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Mies, Maria

マリア・ミース


last update:20100724

■Mies, Maria 1986 Patriarchy and Acuumulation on a World Scale, Zed Books=19971130 奥田暁子訳,『国際分業と女性──進行する主婦化』,日本経済評論社,382p. 3800 [amazon][kinokuniya] ※


■Mies, Maria 1996 "Globalisation of the Economy and Women's Works in a Sustainable Siciety", paper presented at the 6th International Interdisciplinary Congress on Women, Adelaide, Australia, 22-26. April 1996
吉田睦美編訳・解題,「グローバリゼーションと<ジェンダー>──オルタナティヴ・パースペクティヴへ向けて」(抄訳) 川崎・中村編[2000:029-053]*
*川崎 賢子・中村 陽一 編 20000229 『アンペイド・ワークとは何か』,藤原書店,323p. ※


■Mies, Maria ; Werlhof, Claudia von ; Benholdt-Thomsen, Veronika 1988,1991=19950225 古田睦美・善本裕子訳,『世界システムと女性』,藤原書店,348p. ISBN:4894340100 \4700 [amazon][kinokuniya]

◆農民と主婦が資本主義世界システムの中で消滅しないのはなぜか C・V・ヴェールホフ著 34-78
◆資本主義の発展とサブシステンス生産 M・ミース著 79-113
◆「貧困層への投資」 V・B=トムゼン著 114-136
◆性別分業の社会的起源 M・ミース著 137-181
◆「国家」と「資本」と「家父長制」の関係をめぐって C・V・ヴェールホフ著 182-209
◆女性労働と暴力 V・B=トムゼン著 210-226
◆インド農村における階級闘争と女性の闘い M・ミース著 227-268
◆なぜ第三世界においても主婦がつくられ続けるのか V・B=トムゼン著 269-282
◆プロレタリアは死んだ、主婦万歳! C・V・ヴェールホフ著 283-306

□内容説明[bk1]
フェミニズムとエコロジーの視角から、世界システム論を刷新した独創的な方法論を構築、社会理論の新しいパラダイムを切り開く。女性たちが分析する資本主義社会の基本的構成要素とは。

◆農民と主婦が資本主義世界システムの中で消滅しないのはなぜか C・V・ヴェールホフ著 34-78

 はじめに
 「「継続的本源的蓄積」というカテゴリーは、女性問題、さらに労働問題さえ含めた現代の分析にとってきわめて基礎的な概念であり、かつまた、歴史を考察する新しい方法であると同時に、未来を考察する場合にも独自の帰結をもつに違いない、という考えである。
 問題の所在
  資本主義における無償生産の現実

 「賃金も利潤も獲得しない生産者は、今後とも存在し続けるだけでなく、むしろ世界のあらゆるところに繰り返し出現しているのである(「周辺化」、「農民化」、「主婦化」過程)。これらの者が置かれている経済的状況は、次のように記述することができる。
 ・人口のうち、たしかに近代的商品生産──その資本化された諸形態も含めて──には従事するものの、しかし自由な賃金労働者と自由な企業家のどちらの階級にも属さないような部分が増大している。
  ・賃金を受けとっている者の場合、この賃金は生活の必要を満たしていない。これはつまり、彼らが傾向的にはれば無賃商品生産者であって、ほかの生産および生活手段から「自由」ではなく、それらのものによってなんとか生きながえているにすぎない、ということである。
  ・……」(p.38)

 キー概念の再定式化による問題分析
  現在まで継続する過程としての「本源的蓄積」

 「「直接的生産者の、生産手段からの強制的分離」過程、ひき続いてこの生産手段が新たな一階級たる資本家の手中に、ないしはその「指揮下に」集中する過程、かつての生産者が生産手段から自由になるとともに、みずからの労働力を自由に処分しうるようになり、この二重の意味において自由な賃金労働者へと転化する過程、これは実際に起きたことである。」(p.39)

□紹介・言及

古田 睦美 199709 「マルクス主義フェミニズム──史的唯物論を再構築するフェミニズム」
 江原・金井編[1997:318-339]*
*江原 由美子・金井 淑子 編 199709 『ワードマップ フェミニズム』,新曜社,365+7p. ISBN:4-7885-0611-4 \2,600 [bk1] ※

