永井潜
「人類をして佳良なる子孫を蕃殖せしめ、不良なる者を絶滅せしめようと思うたならば、先づ第一に其種子即ち遺伝によりて子孫の形質を定むべき単位性質に目を著けねばならぬ」
「教育によつて愚者の蒙を啓き、法律によりて犯罪者の害毒を防遏し、宗教によつて悪人を改悔せしめ、社会制度の改良によつて弱者の窮乏を軽減せしむることは、或る範囲までは不可能(*ママ)である。併し之によつて同時に其子孫をして智を増し、罪を遏め、悪を悔い、窮乏より免れしむることは出来ぬ」
「人類に在りては、自然と共に文化が働きかける。そして人文が向上進歩すればするだけ、前者よりも、寧ろ後者が重きをなす様にな」り、「広義に於ける教育即ち後天的環境の影響に重きを置いて、先天的素質の大切なることを閑却する様になる」。その結果、「教育さへすれば、愚なる者も賢くなり、衛生の道を講ずれば、虚弱なものも強壮になり、宗教や法律によつて、善人が増し、政治や経済によつてのみ、生活が安定になると信じ」る環境偏重型の社会がつくられてしまった。しかし、「輓近生物学の進歩は、正さに斯る考を裏切つた」。「遺伝因子に於ては、環境の力によつて、思ふが儘に之を変化せしめやうと云ふが如きことは、殆んど望むべからざることであるから、人間を始め、生物の種性を改善せんとするに当つては、何れの点から見ても、環境の力に希望を繋ぐことは出来ない」
「『玉磨かざれば光なし』と云ふ諺があるが、要するに環境の力は磨くことである。…併しながら、如何に磨けばとて瓦は所詮瓦であつて、到底玉にはなり得ない。個体の生存の上に環境の必要な理由も、種性の改善の上に環境の無力な所以も、之によつて甚だ明瞭である。どうしても内的遺伝が第一義であり、外的環境は第二義でなければならない」。