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川口 武久

かわぐち・たけひさ
1941/03/15〜1994/09/27



日本ALS協会(1987/04〜)
・日本ALS協会名誉会長
・1994/09/27 逝去
 『JALSA』033号(1994/11/25):31


◆1941/03/15 三重県名張市で生まれる
◆1959    名張高校を卒業後上京
       千葉で喫茶店を営む
◆1973/11/  発症
◆1973    三重県に
◆1977    京都・波多野病院に入院(川口[1983:38-])
◆1977    筋萎縮性側索硬化症を知る(川口[1983:44-])
◆1978    離婚
◆1978    自殺未遂
◆1979/01/  三重県四日市市の身体障害者療護施設「エビノ園」に入る
◆1980末   実家に戻る
◆1981/10/25 洗礼を受ける
       洗礼志願の信仰告白:川口[1983:184-194][1989:92-100]
◆1982/05/03 松山ベテル病院へ
・1983/03/15 NHKのローカル放送で「ある難病患者の闘病日記」(川口[1985:111-112]) ・1983/03/22 NHK愛媛で朝07:29〜14分間放映(川口[1985:151-152])
・1983/07/10 都立神経病院の椿院長から手紙届く
・1983/07/19 キリスト教新聞に記事が載る(川口[1985:154])
・1983/07/20 南海テレビで放映 出版のこと、各新聞で報道(川口[1985:154])
◆1983/07/24 『しんぼう――死を見つめて生きる』,静山社,270p. ISBN-10: 4915512053 ISBN-13: 978-4915512056 \1325 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
◆1984    会報の第1号を出す
◆1985/05/15 『続しんぼう――生きて生かされ歩む』,静山社,278p. ISBN-10: 4915512096 ISBN-13: 978-4915512094 \1325 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
◆1986/04/  日本ALS協会結成。会長に就任
◆1987/04/  日本ALS協会名誉会長に就任
◆1988/10/  「告知の受容」(国際ALS会議での発表)
       1988/10/29〜31 川口[1989:131-137]
◆1989/09/10 『ひとり居て一人で思う独り言――筋萎縮性側索硬化症と闘う』
       一粒社,307p. 1301円+税 ※
・1993/01/  NHK「命燃やす日々」
◆1993/10/17 『菊化石――筋萎縮性側索硬化症との日々』,創風社,255p. ISBN-10:4915699331 ISBN-13: 978-4915699337 \1529 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
◆1994/09/27 逝去

■言及

◆立岩 真也 2004/11/15 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya]

◆立岩 真也 2009/03/10 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] d01.et.,

 第4章註21
 「★421 一つめは、『文藝春秋』二〇〇二年一二月臨時増刊号「日本人の肖像」に掲載された「ただ生きるのでは足りない、はときに脆い」([2002e])。この号は、多くの書き手に、その人が思う立派な日本人のことについて書いてもらうと▽284 いう企画だったので、題のような文章を書いた。
 次に、ほとんど同じ題で同じことを言っているのだが、二〇〇三年六月の『東京新聞』『中日新聞』に二回に分けて載った文章、「ただいきるだけではいけないはよくない」([2003d])。このときには『ALS』のもとになった連載を『現代思想』(青土社)にしていて、そこでとりあげた川口武久のことにふれている。
 そして、二〇〇四年の末に『ALS』が出たのを機会に二〇〇五年三月に『聖教新聞』に書かせてもらった文章([2005a])。自分でつけた題はなかったから、今回は「中立でなく」という題にして再録した。」
 ↓
◆立岩 真也 2022/12/30 『生死の語り行い・3――1980年代・2000年以降』Kyoto Books
 第4章註21

■著書

◆19830724 『しんぼう――死を見つめて生きる』,静山社,270p. ISBN-10: 4915512053 ISBN-13: 978-4915512056 \1325 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
◆19850515 『続しんぼう――生きて生かされ歩む』,静山社,278p. ISBN-10: 4915512096 ISBN-13: 978-4915512094 \1325 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
◆19890910 『ひとり居て一人で思う独り言――筋萎縮性側索硬化症と闘う』,、一粒社,307p. 1301+ ※
◆19931017 『菊化石――筋萎縮性側索硬化症との日々』,創風社,255p. ISBN-10:4915699331 ISBN-13: 978-4915699337 \1529 [amazon][kinokuniya] ※ als n02


■19931017 『菊化石――筋萎縮性側索硬化症との日々』,創風社,255p. ISBN-10:4915699331 ISBN-13: 978-4915699337 \1529 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
◇内容説明[bk1]
ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病魔と闘い、「俺」はどこまで生を追求しうるだろうか…。これまで3冊の随筆集でこのテーマと取り組んできた著者の、「小説」の形をとらなければ語り切れなかった「現実」が迫る。

松本 [1995]

 「後に日本ALS協会初代会長になった故・川口武久さんの闘病日記を、出版社〔静山社〕を経営する松岡さんが見出し、『しんぼう』という書名で出版した。その過程でALSについて深く知るところとなり、患者や家族がどのような状況に置かれているかを見るにつけ、何とかしなければならないという気持ちに駆られたのだという。」(杉山[1998:12])

 「絶望的な日々が続きましたが、ある日、田圃からの帰りの車のラジオで、今は亡き川口武久さんの闘病記『しんぼう』のことがちらっと報道されました。「アラ」と思って、『しんぼう』を探してほしいと農協に頼みましたら、探してくれました。入手できた日は、夜を徹して二人で読みました。
 『しんぼう』の中で川口さんは、この病気のつらさ、苦しさ、病気の現状を社会に理解してもらい、誰もが安心して闘病できるようになりたい、そのためにはまず同病者や関係者の組織を作り、交流しあいたいと、切々と訴えておられました。全く同感、感動しました。私はさっそく川口さんにお便りしました。」(「悪妻の弁」,松本[1995:292])

◆山田 徳子 [1989]

・19870605
 「川口武久氏著『しんぼう』を読みふけった。筆者は私と同じアミトロ患者。読んでいるうちに、涙と共に戦慄さえ覚えた。明日はわが身よりも、川口さんの生き方、考え方に魂を奪われてしまい、しばらく茫然としていた。」(17)

・19870609

 「『続しんぼう』に没頭する。信仰によって心が穏やかに、ただ奉仕することに心の平安と喜びと感謝を覚え、私たち同病者や身障者のために働き続ける作者に、感動のあまり涙が流れる。」(18)

松本 [1995]

 「患者・家族の熱意が実り、医師や専門職の方々にも参加していただいて、日本ALS協会が発足したのが昭和六一年四月。会長には川口武久さんが就任した。
 川口さんはまれに見る進行の遅いタイプで、発病して一二年も経っているのに気管切開もせず、食べられるし、話も不明瞭ながら十分に通じる。また彼が闘病記『しんぼう』を出版したことがきっかけになって、患者・家族の輪が出来た経緯もあり、会長として適任者である。
 その川口さんが会長を下りると言う。なんでも、最初の一年間だけという約束で引き受けたのだからと、辞意は固く、松岡事務局長がいくら翻意を促しても、ウンと言わない。
 松岡さんが困り果てて電話してくる。私にやれと言う。準備会の段階から参加しているので、責任は感じるが、私も困る。やりたくない。(p.39)
 せっかく協会が出来、皆が喜んでいるのに、挫折させるわけにはいかない。川口さんに再度お願いしてみてくれと、松岡さんに頼む。数日後電話があり、どうしても駄目だとのこと。
 川口さんは郷里の三重県を離れ、単身、愛媛県松山市の病院に入院している。妻は川口さんに同情して、何をするにも看護婦さんにお願いしなければならず、肩身の狭い思いをしているのだろう、そんな川口さんに会長を引き続いてやらせるのは気の毒だと言う。」(松本[1995:39-40])
 「松岡さんに条件を付ける。川口さんが名誉会長を引き受けてくれるなら、やってもいいと返事する。「努力してみるが、引き受けてくれないかも」と松岡さん。
 […](p.42)
 […]川口さんも名誉会長を引き受けてくれるというので、安心してやらせてもらえると、胸をなでおろす。」(松本[1995:42-43])

◆「川口名誉会長死去」
 『JALSA』033号(1994/11/25):31

 「名誉会長の川口武久さんが、去る九月二七日、死去されました。三重県出身で、五三歳でした。
 川口さんは昭和四八年、三二歳で発病され、以来二一年間、ALSと闘ってこられました。その間、病院、身障者施設を転々とされ、昭和五七年に松山ベテル病院に単身移られ、以来亡くなられるまでそこで過ごされました。
 昭和五八年に、闘病記『しんぼう』を出版、それを契機に患者方の輪ができ、ALS協会の発足へとつながりました。初代会長として協会の組織づくりに尽力され、名誉会長に退かれた後も、同病の方々 の大きな支えとなってこられました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 (『しんぼう』は静山社刊。ご注文は書店または事務局へ。一三〇〇円)」

◆マオ アキラ 『命燃やす日々――自らガンと闘い ある難病患者の「生きる!」を撮ったディレクター』,文溪堂,189p. ISBN-10: 4938618923 ISBN-13: 978-4938618926 \1365 [amazon][kinokuniya] ※ als c07 n02
 
 「川口さんは、そうした難病を背負い、病気の苦しみだけではない、世間の人たちの無理解や偏見などにも苦しめられる。また、自分の看病に疲れた奥さんの苦労をみかねて離婚したり、経済的にもつらい思いをするなど、まさに、身体も心も休まる日のない、苦しい闘病生活を、二十年近くつづけている人だ。
 周策が、川口さんにひかれたのは、そうした絶望的ななかにいながら、なお、川口さんが、病院や施設のなかで、親睦会をつくり、おたがいに励ましあったり、世間の人たちに、理解してもらうために、新聞を発行したり、患者がよりいい医療をうけるために、自治会をつくったりすることだった。
 そうした川口さんの活動は、けっして順調の進むわけではない。以前いた病院や施設で(p.24)は、仲間の患者から、協力を得られなかったり、病院側から会をつぶされたこともあった。
 また川口さんは、気持ちがやさしくてステキなナースに恋をするが、結婚はできず、その人の幸せを願うだけに終わった。
 それでも川口さんはくじけない。
 難病にかかっても、身体は不自由になっても、おれたちは、人間だ。みんなと同じ心を持つ人間だ。美しいものを美しいと感じ、悔しいことに怒り、悲しいことに泣き、人に恋をし、人のために役立ち、社会のために働き、人間らしく生きたい、とそう願う、みんなと同じふつうの人間だ。
 川口さんは、そう主張しながら、けっして「助けてくれ!」とはいわない。病人や障害者が、胸を張って生きられるような社会にする努力を、自分でやっていくのだ。
 そんな川口さんを周策はすごいと思う。」(pp.24-25)

 ▽「ワープロから打ち出される、慟哭の声。
 「あるALS患者の例です。……看護婦さんからきらわれ、『どうせ長くない命だから』と(p.144)か、『身体が動かないから、どうせ意識もないんだろう、ベッドから落としてやろうか』などといわれつづけた。その人が亡くなる前、『洗濯板のようにやせている』とバカにしたいい方を、看護婦さんはしていた。彼は、全部きこえていたにちがいない、彼の絶望の深さはどんなだっただろう。」」△(pp.144-145)

■会〜日本ALS協会

◆1983/01/05 初夢を見る。「私と同じ「側索硬化症」に苦しみ、倒れていった人びと、今もあえぐ人びとの群れだった。あの悲しみに沈んだ顔は、何も訴えたかったのた。
 ハッとした。彼らは、アミトロの会をつくり、患者、遺族の無念の声を世間に伝えてほしい、と訴えたかったのだ。亡くなったA君も、Bさん、Cさんもそう言いたかったのだ。」(川口[1995:90])

◆1983/01/27
 「アミトロの会を結成したいと思い立って、はや一か月がたつ。未だに何も進んでいない。県庁に、大学病院に、そして同病の友にも、主旨を説明して情報の提供をお願いしてあるが、どこからも返事が届かない。じれったい。この体さえ自由がきけば、どこへでも乗りこんで行くのだがと、自分を呪う。」(川口[1985:95])

