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宮下 健一

みやした・けんいち



1948 長野市に生まれる
1969 富士短期大学卒業
1993 博光印刷(株)を退職
1991 ALSと診断され現在に至る
(宮下[1996]より)

■宮下 健一 19960611 『いのちよありがとう――難病ALSとともに』,信濃毎日新聞社,269p. ISBN-10: 4784096140 ISBN-13: 978-4784096145 \1835 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
[外部リンク]信濃毎日新聞社HP

◆順天堂病院
「 担当の女医さんが来たので、私は病気について相談した。
 私は先生に、できれば病気を治すか、治るめやすがついてから退院したいと言ったが、それよりも病気の進行がとまることのほうが先決だと先生は言う。この様子だとどうやら進行をとめる薬がないようだ。ただひたすら自然にまかせて、進行がとまるのを待つしかないようだ。まさに自分の意志ではどうすることもできないというふがいのなさである。そんな自分でもあせりは感じない。進行がとまりさえすれば、自分ではなんとか治る方向にいくだろうと思っている。
 先生は、私の運動神経に問題がおきていると言う。神経だけに目に見えず困ったものだ。傷口のようなものならばわかるからいいと思うのだが、こればっかりはどうしようもないので、自分にいいように考えるしかないのだ。しかし、そうは思っても自分でも今後どうなって行くか不安にも思える。ただ、今は病気の進行がとまることを祈るだけだ。」(p.29)


「 週一回の回診の日がきた。この日は、いつもと違う雰囲気が病棟にただよっている。この光景にも随分なれたが、圧倒されることもあるが、一人一人の先生を見ていると興味深いこともある。例によってこの部屋では、私がみてもらうことになる。教授が最後に来て私の前に腰掛けて二、三、話をしてから私の病名を話してくれた。教授は、「筋萎縮性……何たらかんたら」と言う。筋萎縮性側索硬化症――一度では、とても覚えきれないような長い病名であった。
 それを聞いて私は教授に、その病気がどんな病気で、どうなって行くのか聞きもしなかった。私が、そうですかと答えただけだったので、教授もあっけにとられたようだった。
 私は、この病気はたいしたことがなく、きっと治ると思っているので、自分でいろいろ心配するより、専門家である先生方にまかせておけばいいと考えている。ただ私のやることは、(p.30)先生の指示の通りやればいいと思っているのだ。 
 こう考えてる私は、無神経なのか楽天家なのかわからないが、今まであまり病気をしたことがなく、健康と病気について考えたこともなく、今は、天が少し体を休めなさいと言っているのだと、思ったりもしているのだ。」(pp.30-31)


 ▽「あるところで見知らぬおばさんに、妻といっしょにいたところを声をかけられた。そのお(p.50)ばさんによると、私の歩く姿を見て、おばさんの親戚にちょうど私と同じような病気の人がいて、その人はいつも何かを引っぱったりして、部屋の中で一生懸命に運動していたそうだ。ちょうど今の私の状況と同じようだ。私は、それからどうしているかとたずねたら、その人は、いとも簡単にずいぶん前に死んだと答えた。
 それを聞いた私は、後頭部をいきなり何かでなぐられたような衝撃を受けた。△なぜなら、病気になってから死ということを考えたことがなかったからだ。今、初めて死ということもありうるんだと思い知らされた。あまりに突然で予期しなかった言葉にただボウ然とするばかりで、妻を見て、自分はそんなことないとばかりに言いたげにニガ笑いして見せるのが精一杯で、他に何かを考えたり、言うことができなかった。それほど、その人の言った言葉は私にとってあまりにも強烈であり、死というものに正面から向かわされたようなものだった。私には、このことを解決したり、耐えることができない。いずれにしても今は、無理だ。」(pp.50-51)


