工藤 伸一
くどう・しんいち
・1965?生
・9歳から入院生活 蓮田市の筋ジス病棟
・1988 病棟の交流会で同会のボランティアと知り合ったことから、埼玉大四年だった佐藤が定期的に会いに来るようになる
・198907 二十四歳で現在のアパートに移る
・2002気管切開
・虹の会会長
■谷岡聖史 20160820 「<となりの障害者> (中)外の世界へ 自由に生きたい」,『東京新聞』2016年8月20日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201608/CK2016082002000151.html
写真:大型映画館を訪れた工藤さん(右)と佐藤さん。2人ともホラーやサスペンス作品を好む=県内で
小林厚士(33)は知的障害と軽い吃音(きつおん)がある。会話は苦手だ。その人生で最大の出来事を尋ねると、きっぱりと答えた。「家出です」。二〇〇五年の正月、通勤の定期券だけを手に久喜市の実家を飛び出して以来、さいたま市内のアパートで暮らしている。障害者自立支援組織「虹の会」事務所のすぐそばだ。[…]
それから十一年半。出勤前には近くの事務所に仲間と集まるのが小林の日課だ。「そこで佐藤さんが作った朝ご飯をみんなと食べるのが、一番楽しい」
◇
小林と同じアパートには、全身の筋肉が動かなくなる進行性の難病、筋ジストロフィーの工藤伸一(51)も暮らしている。
わずかに動く右手でパソコンを操り、特殊な機器を使って呼吸の回数や長さでエアコン、部屋の照明などを自分で動かす。寝室の隣には、工藤の指示でトイレや入浴、食事などを手助けする男性介助者が二十四時間体制で待機する。介助者を派遣する虹の会で会長を務める工藤は、最古参の一人だ。
同会は一九八二(昭和五十七)年に発足。当初は同じ病気の福嶋あき江(故人)の支援団体だった。筋ジス患者の退院は不可能だといわれていた当時、募金を集めて一年余り米国の障害者福祉を視察。帰国後は旧浦和市で自立生活を始め、話題の人となっていた。
その頃、工藤は蓮田市の筋ジス病棟にいた。「なぜ他人の力まで使って外で暮らすのか」。福嶋を否定する半面、迷いもあった。
入院生活は九歳から。数年後には車いす生活となり、十九歳で電動車いすに。若い患者が多い病棟は「学生寮のような雰囲気」。こっそり成人雑誌を買ったり酒を飲んだり、一種の「青春」があった。だが苦痛だったのは、自由にトイレに行けないこと。趣味の油絵も決まった時間だけ。日常すべてに制約があった。
八八年、病棟の交流会で同会のボランティアと知り合ったことから、埼玉大四年だった佐藤が定期的に会いに来るようになり、気持ちが動いた。「病院にいればそれなりに生活できるが、ずっと環境は変わらない。だったら死んでもいい。思い切って外に出たい」。翌年七月、二十四歳で現在のアパートに移った。
病気は現在も進行中だ。自発呼吸が弱まり〇二年に気管を切開。旅行中に呼吸器のバッテリーが切れ、冷や汗をかいたこともある。それでも工藤は、佐藤らとの映画館通いを毎週続けている。「(生命の)保障はなくても自分の責任で、自分の意思で決められる。それだけで自由を感じる」。この夏、工藤の一人暮らしは二十八年目に突入した。 =文中敬称略(谷岡聖史)
■言及
◆立岩 真也 2018/06/01 「連載・146」,『現代思想』46-(2018-06):-
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◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社