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丸木位里/丸木俊/丸木美術館




◆2001

原爆の図丸木美術館では現在企画展として「丸木位里 生誕100年展」開催中

7月8日(日)はオープニングセレモニーとして新館長 針生一郎 講演 「丸木位里論」


2001年6月19日〜9月15日
     丸木位里 生誕100年展
     1901年6月20日に生まれた丸木位里の生誕100年を記念した企画。常に時代に
     先んじたアヴァンギャルドな水墨画の数々を展示。


 7月8日(日) オープニングセレモニー
 午後1時より 講演「丸木位里論」 
 講師:針生一郎(丸木美術館館長・美術評論家)
 東武東上線森林公園駅より送迎バス 12:00,12:30


 8月5日(日) 講演と映画 
 講演「丸木夫妻を偲んで」 講師:石牟礼道子(作家)
 映画「水俣の図・物語」 監督:土本典昭 1981年青林舎制作 
 場所:東松山市中央公民館 ホール
 午後5時半会場 午後6時開演

 8月6日(月)ヒロシマ忌灯篭流し他(美術館下・都幾川河原)



              丸木位里の美術史上の特異さ
                    針生一郎
 丸木位里は近代日本美術史上でも、比類なく特異な画家である。ほとんど独学で水墨画の技法を身
 につけたが、同郷で年下の靉光の影響もうけてキレイゴトの日本画を打破するため、船田玉樹、岩
 橋英遠と「歴程」美術会を結成し、岩橋が院展に去ったあと船田とともに、シュルレアリスムの洋
 画団体「美術文化」に加わった。こうして日中戦争下に洋画家赤松俊子と結婚する前に、水墨山水
 を中心に大樹や牛なども描く丸木の前衛、野人、民衆画家としての風格はできあがっていた。
  戦後の《原爆の図》シリーズにはじまる丸木夫妻の共同制作は、このような水墨画の基盤の上に
 成りたち、またこのように放埒自在の画家だからこそなしえたのである。共同制作は《原爆の図》
 のあと、南京大虐殺、アウシュヴィッツ、三里塚、水俣、《沖縄戦図》におよび、夫妻の海外旅行
 も頻繁につづくが、その間にも位里は幽遠茫洋とした水墨の山水・花木・鳥獣、俊は海外の男女風
 俗や生活情景の油絵、精彩ある絵本を旺盛に制作している。たがいにまったく異質だが、どちらも
 強烈な個性だったからこそ、二人の共同制作ははげしい葛藤をはらみながらも、絶妙のコンビを保
 ちえたので、その実態があらためて正確にみきわめられなければならない。
  土本典昭監督の記録映画《水俣の図・物語》をみると、丸木俊がまず水俣の人物群像を画面左右
 に精細に描いて、画風がちまちまと説明的になりかけるところに、位里がバケツで水に溶いた墨を
 ぶちまけて流しこむ。その無造作さに俊が一瞬悲しげな表情すらみせるが、やがて流された墨が乾
 くと、濃淡やにじみもそのまま画面の空間と情調を形づくったことに気づかされる。こういう過程
 から推察されるのは、共同制作を先導したのはつねに俊だが、その戦略と構想を最終的に決定した
 のは位里だろう。ともかく、一見茫漠模糊とした位里がなかなかの戦略家だったことは、周辺には
 知られている。
  そういえば、夫妻の共産党入党も芸術的戦略が合致するとみえたせいだし、60年代半ばの共産
 党除名も戦略的な対立のせいだろう。夫妻が東松山に転居したのは除名前後だが、共同制作の常設
 展示場として美術館建設のためにも、前以上に絵を売る必要があった。その点日本画の方が昔から
 権力者や金持ちに高く売れるが、位里はその種の顧客を持つ大手画商と一切取り引きせず、水墨民
 衆画風を保って親しい小画廊にゆだね、または直接愛好者に売ろうとした。それまた彼の戦略の一
 環で、丸木位里ほどすべての戦略と構想を実現した画家はなく、そのことが彼の美術史上の特異さ
 のみのがせない要因でもあるだろう。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku-01iri.htm



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