 「ある人に、また言われた。その人の親戚にちょうど私と同じような症状の人がいて、よく(p.56)にていると言う。そこで私はよせばいいのに、その人はどうしているかと尋ねたら、いとも簡単に死んだというではないか。そこで私は、ガーンとした衝撃を受けてガク然とした。これで二度目になる。なぜか私の心にポッカリと大きな穴があいたようで、しばらく埋まりそうもない穴になってしまった。
 私の頭から死という言葉が離れない。このままだとこびりついてしまう。そして死に対する恐怖さえ感じる。どうしようもないこの気持ちをうまく説明できないし、かといって泣きわめくわけにもいかない。もしそうすれば子供たちもビックリして不安がるだろうし、困ったものだ。あまり表情にだせばまわりが心配するだろう。といっても、私の心もそんなに広くないし、気持ちは落ち込みっぱなしだ。いくらあせってもどう解決すればいいかわからない。」(pp.56-57)


「苦しさがなくなり、早く退院することを願ったが、そうはうまくいかず、苦しくなると時々胸を押してもらい、ただボーッっと窓の外を見たりしている毎日を送ることになった。
 あまりに、苦しさがひんぱんになり、眠れないものだから人工呼吸器をつける話がでてきた。私はいやだったが、隣に人工呼吸器があるので、ためしてみることになった。いよいよつけたが、私の自発呼吸と機械があわず、それが苦しいことったらありゃしないのだ。まるで胸の中が手でかきむしられているような苦しみだ。(p.87)
 先生、やめてくれ、と、思わず心の中で叫んだが、通じないので表情でうったえた。先生はすぐにやめず、しばらく私を見てからやめた。あーあ、助かった。これはあわないとうことでやめた。
 私は、ある意味でホッとした。
 その後、妻は、「あなた、わざと呼吸器とあわさなかったんでしょう」と言う。ばれたか、そのとおり、あたり、ピンポン、ピンポン。
 私は、今あまりつけたくないのだ。それは、呼吸器になぜか違和感をもっていたのかもしれないし、呼吸器をつける自分を認めたくなかったのかもしれない。しかし、どうやら夜だけでも呼吸器をつける段階にきているのだ。
 数日後、もうすこし私の自発呼吸を拾ってくれる呼吸器がきて、ためしにつけてみた。これも最初、呼吸をあわすのに時間がかかったが、この呼吸器のほうが楽なのでこの呼吸器を夜つけることにした。
 そして、夜も少し眠れるようになり、一日が短くなった。」(pp.87-88)


 「私は、どうあがいてもこの現状を変えることができないことは十分わかっている。さりとて、このままでいいとは当然思っていない。治りたいのも確かで、そのギャップがあることもじぶんでもわかっているつもりでいる。それがストレスにならずに、むしろ希望につながるようコントロールできれば最高なのだが。さて、これからどういうことになるやら自分にはまったくわからない……。まあそのうちなんとかなるかな?ぜひ何とかなってほしいものだ。
 ▽寝たきりになって、その上どこも動かすことができなくなってから、四ヵ月が過ぎたことになる。これも病気(ALS)のためだからしかたがない。ただ起きて歩きたいのも事実だが、不思議なことに、まだ寝ていることにあきていない。
 これも私が、普段からひまがあったら横になってゴロゴロしていたり、疲れて寝ているのが好きなせいか、それとも元来なまけ癖があるのかよくわからないが、いずれにしても寝ていることに対してそんなに苦痛を感じていない。もしこのように寝ていることをどうしようもなく苦痛に思っていたなら、きっと今ごろは、ストレスのかたまりになって、相手かまわ(p.197)ずあたりちらして、羽生先生の言うとおり、ヒステリックによくケンカをしているだろうなぁーと思う。
 むしろ私は、この寝たきりの今の時間を楽して楽しむようにしたいものだと考えていたい。はたしてどうなっていくやらわからないが、同じ一日を過ごすなら、何とか希望をもって楽しく暮らしたいものだと思う。また、自分でもなるべくいつも冷静に考えてそのようにしたいものだ。△」(pp.197-198)

