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松岡 幸雄・松岡佑子

まつおか・ゆきお/まつおか・ゆうこ


 松岡幸雄
・1939年生
・静山社社長(〜1997)
 http://www.sayzansha.com/jp/index.html
日本ALS協会事務局長(〜1997)
・1997/12/25 逝去(58歳)

◆松岡 幸雄 1996(?) 「ハンディを負って生きられる」,さくら会編『ALSの基礎知識』

◆静山社のHP→「会社紹介」の「創業者」より
 http://www.sayzansha.com/jp/corporate.html
 *写真が掲載されています。ご覧ください。

 (静山社は)「前社長の松岡幸雄が1979年に設立。民衆史や闘病記と、社会に真剣な問いをなげかける本を出版した。著者と議論をし尽くし、納得するまで書き直しを依頼し、背景資料の誤りまで指摘する編集ぶりに、すべての著者が舌を巻き、また本の仕上がりに満足した。1986年にALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘う患者、川口武久さんの手記「しんぼう」を出版したが、この編集過程からALSの現状を知り社会の縮図を見て「これほどの悲惨な患者の状況を放っては置けない」と、まったくのボランティアとして、松岡は日本ALS協会設立に向けて活動を始めた。14年を経て、会員8000名に達した協会の基礎を固め、法人化にむけての次の段階を始めた1997年、肺癌に倒れた。」



 「後に日本ALS協会初代会長になった故・川口武久さんの闘病日記を、出版社〔静山社〕を経営する松岡さんが見出し、『しんぼう』という書名で出版した。その過程でALSについて深く知るところとなり、患者や家族がどのような状況に置かれているかを見るにつけ、何とかしなければならないという気持ちに駆られたのだという。」(杉山[1998:12])

http://www.nifty.ne.jp/forum/flitrans/yamaneko/mgzn/bn/9909a.txt
 「静山社は、79年、前社長である故・松岡幸雄氏によって設立された。当初より民衆史関連など社会性の高い作品を出版してきたが、83年に難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者である故・川口武久氏の手記『しんぼう』を出版したのをきっかけに、ALS関連の本を数多く手がけるようになった。また松岡前社長は、86年に自ら中心となって患者、医師らと日本ALS協会を設立、ボランティアで事務局長を務めるなど、個人としても患者の支援に深く関わった。こうした前社長の姿勢を反映して、静山社は歴史、医療関連のノンフィクションを中心に、一貫して人間の尊厳を問う作品を出版し続けた。  出版、ボランティア活動を通じて、精力的に自らの信念を社会に訴えかけてきた松岡前社長だったが、97年12月に肺がんのため逝去。そのあとを引き継いで新社長となったのが、妻である佑子さんだった。もともと、同時通訳者として長年第一線でキャリアを積んできた佑子さん。前社長のかねてからの勧めもあり、自らの専門である語学を出版活動に活かしたいと、翻訳に強い関心を持つようになった。そして今年4月、初の翻訳書として、自ら訳・編に携わった『国際会議用語辞典』(ジャン・エルベール著/ウィンター良子監修)を出版、静山社の新しい方向性を示した。」

◆1989 篠原糸美

 「昭和六三年の秋、彼女の病気が少しずつ進み、四肢の筋萎縮と構音障害(発語障害)が強くなり、意志を伝えるのが困難となって、彼女から何か良いコミュニケーションの方法がないでしょうかと、主治医の私に相談がありました。そこで、日本ALS協会事務局の松岡氏に連絡をとり、ALS患者のためのコミュニケーション機器を紹介していただきました。」(篠原[1990:8])

◆1994/07 「日本ALS協会の故:松岡幸雄氏が宮崎を訪れました。支部設立を是非に!と、強引にお願いし、同じクリスチャンでもあった松岡さんは、「是非ALS患者さんのために宮崎支部を作りましょう」と優しい理解をいただくことが出来ました。」
 平山 真喜男のHPより

◆1994/12 西尾健弥
 *立岩の文章での引用

 [192]一九九四年十二月、国立療養所石川病院の診察室で、西尾知子は「主治医から人工呼吸器に夫の命を預けるかどうかの選択を迫られた。夫の健弥は[…]呼吸困難が続き、一刻の猶予もなかった。/[…]/知子は健弥に病名はもちろん、治る見込みのないことなどを初めてここで告げた。呼吸器の問題も話し合った。健弥の二人の娘はすでに独立し、知子と二人暮らし。介護の負担を気遣って遠慮してはいけないと、知子は健弥に「私のために着けてくれ」と頼む。健弥も死を目前にして、初めて心底、生きたいとの渇望がわき起こる。が、その一方で、「迷惑をかけるだけで、何の役にも立たない者に生きる価値があるのか。それはエゴで、生に執着している哀れな姿ではないか」と、悩む。/そんな折、見舞いに来た日本ALS協会事務局長の松岡幸雄(故人)の言葉が二人に決断を促した。」(『読売新聞』[1999])
 西尾健弥[52]の文章では、その一に妻、二に孫、三に会社の人や友人や親戚のことを記した後、それが次のように書かれる。「決定付けたのは、日本ALS協会の事務長でした。事務長はわざわざ東京から入院先の病院まで訪ねてこられ、死と生きることについて説かれました。春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか。それと生きていれば、どんな素晴らしいことに出会うかもしれない。と生きている喜びを強調されたのです。」(西尾[1997])

