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湊 治郎

みなと じろう

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last update: 20171027


◆湊治郎著/沖縄愛楽園編 1967 『ハンセン氏病診断の手引』、琉球政府厚生局医務部,26p. ASIN: B000J9WK1Y http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J9WK1Y

レクイエム 医師 湊 治郎さん
http://www.hibinoshinbun.com/files/259/req259.html

 いつも穏やかで温かくて、周りにいるとやさしさに包み込まれ、清らかな気持ちになった。人格を尊重した、同等の姿勢が醸し出すのかもしれない。「医学とは患者のためにあるもので、医者のためにあるものではない」という言葉が物語る。
 人だけでなく、いのちあるものみんなにそうだった。石森の自宅の飼い猫たちは捨てられていた猫で、「いのちあるものだから」と家に連れて帰ってきた。居心地がいいのだろう。どの猫もゆったり自由に、心地よく過ごし、しあわせそうだ。
 幼いころに父を亡くした。貿易の仕事をし、ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動に参加した父だった。戦争が激しくなって、東京から宮城・丸森の母の実家に、母とともに移り住んだ。海軍にいた2人兄弟の兄は、出張先の九州で大空襲に遭って亡くなった。
 医師の職業は母に勧められた。東京女子医専の産婆学校で学んだ母は、ビルマのイギリス式の病院に勤めていた際、間近で働く医師の姿を見て、いい仕事だと思ったという。進学したかった農学部はやめて、東北大学医学部で学んだ。
 けれど、医師になることに迷った時期があったのだろう。仙台市にある尚絅女学院で2年間、生物の教師をした。そこで牧師の河野進さん(故人)の詩集『祈りの塔』を読み、ハンセン病患者の治療・救済に取り組んだ医師の林文雄さん(故人)を知り、医師になるなら、治療法もなく隔離されるだけのハンセン病患者の役に立てれば、と思った。
 昭和26年、医師国家試験に合格。国民病といわれた結核とハンセン病の克服を目的につくられた、東北大学抗酸菌病研究所に勤め、その後、宮城県内にある国立ハンセン病療養所の東北新生園に移った。研究所で動物実験をしているより、整形外科医として患者と向き合いたかった。
 10年ほどが過ぎ、専門医がいない沖縄の同様の療養所、愛楽園で診療を始めた。当時、沖縄はアメリカ軍の施政権下にあった。そのため医療宣教師として入り、羽路村の無医村診療所と愛楽園を掛け持ちした。
 そこでアメリカ人の素晴らしい、リハビリテーション専門の女医と出会った。リハビリの意味・意義はもちろん、偏見も差別 もない人間対人間の医師と患者の姿を目の当たりにした。「リハビリは機能訓練をするだけでなく人格を尊重し、医師と患者が同じ目的に向かって歩いていくものだ。医師は伴走者なのだ」と感じ、以後、リハビリの勉強を始めた。
 軍用機でアメリカ・ニューオリンズのハンセン病患者のコロニーに行き、イタリア人医師の元で半年間、研修を受けた。最初に命じられたのは、車いすに乗った患者を外来に連れて行くことだった。きちんと正装して外来に向かう患者。そこにも医師と患者が同等の医療があった。
 沖縄のハンセン病患者は病状が軽く、気にしなくてもいいと思うほどだった。隔離して治療するのではなく、自宅から通 える診療所がつくれたら、ハンセン病患者でも普通の生活ができるのではないか。そう考えて周囲に相談し、民家を借りて外来診療を始めた。隣家で放し飼いをしているニワトリが遊びに来る自由な診療所で、ハンセン病でない一般 の皮膚病患者も診た。
 沖縄で9年過ごした後、仙台に戻り、国立療養所西多賀病院で障害を持つ子どもたちの診療をした。ある日、いわき市の福島整肢療護園の大河内一郎さん(故人)が訪ねてきた。療護園の園長に誘うために、脳梗塞の後遺症のある体に無理を押してきた。しかし心の奥にはハンセン病患者のことがあり、申し訳なく思いながら断った。
 ところが数日後、「大河内さんが脳梗塞を再発して意識不明」の連絡があり、療護園行きを決意した。西多賀病院の院長の代わりはいるが、療護園にはだれもいなかった。昭和55年4月、療護園の園長になった。52歳の時で、それから32年間、療護園で診療を続けた。
 どんなに患者の病気が重くても、同じ方向を向いて一緒に走り続けた。弱い人たちはかけがえのない存在で、その存在が社会を進歩させていく。ともに生きて行くとはそういうことなんだと、ある時、気づいたという。
 このところは時間があると散歩をして、本を読み、手紙を書き、週に1度は整骨院のデイサービスに通 っていた。持病のパーキンソン病はいくらか進んではいたが、日常生活に支障はなかった。
 その晩、いつもよりたっぷり夕食をとり、9時半ごろ、「お風呂に行ってくるね」と、妻のフヨさん(83)に言った。なかなか上がって来ないので心配になって風呂場をのぞくと、湯船に沈んでいた。救急車で病院に運んだが、再び目を開けることはなかった。
 告別式は毎週、日曜日に通っていた磐城教会で行われた。「まだ、いなくなったような気がしない」とフヨさんが言うように、石森の家にはやさしく清らかな空気が漂う。猫たちも相変わらず気ままに、ゆったり過ごしている。


http://blog.livedoor.jp/aryu1225/?p=2
 「競争社会ではなく協力社会を」とは、共働学舎の創設者、宮嶋眞一郎さんの願い。福島整肢療護園の園長を務めた湊治郎さんは「より重い重度障害者に眼差しを。そうすれば社会が幸せになる」と言い続けた。勿来町窪田で町医者をしていた斎藤光三さんは法律がないというのに保健所と社会福祉協議会に呼びかけて、訪問看護やデイケアを始め、自宅で寝たきりになっている地域のお年寄りを見守った。そこに法律がなくても、対象者を思う心と確固たる意志、使命感があればできる。それを行動で証明し、根っこにあるのは、差別や区別とは無縁な人間愛だ、ということを教えてくれた。

https://mol.medicalonline.jp/archive/search?jo=es2nosei&ye=2008&vo=&issue=18
湊純・湊正美・湊治郎・福井聖子 「重度脳性麻痺児の姿勢管理」
福島整肢療護園『日本脳性麻痺の外科研究会誌』(18): 59 -64 2008 【アブストラクト】 従量制は108円(税込)、基本料金制は基本料金に含まれます。
福島
http://www.ryogoen.jp/index.html

高木賞
http://nishikyo.or.jp/pdf/takagi_recipient.pdf
http://www.carecuremd.jp/book/data/1/d1_s47-s53.pdf


UP: 20170312 REV: 20171027
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