◆1983/03/15 NHKの地方放送で「ある難病患者の闘病日記」放映
       川口武久『続しんぼう』pp.111-112
◆1983/03/22 NHK地方ニュースで川口武久とりあげられる
       川口武久『続しんぼう』pp.113-114
◆1983/03/29
 「ラジオを聴いたといって、東京から便りが届く。…
 地元からはなんの音沙汰もない。まるで息を殺して、時間がたつのを待っているかのようだ。宇和島でも、いろいろな方が「テレビを見た」と励ましてくれたが、肝心の患者、家族からの反応がない。
 いったい、どこで、どうしておられるのか。一人で重荷を背負わず、出て来てほしい。」(川口[1985:118])

◆1983/04/03
 「県会議員の方から、同じ病気に入院している県内の患者八名の入院先が知らされる。各病院に、私の主旨を患者に伝えてほしいと頼んであるとのことで、さっそく、一人、名乗り出てくれた。周囲の人が臆病でありすぎる。本人は、同じ病いの人の消息を求めている。ともに力を合わせて闘いたいと願っているのだ。
 固い扉がようやく開かれようとしている。一人、また一人と、声が届く。会は決定できる。必ずつくってみせる。」(川口[1985:121])

◆1983/07/04
 「同病の人たちから、いろいろな情報が寄せられる。灸をすえて息苦しさが消えたこと、食べ物の工夫、使っている薬の種類も大いに参考になる。これらのことをまとめて、皆に知らせてあげたい。
 病院二か所から返答が来る。一つは、該当者がいないという返事。もう一つは、同病の方が三人いるが、本人にも家族にも病名を告げておらず、直接連絡をとるのはむずかしい、というもの。一日も早く治療法が確立され、本人に笑って病名を告げられ、安心して受け止められるようになってほしい。そのためにも、隠さず、進んで語り合う必要があるのではないか。
 全国難病団体連絡協議会にも、問い合わせてみることにする。また、同病の方が唯一加入している、京都の「あけび会」にも連絡をとろう。」
(川口[1985:151])

◆1983/07/15
 「県下の、同じ病いの人の所在がいまだにわからない。この状態では、愛媛県で会を結成するのはほとんど絶望だろうが、中央に働きかけて、なんとしても結成したい。」
(川口[1985:153])

◆1983/12/30
 「今年の目標であったアミトロの会の結成は、残念ながら実現するに至らなかったが、それなりの成果をあげることができた。初めは同病の方がたの所在が皆目わからなかったものが、テレビで取り上げられたおかげで、一人、二人と名乗りをあげてくれた。また、本の出版も自費出版から市販へと思わぬ展開をみせ、大きな反響をいただいた。それに伴い、三十名を越す方がたから便りが寄せられた。
 おかげで、会の結成に向け、明るい希望が見えてきた。来年からはガリ版刷りでもよい、会報を出し、皆の声を反映していきたい。正式の会の発足までには、まだまだ時間がかかるだろうが、一歩一歩、進んでゆけばよい。」
(川口[1985:222])

◆1984/02/16
 「会報第一号が出来上がる。…
 …タイトルは私が、「アミトロの仲間」という意味あいをこめて名付けた。
 ワラ半紙大の、たった一枚の”会報”だが、ここには同じ病いと闘う人たちの声が集められている。入院十二年目を迎えた岡山のIさん。「育ち盛りの子供三人を抱え、パートに、主人の病院にと忙しくしています」という埼玉のKさん。同じく埼玉のSさんは体調をくずされ、再入院されたという。福島のYさんはお母さんの看病の合い間をぬって、便りを寄せられた。一人ではない。同じ病いと闘っている”仲間”が全国にいることを、このささやかな会報が伝えてくれるだろう。そして、二十人、三十人と”仲間”が増えてゆくのを期待したい。
 午後、ヘルパーとポランティアの人たちが発送作業をすすめてくれる。…百通ほどの郵便物ができあがる。
 皆の期待をこめて、第一号が飛び立って行った。」
(川口[1985:247])

◆「『しんぼう』の出版にさいして、川口さんが密かに期待し、願っていることがありました。それは、同じ病いと闘っている人たちがこの本を読まれ、名乗り出てくださることでした。
 実はこの数年、川口さんは、同じ病いに苦しむ人たちが共に慰め、励ましあえればと、消息をたずね求めてきました。しかし、問い合せた病院や福祉事務所からは色良い返事をもらえ(p.272)ず、全国に二千名とも、それ以上ともいわれる患者さんの所在は、霧に包まれたままでした。『しんぼう』の刊行が、同病の方たちの消息を知る手がかりになってくれれば、と川口さんは祈るのでした。
 その願いがかなえられました。同じ病いの方はもちろん、その家族、遺族の方からも続々と便りが寄せられたのです。」
(岩井代三「「あとがき」にかえて」,川口[1985:272-273])


●「告知」「診断」について

◆1977

 「どうにも気になって、医学書を調べてみた。
 [略]
 まだ原因不明で、確たる治療法もなく、点滴や静脈注射・鼻腔注入による栄養補給、さらに人工呼吸などによって「延命」をはかることしかできない。ふつう、発病から三〜五年で死亡する。欧米ではガンより恐れられ、医師が患者に病名を継げるのはタブーとされている。」(川口[1983:46])

◆1978頃?

 ▽「神経痛、椎間板ヘルニア等の診断をされたのですが、一向に回復する気配は見えず精密検査を受けました。検査の結果は「脊髄の手術をする必要がある」と言われ「これで治る、早く治したい」との一念だけであったように思います。ところが、最後の造影剤撮影において何処にも異常が見当らず、手術は中止になり、つけられた病名は「脊髄痙性麻痺」でした。
 その日から、病院を転々と彷徨する日々に変わって行きました。何処に行っても頭を抱え首をかしげるばかりで、本当のことは教えてもらえませんでした。[…](p.132)
 発病から五年目、遂に病名を知ることができたのです。そこは、難病専門の病院に変わろうとする診療所でした。主治医は私に「治る」と言われ、暗示をかけて一時的に回復に向かった時期を経て、私の目の前にカルテを置いて行かれたのです。気が咎めましたが、恐る恐る見せてもらったのです。そのカルテには「運動ニューロン疾患ALS」と記入されていました。初耳の病名です。聞くに聞けず、こっそりと医学書を調べて見ました。
 「変性神経疾患で進行性、原因は不明、治療方法は全く無く予後は不良、発病から三、四年の命である」と記してあり難しい解説は分かりませんでしたが、まさかこれほどの難病だとは思いもせず、身体が深く沈んで行くようでした。いくら早期に発見しても成す術も無く、ただ死を待つだけの病気に思えたのです。これでは簡単に病名を教えてくれないはずです。
 このように直接では有りませんでしたが、家族よりも早く知るところとなり、余りの残酷な宣告に家族には黙っていることにしました。」△(「告知の受容」,1988/10/29〜31 国際ALS会議→川口[1989:132-133])

◆1983/04/03

 ▽「香川県から、同じ病いの父親を持つ娘さんが訪ねて来る。病気のむごさを考えると、とても本人に告げる勇気がなく、家族としてどう対処すればいいか、相談に乗ってほしいという。この病いで悩むのは、本人だけではない。家族もまた途方に暮れ、煉獄の苦しみを味わう。
 涙ながらに訴える娘さんを前に、私には慰める術がなく、とまどうばかり。お父さんが自然に気付くまで、あえて知らせる必要はないのではないか、その分、家族が方がしっかり担ってあげてほしい、逃げないで皆で頑張ってほしい、と意見を述べる。」△
(川口[1985:122])

◆1988/05/25

 「「ALSであればあんなに長くは生きられない、生きていたとしても起きて普通の日課を過ごせるはずはない」と世間では囁かれている。
 「愛媛大学」の医学部の講義にも、看護科の教科でも「筋萎縮性側索硬化症」の話には、私の名前が例に出てくるそうである。
 「あれは良性のものか、嘘のアミトロである」と教えられると聞く。私もそうあって欲しいとは思うが、アミトロの症状である麻痺、萎縮、硬直、拘縮、けいれん等が体全体に及び、今は球麻痺に苦悩している。その進行は穏やかであるが、確実に悪化している。」(川口[1989:52])

生死について

◆1981/10/08

 「S君がいよいよ、鼻注食に頼らなければならないとの知らせが入る。明日は我が身。どんなに悔しく、つらいことだろう。私は人工的な延命は望まない。自然のままに召されたい。それが残された願いである。」(川口[1983:180])

◆1982/11/26

 「私の体は、次第に細まってきた。このことを指摘し、共に憂えてくれる人はいるが、どう対(p.71)処すべきか、適切なアドバイスをしてくれる人はいない。人工的な延命は望まない、と日頃から言っている私への配慮か。」(川口[1985:71-72])

◆1982/11/30

 「じつのところ、どこまでが自然の生で、どこから先が人工的に生かされることになるのか、その境界をどこに置けばいいのか、私にはわからない。ただ言えることは、どんな処置をもってしても、もはや人間として生きることは望めないのに、人間のあみ出した機械でやみくもに生かされ続けるのは、ご免こうむりたい。
 私の場合は、植物人間のようになっても、おそらく最後まで意識があると思われる。人間としての意識がある限り、神から与えられた生命は大切にしたい。使命も果たしたい。その使命を果たし終えるのは、いつか。それは誰にもわからない。神のみの知り給うところだ。」(川口[1985:72])

◆1982/12/03

 「私は、人工的な延命はいらないと思っている。意識がなくなった時はもちろん、人間としての人格が失われた時、それでもなお、生かされている価値があるだろうか。
 […]
 人間の体は本来、自らを癒やす力――治癒力――を神から与えられている。その能力に比べれば、医学ができるのはせいぜい、治癒力の足らざるところを補い、助ける程度ではないのか。いくら手当をしたところで、わずか数パーセントの延命でしかない。
 「いま食べている刻み食も、延命工作ではないだろうか」
 と、人は言う。(p.75)
 その通りだろう。この病因に入院させていただいたのも延命策であり、訓練に励み、なるべく起きていようとするのも延命策だ。医療費の補助を受け、障害者年金をいただいていること、その他、すべてのものが延命に結びつく。
 ――それなら、なぜ、延命を望まない、というのか。望まないと言いながら、新しい治療を試みようとしたりするのは、矛盾してはいないか。
 誤解しないでいただきたい。私は、生きたくないとは言っていない。人間としての人格を失いながら、それでもなお、機械の助けを借りて生かされるのは望まない、「生きた屍」はご免だ、と言っているのだ。
 もし、「生きるための闘い」を「延命」と言うのなら、私はむしろ、積極的に延命をはかりたい。意志を伝える手段を奪われ、丸太ん棒のようになっても、私は、人間としての意識を持っている限り、生きていたい。生かされ続けたい。」
(川口[1985:76-77])

◆1983 Sさん

◇1983/04/11
 「同病のSさんがついに昇天された。何か言いたそうなので、看護婦さんがエンピツと紙を持たせると、たどたどしい字で「くるしい。息ができない」と書いて、息を引き取ったという。さぞかし、つらかったことだろう。」(川口[1985:124])

◇1983/04/18
 「Sさんの死因や延命策について、先生方の意見を聞く機会に恵まれる。明日はわが身であれば、ぜひとも聞いておきたかった。
 Sさんは筋萎縮のため、呼吸困難をおこしたという。前から呼吸器官の衰退がいちじるしく、いずれ呼吸困難に陥るのは目に見えていた。
 「器官切開はしなかったのですか」
 と私。「しなかった」という。
 これについては、医師側の意見が二つに分かれた。Sさんは老衰がはげしく、器官切開をしても苦痛を与えるだけで、さほど延命は望めなかった、と一方は言い、いや、それでもやるべきではなかったか、と別のグループ。家族も、延命も望まなかったという。病人をこれ以上苦しませるのはしのびず、静かに眠らせてあげたい、と。それが家族の情かもしれない。
 それでも、器官切開をしてあげてほしかったと思う。Sさんはまだ歩くことができた。言葉(p.127)はしゃべれなくても、手の平に字を書くことができ、目、耳、頭もしっかりしていた。呼吸困難に陥りさえしなければ、まだまだ生きられたのではないか。
 私の場合は、意思の疎通がはかれる間は生かしてほしい。合図を送れなくなる、ギリギリの瞬間を見極めてほしい。感謝の言葉を最後に召されたい。それまで、手足は動かず、口はきけずとも、私は生かされていたい。」(川口[1985:127-128])