 「家事労働の位置づけ[…]
 「二元システム論」[…]/[家内生産様式(DMP)論」[…]  これにたいして「統一論」の立場にたつミース、ヴェールホフらは、世界システム論から、資本主義の「中心部」(先進工業国)における家事労働は、「周辺部」(いわゆる(p.332)第三世界の不払いの家内労働やインフォーマルな労働と同様に、世界規模での資本主義のもとへ包摂されているという理論を展開している(24)。この理論は、家事労働論争が内包していた「ヨーロッパ中心主義」を克服し、先進国フェミニズムが陥っていた家事労働の先進国的定義を世界システム論の視角から再構築したものである。ミースらによれば、主婦の労働も、国際的な資本の運動によって組み替えられる国際分業の一環である。たとえば、安価な労働力を求める資本の運動によって「周辺部」へと工場が移転し、「中心部」で購買・消費されるという新しい国際分業の構造的一環として「中心部」で主婦が大量に創り出されるのである。
 (24)ミース、ベンホルト=トムゼン、ヴェールホフ『世界システムと女性』(1988=1995)参照。」(古田[1997:331-332])

「自己決定―ユートピアの終焉?」(1998)
 作成:樋澤吉彦

※女性(解放)運動としての、女性の身体や生活に関する自己決定や自立性の要求について

「西洋のフェミニストと同様にバングラディシシュの女性にとっても開放の問題は気異様だ、とファーリーダ・アクターは主張する。彼女が批判しているのは、国際的資本主義の経済的、政治的、文化的賦課を何ら考慮せずに、「自分の身体の管理」や「女性のための生殖の権利」の要求がバングラディシュのような諸国で西洋フェミニストによって叫ばれることだ。/もし西洋のフェミニストが、自分たち自身が利益を得ている搾取的な世界経済秩序を同時に要求する場合、その要求は、「第三世界」における軍事的独裁を合州国が支持している状況でのロナルド・レーガンの人権要求と同レベルにある」142

→別の理由による批判として・・・
「彼女達は自分達にとって近代福祉国家のような安全網は存在しないと知っているいるし、それゆえ家族や村、共同体によって提供される関係の網が必要だと分かっているのである。」142

「・・・したがって、自己決定の要求は、二つのパースペクティヴから再考されなければならない。第一に、個々の女性の自己決定は、いまなお女性の解放にとって本質的な内容なのかどうか。第二に、「第三世界」の私達の姉妹によって提示されたこのユートピアの批判を真剣に私達が受けとめてはいけないのか。・・・」142−143

※自己決定のディレンマ
→p.143の生殖技術に関する二つの議論について「この議論のどこが間違っているのだろうか。よく考えてみると、自己決定のための闘争の本来の方向性が変化してきたことに私達は気づく。私達女性はそもそも搾取的で抑圧的な男女関係からの解放を求めて努力したのだが、私達はいまや女性の身体の制御されていない生殖的潜在能力からの「解放」という問題、つまり私達の女性的自然からの「解放」という問題を扱っている。この女性的自然は、出生促進的または抑制的な技術を通じてバイオテクノロジーの専門家が私達をそこから解放しなければならないハンディキャップであると次第に見なされるようになってしまった。こうして、女性の解放は技術的進歩の所産となり、もはや家父長制的男女関係の変容を意味するものではなくなったのである・・・」
→「・・・これは、いまや、自分達にとって常に女性が利用可能であることを望む男性、並びに薬学関連企業や医学専門家、そして国家による支配となる」143

「女性の自己決定を目指すこの運動は、女性達が「客体」の位置から自己操縦する主体である知的個人の位置へと高まることを、つまり「もの」である状態から人格あるいは人格性の状態へと高まることを可能にしようとし、そのために、身体についての現代的な知識の助けによって、自分の物質性を所有し、統治し操縦する能力を獲得しようと努力したのである」144

※「自己決定」の基礎について・・・
「古い女性運動の努力全体が、なぜ最終的に女性や市民や主体の地位を与えることに向けられたのか。なぜなら、この主体、この個人、この自由で自信ある自律的な人格というものが、すべての解放の試みの、すべてのブルジョア革命の目標だったからである。しかしながら、私達がもっと詳しくこれら革命の歴史を見る場合に、私達は、自由や平等そして自律性がすべての人間にたいする普遍的人権として前提された一方で、人間というものを完全に包含するカテゴリーは事実上これらの人権から排除された、ということに気づく」144−145
 →奴隷、財産なきもの

