野辺 明子
のべ・あきこ
・先天性四肢障害児父母の会
■2008/09/06
◆当事者にとっての「遺伝」
日時: 2008年9月6日 14時00分-16時00分
於:立命館大学衣笠キャンパス 創思館4F 401/402
◇内容・プログラム
障害や病気をめぐる当事者運動のなかで、「遺伝」とはいかなるものだったのか− 「遺伝」が人々の口にのぼる場面に思いを馳せ、どのような思いから、どのように表現されてきたのかを当事者の語りから模索します。
【プログラム】
報告者:野辺明子(先天性四肢障害児父母の会)
中井伴子(日本ハンチントン病ネットワーク)
コメンテーター:武藤香織(東京大学医科学研究所)
司会:松原洋子(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
◇シンポジウムチラシ○
◇お申し込み
参加費:無料(事前申込要)
定員:40名 ※事前予約制:お名前・ご所属・ご連絡先(E-mail・FAX)を明記の上、
下記のE-mail・FAXにてお申込み下さい。
(当日の参加も可能ですが、満席の場合は予約者を優先いたします)
◇申込・問合せ先:立命館大学生存学事務局
TEL: 075-466-3335 FAX: 075-465-8371
E-mail:ars-vive@st.ritsumei.ac.jp(@→@)
■2004/12/03, 12/10
Date: Fri, 26 Nov 2004 23:24:30 +0900
Subject: [jsds:10067] 野辺明子さん・麻衣子さんの講演のお知らせ
障害学MLの皆様
堀さんより
以下、転載歓迎
*子どもにかかわるすべての人に*
障害に向き合った子育て −母と子の講演−
さいたま市立 生涯学習総合センターとの共催事業として開催します。
“障害”ってなんでしょうか。「他人とちがうこと」が生きにくさにつながっている
その状況こそが“障害”なのではないでしょうか。そしてそのような状況は、子ども
を育てていく中で、また自らの人生の中で、多々起こりえます。右手に障害を持って
生まれた長塚麻衣子さんとその母である野辺明子さんのこれまでのお話をうかがいな
がら、自らの子育て・生き方を問い直す機会をもちたいという思いでこの講演会を企
画しました。母と子の、両者の話を聴くことで、命を生み育てる大人として、「いの
ち」とどう向き合っていけばいいのか、一緒に考えてみませんか?
子どもに関わるすべての人にぜひ聴いていただきたいと思いますので、お誘いあわせ
の上、おいでください。
第一回
*母の講演* 2004年12月 3日(金)10:15〜12:00
「障害をもった子どもとともに」
<講師>先天性四肢障害児父母の会 元会長
野辺明子さん(母)
第二回
*子の講演* 2004年12月10日(金)10:15〜12:00
「障害とともに」
<講師>主婦・2児の母
長塚麻衣子さん(子)
保育あり(15人定員、要申込 おやつ代1回あたり100円かかります。)
申込みは、直接または、電話にて 生涯学習総合センターまで。 TEL:
048-643-5651
会場 生涯学習総合センター 10F多目的ホール
さいたま市大宮区桜木町1-10-18(シーノ大宮センタープラザ内・大宮駅徒歩7分ソ
■著書
◆19820920 『どうして指がないの?』,技術と人間,340p. ISBN-10: 4764500256 ISBN-13: 978-4764500259 1900 [amazon] ※ d.
◆19930410 『魔法の手の子どもたち――「先天異常」を生きる』,太郎次郎社,252p. ISBN:4-8118-0552-6 2100 [amazon]/[kinokuniya] ※ d.
◆毛利 子来・山田 真・野辺 明子 編 19951025 『障害をもつ子のいる暮らし』,筑摩書房,373p. ISBN-10: 4480857214 ISBN-13: 978-4480857217 2625 [amazon]/[kinokuniya] ※ c10.d.
◆野辺 明子・加部 一彦・横尾 京子 編 19990301 『障害をもつ子を産むということ――19人の経験』,中央法規出版,299p.ISBN:4-8058-1775-5 1800 [amazon]/[kinokuniya]/[kinokuniya] ※ d.