◆1983/10/23

 「死の不安と生への執着は、おそらく最後の最後まで消えないだろう。やはり一日でも長く生きたい、生かされたいというのが本音だろう。
 私も、死は不安だ。だがそれ以上に、意志の疎通が途絶えることにおびえる。自分の意志を訴える術が完全に奪われ、物のように扱われる時のことを考えると、私には耐えられない。そこにホスピスへの救いを求めた。幸か不幸か、病気の進行は思ったより遅く、言葉も、ますま(p.200)すしゃべりづらくはなっているものの、まだ何とか話すことができる。だがいずれは球麻痺がさらに進み、まったく話せない時がくるだろう。その時のために、どうか恐怖から逃れられる道を準備してやってほしい。」(川口[1985:200-201])

◆1984/01/23

 「あいかわらず、身の置き場がないほどのけだるさ、憂うつさが続く。この状態から、もう抜け出ることはできないのかもしれない。ならば一日も早く受け入れ、それに馴染むようにしなければならないのではないか。
 先日、不思議な体験をした。仰向けに寝ていると、不意に意識が薄れ、体がフワーと浮いて何かに吸い込まれてゆくのを覚えた。それが四、五回続いた。今までは仰向きに寝ると、息苦しくなることがよくあったが、今回はそれもなく、楽なものであった。
 死ぬ瞬間とは、このようなものではないだろうか。
 だから決して恐れることはない。残された日々を悔いのないものにせよと、神が暗示を与えられたのではないか。」(川口[1985:233])

◆1984/02/10

 「昨日は年甲斐もなく、狼狽し、醜態をさらしてしまった。なぜあのような気分にのめり込んでしまったのか、自分でもよくわからない。
 午前中は、いつもと大して変わりなかった。日課のタイプを打ち、手紙の返事を打つ。やがて昼。朝食と同じく、二匙か三匙しか口に運べず、とうとうここまで来たかと、諦めとも寂しさともつかない気持ちになるが、それほど気にもとめなかった。
 そして、食後の昼寝。この日に限って、時間が来ても、起き上がらせてもらえなかった。待つのには馴れているはずが、なす術もなく、丸太ん棒のように横たわっている自分がひどく哀れになり、惨めに思えてきた。(p.243)
 次つぎと、悲観的なことばかりが浮かぶ。人の世話にならなければ、何一つできない自分。今でさえ迷惑をかけている身で、これ以上、病いが進めばどうなるのか。付き添いをつけたくても、自分で雇えるのはせいぜい一年か二年。それまでに召されれば良いが、こればかりはどうにもならない。いっそのこと、食事も飲み物もとらなければ、二十日もしないうちに楽になるのではないか。
 心の中で、何かが切れた。もう力が尽きた、という思いいに駆られた。後はだらだらと下り坂を転げ落ちるように、生きる意欲を失ってしまった。
 夕食が運ばれ、ヘルパーが起こしてくれようとするが、拒む。看護婦が心配して、入れかわり立ちかわり駆けつける。
 「少しでも食べないと、体に悪いわよ」
 「ね、お願いだから、食べて」
 と、やさしく語りかけてくれるが、無言のまま。
 長い夜がすぎ、窓辺のカーテンが白んでくる。頭の中で、もう一度、頑張れるところまで頑張ってみようではないか、という声。見えない相手に向かって、弱々しくうなずく。
 やがて、起床時間。心配して主治医が駆けつけてくれる。涙がにじむ。抱き起こしてくれ、横にならんで、共に朝の祈りを捧げてくれる。
 きょうもスタートした。」(川口[1985:243-244])

◆1988/05/02

 「受け入れるのに賛成してくれた主治医たちは「後、一年位の命だろう」と判断していたと聞かされた。私は私で「三年位は生き延びるのではないか」と予想していた。
 それが嬉しい誤算なのか、迷惑な誤算なのか、私一人では答を出せないがこの上なく幸せに思っている。余りルンルン気分で過ごしているので、ある看護婦は「あなたは死の看護(ホスピスケア)を求めていたのではないですか」と暗に長く生かされているのが不思議でならない様子であった。何か後ろめたい気もした。」(川口[1989:42])

◆1988/05/18

 「八年前にキューブラー・ロスという精神科女医の『死ぬ瞬間』『続・死ぬ瞬間』(読売新聞社)を読んで大いに感動した。」(川口[1989:49])
 「死によって肉体は朽ち果てるが、霊魂は昇華されて新しい世界に導かれることを、キューブラー・ロス女史は語るのである。我々より先に死んだ親愛なる人たちに、死によって再開できる希望は何にもまして大きな歓びになるはずである。」(川口[1989:51])
 *Kubler-Ross, Elisabeth 1969 On Death and Dying, Macmillan=19710410 川口正吉訳,『死ぬ瞬間――死にゆく人々との対話』,読売新聞社,315p. 980 ※
 *Kubler-Ross, Elisabeth 1975 Death : The Final Stage of Growth, Prentice-Hall=19771115 川口正吉訳,『続 死ぬ瞬間――最期に人が求めるものは』,読売新聞社, 285p. 1236 ※

◆1988/05/25

 「私が「松山ベテル病院」に受け入れてもらった時に「人工的な延命を望まない」という約束があった。それが予想以上に長生きをさせて頂いているので、私も病院も戸惑っているのが現状である。」(川口[1989:52])
 「以前、病院のカンファレンスに「人工的な延命とはなにか」というテーマで話し合われた時に、現在、私がお粥と刻み食を食べさせてもらっているのが一つの人工的な延命ではないかと指摘された。これ以上延命を望むのは約束違反になるのではなかろうかと、胸にグサリと刃を突き刺されたような気持がした。
 私の考えは甘かったのだろうか。病気とは無縁な時には、自分の意思と意識に関わらずに生かされている。俗にいわれる植物人間がそれに該当すると思い込んでいした。また、その手段が人の手を煩わせず人工的に管理されるものが、人工的な延命だと思っていたからである。アメリカの安楽死裁判で話題になったアンナ・カレン嬢のことが、頭にこびりついていたのかも知れない。(p.53)
 […]私もたとえ嫌われても、嫌がられても一日も長く生き延びたいというのが本音である。
 しかし、私は弱虫で勇気がないのである。よりよく生きたいと望めば、より多くの迷惑をかけてしまう。よりよく過ごしたいと願えば、より沢山の世話を受けることになる。いくら他人の親切に甘え、頼るのが宿命だと言っても限度があろう。同病者のように強く逞しく生きられないのだ。
 「死にたい、死にたい」と言っていても、子供や家族に受け止められ、支えられる境遇ではないのである。また、精神的な苦痛が強まると生きがいも薄れ、生きていく意味も価値もないと思い込んでしまう。こんな排他的な考えはよそうと思うが、心身が疲れに疲れきってしまうと意欲も減退してしまう。
 仲間には「負けるな、頑張れ」と励ましているが迫力のない矛盾である。」(川口[1989:53-54])

◆1988/06/25

 「「人は生まれてきたように死んでいく」と「淀川キリスト教病院」の柏木哲夫先生が言われたが、まさ(p.62)に名言であろう。最近は核家族化が進み、畳の上で家族に見守られながら召されていく方が少なくなり、病院で最期を迎えるのが当り前になってきている。看護者も患者以上に死生観をしっかり持つ必要があるのではなかろうか。そうでなければ患者の苦痛、苦悩は受け止められないだろう。死生観には哲学か、宗教のような強力なバックボーンも欠かせないだろう。これは難しい課題である。」(川口[1989:62-63])
 cf.柏木哲夫

◆1988/09/08

 「私の病状も更に嚥下、呼吸困難の様相を見せてきた。特に息苦しさは耐えられないものだ。末期の苦痛が嫌でも脳裏をかすめる。そんな弱さを見抜くかのように「人工的な延命を受けよ」との声が高まる。いち早く大阪のI保健婦は、こう言われた。
「生き延びられる道があるのに、それを拒むのは間違っている」と。
T患者の家族は「私たちのためにも生き延びて欲しい。同じ個室に入ってもらい私がお世話をしますから……」と言ってくれる。また、ヘルパーは言う。
「パートに切り替えてでも付き添うから……」と涙ながらに説得してくれる。
 この方たちは少なくとも、私の存在を認めてくれ、私が必要だと思ってくれている。こんな有難いことを言ってくれる人が、他に誰かいるだろうか。感謝に尽きない話である。何も役立ちそうにない私の心は揺さぶられる。それは延命の道が開かれるというのではなく、心情が激しく動揺するのである。
 マザー・テレサも「人間にとっては他人から無視され、必要とされていないことほど悲しく、寂しい者はない」と、その愛の渇きを嘆かれている。
 私は人工的な延命を受ける勇気はなく、生きがいにも乏しい。人の倍以上生きて生かされてきた体(p.85)はくたくたに疲れきってしまった。油切れでガタガタになりオーバーヒート寸前だ。これ以上他人に迷惑をかける意義もみいだせないでいる。そんな者がのうのうと生きる資格はないとも思っている。また、自然な寿命に委ねていくのが罪だと言われるのだろうか。先立たれた仲間はどのように受け止めていたのだろうか。
 私はただ、価値観だけで判断するほど愚かではないつもりだ。丸太ん棒のように転がり生きていくのは、死ぬより難しいと言えるかもしれない。それだけに現在、極限の中にありながらレスピレーターを付け、鼻注食で頑張っておられる仲間には敬服するばかりである。しかし、私の体験から言えば発作的に、衝動的に命を投げ出す場合を除いて、死を受容する方が遥かに耐え難く、勇気のいることのように思える。その勇気を生き抜くことに活かせばいいだろうと反論されるだろう。そこに受け入れられない矛盾を感じて苦悩している。
 私も沢山の同病者にお目にかかったが、生きている喜びを全身で表現する人は余りにも少ないのはどうしてなのだろうか。「死にたい、楽になりたい」と漏らす人が意外に多いのはなぜなのだろうか。生き続けていくのに適した環境では無く、異次元ほどの隔たりがあるのではないか。一度レスピレーターを装着すれば、外すことは倫理的にも、法的にも許されなくなる。それを承知で受ける方も、受けさせる方も踏み切ったのだろうか。そうであるならば双方が歩み寄り、建設的な生活空間を築いていくべきだ。それは不可能なことではないはずだ。(p.86)
 他人には、どんなことをしても生き抜くべきだ、生き抜いて欲しいと切望し、懇願してきた。そんな私は許されない偽善者なのか。神を冒涜する者なのか。矛盾は日増しに強まる。この矛盾の対岸に何時の日か、解答が示されるのだろうか。
 アメリカでは四〇〇〇人以上のレスピレーターを付けた患者がいると聞く。我が国では、まだ、そこまで普及していない。やがては、それが当然のことになるだろう。そのためにも先達としての使命を果たすことが私たちの任務だろうが…。」(川口[1989:85-87])

 「白血病に苦しんだアメリカの少年は「安楽死」を選んだ。少年は「今度は丈夫な子に生まれ変わりたい」と言い残したそうだ。カレンさんの場合も両親は「来世における善き生活」を望むために、人工呼吸装置の使用停止を求めた。どちらも死のみを求めているのではなく、その底には別の生への願い、来世を望む宗教的希求があることを見逃せないだろう。」(川口[1989:91])*

 *Colen, B. D. 1976 Karen Ann Quinlan : Dying in the Age of Eternal Life, Nash Publishing=1976 吉野博高訳,『カレン 生と死』,二見書房,225p. <207> ※
 *カレン・クインラン Karen Ann Quinlan事件(1975〜1985)

 *「アメリカのカレンさんは、人工的な延命を拒絶した。それが彼女の意志であるかどうか、彼女に拒む権利があるかが裁判にまでなり、大きな反響を呼んだ。結局彼女の主張が認められ、装置がはずされたが、まだ彼女の使命は終わっておらず、今も生かされ続けているという。」(川口[1995:75])……実際には「延命」の停止を求めたのは両親

 「死をかたわらにして生きることにもだいぶ馴れてきた」というのはアメリカでジャーナリストとして活躍され、話題をさらったTさんである。
 乳癌の手術をし、再発、再々発を繰り返され「死への準備」という講演で、
 「どうせ死ぬならなるべくよく死にたい、よく死ぬことはよく生きることと同じだ」と言われた。これは名言だ。死を超越した者だけに許される言葉だ。」(川口[1989:89])

