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>HOME >WHO ながい・ひとし (購入額の3〜5%、[boople]からその本を買っていただけると5〜7%が、寄付されます。) 哲学 信州大学教授→千葉大学 ◆名本哲也『勝手に永井均評論ページ』 http://ugpc.hp.infoseek.co.jp/nagai/index-nagai.html *立岩のデータベースにあったもののみ(※は生存学資料室所蔵) ◆19860925 『<私>のメタフィジックス』 勁草書房,243p. 2200 ※ ◆19900605 「他者」 市川・加藤・坂部・坂本・村上編[1990:207-264](『エロス』 (現代哲学の冒険4)) ※ ◆19910205 『<魂>に対する態度』 勁草書房,257p. 2266 ※ ◆1993 「怨恨なき復讐」 『理想』No.652(1993) ◆19950120 『ウィトゲンシュタイン入門』 筑摩書房,ちくま新書,222p. 680 ※ ◆19951225 『翔太と猫とインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』 ナカニシヤ出版,219p. ※ ◆1996 『子どものための哲学』 講談社現在新書 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」 ◆1997 『ルサンチマンの哲学』 河出書房新社 序章 『星の銀貨』の主題による三つの変奏 第一章 ルサンチマンの哲学――そしてまたニーチェの読み方について 第二章 幸福・道徳・復讐 新新宗教 見えないヨーロッパ――その原点の点描 よく生きることヤテ、そらナンボのもんや? 怨恨なき復讐――われわれの時代のルサンチマン 第三章 永遠回帰の哲学――あるいはまたニーチェへの問い方について *ルサンチマン:「現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のこと」(p.15) ◆19980520 『これがニーチェだ』 講談社現代新書1401,221p.,660円 松本134 ◆池上 哲司・永井 均・斎藤 慶典・品川 哲彦 編 19940215 『自己と他者――さまざまな自己との出会い』 昭和堂,叢書エチカ3,264p. 2500 ※ ●翻訳 ◆Girard, Rene 1978 Violence and Representation in the Mythical Text To Double Buisiness Bound, Johns Hopkins Univ. Press =1981 大原えりか・永井均訳,「暴力と表象――神話テキストにおける」 『現代思想』9-12(1981-11),9-13(1981-12) ◆Nagel, Thomas 1979 Mortal Questions, Cambridge University Press=19890620 長井均訳,『コウモリであるとはどのようなことか』,勁草書房,339+2p. 3000 cf.Nietzsche, Friedlich http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/nietzsch.htm ●言及 ◆立岩 真也 2004 『自由の平等』,岩波書店 第2章・注 ★01 基本的には第1章五節1に記したことで済んでいるのだが、取り上げて論ずるに値しない粗暴で狭量なものも含め、政治や経済が論じられる中でこうしたことがしばしば語られるので、一つの章とする。[…] 私は、稲葉[1999:298-299]に触発されてノージックやハイエクがこのことについて書いたことも見ておかなくてはと思った(もう一つ気になっていたことについては注3)。そこではニーチェとハイエクが並べられている。(該当箇所にはニーチェは出てこないのだが「ルサンチマン」という語はある。そしてこの本は永井均の論を取り入れて組み立てられようとしている。)ハイエクとニーチェという取り合せはわからないでもないが、しかし違和感があり、その違和感が気になった。そして次のような言明が私にはわからなかった。「「偉大な社会」において平等主義を追求することは、個々人の間の差異、唯一無二性の否定につながる、とハイエクは論じる。それはそれぞれの個人がそれぞれに唯一無二の存在である、という事実を受け入れられない心弱さ、それに基づく弱者の強者への嫉妬を正当化する思想に他ならないのだ、と。」(稲葉[1999:298]) ニーチェがなんだかすごいのは少なくともハイエクの主張との親和性を読み取れる部分ではないはずなのにという感じ、もっと直観的に、ハイエクはニーチェに比べたらどうしてもたいしておもしろいと思えない感じが、読む前にあった――読んだ後もその感想は変わらなかったのだが。 注3で言及する石川准も、永井均経由できつねとぶどうの話をもってくる。またニーチェだ。もう一つの疑問。ニーチェの言ったこと、言ったこととされていることは、とてもおもしろいのだが、同時になにかおかしい、と思える。それはなぜか。こうしたことも気にしながら本稿は書かれる。このことについては注11に続く。」 ★11 「[…]ルサンチマンという把握自体が、ルサンチマンに内属してしまう。どうしてこういうことになっているのか。どこかで倒錯が起こっている。そしてそれはたぶん、ニーチェを正しく読むとか間違って読むとかいうことではなく、彼の本にはどちらも書いてある、彼には両方の思考があるということではないかと思う。まっすぐなもの、「自然」なものと先に述べたものが「生」なのだが、それはいわゆる「強い生」(「力への意志」?)として想定されていることがあり、またそんなことに関係ないただの「生」であることもある。 ニーチェにおいてこのところがどのように辻褄が合っていたのかあるいは合っていなかったのか、それは知らない。ただ、生存すること、存在することがそのままで肯定されてよいなら、行ないと存在とのつなげ方も存在の否定のあり方であり、否定されてよいものである。それなのに変だ、というのが注1に記したことだ。変だと思って永井の本(永井[1998])を読むと、彼はニーチェの第二空間、第三空間と彼が呼ぶものを描いている。それを読まれるのがよい。」 永井 均 1997 『ルサンチマンの哲学』,河出書房新社 <305> ――――― 1998 『これがニーチェだ』,講談社現代新書 <312> REV:....20040930 ◇WHO ◇哲学・政治哲学 |