■文章
◆野辺 明子・福本 英子 198001 「先天異常の原因を求めて」
『技術と人間』09-01
◆19810910 「いのちをみつめる――手足に奇形を持つ子供たちからの通信・9」
(先天異常と子供たちの未来・17) 『技術と人間』10-09(098):124-143 ※COPY
◆19870201 「四肢障害児父母の会の12年目」
『婦人公論』072-02:360-367 ※COPY
◆19891030 「インタヴュー・障害ってなに?」
グループ・女の権利と性[89:12-131] ※/三鷹495
◆19891030 「インタヴュー・いのちの選別」
グループ・女の権利と性[89:132-134] ※/三鷹495
◆199001 「生と死の管理<脳死シンポジウム>」
『技術と人間』19-01:124-127
◆19900110 「生と死の管理」
『技術と人間』19-01(197):124-127(脳死シンポジウム(16))
◆199009 「生体肝移植に思う」
『技術と人間』19-09:034-36
(特集:なぜ脳死・臓器移植に反対するのか)
◆199105 「生体肝移植に思う」
『技術と人間』臨時増刊号:115-117
◆19940405 「NICU(新生児集中治療室)での家族の葛藤――“治療する・しない”の選択」
『ひと』22-04(1994-04):028-037 ※COPY
◆1995 「遺伝だといわれたとき,次の子をどうしよう,という心配」
毛利他編[1995:104-109]
◆19990301 「障害をもつ子の親の立場から――さりげないやさしさが親・家族を励まし、力づける」
野辺・加部・横尾編[1999:220-245]*
*野辺 明子・加部 一彦・横尾 京子 編 19990301 『障害をもつ子を産むということ――19人の経験』,中央法規出版,299p.ISBN:4-8058-1775-5 1800 ※ **
◆20000808 「障害をもついのちのムーブメント」 栗原・小森・佐藤・吉見編[20000808:105-129]*
*栗原 彬・小森 陽一・佐藤 学・吉見 俊哉 編 20000808 『語り:つむぎだす』(越境する知・2) 東京大学出版会,317p. 2600 ※
※は生存学資料室にあり
■引用
◆野辺明子 1978 「定着したのか父母の会運動――二年間の活動から」,『先天異常問題』3号
「手足の外表奇形というこの不幸な先天異常の原因が分からず、しかも環境汚染が深刻化している現代において、以前よりその不幸は誰もが感じている時、すでに子どもが奇形をもって生まれてきたという恐怖と悲しみを体験してしまった私たちは、これ以上このような子どもたちが生まれてこないよう、発生予防の願いをこめて先天性四肢障害の原因究明を誰よりも真っ先に叫び続けなければならない。」(野辺[2000:112-113]に引用)
「父母の会では環境汚染のシンボルとしてマスコミに度々取り上げられていた手足の欠損したニホンザル(奇形ザル)の写真展を全国各地で開いていた(七〇年代後半)が、「サルといっしょに私の写真を飾らないで」と小学生の女の子は訴えた。
全員究明活動そのものというより、四肢障害の子どもをありのままの姿で受けとめられない親の気持ちに潜む矛盾に対しての子どもからの異議申し立てであったかもしれない。環境問題の告発がともすると障害児を単に環境汚染のサンプル的な存在としてしか見なさない危険性を孕んでいくことを私たちは肝に銘じたのだった。」(野辺[2000:114])
◆野辺明子 1993
「社会正義の中に潜む優生思想」
「…なにか変だなと思うときがある。「障害児」を産みたくないから運動するのか。
私が感じた疑問や違和感は、たとえば、合成洗剤追放集会や勉強会にでたりするうちに怒りに変わる。「合成洗剤は河川を汚すだけではありません。奇形児が生まれる可能性もひじょうに高いのです。みなさん、粉石けんに切りかえましょう」と、どこで入手するのか、マウスやラットをつかった動物実験のデータとともに、「奇形胎児」の写真がスライドで映しだされる。それを見ればだれだって、「ああ恐い。もし私の子どもがああいう奇形児だったらどうしよう……」と思わずにはいられないだろう。「ああいう奇形児」の「そういう奇形」をもった子の親としてみれば、スクリーンに映しだされるスライドの胎児は、私の子どもといっしょであり、「ね、ね、こんな子が増えてくるとし(p.220)たら恐いでしょ」という見本として引きあいにだされていくのを見るのはいたたまれないのだ。そこには先天異常をもって生まれてくる子どもへの連帯感などありはしないのだから。」(pp.220-221)
「農協の組織が制作した、『それでもあなたは食べますか』という、アメリカの農産物輸入自由化に反対するための宣言ビデオがある。… 深刻ぶったナレーションと音楽とによって引きあいにだされてきたのが、またしても先天性の障害児であったのだ。このビデオもまた、食品の安全性を求める人たちのあいだでテキストとして高く評価され、ダビングさ(p.221)れ流布していった。」(pp.221-222)
■言及
◆立岩 真也, 20021031, 「ないにこしたことはない、か・1」石川准・倉本智明編『障害学の主張』明石書店:47-87.