 「最近、ジャンボ宝くじを大阪で勤務する弟に頼み買ってもらっている。「なんで今更そんな夢を見るのか」と不思議がられ笑われる。私は賭けてみる気になった。その確率は極めて低いだけに、もし当たれば人工的な延命を受けよとの啓示に受け取るのだが、それは不遜なものだろうか。聞くに及ばない矛盾である。」(川口[1989:91])

◆1988/12/04

 「[…]異物が喉に引っ掛かり、たんが絡み、むせ込み、咳込み、息苦しさにあえぎ、体力の消耗に憔悴した時に、この苦痛から逃れられるのは気管切開しかないのではないかと思えた[…]。
 それは私が、人工的な延命を望まないとする人生観を、根底から揺るがすような大問題になってきたのだ。日頃から気管切開を望まないと言いながら、ちょっとした試練に遭遇するだけで心身が動揺し、楽な道を探ろうとする。いままで考えてもいなかった気管切開に、関心を示そうとする。何故こうも簡単に、意志を覆そうとするのか。まったく、我ながら呆れ返ってしまう。
 先日、和歌山から訪ねてくださったK先生に「たんが絡まり、なかなか取れず苦慮している」と相談した。その時に呼吸器の装着とは関係なく、気管切開を受けるべきだと進言され、また、それしか(p.148)方法がないだろうと言われた。今は、気管切開をしても発声できる器具もある。そういえば二、三人の同病者も気管切開を受けていながら、呼吸器を装着せずに召されていった仲間がいたことを思い出した。そのアドバイスが唯一の救いのように、慰めとして残っていたためであろうか。」(川口[1989:148-149])

 「呼吸は普通の状態で息を止めれば、五秒位しか保てない。更に大きく吸い込んでも一五秒位が精一杯の限度である。[…](p.150)
 […]
 主治医には「心が揺れ動きますか」と問い返された。私も生身の人間だから、死ぬ覚悟はできいるつもりでも、一日でも長く生きていたいし、苦痛には耐え切れずに悲鳴を上げてしまう。それでも私自身は、我慢強い人間だと思っている。しかし、痛みはある程度我慢もできるが、息苦しさだけはどうすることもできないのだ。これも経験したものでないと、到底理解されないものであろう。
 「これからのことを考えると、夜も眠れないでしょう。僕だったらレスピレーターをつけますよ」と、看護士は同情と励ましを与えてくれた。まだ眠れなくなるほど深刻に考えてはいないが、気管切開をすればたんは容易に取れるだろう。が、嚥下は今以上に難しくなるだろう、という意見だった。そうなれば体力は衰え、病状は進行し、死期を早めることになるだろう。また、安易に経管栄養に走るとも限らない。そして呼吸器にと、なし崩しに求めていくかも知れない。この苦痛が、頻繁に起こるようになるまでの課題となった。
 私が、人工的な延命を望まないと決心をした時代といっても、たかだか十年にも満たないが、その間の医学の進歩は目覚ましく、レスピレーターを装着しないほうが、むしろ邪道になってきている。多(p.151)分、私の古い考え方は間違っていると思う。批判も、高まってくるだろう。それとは反対に「延命を望みなさい」と、熱心に説得してくれる人も増えてきた。こんな私のことを、心底から心配して案じてくれている人たち。本当にもったいないほどの有難さである。
 神は軽くジャブをだして、私を試みられている。本当に意志は変わらないのか。悔いはないのかと。自然に近い死も、神の御旨と思えるならば、生き延びることも、また神の御旨に変わりはないであろう。当分は気管切開のことは考えないで、更に自分に厳しさを課しつつ、あるがままに恵みを受け、感謝を忘れずに生かされていこうと思う。それが、神の御計画に沿った運命に繋がっていくのではなかろうか。神を試みてはならないが、命を粗末にした私は救われた。この重大なる選択にも、祈りの中に必ず御啓示があることだろう。」(川口[1989:150-152])

◆1989/01/04

 「発病して一六年、我が人生の三分の一を占めるに至った。病状も命に直接影響する。嚥下機能と呼吸困難が進んでくることが予想される。それに、何処まで堪え忍ぶ力を授けられるか。昨年は気管切開の問題を持ち出したことによって、胸のしこりが取れた。周囲の反応も判った。もう二度と口にすまい。孤独な闘いになるだろうが、初心に返って、もう一度出直しだ。」(川口[1989:164])

◆1989/02/14

 Mさんの手紙
 「私は、あなたよりも軽症でしょう。しかし、苦痛や苦悩は同じように持っています。あなたは呼吸器と経管栄養の道を選ばれましたが、その時から今日の苦痛や苦悩は覚悟されていたと思います。そして多くの苦難の中にあっても、一つの喜び小さな幸せを見出して、それに耐えて頑張ってこられたではないですか。
 私には、その勇気も自身もありません。だから、その道を選ばず、ターミナルケアにホスピス的なケアを求めて誰一人身寄りのない松山に来たのです。ですから、その日まで貴重な日々です。何時迄も、落ち込んではいられないのです。余裕がないのです。そのために、常に目的やノルマを厳しく課して、生きる意味を自分自身に問い続けています。」(川口[1989:190])

◆1989/04/04

 「精神的な苦痛は、通り一遍の叱咤激励だけでは未知の世界、死の壁はとても乗り越えられるものではない。そこにはしっかりとした死生観を持って、患者に接することが一番大切なことではなかろうか。
 それには、強力なバックボーンになる何かが必要だ。人知を遥かに越えた絶対者の存在、神の領域に迫らなければ到達できないものがある。信仰を持つべきだと強制するつもりはないが、少なくとも(p.198)神という存在を認め、心に信心か確固たる信念を秘めていなければ、死に向かう患者に安楽な精神状態を与えることは不可能であろう。」(川口[1989:198-199])

◆1992/11/02 

 鴻農周作が川口にしたインタヴュー。鴻農はNHKのディレクター(松山支局報道番組班)で1984年に骨髄腫を発病、1992年12月1日に亡くなるのだが、発病し入院していたころに川口の著書『しんぼう』を読んでいて、川口と番組を作ろうと思っていた。これはNHKの番組「プライムテン」の番組「命燃やす日々」(1993年1月18日放映)として実現するのだが、その番組のために、鴻農は1992年11月2日にインタビューを行なう。その一部が鴻農について書かれたマオ[1993]に収録されている。

 「「川口さんが、残る時間のなかでやっておきたいと思っていることはなんですか」
 「小説を書きたいですね」
 「これから、どう生きたいですか」
 「これからは、生きるよろこびを述べる旅をしたいです。そして、人とのつながりのなかに、なお生きるよろこびを見つけていきたいです」
 「身体の機能上、川口さんが、一番恐れていることはなんですか」
 「人とのコミュニケーションがとれなくなってしまう身体になることです」
 「死ぬのは、怖くないですか」
 「死ぬのは、恐ろしいというより、寂しいですね。いまここにいた人が、この世から消えたのに、まるでなにもなかったようにすぎていくのですね」」(マオ[1993:176])
 *マオ アキラ 1993/06/15 『命燃やす日々』
 文溪堂,189p. 1165円+税 ※

◆1993/10/17 『菊化石――筋萎縮性側索硬化症との日々』より
 (創風社,255p. 1456円+税)

 呼吸困難に陥り、緊急入院。医師が
 「「奥さん、気管切開はされますね」
 と確認した。
 「はい、お願いします」(p.142)
 と泰子は答えてから、剛の意思はどうなのだろうと思った。しかし延命を望むのは人間の心理であり、道理であると確信をした。」(川口[1993:141-142])

 「「[…]気管切開を無断でして、呼吸器を着けたでしょう。意識が戻った時、主人はどう思うだろうかと、それが気がかりなんです」
 この事で夫からは、はっきりとした意思表示を受けていなかった。しかも、札幌で初めて呼吸器を着けている同病者を見て、俺は嫌だなと感想を漏らしていた。回復の見込みがないままに、どこまで耐えていけばよいのか。延命の意義は分かるが、その必要はあるのか。人としての尊厳は保てるのかとも語った。泰子も、その気持ちは痛いほど汲み取れた。しかし生き延びる術がある限り、生き延びて欲しい。」(川口[1993:143])

 「確かに剛の意識は戻った。だが、戻ったとは言え、植物人間の烙印から逃れたというだけである。今後の前途は想像以上のものがある。しかし意識があるということは有り難い。生きている証しになり、互いに実感が掴める。また意識があれば、なんらかの意思表示が可能になる。意思の疎通が可能になれば、人間性を取り戻し、人格も再生されるだろう。だ、反面苦悩も増すだろう。意識が戻らなかった方が良かったと悔やむこともあるにちがいない。それを極力感じさせずに、生きている喜び、生かされている恵みと感謝を共有することが必要だ。これまでも何とか乗り越えて来た。それなりに克服をして来た。この極限状態も、必ず道が開かれるだろう。」(川口[1993:240])

◆1994/09/22
 「もし非常事態になれば、皆様にお任せします。但し意識が無くなっているようでしたら、そのまま逝かせて下さい。気管切開は望みません。このように申しても、臆病な私は苦しさの余り助けて欲しいと言うかもしれませんが、気管切開以外の方法で苦痛を取り除くように善処して欲しいと思います。
 私の考えは間違っているかもしれません。(中略)
 しかしこれ以上呼吸器を装着して、ご迷惑をかける訳にはいきません。それに妻も子供もいませんので、励みも失いがちです。単身で生きるのに限界も覚えます。発病から二十一年、正直に言えば疲れました。くたくたです。だからといって、命を粗末にするものではありません。むしろ末期になればなるほど、命の重さ、生への執着は強くなっていくのもいなめません。あとどのくらい猶予があるのか。とにかくそれなりに精一杯燃え尽きたいと望んでいます。
 くじければ叱ってやって下さい。弱気になれば支えて下さい。苦痛を訴えれば和らげて下さ(p.86)い。意思の疎通は難しくとも言葉をかけて下さい。頼み事はたくさんありますが人間としての尊厳を保ちつつ、最期は感謝をしながら、一足早くお別れするのが、私の夢でごさいます。どうか夢の実現にご理解とご協力をお願いします。」(豊浦[1996:86])

■言葉・機械

◆1980?

 八〇年頃ペンが持てなくなって、かなタイプを使い始める。鉛筆を指の間にはさんでキーを押していたが、金火箸を手にもってキーをなぞっていき、金火箸の重みで打つ。

◆1983/04/05
 [◆]Sさんから聞いたこととして。「以前は、手の平に文字を書いたり、筆談で意志を伝えていたが、最近は、それも思うようにできないという。そのため、自分の意志とは無関係にケアが行なわれることがあり、物体のように扱われる時の悔しさ、情けなさ、その精神的苦痛ははかり知れない、と嘆く」

◆1983/08/24
 「作業療法士をめざす女学生二人」と。「最後まで一人の人格として扱ってほしいこと、それを患者自身が納得できるためには、意志の疎通が欠かせないこと。文字盤にだけ頼るのではなく、別の方法も考えてほしいこと。最近、目線に連動するタイプができたと聞くが、そのような器具の使用も考えてみていいのではないかと言うと、彼女たちは、その機械を見たことがあると言う。私だけの錯覚だけではなかったのだ。
 […]彼女たちの話によると、ナースコールも、眉を動かすだけで押せるものができたという。また顔の筋肉のかすかな動きを敏感にとらえ、患者の意志を伝えられる機械も開発されつつあると聞く。そうした器具の開発が、これからのホスピスケアの実践に、大きな関わりをもってくるのではないだろうか。」(川口[1985:179])
◆1984/01/09
 「奈良にいるAさんの弟さんから、便りが届く。鳥取大学病院に入院中のAさんが、新しく開発されたパソコンレター作成機を使って、意志伝達のテストを開始された、という。
 手紙によると、新しい機械は、ワープロとパソコン、筋電計をセットしたようなものらしい。ひら仮名の五十音順が表示された画面を、タテ、ヨコ二本の細い帯(選定帯、カーソル)が上から下へ、左から右へと動く。それを見ながら、使いたい文字のところへきたとき、まばたきをしたり、あるいは奥歯を軽く噛んで合図する。すると、頬にはりつけてある電極が筋肉のかすなかな動きをとらえ、その文字が印字されて出てくるという。
 自分の意志が伝えられる。これほどの喜びがあろうか。特にAさんの場合は、六年間の”沈黙”がある。体の自由を奪われ、一言の意志表示もかなわなかった六年。それにひたすら耐え、ようやくにして”言葉”を取り戻そうとしておられる。Aさんの喜び、家族の方がたの感激はいかばかりだろう。
 ……」(川口[1985:228])

