中山 宏太郎
なかやま・こうたろう
last update:20110110
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・1937年生れ。京都大学精神科(大谷・中山編[1980]より)
・1971年7月31日、日本精神神経学会保安処分に反対する委員会・委員長
・中山委員(京都市)
http://nttbj.itp.ne.jp/0755846633/index.html
■著書
◆大谷 実・中山 宏太郎 編 198011 『精神医療と法』,弘文堂,323p. ASIN: B000J83M5S [amazon]/[kinokuniya] m.
■引用
こうした医師と製薬会社の腐れ縁の中から生れたくすりを使って、医療機関が儲ける手法の一例として――
四十五年の暮れ、地元の精神障害者家族会から「患者を死ぬほど虐待した」と告発された京都の医療法人十全会。まともに経営したら大赤字といわれる精神科を中心に、高度成長をとげた”医療コンビナート”である。かつて同会に勤めていた中山宏太郎京大精神科助手の語るそのカラクリ。
「系列下の三病院に徹底的に経営を競争させる。トンネル会社をつくって製薬会社からくすりを買いたたき、三病院に卸す。くすりをいろいろ抱合わせたメニューができていて、くすりに病人の方を合わせる。あるとき酸素テントを十基ほど買込んだら”重病人”が急にふえた。医師の給与は、募集広告だと「部長年収手取りり五〜七百万円」。このカネで、経営方針に服従させるのです」
この十全会傘下、双岡病院の院長は、府下の精神科医でただ一人の社会保険支払基金審査委員をやっ <0139< ていたが、家族会などの追及で四十五年暮れにやめている。」(大熊[1973:137-140])
◆中山 宏太郎 20100510 「さようなら、東京の良寛さん」,精神医療編集委員会編[2010:120-121]*
*精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon]/[kinokuniya] ※ m.
「初めてお会いしたのはおそらくは金沢学会であったと思う。
1969年というのは大変な時で、私がいた大学でも全体が流動化していたが、この学会で諸大学の精神科医が合流すると、私はスタンピード(カウボーイ西部劇に出てくる牛の群れの大奔走)のさなかに入ってしまった感じで誰が誰やらさっぱりわからなかった。
40年後の藤澤さんの追悼会の時に、西山詮さんが、「何百人もの人が議論していくところを、一言で静寂に戻すことができるのが藤澤さんだ」と教えてくれた。私の頭の中にはこの学会のこととして収まった。」(中山[20101])
→第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)
■言及
◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon]/[kinokuniya] ※ m.
「◇中山宏太郎(一九三七〜)。京都大学医学部卒、京都大学精神科、後に京都市に中山医院を開業。一九七一年七月、日本精神神経学会「保安処分に反対する委員会」委員長、同八月反対する意見書発表。九〇年代に入って「処遇困難者専門病棟」を是認する見解を発表(cf.中島[2002])。これが富田[2000:216-279]等で批判されることにもなる。共編書に『精神医療と法』(大谷・中山編[1980])。」
「☆10 他に金沢大会に言及している箇所として藤沢[1982→1998:72-73, 261-262](後者は浅野[2010a:83]にも引用)、藤沢[2010:19]等(HPに引用)。藤沢自身は「遭遇」したできごととして語っている。その際、関西の側からの「勧誘」があった。中山宏太郎(→93頁)・松本雅彦(→93頁)らが東京に出向いた。
「高岡 関西から東京へオルグに来ていたのは誰なのですか。/松本 僕と中山さんと新井君が……新井君にひっぱられてですけどね。最初に慶應義塾大学へ行って、そして、藤澤さんにも小平に会いに行ったのですよ。/高岡 中山さんは、どういう内容を持って東京へオルグに行っていたわけですか。/中山 若い連中がただごとならぬ雰囲気なわけですよ。これは無理ないなという同情ですね。放っておくわけにはいかない、というような感じでした。」(広田他[2010:24])