(pp47-49)
障害の肯定・障害者の否定が問題になった具体的な文脈がいくつかある。一つは優生保護法の「改悪」だった。障害者の存在を否定することではないかという批判があった。また「早期発見・早期治療」に対する疑問が示された。そして、一九七〇年代以降、社会運動のもっとも大きく重要なものは反公害運動だったのだが、そのある部分は障害者運動とかけもっていた。あるいはつながっていた。それは公害に反対し、加害責任を追及する運動であり、「健康破壊」として公害を糾弾してきたのだが、その主張に障害者運動の立場と矛盾するところはないか。一九八〇年代の後半、実際チェルノブイリで事故があったりもして、原子力発電所の建設・運転に対する反対運動が、そう長い期間ではなかったが、盛り上がった。そしてその中で、放射能によって障害児が生まれるおそろしさが語られ、そしてそのように語られることのおそろしさが感じられた(*4)。
(p77)
(*4)千田好夫らの文章の一部を注(1)に記したホームページに引用した。また例えば「先天性四肢障害児父母の会」。この会は、生まれた時に手や足の指がない、少ないといった障害をもつ子どもの親の会として、一九七五年に設立された。その障害の原因は不明だったのだが、環境汚染が様々に問題にされていた時期でもあり、環境要因が疑われ、会は当初「原因究明」を訴える活動をする。ここでは、当然、その障害をなくすことが目指された。だが現に障害があって暮らしている子どもがいる時に、障害を否定的に捉えてよいのか。そうしたことを考えていくことになる。例えばその軌跡をたどってみたらよいと思う(cf. 野辺[二〇〇〇]、「先天性四肢障害児父母の会」のホームページはhttp://park.coconet.or.jp/hubonokai/)。
◆星加 良司, 20020915, 「「障害」の意味付けと障害者のアイデンティティ――「障害」の否定・肯定をめぐって」,『ソシオロゴス』26:160-175.→星加良司, 20070225, 《障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて》生活書院.(星加 2007:214-216)
障害概念には多様な要素が混在しており、そのことが障害をめぐる諸言説に独特の多義性を与えている【注2】。とりわけ、インペアメントに関しては、それがときに否定的なものとして捉えられ、それを浮かび上がらせる「社会的価値」が問題化される一方で、それ自体は否定すべきものではなく受容していくことが可能であるとも言われる、といった両義性がある。このインペアメントの経験は、非制度的位相を通じてディスアビリティと直接関連を持っている。このことを把握するために、まずはインペアメントの経験のされ方について考えてみよう。
右手の指が欠損した娘を持つ野辺明子は、娘が障害を経験していく過程を記述している(野辺明子 2000)。娘は二歳のとき、「ママはこっちのおててもこっちもある、まいちゃん、こっちのおててない……」と母親に告げる。自分の手の形に気づき、それが家族のものと違うことを認識した最初の経験である。その後、自分で工夫すれば不自由なことは何もない、と言ってごく自然に自らの身体を受け入れていった彼女だったが、中学二年の美術の授業を境に、彼女はときおり自分の手を隠すようになる。そのときのことを彼女はこう作文に綴っている。
私は右手をモデルにすることはいけないことでも、恥ずかしいことでもないと思っています。それなのにその時はどうしても自分の気持ちとは反対に、恥ずかしいと思い、右手を出せませんでした。(中略)私が苦労しながら左手を見てはその手でまた鉛筆を持ち、左手をデッサンしていると、クラスの男子が、野辺、どうするんだろうね、あいつ、恥ずかしくて出来ねえんじゃねえのと言って笑ったのが聞こえました。私は涙が出るほど体が熱くなりました。でもどうにか自分の気持ちを押さえました。考えてみるとこういう笑いや視線はその時ばかりではありません。いろいろなところでこういう気持ちを味わってきました(*3)。(野辺明子 2000: 126-7)
それまであたりまえであった自分の右手は、周囲の人の「笑いや視線」によって羞恥の対象となったのである。これを受けて、野辺明子は次のように述べている。
人とは違う形をした手足をなじられたり、いじめられたりすることがなければ、子どもたちはないことを恥じる必要もなく、実に平和に自己を受容して生きることができる。「ある」「ない」の認識それ自体には何の差別も生じないが、「ないのはおかしい」あるいは「みんなと違うのは変だ」といった価値判断がそこに入り込んでくると、今まで自由に生きてきた子どもがたちまちにして「障害児」にされていく。(ibid.: 119-20)
(星加 2007:254)
(*3)この文章は野辺麻衣子(1985)から野辺明子(2000)が引用したものである。
野辺明子, 2000, 「障害をもついのちのムーブメント」,栗原・小森・佐藤・吉見編[2000, 105-29]〈215, 216〉
野辺麻衣子, 1985, 「重い壁を乗り越えて」,『浦和市立本太中学校新聞』
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon]/[kinokuniya] ※
・安楽死・尊厳死法制化反対に賛同(2005)
*追加:植村 要