◆1984/01/27
 「名古屋の労災病院で、寝たきりの患者でも、身の回りのことができる機械が開発されたという。ベッドの上げ下ろしはもちろんのこと、テレビや電話までも、その機械に息を吹き込むだけで操作できるらしい。手足のきかいな人にも自活の道を開く、画期的なものといえるのではないか。
 ありがたい、これなら私にも使えると思ったが、この病いが進めば、肝心の息が吹き込めないことに気づき、現実に引き戻される。運動神経がすべて閉ざされてしまうのでは、話にならない。
 頭の機能だけは、最後まで残るという。それを活かしたものが開発されないものか。せめて意志だけでも、自由に伝えられる装置が作り出せないものだろうか。それは夢の夢なのか。」(川口[1985:236])

◆1984/04/03
 島根の玉造厚生年金病院でMさんに会う。「病室に戻ると、据え付けの大きな呼吸器と替える。驚いたことに、Mさんの声がはっきり聞こえる。機械の流量を調節することにより、音声を大きくも小さくもすることができるという。話せることは大きな恵みだ。」(川口[1985:258])

◆1988
 「私もかなタイプからワープロに切り替えた。今にしてみれば、それが早かった(p.13)のか、遅かったのか、判断に苦しむ。何故ならば、判読に苦しむまで自分の手で書かれている方がいる。足でかかれている方もいるのである。最後の最後まで自分の機能を最大限に発揮される方は、何事によらず立派だと思う。」(川口[1989:13-14])

◆1988/02/25
 「人の頭は、精神はインプットするばかりで、アウトプットしなければどうなるのだろうか。排け口がなければ、ストレスの蓄積、鬱病、自律神経失調等が人間性を剥奪する。[…]そこで登場するのが、ワープロやパソコンである。」(川口[1989:13])

◆1988/06/11
 「最近は、声が出なくなってきた。言われるままに、笑ってごまかすことが多くなったきた。もう言うことも正すことも疲れが妨げて、億劫になってきた。」(川口[1989:13])

◆1988/12/29
 「「あなたにワープロが打てますか」と言われて、挑戦した。そして、一年余りが過ぎた。」(川口[1989:157])

◆1989/02/14
 Mさんへの手紙
 「積極的に自分をぶつけて吐き出してください。例え、相手がいなくてもいいのです。インプットするだけでアウトプットしないのでは、ストレスが蓄積されるだけです。私たちに残された道は難しい、とされる意思表示に活路があります。それが病気への理解を深め、存在の意味へも結びついていくのではないでしょうか。また自分の為にしていることが、人の為にも繋がっていくのではないでしょうか。」(川口[1989:191])

◆1989/04/17
 「言葉は不明瞭に加え、声にならなくなってきた。文字盤も大小二通り作ってあるが、それを用いる機会もなく過ぎている。まだワープロが打てるので孤独も解消され、外界に目を向けられるので救われている。」(川口[1989:206])

◆1994/05
 「このALSに対して、私は精神的な安定が何よりの良薬だと信じている。現に病状が安定し、回復傾向になる同病者は沢山おられる。それらの方達は前向きで明るく、ユーモアに富み、ストレスを適当に発散されている。
 しかし、私は限界に来たようだ。年々病院のスタッフは変わる。それにつれて理解者も少なくなっていく。コミュニケーションが円滑にいかないと不自由さばかりか、身体にも悪影響を及ぼすものである。「違うんだ」「そうじゃないんだ」「分からないかな」「もういいよ」とイライラ、カリカリ、そして抑制、孤独、忍耐、それがストレスの最大の要因になる。」(豊浦[1996:86])

◆1994/08
 「次号の会報に「川口さんのネットワークについて書いてほしい」とお願いした。[…]ところが、川口さんはすぐに「ないよ」という文字を打ち、苦笑のような表情を浮かべた。そしてそのあとすぐ「家族がいれば……」という文字が続いた。」(豊浦[1996:96-97])

 

◆19930717

 平山真喜男さんのホームページより
 http://www.h2.dion.ne.jp/~makibo/newpage136.htm
 *平山さんのページには写真も掲載されています。ご覧ください。

 「1993年7月17日、千葉県支部事務局長の川上純子さん宅を訪問された時の
初代日本ALS協会会長の川口武久さんです。川口さんは松山ベテル病院に入
院されていました。アミトロ(ALS)機関誌をワープロで打たれ、全国の患者さん
にALSの情報を伝え、できるだけ多くの患者さんを訪問され、また行政に医療現
場に就く専門職の皆様に、ALS患者に愛の手を!と、懸命に啓発活動に努めら
れていました。当時の医療・福祉・保健の現状を顧みれば、川口さんの存在が、
どれほど患者さんにとって励みになったことか計り知れません。
1994年9月、川口さんは呼吸困難に陥り、人工呼吸器の装着を好まず天国へ
旅立って逝かれました。心よりご冥福をお祈りいたします。
 川口さんの訪問を歓迎し、東京、千葉県からボランティアの皆様が集まりました。
ボランティアの皆様は、現在も日本ALS協会で揺るぎないご支援・ご協力を頂い
ております。」

 

◆1982/09/17

 「絶え間なくけいれんが走る。憂うつになる。鏡で見ると、目の焦点が定まらず、まるで死んだ魚のようだ。言語障害が重くなればなるほど、目は重要なポイントになる。目でものを話さなければならない。」(川口[1985:36])

◆1982/12/03

 「鼻がゆがむ。ひきつったような痙攣が、容赦なしに襲ってくる。そして時折、エビのように腰から折れ曲がる硬直がおこる。内に、内にと引っぱられていくようだ。(p.74)
 それが心にまで影響して、ますます内向化してゆく。陰気なのは耐え難い。弛緩剤を増量すればこの憂うつな気分も少しは弛むだろうか。」(川口[1985:74-75)

◆1982/12/22

 「いぜんとして、緊張、痙攣、硬直が萎えた体をあざ笑うように、絶え間なく襲う。これはもう避けられないのか。弛緩剤をさらに増量してもらったが、いっこうに鎮めることができない。それどころか、弛緩の効力はあらぬほうに表われる。猛烈にだるく、弱いところへ、弱いところへしわ寄せがいく。」(川口[1985:82)

◆1983/08/15

 「朝から、形容のしようのないだるさに襲われる。車イスに座っているのさえ、我慢できないほどつらい。
 朝食も、スプーンを輪ゴムで止めているにもかかわらず、うまく口に入らない。むせこむ状態が小刻みに続く。この症状が出始めると、どうも体の調子が悪い。実際は逆で、体の不調だから呼吸疾患がおこるのか。」(川口[1985:176])

 

◆1982/11/21

 「香川さんは私とほぼ同年代だが、病歴は長い。小さい時に脳性麻痺にかかり、それ以来、ずっと車イスの生活。痙攣・硬直がはげしいが、言葉はかなり自由に話せる。[…]どこまでも明るく、長い闘病生活のつらさを微塵も感じさせない。」(川口[1985:67])

◆1983/08/24

 「心やさしき人たちの見舞いが続き、窓辺の花びんに花の絶える間がない。
 きょうも車イスの女性が、きれいな花と人形を持って、見舞いに来てくれた。小さい頃に脳性麻痺にかかったということで、手足が不自由で、痙攣と硬直がはげしい。手が痙攣するので電動車イスは使えず、
 「車イスをこぐため、すぐ汗をかいてしまって」
 と、玉のような汗を流しながら話される。たいへんな器量良しで、この病気さえなければ、さぞかし幸せになられたであろうに、と心が痛む。
 だが、御本人は暗さなど微塵もない。」(川口[1985:178])

 