・『読売新聞』 1999 「執念」(上・下),『読売新聞』北陸版1999-06-19,1999-06-26(生と死の現在・第1部)→http://hokuriku.yomiuri.co.jp/inotitokenkou/inoti/0619.htm [7]
・西尾 健弥 1997 「私の発病から現在までの経緯」http://www2.nsknet.or.jp/~k-nishio/keika/keika.html,西尾[-1999] [7]
・――――― -1999 『ようこそ健ちゃんチへ――重症のALS患者から皆さんへ』,http://www2.nsknet.or.jp/~k-nishio/ [4][7]

◆松本茂

「協会設立には、松岡さんの功績が大きい。彼は患者の家族でもないのに、ALS患者(p.42)のことになると目を真っ赤にし、今にも泣き出さんばかりになって訴える。住まいを事務所に提供し、自分の仕事を放り出して協会のことをやってくれたり、自費でどこまでも出かけてくれる。普通の人なら少しは損得を考えるものだが、神様か仏様か、それともよほどの変人か、協会活動に没頭してくれる。」(松本[1995:42-43])

平山 真喜男のHPより
 http://www.h2.dion.ne.jp/~makibo/newpage160.htm
 *写真が掲載されています。ご覧ください。

 「松岡さんは、ご自分の会社(叶テ山社)を事務局にして、ALS患者のために誠心誠意尽くされました。1997年12月25日松岡さんは静かに天国へ旅立って逝かれました。」

◆1997/12/25 「松岡幸雄事務局長逝去(58歳)」
  『JALSA』044号(1998/07/28):06

杉山 進 「追悼・松岡幸雄さんに捧げる」 *
 *杉山 進 19981125『負けてたまるか、負けたら俺の男がすたるよ――神経難病ALSと闘う日々』(静山社,262p. 1700円+税)所収

◆川口 有美子 200006 「難病と魔法」
 http://homepage2.nifty.com/ajikun/kigokiroku5.htm#難病と魔法
 『AJI's room 神経難病と闘う家族を応援します。』
 http://homepage2.nifty.com/ajikun/

 「一昔が5年だという。
 5年前、インターネットなどなかったあの頃、情報を集める方法は本を読み漁るしかなく、ALSについての記述は、医学書でもほんの数行で、あとはALS協会の当時事務局長をしておられた松岡さんに電話で逐一お聞きするしかなかった。松岡さん。東京の小さな出版社、静山社の社長をしておられた。ある時、ALS患者さんの自費出版をお手伝いすることになり、その仕事のご縁で、すっかりこの難病の世界にはまってしまった。家族でもなくもちろん患者でもない松岡さんを捕らえてしまったALSの残忍さである。
 松岡さんはやがて私財を投げうって日本中の患者さんを見舞うようになった。じきに会社は倒産ぎりぎりになり、ご自分が癌に倒れてもその入院費用が賄えないほどになっておられた。
 私たち会員は、その事実に仰天した。自費で全国の患者をみまわっておられたのは知っていたがここまで、とは思わなかった。すぐにカンパが行なわれたが、松岡さんの容態は快方に向わず、励まされていた患者たちをこの世に残したまま、さっさと天国に逝ってしまわれた。
 ご家族はそんな松岡さんをどう思っておられたんだろう?
 松岡さんの奥様は、同時通訳と翻訳をこなす才女で、ばりばりのキャリアウーマン。だからこそ、ALSなんて病気に生涯と資産をつぎ込んだクリスチャンの夫を理解し、最期まで支えきったのだろう。これは共働きのお手本ともいうべきカップルだと私は会うひとごとに自慢している。そして、神様はそんなお二人をきちんと見ていてくださった。
 松岡さんが亡くなってほどなく奥様がイギリスの本屋で見初めた児童書が「ハリーポッターシリーズ」。魔法学校に入学したハリーの冒険物語で大長編。そして世界的な大ベストセラーでもある。奥様はその第1巻を徹夜で読み終え、すぐに作家に電話したそうだ。是非、和訳させて欲しいと。その晩から魔法が働き出した。童話の中のハリーと天国の松岡さんがしめしあわせたように。熱意に押されて作家はその翻訳、版権を松岡夫人に許し、奥様は今では押しも押されぬ大ベストセラー翻訳家である。静山社も押しも押されぬ一流出版社となった。
 あるインタビューで奥様が言われたこと。「やはり、天国の夫の力が働いたように思える」と。
 私たちもやはりそう思ってうなずいていた。
 松岡前事務局長の夢は、日本で神経難病の世界大会を開催することだったが、その夢は着実に実現される方向へと動いている。夫の夢を引き継いだ松岡佑子さんも資金援助や通訳ボランティアなど、ALS患者への支援を続けておられる。」

