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西尾 健弥
にしお・けんや

「重症のALS患者から皆さんへ」
http://www2.nsknet.or.jp/~k-nishio/


石川県小松市

1990年10月 発症
1992年暮れ 妻に告知
1994年12月 人工呼吸器装着
1996年8月 在宅療養に移行
1998年3月 胆管がんを発病
1999年3月 逝去

 ホームページ「重症のALS患者から皆さんへ」
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 ・私の発病から現在までの経緯
 http://www2.nsknet.or.jp/~k-nishio/keika/keika.html

山口 進一 2000/10/07 「あいだに在るもの」(講演)より
 芸術とヘルスケア・パネルディスカッション 於:福岡アジア美術館・あじびホール
 http://www.kyushu-id.ac.jp/~tomotari/yamaguchi2.html

 「石川県の西尾さんですが、目だけがわずかに動くという方です。瞬きでスイッチがはいるセンサーを使っていたんですが、瞬きもできなくなってしまった。落ち込んでいたんですが、ある時眼球の動かし方でスイッチが入ることを発見したんですね。西尾さんは去年の3月に亡くなられたのですが、その半年前に彼が書いた文章をみてください。(音声合成システムによる朗読)「…私が白馬に行きたかった理由は、冬季オリンピックで原田選手や舟木選手などが跳んだあのラージヒルが見たかったからです。私はALSで胆管ガンと告知され…」この文章を書くのに、どれくらいの時間がかかったのでしょうか。たぶん一ヶ月はかかっていると思います。ものすごい忍耐力です。非常に立派な患者さんがおられるということです。」

 

◆「執念・上」生と死の現在(いま)−第1部
 『読売新聞』1999-06-19
 −私のため人工呼吸器つけて−
 −末期症状の夫に妻は頼んだ−
 −この人を絶対幸せにしよう−
 http://hokuriku.yomiuri.co.jp/inotitokenkou/inoti/0619.htm