一九六九年春、「五月に開催を予定されている日本精神神経学会第六六回大会(通称 金沢学会)を前にして新井清(故人)に誘われるまま、中山宏太郎とともに、三人で東京に赴いた。精神病院の荒廃、その劣悪な医療を支える医局講座制、そのなかで精神神経学会はなお学会認定医を制定化しようとしている。精神科医療を取り巻くこの状況に、私たちはどう対処していったらよいのだろうか。そのような課題を抱いての状況だった。/慶応大学精神科で、河合洋先生、馬場謙一先生、北穣之介先生を訪ねたあと、私たちは小平の国立武蔵病院[ママ]に向かった。[…]/[…]藤澤先生は[…]私たちの学生運動じみた性急な話ぶりに穏やかに耳を傾けられていた。私たちの話しを聞き終わって、先生は、自治体病院の現状、生活療法の背後に隠されてある問題点、精神障害者のおかれている社会的状況などを淡々と語りはじめる。学会闘争だけを焦点にした私たちの視点をはるかに凌ぐ広い視野を展望させる語り口だった。」(松本[2010:126-127]、中山による回顧として中山[2010:120])」
「☆13 以下が略した部分だがその意味することをよく読み取れない。
「中山 […]金沢学会闘争は、少なくとも京都大学の精神科医が中心になってやったわけではないのですよ。
松本 そうではないと思いますね。やはり関西精神科医共闘会議ですよね。
中山 関西精神科医師会議という組織があって、現状認識に関しては一致していたのですが、立て看板をつくったりするのが上手な人がいて、勝手にやっていたのではないかと思いますね。」
「☆14 続く部分は以下。
「中山 そういう意識はあったと思いますが、それでは周到に計画されて、目標を持って、戦術を立ててやったかというと、必ずしもそうではない。理事会側にしても、理事会の周りの先生方、つまり教授層にしても、精神医療の悲惨さという共通の認識があったというのが僕の結論なのです。ですから、精神医療の悲惨さということに対する共通した認識が、旧体制の中でも、極右的な人とそうではない人を分離させたように僕は思います。
広田 金沢学会が始まる前は、そういう共通した認識はなかったと思います。
中山 そうですね。なかったのです。
広田 そういうものが浮き彫りにされたという意味で、僕は金沢学会を評価しています。
中山 やはり、現状の悲惨さという言葉で言いあらわされているものは、一部の先生方を除いて共有できていたのではないか。にもかかわらず、必ずしも目標や戦術を立てずに突っ込んだ部隊が、あれよあれよという間に学会を支配するようになってしまった。
広田 学会で討議を重ねているうちに、変な部分がどんどん出てきたということですね。
中山 そういう感じですね。
広田 そこの中で学会の方針というのが少し変わっていったと思いますね。
松本 僕は、そうとは思わないですよ。わかっていながら、それに対して何もしようとしない、しかも、認定医制度という体裁のいい制度をつくって、ますます権威づけようとしていくことに我々は怒ったのですよ。」(広田他[2010:23-24?])
◆松本 雅彦 20100510 「藤澤敏雄先生 追悼」,精神医療編集委員会編[2010:126-128]*
*精神医療編集委員会 編 20100510 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon]/[kinokuniya] ※ m.(更新)
「そう、たぶん昭和44(1969)年春のことだった、はじめて藤澤先生にお会いしたのは……。
5月に開催を予定されている日本精神神経学会第66回大会(通称 金沢学会)を前にして新井清(故人)に誘われるまま、中山宏太郎とともに、三人で東京に赴いた。精神病院の荒廃、その劣悪な医療を支える医局講座制、そのなかで精神神経学会はなお学会認定医を制定化しようとしている。精神科医療を取り巻くこの状況に、私たちはどう対処していったらよいのだろうか。そのような課題を抱いての状況だった。」(松本[2010:126])
◆中島 直* 2002/12 「精神障害者と触法行為をめぐる日本精神神経学会の議論」
http://www.kansatuhou.net/04_ronten/08_01nakajima.html
*精神科医/多摩あおば病院/日本精神神経学会精神医療と法に関する委員会委員