 
 

◆2002/09/24 「難病ALS、闘う患者知って――ハリー・ポッター翻訳者、国際会議を日本に」
 『日本経済新聞』2002年9月24日朝刊
 http://www.nikkei.co.jp/

「夫の遺志継ぎ招致に奔走
 全身の筋肉が動かなくなる難病、ALS(筋委縮性側索硬化症)の患者らが、この病気に関する国際会議を日本で初開催する計画を進めている。活動の中心は「ハリー・ポッター」シリーズの翻訳者、松岡佑子さん(59)。ALS患者を支援してきた亡き夫の遺志を受け継ぎ、「患者の生活を知らせる絶好の機会」と訴える。来年一月の開催地決定を控え、翻訳業の傍ら奔走している。
 国際会議は、日本を含む世界三十カ国以上のALS患者団体が加盟する国際組織が主催、一九九一年から毎年開かれている。会議では患者や家族のほか、医療関係者らが集まり、最新の研究を発表したり、患者同士の交流を深めている。松岡さんらが誘致計画を進めているのは二〇〇六年の国際会議。開催地の立候補は今年末に受け付け、来年一月の理事会で正式決定する。
 松岡さんは「ハリー・ポッター」翻訳版を出版している「静山社」の社長。現在、日本ALS協会(東京)のメンバーらと、十一月に豪州で開催の国際会議で日本はもちろん、アジア初の開催を訴える。
 松岡さんがALSを知ったのは、九七年十二月に病気で亡くなった夫(当時58)が、ALS患者の支援に取り組んでいたのがきっかけだった。夫は患者の手記などを採算を度外視で出版、八六年には協会を設立した。自宅を協会の事務所として提供するなどボランティアで事務局長に就き、松岡さんも国際会議で夫の通訳を務め、二人三脚で活動してきた。
 九六年、日本は初めて候補地に名乗りを上げ、二〇〇〇年会議の開催が決定。が、その後、活動の中心的役割を果たしていた夫は亡くなり、涙をのんで返上せざるを得なかった。誘致している二〇〇六年は協会発足二十周年に当たるうえ、松岡夫妻にとっても構想から十年目の悲願となる。
 国内ではALS患者約四千五百人のうち、人工呼吸器をつけ、家族の介護のもと生活している患者が半数近くいる。一方、欧米では周囲に介護の負担をかけたくないとの考えから、呼吸器を装着せず、ホスピスで「最期」を迎える例が多いという。
 「呼吸器をつけた多くの患者を外国の患者らが目の当たりにすることで、ALSと闘いながら、立派に生きることへの意義を理解してほしい」と松岡さんは日本開催の意義を強調。さらに「国内でもALSへの関心が高まり、介護体制など一層の支援活動が盛り上がる」と話す。
 呼吸器をつけたまま講演活動を続ける東京都内の患者、橋本操さん(49)は「私の姿を海外の人に見てもらいたい」と国内開催を待ち望んでいる。
 ALS協会への問い合わせは、電話兼FAX03・3577・4811、メールアドレスはcharlie@da.mbn.or.jp
【図・写真】2000年にデンマークで開かれた国際会議に出席した橋本さん(中央)と松岡さん(左から二人目)
ALSとは
 全身の筋肉の委縮に伴い、手足が動かなくなり、寝たきりになる。進行が進むと、呼吸困難にも陥る。原因は特定されておらず、治療法がない運動神経の難病だ。
 四十―五十代に突然、発症するケースが多い。
 告知を受けた患者やその家族は気管切開し、人工呼吸器の装着をするかどうかの判断を迫られる。
 呼吸器をつけた療養生活は、たんの吸引など二十四時間の介護が欠かせない。
 神経内科の専門医らによると、呼吸器をつけることを選択する患者がいる一方で、欧米などでは呼吸器を拒むケースもあるという。」


UP:20021116 http://www.arsvi.com/0w1/mtokyko.htm) REV:1221,20030106,0304,1217 20040706
日本ALS協会  ◇ALS  ◇WHO

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