 「人工呼吸器はどうしますか。着けなければ、いつ死んでもおかしくない状態ですが……」−−。
 94年12月初旬。加賀市の国立療養所石川病院の診察室で、小松市打越町の西尾知子(53)は、主治医から人工呼吸器に夫の命を預けるかどうかの選択を迫られた。夫の健弥はすでに筋委縮性側索硬化症(ALS)の末期症状で呼吸困難が続き、一刻の猶予もなかった。
 ALSの治療法はないが、のどを切り開き、人工呼吸器を着ければ、数年間寿命を延ばすことはできる。しかし、呼吸すら自力でできないため、たんの除去など24時間態勢で家族の介護が必要とされる。
 知子は健弥に病名はもちろん、治る見込みのないことなどを初めてここで告げた。呼吸器の問題も話し合った。健弥の2人の娘はすでに独立し、知子と2人暮らし。介護の負担を気遣って遠慮してはいけないと、知子は健弥に「私のために着けてくれ」と頼む。健弥も死を目前にして、初めて心底、生きたいとの渇望がわき起こる。が、その一方で、「迷惑をかけるだけで、何の役にも立たない者に生きる価値があるのか。それはエゴで、生に執着している哀れな姿ではないか」と、悩む。
 そんな折、見舞いに来た日本ALS協会事務局長の松岡幸雄(故人)の言葉が2人に決断を促した。
 「春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色。生きていればどんな素晴らしいことに出会えるかもしれない。苦しいかもしれないが、こんな体だからこそ、生き続けることに価値があるんですよ」。
 健弥に病気の兆しが見えはじめたのは90年10月、49歳の時だった。右足のつま先に違和感があり、スリッパが上手にはけない。健弥は「疲れかな」と考えた。東急電鉄の静岡県・御殿場事務所長として、仕事にも脂が乗ってきた時期で、リゾート開発の許認可申請で、県庁や都庁などを飛び回っていた。
 いくつかの病院で診てもらったが、原因ははっきりせず、「ヘルニア」の疑いを持たれ、手術した。しかし、回復するどころか、左足にまでしびれが起き、歩くとき壁や人の肩が必要となった。
 92年の暮れ、何度か訪れた東京女子医大で、主治医は知子に初めて病名を宣告した。「ALSです。予後は五年。全身の筋肉がだめになり、死に至ります」。この時、知子は初めてALSという病気を知った。医学書を読みあさり、患者会にも電話を入れた。どうしても納得できず、年末には別の病院を訪れるが、結果は同じだった。
 大学病院処方の治験薬を飲む一方、針や気功などの民間療法も試みるが、症状は改善しない。日を追って悪化する病状に、不安は確信に変わり、恐怖が現実となった。
 次第に手も動かなくなる。それでも、健弥は車いすで出勤。治ると信じ、会社にまでロープを持ち込んでリハビリに努めた。知子はそんな健弥のひたむきな姿に、病名を知らせることも、「もう会社を休んだら」とも言い出せなかった。
 やがて寝返りが打てなくなり、言葉も失っていく。毎晩、寝る前に歌っていた都はるみの「大阪しぐれ」のカラオケは、徐々に歌詞が減り、半年後には1番すら歌い切れなくなっていた。
 ほぼ全身まひの状態になり、呼吸困難に陥って救急車で病院に運ばれたこともある。会社では配置換えで、ほとんど机に座っているだけの窓際族の状態に。それでも会社へのこだわりは強く、休もうとしない。知子は送り迎えのほか、1、2時間おきに会社へ赴き、トイレ、食事、お茶の世話や、背中をさすり、床擦れしないようにといすの位置を変えてあげた。
 主治医はこんな状態で出社していることに驚き、何度も入院を勧める。が、健弥は聞き入れなかった。健弥にとって、会社へ行くことは生きる大きな支えとなっていた。
 「おれの体は1日休んだら、もう2度と行けなくなってしまう」。そんな悲壮な決意を知子に漏らしたのもそのころだ。しかし、会社側は健弥の体を気遣い、94年11月半ば、遠回しに休職をほのめかす。その1週間後には、もう会社へ行く気力も体力も健弥には残っていなかった。2人は入院のため、川崎市内の自宅を処分し、健弥の故郷・小松市へ帰ることを決める。
 健弥はよく、会社からの帰りの車内で、1日の出来事を知子に語った。「きょうね、窓の外の木にスズメがやってきて、楽しそうに鳴いているんだ…」。それは決まって、窓外での光景だった。社内で醜態をさらし、居づらいであろうに、愚痴や不満は少しもこぼさない。恥ずかしさやプライドを捨てて、家族のために懸命に働いている。そんな健弥を見て、知子は心に誓った。
 「絶対、この人を幸せにしてあげよう」
(敬称略)

【筋委縮性側索硬化症(ALS)】
 手足や腕、肩などの運動神経が次第に侵され、筋肉の委縮と筋力の低下を引き起こす進行性の難病。知的な障害はなく、意識は明確なままだが、やがて呼吸ができなくなり、死に至る。近年は人工呼吸器の装着で、延命できる患者も多い。発病の原因や治療法は見つかっていない。日本ALS協会(東京都新宿区、TEL:03・3267・6942)によると、現在、国内には約4500人の患者がおり、うち24時間寝たきりで介護が必要な患者は約2000人。患者は男性に多く、発病のピークは50代。

[写真解説]人工呼吸器をつけて初めての旅行。珠洲市内のホテルに着いて思わず健弥さんに向かってばんざいする知子さん(97/5)

◆「執念・下」生と死の現在(いま)−第1部
 −病院は生活する場じゃない−
 −「愛してる?」初めて「好き」−
 −充実の介護7年幸せだった−
 『読売新聞』1999-06-26
 http://hokuriku.yomiuri.co.jp/inotitokenkou/inoti/0626.htm