 
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■立岩『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [73]一九九一年、順天堂大学病院で。「週一回の回診の日がきた。[…]教授が最後に来て私の前に腰掛けて二、三、話をしてから私の病名を話してくれた。教授は、「筋萎縮性……何たらかんたら」と言う。筋萎縮性側索硬化症――一度では、とても覚えきれないような長い病名であった。」(宮下[1996:30])
 ALSはまったく一般的な病気ではないから、病名が告知されただけではそれがどんなものだかわからない。そこでしばらく止まってしまうこともある。宮下健一(長野県)はそうだった。
 [74]「それを聞いて私は教授に、その病気がどんな病気で、どうなって行くのか聞きもしなかった。私が、そうですかと答えただけだったので、教授もあっけにとられたようだった。/私は、この病気はたいしたことがなく、きっと治ると思っているので、自分でいろいろ心配するより、専門家である先生方にまかせておけばいいと考えている。ただ私のやることは、先生の指示の通りやればいいと思っているのだ。」(宮下[1996:30-31])
 [78]「担当の女医さんが来たので、私は病気について相談した。[…]先生は、私の運動神経に問題がおきていると言う。神経だけに目に見えず困ったものだ。」(宮下[1996:29]、一九九一年、順天堂大学病院で、別の医師に病名を知らされる[73]前に)
 [108]宮下はALSと医師から告げられたのだが[73]、それがどんな病気であるかを聞かなかった[74]からわからなかった。どうやら大変な病気らしいと思ったのは人から聞いてのことだった。「あるところで見知らぬおばさんに、妻といっしょにいたところを声をかけられた。そのおばさんによると、私の歩く姿を見て、おばさんの親戚にちょうど私と同じような病気の人がいて、その人はいつも何かを引っぱったりして、部屋の中で一生懸命に運動していたそうだ。ちょうど今の私の状況と同じようだ。私は、それからどうしているかとたずねたら、その人は、いとも簡単にずいぶん前に死んだと答えた。/それを聞いた私は、後頭部をいきなり何かでなぐられたような衝撃を受けた。」(宮下[1996:50-51])  「ある人に、また言われた。その人の親戚にちょうど私と同じような症状の人がいて、よくにていると言う。そこで私はよせばいいのに、その人はどうしているかと尋ねたら、いとも簡単に死んだというではないか。そこで私は、ガーンとした衝撃を受けてガク然とした。これで二度目になる。なぜか私の心にポッカリと大きな穴があいたようで、しばらく埋まりそうもない穴になってしまった。/私の頭から死という言葉が離れない。このままだとこびりついてしまう。」(宮下[1996:56-57])  [143]宮下健一は見知らぬおばさんに自分と似た人がいてその人は死んだと聞いた[108]。「それを聞いた私は、後頭部をいきなり何かでなぐられたような衝撃を受けた。なぜなら、病気になってから死ということを考えたことがなかったからだ。今、初めて死ということもありうるんだと思い知らされた。あまりに突然で予期しなかった言葉にただボウ然とするばかりで、妻を見て、自分はそんなことないとばかりに言いたげにニガ笑いして見せるのが精一杯で、他に何かを考えたり、言うことができなかった。それほど、その人の言った言葉は私にとってあまりにも強烈であり、死というものに正面から向かわされたようなものだった。私には、このことを解決したり、耐えることができない。いずれにしても今は、無理だ。」(宮下[1996:50-51])
 [272]宮下健一[143]。「寝たきりになって、その上どこも動かすことができなくなってから、四ヵ月が過ぎたことになる。これも病気(ALS)のためだからしかたがない。ただ起きて歩きたいのも事実だが、不思議なことに、まだ寝ていることにあきていない。/これも私が、普段からひまがあったら横になってゴロゴロしていたり、疲れて寝ているのが好きなせいか、それとも元来なまけ癖があるのかよくわからないが、いずれにしても寝ていることに対してそんなに苦痛を感じていない。もしこのように寝ていることをどうしようもなく苦痛に思っていたなら、きっと今ごろは、ストレスのかたまりになって、相手かまわずあたりちらして、羽生先生の言うとおり、ヒステリックによくケンカをしているだろうなぁーと思う。/むしろ私は、この寝たきりの今の時間を楽して楽しむようにしたいものだと考えていたい。はたしてどうなっていくやらわからないが、同じ一日を過ごすなら、何とか希望をもって楽しく暮らしたいものだと思う。」(宮下[1996:197-198])

※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
・更新:20020812,1003,20030412
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