立岩『ALS』における言及

 [23]一九七八年・「「変性神経疾患で進行性、原因は不明、治療方法は全く無く予後は不良、発病から三、四年の命である」と記してあり」(「医学書」、川口[1989:133])  [35]これからも何度もその文章を引用する日本ALS協会(JALSA)の最初の会長だった川口武久[23]は一九七三年十一月に発症し、他の多くの人に比べてたしかに症状の進行の遅い人ではあったのだが、九四年九月に亡くなった。発病して約二一年を生きた。
 [119]一九七三年・川口武久[35]。「神経痛、椎間板ヘルニア等の診断をされたのですが、一向に回復する気配は見えず精密検査を受けました。検査の結果は「脊髄の手術をする必要がある」と言われ「これで治る、早く治したい」との一念だけであったように思います。ところが、最後の造影剤撮影において何処にも異常が見当らず、手術は中止になり、つけられた病名は「脊髄痙性麻痺」でした。/その日から、病院を転々と彷徨する日々に変わって行きました。何処に行っても頭を抱え首をかしげるばかりで、本当のことは教えてもらえませんでした。」(川口[1989:132])
 [163]川口武久[23][35][119]は一九七八年頃、「発病から五年目、遂に病名を知ることができたのです。そこは、難病専門の病院に変わろうとする診療所でした。主治医は私に「治る」と言われ、暗示をかけて一時的に回復に向かった時期を経て、私の目の前にカルテを置いて行かれたのです。気が咎めましたが、恐る恐る見せてもらったのです。そのカルテには「運動ニューロン疾患ALS」と記入されていました。初耳の病名です。聞くに聞けず、こっそりと医学書を調べて見ました。/「変性神経疾患で進行性、原因は不明、治療方法は全く無く予後は不良、発病から三、四年の命である」と記してあり難しい解説は分かりませんでしたが、まさかこれほどの難病だとは思いもせず、身体が深く沈んで行くようでした。いくら早期に発見しても成す術も無く、ただ死を待つだけの病気に思えたのです。これでは簡単に病名を教えてくれないはずです。/このように直接では有りませんでしたが、家族よりも早く知るところとなり、余りの残酷な宣告に家族には黙っていることにしました。」(川口[1988→1989:133])
 [205]「香川県から、同じ病いの父親を持つ娘さんが訪ねて来る。病気のむごさを考えると、とても本人に告げる勇気がなく、家族としてどう対処すればいいか、相談に乗ってほしいという。この病いで悩むのは、本人だけではない。家族もまた途方に暮れ、煉獄の苦しみを味わう。/涙ながらに訴える娘さんを前に、私には慰める術がなく、とまどうばかり。お父さんが自然に気付くまで、あえて知らせる必要はないのではないか、その分、家族が方がしっかり担ってあげてほしい、逃げないで皆で頑張ってほしい、と意見を述べる。」(一九八三年四月、川口[1985:122])
 [295]川口武久[35][119]は七七年に自分がALSではないかと疑う。「どうにも気になって、医学書を調べてみた。[…]/まだ原因不明で、確たる治療法もなく、点滴や静脈注射・鼻腔注入による栄養補給、さらに人工呼吸などによって「延命」をはかることしかできない。ふつう、発病から三〜五年で死亡する。欧米ではガンより恐れられ、医師が患者に病名を継げるのはタブーとされている。」(川口[1983:46])
 [309]川口[35][205]の最初の著書(川口[1983])に反響が寄せられた。また会を作ろうという呼びかけに対して本人や家族から連絡が入った。寄せられた情報の中に人工呼吸器のことへの言及もある。二冊目の著書(川口[1985])にそれが記されている。八三年五月、人工呼吸器を付けている盛岡の四〇歳の女性、鳥取の四五歳の男性の家族から連絡を受ける(川口[1985:130])。九月、七七年に発病し七八年に器官切開し人工呼吸器を付けた東京の男性の妻から読者カードを受け取る(川口[1985:181])。十月、呼吸器を付けている岩手の人(おそらく菅原和子[280])から携帯用のものに付け替えて祭見物に行った知らせを受け取る(川口[1985:196])。八四年四月、島根の玉造厚生年金病院に入院している人、鳥取大学病院に入院している人に会う(川口[1985:258-260])。川口自身は呼吸器を付けないことを言い、そして実際付けることなく九四年に亡くなったのだが、著作を読んでいくと、その考え、思いは一つではない。このことは次と次の次の章で見ることになる。
 [317]六年後の八八年五月。「受け入れるのに賛成してくれた主治医たちは「後、一年位の命だろう」と判断していたと聞かされた。私は私で「三年位は生き延びるのではないか」と予想していた。/それが嬉しい誤算なのか、迷惑な誤算なのか、私一人では答を出せないがこの上なく幸せに思っている。余りルンルン気分で過ごしているので、ある看護婦は「あなたは死の看護(ホスピスケア)を求めていたのではないですか」と暗に長く生かされているのが不思議でならない様子であった。何か後ろめたい気もした。」([1989:42])
 [318]八八年五月「「ALSであればあんなに長くは生きられない、生きていたとしても起きて普通の日課を過ごせるはずはない」と世間では囁かれている。/「愛媛大学」の医学部の講義にも、看護科の教科でも「筋萎縮性側索硬化症」の話には、私の名前が例に出てくるそうである。/「あれは良性のものか、嘘のアミトロである」と教えられると聞く。私もそうあって欲しいとは思うが、アミトロの症状である麻痺、萎縮、硬直、拘縮、けいれん等が体全体に及び、今は球麻痺に苦悩している。その進行は穏やかであるが、確実に悪化している。」([1989:52])
 [319]八一月一〇月。「私は人工的な延命は望まない。自然のままに召されたい。それが残された願いである。」([1983:180])
 [320]八二年十二月。「私は、人工的な延命はいらないと思っている。」([1985:76])
 [321]八八年五月。「私が「松山ベテル病院」に受け入れてもらった時に「人工的な延命を望まない」という約束があった。」([1989:52])
 [322]八八年九月。「最近、ジャンボ宝くじを大阪で勤務する弟に頼み買ってもらっている。[…]もし当たれば人工的な延命を受けよとの啓示に受け取るのだが、それは不遜なものだろうか。」([1989:91])
 [323]八八年十二月。嚥下困難に伴う苦痛は、「私が、人工的な延命を望まないとする人生観を、根底から揺るがすような大問題になってきたのだ。[…]私が、人工的な延命を望まないと決心をした時代といっても、たかだか十年にも満たないが、その間の医学の進歩は目覚ましく、レスピレーターを装着しないほうが、むしろ邪道になってきている。多分、私の古い考え方は間違っていると思う。」([1989:151-152])
 [324]八九年一月「昨年は気管切開の問題を持ち出したことによって、胸のしこりが取れた。周囲の反応も判った。もう二度と口にすまい。孤独な闘いになるだろうが、初心に返って、もう一度出直しだ。」([1989:164])
 [325]九四年九月「もし非常事態になれば、皆様にお任せします。但し意識が無くなっているようでしたら、そのまま逝かせて下さい。気管切開は望みません。」(豊浦[1996:86]に引用)
 [326]夫・紘司[241]が呼吸器を付けて一七年目の長岡明美の文章。「いまだに人工的延命にこだわる患者さんがいますが、たとえば母乳の出ない母親が赤ちゃんにミルクを与えるのも人工的延命ではないでしょうか。病気になって薬を飲んだり注射をするのも、人工的延命ではないでしょうか。/[…]/人工呼吸器をつけて生きるということは特別のことではなく、私達は歯が悪くなったら入れ歯を入れるのと同じように考えています。」(長岡[2001:30])
 人為的な手段を使わない立場、人工物を用いないという立場があるとして、その立場に立つなら実際に行なわれ認められている他の様々なこともまた否定されなければならなくなる。もちろん川口もこのことがわかっている。
 [327]八二年十一月。「じつのところ、どこまでが自然の生で、どこから先が人工的に生かされることになるのか、その境界をどこに置けばいいのか、私にはわからない。」([1985:72])
 [328]八二年十二月。「「いま食べている刻み食も、延命工作ではないだろうか」/と、人は言う。/その通りだろう。この病院に入院させていただいたのも延命策であり、訓練に励み、なるべく起きていようとするのも延命策だ。医療費の補助を受け、障害者年金をいただいていること、その他、すべてのものが延命に結びつく。」([1985:75-76])
 [329]八八年五月。「以前、病院のカンファレンスに「人工的な延命とはなにか」というテーマで話し合われた時に、現在、私がお粥と刻み食を食べさせてもらっているのが一つの人工的な延命ではないかと指摘された。これ以上延命を望むのは約束違反になるのではなかろうかと、胸にグサリと刃を突き刺されたような気持がした。」([1989:53])
 [331]八二年十一月。「ただ言えることは、どんな処置をもってしても、もはや人間として生きることは望めないのに、人間のあみ出した機械でやみくもに生かされ続けるのは、ご免こうむりたい。/私の場合は、植物人間のようになっても、おそらく最後まで意識があると思われる。人間としての意識がある限り、神から与えられた生命は大切にしたい。使命も果たしたい。その使命を果たし終えるのは、いつか。それは誰にもわからない。神のみの知り給うところだ。」([1985:72])
 [332]八二年十二月。「私は、人工的な延命はいらないと思っている。意識がなくなった時はもちろん、人間としての人格が失われた時、それでもなお、生かされている価値があるだろうか。」([1985:75])
 この後、延命のために様々がなされてそれを自らが求めていることを認める[328]の文章が続き、それを受け、「それなら、なぜ、延命を望まない、というのか。望まないと言いながら、新しい治療を試みようとしたりするのは、矛盾してはいないか。/誤解しないでいただきたい。私は、生きたくないとは言っていない。人間としての人格を失いながら、それでもなお、機械の助けを借りて生かされるのは望まない、「生きた屍」はご免だ、と言っているのだ。/もし、「生きるための闘い」を「延命」と言うのなら、私はむしろ、積極的に延命をはかりたい。意志を伝える手段を奪われ、丸太ん棒のようになっても、私は、人間としての意識を持っている限り、生きていたい。生かされ続けたい。」([1985:76])
 [333]八八年二月。「人の頭は、精神はインプットするばかりで、アウトプットしなければどうなるのだろうか。排け口がなければ、ストレスの蓄積、鬱病、自律神経失調等が人間性を剥奪する。[…]そこで登場するのが、ワープロやパソコンである。」([1989:13])
 [334]八九年二月。Mさんへの手紙。「積極的に自分をぶつけて吐き出してください。例え、相手がいなくてもいいのです。[…]私たちに残された道は難しい、とされる意思表示に活路があります。それが病気への理解を深め、存在の意味へも結びついていくのではないでしょうか。また自分の為にしていることが、人の為にも繋がっていくのではないでしょうか。」([1989:191])
 [335]九二年十一月「身体の機能上、川口さんが、一番恐れていることはなんですか」/「人とのコミュニケーションがとれなくなってしまう身体になることです」」(マオ[1993:176])★□
 [336]八三年四月。Sさんから聞いたこと。「以前は、手の平に文字を書いたり、筆談で意志を伝えていたが、最近は、それも思うようにできないという。そのため、自分の意志とは無関係にケアが行なわれることがあり、物体のように扱われる時の悔しさ、情けなさ、その精神的苦痛ははかり知れない、と嘆く」([1985:123])
 [337]八三年十月。「自分の意志を訴える術が完全に奪われ、物のように扱われる時のことを考えると、私には耐えられない。」([1985:200])
 [338]八三年八月。「作業療法士をめざす女学生二人」と。「最後まで一人の人格として扱ってほしいこと、それを患者自身が納得できるためには、意志の疎通が欠かせないこと。文字盤にだけ頼るのではなく、別の方法も考えてほしいこと。最近、目線に連動するタイプができたと聞くが、そのような器具の使用も考えてみていいのではないかと言うと、彼女たちは、その機械を見たことがあると言う。私だけの錯覚だけではなかったのだ。/[…]彼女たちの話によると、ナースコールも、眉を動かすだけで押せるものができたという。また顔の筋肉のかすかな動きを敏感にとらえ、患者の意志を伝えられる機械も開発されつつあると聞く。そうした器具の開発が、これからのホスピスケアの実践に、大きな関わりをもってくるのではないだろうか。」([1985:179])
 [339]八四年一月、「鳥取大学病院に入院中のAさんが、新しく開発されたパソコンレター作成機を使って、意志伝達のテストを開始された、という。/[…]/自分の意志が伝えられる。これほどの喜びがあろうか。特にAさんの場合は、六年間の”沈黙”がある。体の自由を奪われ、一言の意志表示もかなわなかった六年。それにひたすら耐え、ようやくにして”言葉”を取り戻そうとしておられる。Aさんの喜び、家族の方がたの感激はいかばかりだろう。」([1985:228])
 [340]八四年四月。「島根の玉造厚生年金病院でMさんに会う。「病室に戻ると、据え付けの大きな呼吸器と替える。驚いたことに、Mさんの声がはっきり聞こえる。機械の流量を調節することにより、音声を大きくも小さくもすることができるという。話せることは大きな恵みだ。」([1985:258])
 [341]「確かに剛の意識は戻った。だが、戻ったとは言え、植物人間の烙印から逃れたというだけである。今後の前途は想像以上のものがある。しかし意識があるということは有り難い。生きている証しになり、互いに実感が掴める。また意識があれば、なんらかの意思表示が可能になる。意思の疎通が可能になれば、人間性を取り戻し、人格も再生されるだろう。が、反面苦悩も増すだろう。意識が戻らなかった方が良かったと悔やむこともあるにちがいない。それを極力感じさせずに、生きている喜び、生かされている恵みと感謝を共有することが必要だ。これまでも何とか乗り越えて来た。[…]この極限状態も、必ず道が開かれるだろう。」([1993:240])