「・・・私達は以下のような命題を定式化できる。男性の興隆は女性の低落に基づいていた。ヨーロッパの進歩は植民地の退歩に基づいていた。生産力の発達(科学や技術)は、植民地におけると同様本国においても強奪、戦争、暴力に基づいていた。そして、社会的個人、つまり主体の自己決定は、ある特定の人間を客体つまり「他者」として定義することに基づいていたし、いまもそうである。言い換えれば、主体の自律性はある他者(自然、他の人間、自己の「下位の」部分)の他律性(他者によって決定されること)に基づいているのである」145
※シモーヌ・ド・ボーヴォアールの啓蒙的遺産
「私が意味しているのは、北の白人の中産階級女性は自然と第三世界のさらなる従属を通じてより多くの自己決定を獲得しうるということだけでなく、個々の女性が自分自身つまり自分の身体との間にもつようになる関係からもまた、そういっているのである・・・彼女自信の人格の所有者である社会的主体になるために、自分を数片の部分に分割しなければならなかったのである。これが、啓蒙の時期に自然や女性や植民地の「白人」による支配とともに始まった解放のユートピアの必然的な帰結である」145

「ヘーゲルによれば、自己は外在的対象としての他の意識との対立においてのみ自分自身についての意識となりうる。この対象は同時に欲望の対象でもある。自我(自己意識)は他者をその他者性を克服することによって「編入」しようとする。欲望の満足は独立した他者性の克服を随伴する。他者の独立性の解体を通して、自我はその自身の自己意識を世界内に存在しているものとして自覚するのである」146 →「超越」をどう実現するか?

→ボーヴォアール「超越(自己決定/自由、普遍性)と世界内存在(生命/自然、有機性/動物、特殊性)との二重性の中での自己決定のディレンマは、明らかである。ボーヴォアールに従えば、女性として私達は、自律的な主体としての自己意識的存在と、女性的身体としての自分達の身体的存在との間の衝突の問題に直面する。」
「女性を世界内的在り方の内部(つまり、生命、日常性、台所、たんなる生活サイクル、生物学)に監禁するのは男性の仕業だという点でボーヴォアールに同意するとしても、私達は、この枠内で自己決定がいかにして可能なのかを問わなければならない。」146

「彼女によれば、女性的身体は自己決定(超越)を阻害するものなのである・・・つまり、特に啓蒙以降の、自由と解放の必要条件としての、ヨーロッパ男性のプロジェクトを問いに付すことはない。彼女が欲しているのは、男性のように、主人のようになることであり、女性の身体(奴隷)の内部での頭(主人)の支配をうち立てること以外にどんな可能性も見い出してはいないのである。」147

→しかしある別の他者への従属が起こる・・・
「なぜなら、このパラダイムに従えば、客体なしにはどんな主体もありえず、世界内存在なしには超越はありえず、隷属なしには自由はありえないからである。誰がその場合女性にとっての他者となるのか。これこそがボーヴォアールの問いなのだ」147 →その「他者」とは女性の身体、「野生」の生殖能力

※生きた関係の再創造
「以前にも述べたように、いわゆる自由主義的で進歩的な立場も、保守的な立場も、受胎した女性と彼女の中で成長する存在との関係に関しては、盛んな論争が暗示するほどには相異なってはいない。」147

「この例に見られるように、この共生、つまりこの生きた関係が技術的に切り裂かれるやいなや、これらの諸部分は敵対関係へと入るのである。一方が他方を除去することになる、なぜなら、そこには主体・客体関係があるのだから」147
 →「国家」の干渉
「技術」の干渉

「共生という概念は、女性運動の内部では、否定的意味を含んでいることを、私は自覚している。精神分析では、母との共生関係からの個人の分離は、成人つまり自律性の前提だと見なされている。この場合、常に、共生(symbiosis)、つまり「一緒に生きること」―共生とはまさにこれを意味している―は、おそらく女性の解剖学的構造に付着している寄生的で支配的な関係を意味せずにはいられない。しかし、母と子の間のこの支配の関係はたんなる「自然」ではなく、むしろ、家父長制的社会の内部で女性が社会的に形成される結果、つまり暴力の結果なのである。問題は、女性が子供を生むことを可能にする女性の解剖学的身体構造にあるのではなくて、むしろ、生きた関係の破壊と家父長制的支配にあるのである。避妊の技術的戦略はいまだこの支配を除去してもいないし、これらの生きた関係の保存と再建に至ってもいない。むしろ、さらに女性を貶め細分化するに至っているのである」149


UP: 20100724
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