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むらせ・まなぶ http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/mmurase/ ◆20041008 『カップリングの思想――「あなた」の存在論へ』,平凡社, 問いの再生2,199p. ISBN:4-582-70252-X 2100 [boople]/[bk1] ※ □内容説明[bk1] 「シングル」なんて存在しない! 人が生きてあるとき、いつでもなにか「相手」と共にある。その根本的な事実を見かえすことから、「あなた」が現われる。 「個」的思想を越える、新しい思考の振舞いを提起する。 □著者紹介[bk1] 1949年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。大阪府交野市立機能支援センター(家庭児童相談室担当)を経て、同志社女子大学教授。著書に「哲学の木」 「10代の真ん中で」など。 ◆橋爪 大三郎・村瀬 学・小浜 逸郎・竹田 青嗣・瀬尾 育生 199203 『照らし合う意識――21世紀を生きはじめるために』,JICC出版局,278p. ISBN: 4796603034 1784 [boople] ◆竹田 青嗣・瀬尾 育生・橋爪 大三郎・村瀬 学・小浜 逸郎 199301 『身体の深みへ――21世紀を生きはじめるために』,JICC出版局,283p. ISBN: 4796605541 1886 [boople] ◆村瀬 学・小浜 逸郎・竹田 青嗣・瀬尾 育生・橋爪 大三郎 199411 『喩としての生活――21世紀を生きはじめるために』,宝島社,284p. ISBN: 4796608869 2345 [boople] ◆2003/04/10 「「イラク戦争」は本当に「戦争」だったのだろうか――「戦況報道」と「戦場報道」のはざまで考える」 『じゃのめ見聞録』31http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/mmurase/janome/janome31.htm ◆2003/03/30 「今だからこそ「遺体報道論」を――「イラク戦争」の報道姿勢への批判をこめて」 『じゃのめ見聞録』30http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/mmurase/janome/janome30.htm *立岩のデータベースにあったものだけ ◆20000322 『哲学の木――いのちの寓話』 平凡社,253p. 1800 ◆20000921 『なぜ大人になれないのか――「狼になること」と「人間になること」』 洋泉社新書014,223p. 680 ◆20000620 「「曲がる姿」へのある想い」 山口平明著・山口ヒロミ銅版画『不思議の天音(AMANE)−イノチの際で共に棲まう私た ちの日々』pp.238-245 ◆19990226 『13歳論――子どもと大人の「境界」はどこにあるのか』 洋泉社,342p. 2400 「「13歳」過ぎて勉強の意欲のある者は、自分名義で「教育融資」が受けられる。親に頼らずに、そうして自分のライフプランは自分で設計できる。……「教 育融資」に限らず、さまざまな保護が工夫されるなかでの「労働」が認められるようになる。」 (村瀬[1999:339]「あとがき」) ◆ 『初期心的現象の世界』 大和書房 ◆ 『理解のおくれの本質』 大和書房 ◆ 『初期心的現象論の世界』 大和書房 ◆ 『新しいキルケゴール』 大和書房 ◆ 『「銀河鉄道の夜」とは何か』 大和書房 ◆ 『子ども体験』 大和書房 ◆19880525 『『人間失格』の発見――論理と倫理のはざまから』 大和書房,252p. 2000 三鷹ム ◆19910201 『「いのち」論のはじまり』 JICC出版局,225p. 1600 ※/松本498/三鷹114 ※は立岩研究室にあり 「はじめに「人間」の定義があって、そういう「人間」の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる「内部」があったと理解すべき なのであろう。そこで生じる「内部」こそが「倫理」だったのだと私は思う」(村瀬学[1985→1991:184-185]) *立岩真也『私的所有論』(第5章「線引問題という問題」扉)に引用 「◆12 村瀬学は本章の冒頭に引用した本とは別の本で次のように言う。 「…この両親にとっては、この子は「ゆり」と呼ぶことのなかにしか見出せない何者かなのである。「ゆり」と呼ぶこと以外ではけっして見えてこないものが ある。 そういうふうに言えば、そんな「ゆり」なんていう名前なんぞ、世間にはいっぱいあるじゃないか。人間にも植物にもつけられる名前が、何で一人の女の子の 唯一の生を表し得るのか、という人もいるかもしれない。「品名」として見たらたしかにそうである。しかし「品名」だけをほじくってもわからないのである。 「品名」はあるときに「名前」として意識され、、そして「名前」は「姿(顔+身)」を呼びだすきっかけとして自覚されるときがくる。そのきっかけを作るの は「場所(位置)」なのである。 『苦海浄土』には、「とかげ」のような手足を持つわが子に寄り添いつづける親の「場所(位置)」がある。その「場所」から呼ばれる「ゆり」という「名 前」は、その場所からしか見えない「姿」をとらえていて、それは「無比の姿」として見出されているのである。 つきつめると、「名前」というものには、個人的な命名行為というより、人間の姿(原型)を呼びだすための共同の行為としてあったものである、としか考え られない面がある。「人間の姿(原型)」を産む行為とでも言えばよいか。しかしそこには、その産む「場所」が問題であった。おそらく昔の人たちには、その 場所を「共同の場所」として共有できる感性があったのではないかと思う。しかし、今日ではその場所は、一人一人の育ての親たちが個別的に意識する、個人的 な場所になりつつあるように見える。が、私はそのようには単純には思うことはできない。「名前」をつけて「姿」を自覚する「場所」は、あくまで「共同の場 所」でしか発生しない、そうとしか私には考えられないのである。というのも、「名前」をとおして感じとる「人間の姿(原型)」は、人間の共同体の活動のな かでしか自覚できないものだからである。」(村瀬[1995:35-36]、村瀬[1996:132-133]もほぼ同文。「自分の名付けたものは「大 事」にする。この「名づけ」のもつ利己的な共生力について」書かれた文章である。『苦海浄土』は石牟礼道子の著書(石牟礼[1969]))」 *立岩真也『私的所有論』第5章注12 REV:20030430,20041019 20060220 ◇WHO |