 「払いのけても払いのけても死は、私を誘惑してやまない。だから立ち止まったら負け。私は、前へ前へと進む……。死と隣り合わせの生は、すべてが輝き、今が、この一瞬が、泣きたいようにいとおしく感じられます」……。
 昨年12月13日。小松市公会堂で開かれた命をテーマにしたコンサートの冒頭。女性ボランティアに車いすを押され、ステージ中央に登場した小松市打越町の西尾健弥のメッセージが友人によって代読されると、会場を埋め尽くした1200人の市民からは、惜しみない拍手が送られた。
 コンサートは、難病を患いながらも懸命に生きる健弥の姿に感動した保健婦らのボランティアグループが企画。健弥も「眼球しか動かない人間でも、やればできる」ということを、身をもって伝えたいと参加した。
 3時間以上に及ぶコンサートのフィナーレは、詩人の谷川俊太郎やボランティアら全員で、森山良子のヒット曲「この広い野原いっぱい」の合唱。会場も一緒となって熱唱した。
 この歌は、ボランティアたちがよく、「あなたにあげる」の歌詞を、「健弥さんにあげる」と替えて歌い、健弥のテーマ曲となっていた。健弥は、お気に入りのメロディーに聴き入りながら、筋委縮性側索硬化症(ALS)発病以来の日々を思い巡らしていた。
 人工呼吸器を着けての闘病生活は、想像以上に大変だった。命は取り留めたが、言葉が出なくなり、健弥は目のまばたきで意思を伝える。しかし、思うように伝えられないいらだちからストレスがたまり、妻の知子(53)とよくけんかした。一方、知子も精神的、肉体的な疲れから、一時は胃かいようと十二指腸かいようを患う。
 1年8か月の入院の後、96年8月、在宅療養が始まる。人工呼吸器をつけたALS患者の在宅療養は、石川県では初めて。医師の多くは介護の苦労などを理由に反対した。が、知子には「人間らしい生活をさせたい。病院は治療する所で、生活する場所じゃない」との強い思いがあった。
 健弥は症状がやや安定したこともあり、何事にも積極的、意欲的に取り組んだ。まばたきと光センサーを利用してパソコンを打ち、全国の仲間と通信。「ようこそ健ちゃんチへ」と題したホームページを開設し、闘病生活を披露した。
 さらにボランティアらの手助けを得て、97年5月には能登、翌年9月には白馬を旅行した。金沢市内の病院を訪れ、同じ病気の患者たちを激励したこともある。
 健弥の前向きな生き様は、多くの人に同情や哀れみではなく、純粋に感動を与えた。「勇気づけられる」「自分の生き方を見つめ直すきっかけとなりました」。そうした多数の電子メールや手紙が寄せられた。
 健弥は何もできないと思っていた自分が、微力ながらも役立っていることを知り、かつて病床のまくら元で日本ALS協会事務局長の松岡幸雄が励ましてくれた言葉の意味がようやく分かりかけてきた。
 そのころ、健弥には一つの夢があった。全身まひ同然の自分を最後まで温かく支えてくれた東京の会社の仲間たちに自分の姿を見せ、お礼を言うことだった。
 ところが非情にも、そんな健弥の闘病をあざ笑うかのように、昨年3月には胆管がんを発病。「まだ、やりたいこともあるし、生きたい」。すでにまばたきもできない健弥は眼球の横移動で2時間もかけて知子に意思を伝え、医師に手術を懇願する。しかし、手術に耐えられるだけの体力は残っていなかった。
 健弥に死期が差し迫る。今年に入ってからはがんが進行し、苦しみだす。知子にとっても、緊張の日々が続く。そんな2月中旬のある日、いつものように知子は「私のこと愛してる?」と、健弥に問い掛けた。いつもは決まって「嫌い」と冗談めかしていう健弥が初めて、「好き」と答える。予期しない返答に、知子は再度、「本当?」と尋ねると、健弥は「そう」という。知子は、どことなく寂しそうな健弥にキスしながら、夫が自分の死期を感じ取っているように感じられた。
 やがて腹水や胸水がたまり、3月1日に緊急入院する。意識不明に陥り、脈も薄くなっていく。胃や腸、腕など体には多数の管やコードが付けられ、さながらスパゲティ状態。「とても家に連れて帰れない。ここで命をもらったし、ここで死ぬのも運命かな」。知子はあきらめかけた。
 ところが、看護婦から「このままだと病院で死んでしまう。在宅で頑張ってきたじゃない。家に連れて帰りなさい」と助言され、思い直す。
 健弥は6日間を自宅で過ごし、8日昼過ぎ、知子や娘たちに看取られながら、安らかに息を引き取った。57歳だった。手元には最後まで出席を楽しみにしていた翌9日の金沢市内の看護専門学校からの講演依頼が残されていた。
 知子は92年3月に、離婚して独り身だった健弥と結婚。それまでは自分のためにだけ、気ままな人生を送ってきた。ましてや、男性のために尽くすなんてまっぴらと考えていた。
 それが、新婚早々、難病のALSを抱えた“宝くじ”を引いてしまった。でも、そのくじは知子の人生観を変え、かけがいのない生と死、そして命の尊さを教えてくれた。
 7年に及ぶ介護は、長いようで短かった。苦しいことも多かった。泣いたこともあった。が、夫の死から3か月以上たった今、知子にはあの1日、1日がとても充実して感じられる。そして、何よりも幸せだったと。(敬称略)
(鈴木英二)