「2 71年総会シンポジウム「刑法改正における保安処分問題と精神医学」
1971年6月14日、総会シンポジウム「刑法改正における保安処分問題と精神医学」が開かれた(精神経誌、74(3):189-230,1972)。司会は高木隆郎および逸見武光、シンポジストは平野竜一、中山研一、樺島正法の3人の法律家、および樋口幸吉、西山詮、中山宏太郎の3人の精神科医であった。[…]
中山(宏)は、病床数の地域差から、入院率と経済・労働政策が密接に結びついているとし、また医療機関が大量収容と希薄な医療を前提としていること、措置入院は治療のための入院ではなく公安上の必要であること、慢性患者への精神医学の貢献は乏しいこと等を挙げ、保安処分は抑圧の強化であるとした。」
「IV 保安処分をめぐる法務省とのやりとり
1 保安処分に反対する委員会の発足
1971年7月31日、中山宏太郎を委員長とし、保安処分に反対する委員会が発足した(精神経誌、73(7):608,1971)。同年8月、同委員会は、保安処分制度新設に反対する意見書を出した(精神経誌、73(9):739-741,1971)。ここで挙げられた保安処分反対の理由は、(1)精神障害者及び酒精薬物嗜癖者に保安処分を課す理由があげられていない、(2)精神障害者、酒精薬物中毒者に対して将来的危険性の確実な予測表は存しない、(3)精神障害の診断、責任能力の判定の困難さ。刑事政策に影響されやすく、とりわけ精神病質概念は問題、(4)政治的弾圧の手段となる、(5)拘禁状況下において治療が成立するのは至難のわざ、(6)精神障害者、酒精薬物嗜癖者の個人の自由の保障を認めないことになり、刑事政策による精神科医療に対する不当な圧迫である、といった諸点である。」
「5 82年総会シンポジウム「保安処分」
同月8日、森山公夫、山下剛利を司会、中山宏太郎、米倉育男、長田正義および小沢勲、白澤英勝をシンポジストとし、木田孝太郎、大野萌子、飯田文子を指定討論者として、総会シンポジウム「保安処分」が開かれた(精神経誌、84(11):852-888,1982)。
中山は、保安処分に反対する論拠の歴史的推移について述べた。まず出されたのは、1965年ころまでに行われた調査で明らかにされた再犯予測の不可能性であり、次に出されたのは医者の権限が極度に限られた監獄の中では治療は不可能であるとの論点であった。またその後に出された反対論として、保安処分は保安を目的としており、治療目的のものとは明らかに違うというものを挙げた。裁判官を医療に介入させたドイツ、結局終身の不定期刑をもたらすイギリスの状況についても批判を加えた。」
「2 処遇困難者専門病棟問題
1987年9月、精神保健法が成立した。この精神保健法成立の背後で、道下忠蔵を主任研究者とする厚生科学研究班による、いわゆる処遇困難者専門病棟の問題が進んでいた。研究内容が公表されたのは1990年の4月11*であり(以下「道下研究」等と略記する)、全国で1971例の処遇困難例が入院している、指定精神病院を再編成して軽度の患者を治療し、原則として国公立病院に集中治療病棟を設置して、これらでも対応困難な症例や長期化した症例に対しては専門病院の設立を検討すべきとの内容であった。これに対し、翌1991年5月15日、保安処分に反対する委員会が批判的検討を行って公表した(精神経誌、93(8):724-732,1991)。患者側の要因のみが「処遇困難性」を構成するものではないこと、患者側要因にしても無限の因子があり、研究が「暴力行為」「犯罪歴」「人格要因」の3つを重視する根拠は不明であること、開放化は処遇困難の問題とは独立であること、開放化を阻む要因である人的財的資源の絶対的不足への解決努力の不在、集中治療病棟への入院申請者に司法関係者が含まれているのは不可解であること、治安的乱用の道具への道となるものであること、第三者機関はますます精神医療と他科医療から異なる原理に立たせることになること、提言どおりの制度化を行えば集中治療病棟の飽和はかなり確実と思われること、医療内容については言及されていないこと、現在の低い精神医療現場の水準を反映していること、犯罪と精神障害を特別に関連づける姿勢が存在すること、実態調査と提言との間に飛躍があることを挙げて批判点とした上で、治療困難の問題の検討には(1)患者側要因に還元しないこと、(2)一般精神医療の水準の向上との関連で考察すること、(3)臨床的研究、特に個別、具体的な分析、研究に基礎をおくこと、(4)かつての保安処分を巡る論議を踏まえることが必要、と主張した。
