筋ジストロフィーは治療できないし、研究も進まないから、そうした仕事はない。そこで、施設の居住者(の中の友好的な人)と友人になることがある。井形は、病院に入院していたALSの知本の本(知本[1993])に「知本さんの戦友として」という文を書いている(井形[1993])。井形を讃える福永も同様に、自らが院長を務める国立療養所南九州病院に入院していた轟木敏秀(一九六二〜九八、筋ジストロフィーで七二年に南九州病院に入院、著書に轟木[1993][1995])について『病む人に学ぶ』(福永[2004])等に幾度も記している★24。△238
[…](ドクターズマガジン編[2003])
研究できない時間、臨床といってもさほどのことができない時間、誰もが病棟に入りびたりになるわけではないが、福永はそうだった。医師そして経営者となる人と入居者の間に交流が生まれ、心が温かくなる本が何冊も書かれる。
私は日本尊厳死協会の理事長であった井形に二度会っている。一度は集会「尊厳死っ、てなに?」(二〇〇五年四月十六日)に参加してくれて、清水昭美らとのやりとりがあった(私は司会だった)。立岩編[2005]はその時のために作った資料集で、全体の記録は残っていないが、私の記録([200506])、『医学界新聞』に掲載された記事(医学界新聞[2005])があり、『唯の生』でも紹介・検討した([200903:230-233])。もう一度は二〇〇九年の日本宗教連盟主催のシンポジウムで、壇上で御一緒した。報告書があり、私の発言部分はサイトに公開([201003])。それでだいたいのことはわかる。その一部を含め『相模原障害者殺傷事件』で井形が言ったことを知らせ、主張の是非の前に論理的な問題が多々あることを述べた([201610→201701:79-83])。そこで引用した文章、書いたことを繰り返さない。ただ私は遠慮深すぎたかもしれないと思う。例えばこの(例えば井形の)文章のこの箇所を引用さえしておけばその含意は伝わるだろうと私は思ったのだが、実際にはそうでないことが多い。少し言葉を足す。
言いたかったことはまず、その人やその人を支持する人、師と慕う人たちの言論について、その主張の中身の差異はまずさし措き、言論の水準がとても低いことに私は困惑しているということだ。そんな△239 水準の言論であっても一つひとつていねいに疑問点を示して議論しようとしている人たちがいた場でのことが、井形の熱心な支持者である同じ組織の副理事長の追悼文においては、正しい自分たちが理不尽な総攻撃を受けたという話になっている。
尊厳死協会の前理事長である井形昭弘先生が急逝された。/[…]今日の葬儀に参列した。/名古屋学芸大学の学長として、大活躍の最中であった。/満八七歳で急性心不全。突然の訃報だった。/尊厳死だった。ピンピンコロリそのものだった。/井形先生は、鹿児島大学の神経内科教授として、HAMという病態を解明したり、医学研究の分野でもたくさんの功績を残された。また大学の学長としても、子供たちの指導も直接されていた。大学の経営にもしっかり参画されていた。/日本尊厳死協会へも理事長を降りられた後もずっと来られていた。/私もいつも優しく声をかけて頂いたり、満面の笑顔で接して頂いた。/どんなに批難されようが、正しいと思うことは悠々と実行される。/威張ることも、驕ることも、怒ることも無い、実に穏やかなお人柄だった。/一番の思い出は、三年前の全日本宗教連盟が主催する尊厳死の講演会。前年の記録を読むと、あの井形先生を仏教、神道、キリスト教が一致団結して攻撃した。/その翌年の餌食として私が名指しで呼ばれたので井形先生のかたき討ちのつもりで意気込んで行ったが、案の定、宗教界全体で私をナチスドイツと呼び猛攻撃に会った。/多くのテレビ局も来ていたが、とても酷い内容だったので一社も放映しなかった。朝日新聞だけが少し時間がたってからまた私の悪口を書いた程度だった。/井形先生に宗教界からの理不尽な攻撃について話したが笑っておられた。井形先生は自分が正しいと思うことには、立場も関係なく怯まない勇気ある人だった。/医学界で尊敬する人は多くないが、自分が尊敬する医師の筆頭が井形先生であった。それだけに精神的支柱を失ったようでとてもショックであるが、仕方がないことだ。△240 (長尾[2016])
井形が攻撃されたと言われているのがさきにあげた二〇〇九年の催しで、この追悼文を書いた長尾は次の年の催しに出て、帰りの列車で悔し涙にくれたと言う。その人がそのように受け止めたのは事実なのだろう。しかしそのように受け止めてしまうこと自体がたいへん悲しく残念なことである。ここでは安楽死や尊厳死についての議論は――基本的に言うべきことは別に言ったから――しない。まず問題は主張の内容、内容の是非ではない。言論の水準、最低限の論理があるかである。それを示すのに、具体的な文言、証拠を示した方がよいと思い、だからできるだけ記録を残すようにしている。立岩・有馬[2012]、立岩08[2017]に種々を収録している。
といったことを書いていくと、言論につきあうことの悲しみを感じ、書いている側の品格が失われていくようにも思うのだが、仕方がない。この程度の水準の言論が許容され、さらには称賛されるような空間があるのだと思う。そしてそれは個人の資質というだけのことではない。その空間がその質を作り維持しているのだろう。互いに肯定し合い、讃え、讃え合い、他方、自分たちへの批判は遮断し、応じない。認定と認定問題への対応もそうした空間で作り出され、維持された。そういう位置取りであるままで要職を務める。
そうした中でも、もちろんもっともだと思う発言もある。
[…]
言っていることの一つめは正論であると思う。私は[…]」
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