 [342]八四年一月。「運動神経がすべて閉ざされてしまうのでは、話にならない。/頭の機能だけは、最後まで残るという。それを活かしたものが開発されないものか。せめて意志だけでも、自由に伝えられる装置が作り出せないものだろうか。それは夢の夢なのか。」([1985:236])
 [343]一九八三年一月二七日。「アミトロの会を結成したいと思い立って、はや一か月がたつ。未だに何も進んでいない。県庁に、大学病院に、そして同病の友にも、主旨を説明して情報の提供をお願いしてあるが、どこからも返事が届かない。じれったい。この体さえ自由がきけば、どこへでも乗りこんで行くのだがと、自分を呪う。」([1985:95])
 [344]三月、二度NHKの番組、ニュースで紹介される。三月二九日には全国放送で川口のことがとりあげられる。「ラジオを聴いたといって、東京から便りが届く。…/地元からはなんの音沙汰もない。まるで息を殺して、時間がたつのを待っているかのようだ。宇和島でも、いろいろな方が「テレビを見た」と励ましてくれたが、肝心の患者、家族からの反応がない。/いったい、どこで、どうしておられるのか。一人で重荷を背負わず、出て来てほしい。」([1985:118])
 [345]四月三日。「県会議員の方から、同じ病気に入院している県内の患者八名の入院先が知らされる。各病院に、私の主旨を患者に伝えてほしいと頼んであるとのことで、さっそく、一人、名乗り出てくれた。周囲の人が臆病でありすぎる。本人は、同じ病いの人の消息を求めている。ともに力を合わせて闘いたいと願っているのだ。/固い扉がようやく開かれようとしている。一人、また一人と、声が届く。会はきっとできる。必ずつくってみせる。」([1985:121])
 [346]七月四日。「同病の人たちから、いろいろな情報が寄せられる。灸をすえて息苦しさが消えたこと、食べ物の工夫、使っている薬の種類も大いに参考になる。これらのことをまとめて、皆に知らせてあげたい。/病院二か所から返答が来る。一つは、該当者がいないという返事。もう一つは、同病の方が三人いるが、本人にも家族にも病名を告げておらず、直接連絡をとるのはむずかしい、というもの。一日も早く治療法が確立され、本人に笑って病名を告げられ、安心して受け止められるようになってほしい。そのためにも、隠さず、進んで語り合う必要があるのではないか。/全国難病団体連絡協議会にも、問い合わせてみることにする。また、同病の方が唯一加入している、京都の「あけび会」にも連絡をとろう。」([1985:151])
 [347]七月十五日。「県下の、同じ病いの人の所在がいまだにわからない。この状態では、愛媛県で会を結成するのはほとんど絶望だろうが、中央に働きかけて、なんとしても結成したい。」([1985:153])
 [348]十二月三〇日。「今年の目標であったアミトロの会の結成は、残念ながら実現するに至らなかったが、それなりの成果をあげることができた。初めは同病の方がたの所在が皆目わからなかったものが、テレビで取り上げられたおかげで、一人、二人と名乗りをあげてくれた。また、本の出版も自費出版から市販へと思わぬ展開をみせ、大きな反響をいただいた。それに伴い、三十名を越す方がたから便りが寄せられた。/おかげで、会の結成に向け、明るい希望が見えてきた。来年からはガリ版刷りでもよい、会報を出し、皆の声を反映していきたい。正式の会の発足までには、まだまだ時間がかかるだろうが、一歩一歩、進んでゆけばよい。」([1985:222])
 [349]一九八四年二月一六日。「会報第一号が出来上がる。…/…タイトルは私が、「アミトロの仲間」という意味あいをこめて名付けた。/ワラ半紙大の、たった一枚の”会報”だが、ここには同じ病いと闘う人たちの声が集められている。入院十二年目を迎えた岡山のIさん。「育ち盛りの子供三人を抱え、パートに、主人の病院にと忙しくしています」という埼玉のKさん。同じく埼玉のSさんは体調をくずされ、再入院されたという。福島のYさんはお母さんの看病の合い間をぬって、便りを寄せられた。一人ではない。同じ病いと闘っている”仲間”が全国にいることを、このささやかな会報が伝えてくれるだろう。そして、二十人、三十人と”仲間”が増えてゆくのを期待したい。/午後、ヘルパーとポランティアの人たちが発送作業をすすめてくれる。…百通ほどの郵便物ができあがる。/皆の期待をこめて、第一号が飛び立って行った。」([1985:247]、この会報が『アミトロズ』)
 [350]「『しんぼう』の出版にさいして、川口さんが密かに期待し、願っていることがありました。それは、同じ病いと闘っている人たちがこの本を読まれ、名乗り出てくださることでした。/実はこの数年、川口さんは、同じ病いに苦しむ人たちが共に慰め、励ましあえればと、消息をたずね求めてきました。しかし、問い合せた病院や福祉事務所からは色良い返事をもらえず、全国に二千名とも、それ以上ともいわれる患者さんの所在は、霧に包まれたままでした。『しんぼう』の刊行が、同病の方たちの消息を知る手がかりになってくれれば、と川口さんは祈るのでした。/その願いがかなえられました。同じ病いの方はもちろん、その家族、遺族の方からも続々と便りが寄せられたのです。」(岩井[1985:272-273])
 [351]「川口さんが、病院や施設のなかで、親睦会をつくり、おたがいに励ましあったり、世間の人たちに、理解してもらうために、新聞を発行したり、患者がよりいい医療をうけるために、自治会をつくったりすることだった。/そうした川口さんの活動は、けっして順調に進むわけではない。以前いた病院や施設では、仲間の患者から、協力を得られなかったり、病院側から会をつぶされたこともあった。」(マオ[1993:24-25])
 [352]松本茂[263]。「絶望的な日々が続きましたが、ある日、田圃からの帰りの車のラジオで、今は亡き川口武久さんの闘病記『しんぼう』のことがちらっと報道されました。「アラ」と思って、『しんぼう』を探してほしいと農協に頼みましたら、探してくれました。入手できた日は、夜を徹して二人で読みました。/『しんぼう』の中で川口さんは、この病気のつらさ、苦しさ、病気の現状を社会に理解してもらい、誰もが安心して闘病できるようになりたい、そのためにはまず同病者や関係者の組織を作り、交流しあいたいと、切々と訴えておられました。全く同感、感動しました。私はさっそく川口さんにお便りしました。」(松本るい[1995:292])
 [353]松嶋禮子(東京都)。「何より孤独だったのは、同病の方の様子がわからないことでした。個々の患者は病名を知らされず、家族も気づかれるのを恐れて接触を避けている状態で、通院の待合い室で同病者の姿を求めても医師はもちろんのこと教えてくれず、孤独感は焦躁となりました。/そんな時、同病者川口武久氏の『しんぼう』に出会ったのでした。その驚きと喜び、さっそく本を取り寄せ、読んだ時の感動をどのように表現すればよいのか、神様の憐みとみ心を感謝申し上げるばかりでした。」(松嶋[1988:16-17])
 [365]八一年十月「S君がいよいよ、鼻注食に頼らなければならないとの知らせが入る。明日は我が身。どんなに悔しく、つらいことだろう。私は人工的な延命は望まない。自然のままに召されたい。それが残された願いである。」([1983:180]、鼻注食は鼻からチューブを通して食物を摂る方法[297]。)
 [367]八二年十一月。「香川さんは私とほぼ同年代だが、病歴は長い。小さい時に脳性麻痺にかかり、それ以来、ずっと車イスの生活。痙攣・硬直がはげしいが、言葉はかなり自由に話せる。[…]どこまでも明るく、長い闘病生活のつらさを微塵も感じさせない。」([1985:67])
 [368]八三年八月。「きょうも車イスの女性が、きれいな花と人形を持って、見舞いに来てくれた。小さい頃に脳性麻痺にかかったということで、手足が不自由で、痙攣と硬直がはげしい。[…]たいへんな器量良しで、この病気さえなければ、さぞかし幸せになられたであろうに、と心が痛む。/だが、御本人は暗さなど微塵もない。」([1985:178])
 [372]八四年二月「昨日は年甲斐もなく、狼狽し、醜態をさらしてしまった。なぜあのような気分にのめり込んでしまったのか、自分でもよくわからない。/午前中は、いつもと大して変わりなかった。日課のタイプを打ち、手紙の返事を打つ。やがて昼。朝食と同じく、二匙か三匙しか口に運べず、とうとうここまで来たかと、諦めとも寂しさともつかない気持ちになるが、それほど気にもとめなかった。/そして、食後の昼寝。この日に限って、時間が来ても、起き上がらせてもらえなかった。待つのには馴れているはずが、なす術もなく、丸太ん棒のように横たわっている自分がひどく哀れになり、惨めに思えてきた。/次つぎと、悲観的なことばかりが浮かぶ。人の世話にならなければ、何一つできない自分。今でさえ迷惑をかけている身で、これ以上、病いが進めばどうなるのか。付き添いをつけたくても、自分で雇えるのはせいぜい一年か二年。それまでに召されれば良いが、こればかりはどうにもならない。いっそのこと、食事も飲み物もとらなければ、二十日もしないうちに楽になるのではないか。/心の中で、何かが切れた。もう力が尽きた、という思いに駆られた。後はだらだらと下り坂を転げ落ちるように、生きる意欲を失ってしまった。/夕食が運ばれ、ヘルパーが起こしてくれようとするが、拒む。看護婦が心配して、入れかわり立ちかわり駆けつける。[…]やさしく語りかけてくれるが、無言のまま。/長い夜がすぎ、窓辺のカーテンが白んでくる。頭の中で、もう一度、頑張れるところまで頑張ってみようではないか、という声。見えない相手に向かって、弱々しくうなずく。」([1985:243-244])
 [373]八八年五月。「私もたとえ嫌われても、嫌がられても一日も長く生き延びたいというのが本音である。/しかし、私は弱虫で勇気がないのである。よりよく生きたいと望めば、より多くの迷惑をかけてしまう。よりよく過ごしたいと願えば、より沢山の世話を受けることになる。いくら他人の親切に甘え、頼るのが宿命だと言っても限度があろう。同病者のように強く逞しく生きられないのだ。/「死にたい、死にたい」と言っていても、子供や家族に受け止められ、支えられる境遇ではないのである。また、精神的な苦痛が強まると生きがいも薄れ、生きていく意味も価値もないと思い込んでしまう。こんな排他的な考えはよそうと思うが、心身が疲れに疲れきってしまうと意欲も減退してしまう。/仲間には「負けるな、頑張れ」と励ましているが迫力のない矛盾である。」([1989:53-54])
 [374]八八年九月。「私の病状も更に嚥下、呼吸困難の様相を見せてきた。特に息苦しさは耐えられないものだ。末期の苦痛が嫌でも脳裏をかすめる。そんな弱さを見抜くかのように「人工的な延命を受けよ」との声が高まる。いち早く大阪のI保健婦は、こう言われた。/「生き延びられる道があるのに、それを拒むのは間違っている」と。/T患者の家族は「私たちのためにも生き延びて欲しい。同じ個室に入ってもらい私がお世話をしますから……」と言ってくれる。また、ヘルパーは言う。/「パートに切り替えてでも付き添うから……」と涙ながらに説得してくれる。
 この方たちは少なくとも、私の存在を認めてくれ、私が必要だと思ってくれている。こんな有難いことを言ってくれる人が、他に誰かいるだろうか。感謝に尽きない話である。何も役立ちそうにない私の心は揺さぶられる。それは延命の道が開かれるというのではなく、心情が激しく動揺するのである。/マザー・テレサも「人間にとっては他人から無視され、必要とされていないことほど悲しく、寂しい者はない」と、その愛の渇きを嘆かれている。
 私は人工的な延命を受ける勇気はなく、生きがいにも乏しい。人の倍以上生きて生かされてきた体はくたくたに疲れきってしまった。油切れでガタガタになりオーバーヒート寸前だ。これ以上他人に迷惑をかける意義もみいだせないでいる。そんな者がのうのうと生きる資格はないとも思っている。また、自然な寿命に委ねていくのが罪だと言われるのだろうか。先立たれた仲間はどのように受け止めていたのだろうか。/丸太ん棒のように転がり生きていくのは、死ぬより難しいと言えるかもしれない。それだけに現在、極限の中にありながらレスピレーターを付け、鼻注食で頑張っておられる仲間には敬服するばかりである。しかし、私の体験から言えば発作的に、衝動的に命を投げ出す場合を除いて、死を受容する方が遥かに耐え難く、勇気のいることのように思える。その勇気を生き抜くことに活かせばいいだろうと反論されるだろう。そこに受け入れられない矛盾を感じて苦悩している。/私も沢山の同病者にお目にかかったが、生きている喜びを全身で表現する人は余りにも少ないのはどうしてなのだろうか。「死にたい、楽になりたい」と漏らす人が意外に多いのはなぜなのだろうか。生き続けていくのに適した環境では無く、異次元ほどの隔たりがあるのではないか。一度レスピレーターを装着すれば、外すことは倫理的にも、法的にも許されなくなる。それを承知で受ける方も、受けさせる方も踏み切ったのだろうか。そうであるならば双方が歩み寄り、建設的な生活空間を築いていくべきだ。それは不可能なことではないはずだ。
 他人には、どんなことをしても生き抜くべきだ、生き抜いて欲しいと切望し、懇願してきた。そんな私は許されない偽善者なのか。神を冒涜する者なのか。矛盾は日増しに強まる。この矛盾の対岸に何時の日か、解答が示されるのだろうか。/アメリカでは四〇〇〇人以上のレスピレーターを付けた患者がいると聞く。我が国では、まだ、そこまで普及していない。やがては、それが当然のことになるだろう。そのためにも先達としての使命を果たすことが私たちの任務だろうが…。」([1989:85-87])
 [375]八八年十二月。「異物が喉に引っ掛かり、たんが絡み、むせ込み、咳込み、息苦しさにあえぎ、体力の消耗に憔悴した時に、この苦痛から逃れられるのは気管切開しかないのではないかと思えた[…]。/それは私が、人工的な延命を望まないとする人生観を、根底から揺るがすような大問題になってきたのだ。日頃から気管切開を望まないと言いながら、ちょっとした試練に遭遇するだけで心身が動揺し、楽な道を探ろうとする。いままで考えてもいなかった気管切開に、関心を示そうとする。何故こうも簡単に、意志を覆そうとするのか。まったく、我ながら呆れ返ってしまう。