 [写真の解説]最後の外出となった昨年12月の小松市公会堂でのコンサート会場で、「生と死を考える会全国協議会」会長のデーケン上智大教授(左)から激励される健弥さん

 

◆筋萎縮性側索硬化症の「メル友」訪問 西尾さんのめい福祈る 小松市
 2001年6月24日 『北國新聞』朝刊より
 http://www.fsinet.or.jp/~makosanz/newspaper6.htm

 「難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)で二年前に亡くなった小松市打越町の西尾健弥さん(享年五十七歳)と、メールで交流を続けていたALS患者の山口進一さん(62)=福岡県宗像市=が二十三日、西尾さんの自宅を訪れた。山口さんは「生きている時に会いたかった」と声を詰まらせ、めい福を祈った。
 ALSは徐々に運動神経が萎縮して全身の筋力が衰え、最後は自力呼吸も出来なくなる難病。原因不明で、今のところ治療法もないとされる。
 山口さんは一九九六(平成八)年九月、ALSの告知を受けた直後にALS患者のメーリングリストで西尾さんと知り合い、交流を始めた。全身が麻痺した西尾さんが目の動きだけで操作できるパソコンを使い、難病と闘う仲間たちを励まし続ける姿勢から、生きる勇気をもらったという。
 山口さんは人工呼吸器を使い、日常会話はできるため、各地で精力的に講演しており、「西尾さんのことを紹介し、同じ病気で苦しむ人を勇気づけたい」と話した。
 西尾さんの妻の知子さん(55)は「夫がメールで初めて交流したのが山口さん。闘病生活から世界が広がり、心の支えになっていた」と在りし日をしのんだ。」

◆ようこそ健ちゃんチへ
 “重症のALS患者から皆さんへ”
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  目次
お知らせ(音楽会と講演会と)
  お詫び
  我家のご案内
1、ALSとは
2、私の発病から現在までの経緯
3、私の在宅療養生活
 1)介護者である妻から二言三言   (只今工事中、暫くお待ち下さい)
 2)医療体制と在宅療養の一週間     
 3)在宅に必要な医療器具とその金額 (只今工事中、暫くお待ち下さい) 
 4)在宅療養での諸費用       (只今工事中、暫くお待ち下さい) 
 5)食生活
 6)私のパソコンについて 
4、外出とホームコンサート