こうした反対の動きに対し、この道下研究班の班員でもあり、またかつては保安処分に反対する委員会の委員長でもあった中山宏太郎が反論の論文(精神経誌、93(6):434-440,1991)を発表した。そこで主張されたのは、精神医療が強制力を持つ根拠は保安機能と患者保護機能であり、法積極主義は保安機能のみを強制の根拠としたが、患者保護機能を排除することは近い将来には不可能で、精神医療を医療に純化させると犯罪を犯した患者を有無をいわせず刑務所へ送る無慈悲なことになり、強制入院を完全に廃止すれば多数の患者を刑務所に送り、私宅監置と搾取にまかせ、行き倒れさせることになること、「報告書」は裁判所機能の強化を主張しておらずイギリス型保安処分を提起しているのではなく、むしろ優先的に提起しているのはイギリスの地域治療体制であること、開放処遇のためにその隘路となる処遇困難者を都道府県立病院が引き受けるべきだとする主張があり、正しいと直ちには言おうとは思わないが、これを無視して開放化を展開せよと主張することは到底出来ないこと、400人の保護室常時使用の全てが保護室から出られるようにすることが「報告書」の願いであること、少年期からいわゆる「精神病質」とされ、少年院等にいたことのある人が成人し精神分裂病を発病した場合、その後の犯罪の時に心神喪失であるとすることの是非が重要な問題であることなどである。」
「IX これまでのまとめと今後の展望
概観してみると、この問題についての議論は、1960年代から繰り返し同じ論点が出されていることがわかる。触法行為を犯した精神障害者に対し、現状の措置入院では不充分であること、被害者への配慮も必要であることなどを理由とし、特別な制度を必要とする立場の主張がなされるが、再犯の予測可能性、仮にそうした制度を作ったとしてその対象となる者の治療可能性、そうした制度ができたときの当該「触法行為」の事実審理の不透明性と構成要件の拡大適応可能性等から反論がなされるのである。他に、矯正施設内の精神科医療の問題、精神病質者(人格障害者)の問題もしばしば指摘されている。
1971年の保安処分に反対する決議は圧倒的多数によって行われたものであり、当時を知るべくもない筆者にもその討論の記録や数から精神科医たちの熱意、この問題への危機意識の強さをうかがうことができる。その後の活動も併せ、当学会はこれまで保安処分導入を阻止してきた運動の一翼を担ってきたことは、歴史的な意義を有することと言えよう。
しかし、当学会員を含む精神科医の中に、特別な制度を期待・提唱する動きがあったことも事実である。それがはっきりと表面化したのはいわゆる処遇困難者専門病棟問題である。そしてこの問題は、長く保安処分に反対する委員会委員長であった中山宏太郎がその研究班員に加わっていたことに象徴されるように、これまで保安処分に反対していた層が特別な制度を提唱する側に回ったという新たな動きも持っていた。精神科医の転身の理由がわからないとの刑法学者の町野の発言4*を待つまでもなく、この変化は一考に値する問題である17*が、ここでは触れない。しかるに、処遇困難者専門病棟構想は、処遇困難者と触法者という対象者の混同、および施設への過度の期待など、多くの致命的な欠陥を持っていた。この構想を推進していた側からは「反対にあって実現しなかった」などといった解釈がみられるが、なぜ反対者たちが反対していたのかに全く目を向けようとしない姿勢は責任あるものとは言えない。問題があるから反対があったわけで、特にこの構想におけるそれはあまりに致命的であったのである。1992年のシンポジウムでも数多くの問題点が指摘された。」
http://nagano.dee.cc/hukusi0205.htm
◆富田 三樹生 2000 「精神衛生法改正と処遇困難者専門病棟問題の回顧――中山宏太郎氏の軌跡をめぐって」,富田[2000:216-279]*
*富田 三樹生 20000130 『東大病院精神科病棟の30年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』,青弓社,295p. ISBN-10: 4787231685 ISBN-13: 978-4787231680 3000 [amazon]/[kinokuniya] ※ m,