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勝又 裕司

かつまた・ゆうじ

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last update: 20230611

・和光大学卒業
・文京区に住む
・国立市に住む

◆1986/04/16 勝又裕司 インタビュー 聞き手:立岩 紙のみ20p. 文字化:立岩 60×3
◆1986/05/06 勝又裕司 インタビュー 聞き手:立岩 紙のみ15p. 文字化:立岩 60×2
◆11 1986/05/20 勝又裕司 インタビュー 聞き手:立岩 紙のみ11p. 文字化:立岩 60×3

◆立岩 真也 20071110 「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36

 「他には何があっただろう。勝又裕司という私より四つ年上の脳性まひの男性が、和光大学を卒業した後、見田宗介(真木悠介)先生のゼミにもぐりで来ていて、彼はその当時世田谷に住んでいたのだが、その家への送りを手伝うというようなことがあった。ちなみに、真木悠介名の著書『現代社会の存立構造』、『気流の鳴る音――交響するコミューン』はいずれも一九七七年の発行となっている。その二年ほど後の見田さん(と呼ばれていた)のゼミに私たちは出ていたことになる。それは、学校の制度外のゼミであったように思う。新入の一年生を含め参加することができた。見田さんのことは大学に入るまでまったく知らなかった。同級生からおもしろいらしいと聞いた。学校の掲示板に、なにか短い文章を出すようあったので、書いて出して入れてもらった。当時はたしか柳田国男の『明治大正史世相篇』などを扱っていたと思う。ものごとを分析するその手際、切れ味のよさに驚いた。見田さんは、だいぶ後のことになるが、『朝日新聞』で論壇時評の欄を担当していた時、本誌『そよ風のように街に出よう』『季刊福祉労働』とをあげて、そのいずれかだったかの発刊何号だか何年だかを讃えたことがあった。そのゼミの先輩には大澤真幸もいて、しかし二年上ですぐに会うことはなく、といった話をしていると先に行けない。勝又は後に一人暮らしをするんだということになって、その住居探しを手伝ったことがある。私が不動産屋まわりについていった日にようやく決まった。その流れで、しばらく、その人の介助をときどきすることがあった。その時はもう私は本郷の文学部の学生になっていて、彼も本郷の近くの西片に住んでいた。ここでも彼はもぐりの学生をしたりしていた。院生になってもすこし介助はしていたかもしれない。私は有償介助を強く支持する立場の人間だが、その仕事では金はもらわなかった。ただ、帰りにそこでシャワーを浴びてくる(銭湯だと金がかかるので)といったいささかの利得はあった。夕飯を作っていっしょに食べたが、材料費を折半ということもしなかったと思う。仕事自体はべつにきつくなかった。ただ、介助者のローテーションを決め、予定表を埋めるために電話をかける仕事をさせられた。これはなかなかつらいものがあった。」

◆安積 遊歩・立岩 真也 2023/**/** 『(題未定)』,生活書院


UP:20230611
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