メールはこちらまで



私の発病から現在までの経緯
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 私は,7年余り前に身体に異常を感じました。当時の年齢は4
9歳でした。それであちこちの病院を転々とするうちに希に見る
難病と診断されたのです。この間、私の場合は右足から麻痺が始
まったので、腰椎のヘルニアに間違えられて手術を受けました。
効果のあることを期待しましたが当然ありませんでした。そして、
整体、気功、針などの民間療法もやってみましたが、気休めでし
た。身体に異常を感じてから4年で全身麻痺になり,呼吸困難に
陥り,食事も飲み込めなくなったので,国立石川病院に1年8カ
月入院の末,昨年8月から在宅療養しています。
 入院時,延命措置としてつけたのが人工呼吸器です。呼吸器を
付けて1年ほど苦しみましたが、今はすっかり身体の一部になり
ました。
 今から3年程前になります。人呼吸器を付けて生きてゆく決断
をしたのには幾つかの理由がありました。
その1、私は現在の妻とは再婚で、6年前に結婚しました。折
    しも、ALSの病気が忍び寄っている時でした。それから
    妻と一緒にこの病気とたたかってきました。ALSと診断
    されたときは絶望感が気持ちの中に走りました。しか 
    し、いくら悩んでいても解決出来ないことです。そこで
    折角ここまで乗り切ってきたのだから、諦めるてはない
    と思い、妻のためにも生き抜こうと私なりに考えていた
    とき妻が、私のために生きていて欲しい、と気持ちを告
    げてくれました。妻と在宅療養を前提に人工呼吸器を付
    けることを話し合っていました。
その2、私には二人の娘がいます。娘達が小学校の時から私、
    男手一つで育ててきました。人工呼吸器を装着する直前
    では、長女はすでに結婚しており、子供が一人いまし 
    た。次女は結婚の日取りが決まっていました。私は孫の
    成長を見守りたかったのです。
    (これは次女の子供です。私が人工呼吸器を付けた
    1年後に生まれました。)
その3、発病してから人工呼吸器を付けるまで、会社の上司、
    先輩、同僚、後輩、友人、知人、親戚、縁者など大勢の
    かたがたから温かい励ましを度々頂きました。この大勢
    の人達のご好意に報いる為にも、人工呼吸器を付けて生
    きていてこそ恩返しになると考えていました。そして、
    同病者のためまた世のために少しでも役に立ちたいと 
    思っていた。
その4、このことを決定付けたのは、日本ALS協会の事務長で
    した。事務長はわざわざ東京から入院先の病院まで訪ね
    てこられ、死と生きることについて説かれました。春の
    桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が
    楽しめるではないですか。それと生きていれば、どんな
    素晴らしいことに出会うかもしれない。と生きている喜
    びを強調されたのです。
    (これは我家の庭の雪景色、この景色を眺めながら
    入浴します。)
 これらの理由で、人工呼吸器を付けて生きてゆく決心をしたの
です。
 ALSと診断されたとき、人工呼吸器の装着するときは、それま
で長い間麻痺の進行に悩まし続けれてきたので、その方が心理的
苦痛が大きかったため、それほど大きな障害はなかったと記憶し
ています。

 
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■立岩『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [52]西尾健弥(石川県)は一九九〇年十月に発症、九二年暮れに妻が「予後は五年」と知らされる[15]。九四年十二月人工呼吸器装着、九六年八月在宅療養に移行、九八年胆管がんを発病、九九年三月逝去(西尾[-1999]他)。
 [192]一九九四年十二月、国立療養所石川病院の診察室で、西尾知子は「主治医から人工呼吸器に夫の命を預けるかどうかの選択を迫られた。夫の健弥は[…]呼吸困難が続き、一刻の猶予もなかった。/[…]/知子は健弥に病名はもちろん、治る見込みのないことなどを初めてここで告げた。呼吸器の問題も話し合った。健弥の二人の娘はすでに独立し、知子と二人暮らし。介護の負担を気遣って遠慮してはいけないと、知子は健弥に「私のために着けてくれ」と頼む。健弥も死を目前にして、初めて心底、生きたいとの渇望がわき起こる。が、その一方で、「迷惑をかけるだけで、何の役にも立たない者に生きる価値があるのか。それはエゴで、生に執着している哀れな姿ではないか」と、悩む。/そんな折、見舞いに来た日本ALS協会事務局長の松岡幸雄(故人)の言葉が二人に決断を促した。」(『読売新聞』[1999])
 西尾健弥[52]の文章では、その一に妻、二に孫、三に会社の人や友人や親戚のことを記した後、それが次のように書かれる。「決定付けたのは、日本ALS協会の事務長でした。事務長はわざわざ東京から入院先の病院まで訪ねてこられ、死と生きることについて説かれました。春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか。それと生きていれば、どんな素晴らしいことに出会うかもしれない。と生きている喜びを強調されたのです。」(西尾[1997])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
・更新:20011206,20021005
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