 先日、和歌山から訪ねてくださったK先生に「たんが絡まり、なかなか取れず苦慮している」と相談した。その時に呼吸器の装着とは関係なく、気管切開を受けるべきだと進言され、また、それしか方法がないだろうと言われた。今は、気管切開をしても発声できる器具もある。そういえば二、三人の同病者も気管切開を受けていながら、呼吸器を装着せずに召されていった仲間がいたことを思い出した。そのアドバイスが唯一の救いのように、慰めとして残っていたためであろうか。」([1989:148-149])
 [376]八八年十二月「呼吸は普通の状態で息を止めれば、五秒位しか保てない。更に大きく吸い込んでも一五秒位が精一杯の限度である。[…]私自身は、我慢強い人間だと思っている。しかし、痛みはある程度我慢もできるが、息苦しさだけはどうすることもできないのだ。これも経験したものでないと、到底理解されないものであろう。」([1989:150-151])
 [377]八九年一月「発病して一六年、我が人生の三分の一を占めるに至った。病状も命に直接影響する。嚥下機能と呼吸困難が進んでくることが予想される。それに、何処まで堪え忍ぶ力を授けられるか。昨年は気管切開の問題を持ち出したことによって、胸のしこりが取れた。周囲の反応も判った。もう二度と口にすまい。孤独な闘いになるだろうが、初心に返って、もう一度出直しだ。」([1989:164])
 ここでの周囲の反応がどんなものであったかはわからない。
 [378]八八年十二月。「主治医には「心が揺れ動きますか」と問い返された。「これからのことを考えると、夜も眠れないでしょう。僕だったらレスピレーターをつけますよ」と、看護士は同情と励ましを与えてくれた。」([1989:151])
 [379]九二年十一月。「これから、どう生きたいですか」/「これからは、生きるよろこびを述べる旅をしたいです。そして、人とのつながりのなかに、なお生きるよろこびを見つけていきたいです」
 「身体の機能上、川口さんが、一番恐れていることはなんですか」/「人とのコミュニケーションがとれなくなってしまう身体になることです」/「死ぬのは、怖くないですか」/「死ぬのは、恐ろしいというより、寂しいですね。いまここにいた人が、この世から消えたのに、まるでなにもなかったようにすぎていくのですね」」(マオ[1993:176])
 [380]千葉敦子について。「死をかたわらにして生きることにもだいぶ馴れてきた」というのはアメリカでジャーナリストとして活躍され、話題をさらったTさんである。/乳癌の手術をし、再発、再々発を繰り返され「死への準備」という講演で、/「どうせ死ぬならなるべくよく死にたい、よく死ぬことはよく生きることと同じだ」と言われた。これは名言だ。死を超越した者だけに許される言葉だ。」([1989:89])
 [381]八八年六月「「人は生まれてきたように死んでいく」と「淀川キリスト教病院」の柏木哲夫先生が言われたが、まさに名言であろう。最近は核家族化が進み、畳の上で家族に見守られながら召されていく方が少なくなり、病院で最期を迎えるのが当り前になってきている。看護者も患者以上に死生観をしっかり持つ必要があるのではなかろうか。そうでなければ患者の苦痛、苦悩は受け止められないだろう。死生観には哲学か、宗教のような強力なバックボーンも欠かせないだろう。これは難しい課題である。」([1989:62-63])
 [382]八八年五月「八年前にキューブラー・ロスという精神科女医の『死ぬ瞬間』『続・死ぬ瞬間』(読売新聞社)を読んで大いに感動した。」([1989:49])「死によって肉体は朽ち果てるが、霊魂は昇華されて新しい世界に導かれることを、キューブラー・ロス女史は語るのである。我々より先に死んだ親愛なる人たちに、死によって再会できる希望は何にもまして大きな歓びになるはずである。」([1989:51]、言及されているのはKubler-Ross[1969=1971][1975=1977])
 [383]八八年九月「白血病に苦しんだアメリカの少年は「安楽死」を選んだ。少年は「今度は丈夫な子に生まれ変わりたい」と言い残したそうだ。カレンさんの場合も両親は「来世における善き生活」を望むために、人工呼吸装置の使用停止を求めた。どちらも死のみを求めているのではなく、その底には別の生への願い、来世を望む宗教的希求があることを見逃せないだろう。」([1989:91])
 [384]八四年一月「あいかわらず、身の置き場がないほどのけだるさ、憂うつさが続く。この状態から、もう抜け出ることはできないのかもしれない。ならば一日も早く受け入れ、それに馴染むようにしなければならないのではないか。/先日、不思議な体験をした。仰向けに寝ていると、不意に意識が薄れ、体がフワーと浮いて何かに吸い込まれてゆくのを覚えた。それが四、五回続いた。今までは仰向きに寝ると、息苦しくなることがよくあったが、今回はそれもなく、楽なものであった。/死ぬ瞬間とは、このようなものではないだろうか。/だから決して恐れることはない。残された日々を悔いのないものにせよと、神が暗示を与えられたのではないか。」([1985:233])
 [386]「自然に近い死も、神の御旨と思えるならば、生き延びることも、また神の御旨に変わりはないであろう。当分は気管切開のことは考えないで、更に自分に厳しさを課しつつ、あるがままに恵みを受け、感謝を忘れずに生かされていこうと思う。」([1989:152])
 [387]一九八三年四月十一日「同病のSさんがついに昇天された。何か言いたそうなので、看護婦さんがエンピツと紙を持たせると、たどたどしい字で「くるしい。息ができない」と書いて、息を引き取ったという。さぞかし、つらかったことだろう。」([1985:124])この人は同じ病院に入院し、七十歳の女性だった。四月九日に個室に移ってすぐのことだった。亡くなる一週間前、川口は彼女を見舞った。言葉はほとんど聞き取れなかったが、起き上がり、話そうとした。
 [388]四月十八日「Sさんの死因や延命策について、先生方の意見を聞く機会に恵まれる。明日はわが身であれば、ぜひとも聞いておきたかった。/Sさんは筋萎縮のため、呼吸困難をおこしたという。前から呼吸器官の衰退がいちじるしく、いずれ呼吸困難に陥るのは目に見えていた。/「気管切開はしなかったのですか」/と私。「しなかった」という。/これについては、医師側の意見が二つに分かれた。Sさんは老衰がはげしく、器官切開をしても苦痛を与えるだけで、さほど延命は望めなかった、と一方は言い、いや、それでもやるべきではなかったか、と別のグループ。家族も、延命も望まなかったという。病人をこれ以上苦しませるのはしのびず、静かに眠らせてあげたい、と。それが家族の情かもしれない。/それでも、器官切開をしてあげてほしかったと思う。Sさんはまだ歩くことができた。言葉はしゃべれなくても、手の平に字を書くことができ、目、耳、頭もしっかりしていた。呼吸困難に陥りさえしなければ、まだまだ生きられたのではないか。/私の場合は、意思の疎通がはかれる間は生かしてほしい。合図を送れなくなる、ギリギリの瞬間を見極めてほしい。感謝の言葉を最後に召されたい。それまで、手足は動かず、口はきけずとも、私は生かされていたい。」([1985:127-128])
 [389]あとがきに九三年七月とある小説『菊化石』で、主人公の橘剛は呼吸困難に陥り、意識をなくし、緊急入院する。医師が「「奥さん、気管切開はされますね」/と確認した。/「はい、お願いします」/と泰子は答えてから、剛の意思はどうなのだろうと思った。しかし延命を望むのは人間の心理であり、道理であると確信をした。/[…]/この事で夫からは、はっきりとした意思表示を受けていなかった。しかも、札幌で初めて呼吸器を着けている同病者を見て、俺は嫌だなと感想を漏らしていた。回復の見込みがないままに、どこまで耐えていけばよいのか。延命の意義は分かるが、その必要はあるのか。人としての尊厳は保てるのかとも語った。泰子も、その気持ちは痛いほど汲み取れた。しかし生き延びる術がある限り、生き延びて欲しい。」([1993:141-143])
 [390]八二年十一月。「私の体は、次第に細まってきた。このことを指摘し、共に憂えてくれる人はいるが、どう対処すべきか、適切なアドバイスをしてくれる人はいない。人工的な延命は望まない、と日頃から言っている私への配慮か。」([1985:71-72])
 [391]八八年五月。「私が「松山ベテル病院」に受け入れてもらった時に「人工的な延命を望まない」という約束があった。それが予想以上に長生きをさせて頂いているので、私も病院も戸惑っているのが現状である。」([1989:52])
[392]九四年五月。「ALSに対して、私は精神的な安定が何よりの良薬だと信じている。現に病状が安定し、回復傾向になる同病者は沢山おられる。それらの方達は前向きで明るく、ユーモアに富み、ストレスを適当に発散されている。/しかし、私は限界に来たようだ。年々病院のスタッフは変わる。それにつれて理解者も少なくなっていく。コミュニケーションが円滑にいかないと不自由さばかりか、身体にも悪影響を及ぼすものである。「違うんだ」「そうじゃないんだ」「分からないかな」「もういいよ」とイライラ、カリカリ、そして抑制、孤独、忍耐、それがストレスの最大の要因になる。」(日本ALS協会近畿ブロック会報、豊浦[1996:86]に引用)
[393]九四年八月、豊浦保子らが病院を訪ねた。「次号の会報に「川口さんのネットワークについて書いてほしい」とお願いした。[…]ところが、川口さんはすぐに「ないよ」という文字を打ち、苦笑のような表情を浮かべた。そしてそのあとすぐ「家族がいれば……」という文字が続いた。」(豊浦[1996:96-97])
[394]九四年九月二二日、病棟のスタッフに宛てた手紙。引用の前には、むせ込み、下痢、倦怠感、脱力感、頭痛、顔面麻痺、よだれ、頭が朦朧とすること、等についての記述がある。
 「もし非常事態になれば、皆様にお任せします。但し意識が無くなっているようでしたら、そのまま逝かせて下さい。気管切開は望みません。このように申しても、臆病な私は苦しさの余り助けて欲しいと言うかもしれませんが、気管切開以外の方法で苦痛を取り除くように善処して欲しいと思います。
 私の考えは間違っているかもしれません。(中略)/しかしこれ以上呼吸器を装着して、ご迷惑をかける訳にはいきません。それに妻も子供もいませんので、励みも失いがちです。単身で生きるのに限界も覚えます。発病から二十一年、正直に言えば疲れました。くたくたです。だからといって、命を粗末にするものではありません。むしろ末期になればなるほど、命の重さ、生への執着は強くなっていくのもいなめません。あとどのくらい猶予があるのか。とにかくそれなりに精一杯燃え尽きたいと望んでいます。/くじければ叱ってやって下さい。弱気になれば支えて下さい。苦痛を訴えれば和らげて下さい。意思の疎通は難しくとも言葉をかけて下さい。頼み事はたくさんありますが人間としての尊厳を保ちつつ、最期は感謝をしながら、一足早くお別れするのが、私の夢でごさいます。どうか夢の実現にご理解とご協力をお願いします。」(豊浦[1996:86]、中略は豊浦による)
 この五日後の二七日未明に川口は急性呼吸不全で亡くなる。
 [439]川口武久は、自らは使うことはなかったが、情報は得ていた。一九八四年一月。「Aさんの弟さんから、便りが届く。鳥取大学病院に入院中のAさんが、新しく開発されたパソコンレター作成機を使って、意志伝達のテストを開発された、という。/手紙によると、新しい機械は、ワープロとパソコン、筋電計をセットしたようなものらしい。ひら仮名の五十音順が表示された画面を、タテ、ヨコ二本の細い帯(選定帯、カーソル)が上から下へ、左から右へと動く。それを見ながら、使いたい文字のところへきたとき、まばたきをしたり、あるいは奥歯を軽く噛んで合図する。すると、頬にはりつけてある電極が筋肉のかすなかな動きをとらえ、その文字が印字されて出てくるという。/自分の意志が伝えられる。これほどの喜びがあろうか。特にAさんの場合は、六年間の”沈黙”がある。体の自由を奪われ、一言の意志表示もかなわなかった六年。それにひたすら耐え、ようやくにして”言葉”を取り戻そうとしておられる。Aさんの喜び、家族の方がたの感激はいかばかりだろう。」(川口[1985:228])
 [519]一九八四年一月。「名古屋の労災病院で、寝たきりの患者でも、身の回りのことができる機械が開発されたという。ベッドの上げ下ろしはもちろんのこと、テレビや電話までも、その機械に息を吹き込むだけで操作できるらしい。手足のきかない人にも自活の道を開く、画期的なものといえるのではないか。/ありがたい、これなら私にも使えると思ったが、この病いが進めば、肝心の息が吹き込めないことに気づき、現実に引き戻される。運動神経がすべて閉ざされてしまうのでは、話にならない。/頭の機能だけは、最後まで残るという。それを活かしたものが開発されないものか。せめて意志だけでも、自由に伝えられる装置が作り出せないものだろうか。それは夢の夢なのか。」(川口武久[1985:236])

■言及

◆立岩 真也 2015 『死生の語り・2』(仮) 文献表


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・作成:立岩 真也
REV:20011208,29,20020117,19,0213,0614,19,24,0727,0811,1006,20030104,10,11,0304,05,06,07,08,09,10,11, 14, 0412, 0524, 1103, 20101007(藤原 信行) 20150203, 20230328
日本ALS協会  ◇ALS  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 
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