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小島 純郎

こじま・すみろう


◆千葉大名誉教授の小島純郎さん死去
 「小島 純郎さん(こじま・すみろう=千葉大名誉教授・ドイツ文学、前全国盲ろう者協会理事長)は10日、死去、75歳。葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻和(かず)さん。自宅は公表していない。
 同協会主催のお別れ会を、11月15日午後1時から東京都新宿区百人町2の27の7のホテル海洋で開く。連絡先は同千代田区神田神保町2の5神保町センタービル7階の同協会。」
 朝日新聞 2004/10/12 10:26

福島智(全国盲ろう者協会理事) 200411 「哀悼――小島純郎先生逝去に接して」
 『点字ジャーナル』2004-11

 「「ぼくはこれからどうすればいいんでしょう。ぼくにいったい何ができるんでしょうか?」
 23年前のある日。全盲ろう者となってまもない私が、小島純郎という人に初めて会った時、私は自分の悩みを自然に口にしていた。そばには他にだれもいない。
 当時私は18才、付属盲高等部3年。小島先生は52才、千葉大ドイツ文学教授。その時、先生がなんとおっしゃったか、正確には覚えていないけれど、「ゆっくり、一緒に考えていきましょう」というようなことを、ややたどたどしい指点字で私の指にうってくださった気がする。
 そして、別れる前、私の手をぎゅっと力強く握り、こきざみに、何度も、何度もゆすっておられた。その動作が、なによりも雄弁に語っていた――小島純郎は、情熱と誠実の人なのだ、と。
 東京帝大卒。50才近くまで、障害者との接点はまったくといってなかったであろう小島先生は、たまたま非常勤講師で出向いた和光大での盲学生や、ろう学生との出会いをきっかけに、急速に障害者の世界にとけ込んでいく。
 以来23年あまり、小島先生は私にとっては、公私共の「応援団長」であり、同時に、数多くの障害者の親しい友人であり、そして、「日本の盲ろう者福祉の父」でありつづけた。
 1991年全国盲ろう者協会初代理事長、93年、東京ヘレンケラー協会より「第1回ヘレンケラー・サリバン賞」受賞・・・。社会的評価と共に、重責も担われてきた。
 2004年10月10日夜、小島先生は永眠された。晩年は進行する病との苦闘の日々だった。
 意識が鮮明な段階で、私が最後に先生とお話したのは、今年の5月末のことだった。
 「なにか、日本の盲ろう者について、夢はございますか」と伺うと、長い沈黙の後で、ゆっくりと、しかし明晰にこうおっしゃった。
 「盲ろう者の、憩いの家、とも言えるような・・・」
 ここで、また長い沈黙。
 「・・・が、欲しいですねえ」と感情をこめた調子でおっしゃった。
 これは従来からの先生の持論で、米国の「ヘレンケラー・ナショナルセンター」のような盲ろう者やワーカーなどを対象にした総合的なサービスとトレーニングを提供するセンターのことだ。しかし、それを「憩いの家」という言葉で表現なさるところに先生の人となりがにじみでる。
 「盲ろう者の父」と書いたが、むしろ、「母」のほうがふさわしいかもしれない。手料理が上手だった。手作りのはやと瓜のつけもの、いかの酒盗などをいただいた人は、50人や100人ではきかないだろう。
 先生と小舟で海釣りをしたことは、私の人生の貴重な思い出だ。スポーツ好きの盲ろうの中年女性とは、スキーもなさった。
 現在は「専門家」ばやりの時代である。資格や免許がものをいう。その意味で、小島先生は障害者や盲ろう者の「専門家」ではない。ゲーテやヘルダーリンといったドイツの詩人を研究していた初老の男性が、目の前にいる具体的な障害者との出会いをとおして、その後の人生をかけてぶつかっていく。独習で、しかも50才をすぎてから、点字も、手話も学び、実践した。
 「どうして、先生、私や障害者たちに力を注がれるのですか」と、いつか尋ねたことがある。先生は静かに言われた。
 「障害者は社会から弱い存在と見られていますが、ぼく自身も、片目で、片耳だし、幼いころからいろいろつらい経験もしていて、自分も弱い存在だと感じています。でも、たとえば、盲ろう者は、ほんとうは人生の重荷を背負って生きる勇気を持った一種の英雄なのだと思いますね。その英雄の手伝いを少しでもしたい・・・」
 多くの障害者の心に温かな光をそそぎ込み、一人の「英雄」が去って行った。」


◇立岩 真也 1999 福島さんあて私信
 http://www.arsvi.com/0r/1999fs.htm
◇立岩 真也 2001/11/00 「福島智さんのこと――知ってることは力になる・19」
 『こちら”ちくま”』24

◇福島 智 i2018 インタビュー 2019/01/09 聞き手:立岩 真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫

「福島 そこがまた大変で。その前に、81年の11月30日という日に、私を支援する市民グループを作ろうという発足の会があったんです。で、塩谷先生が事務局長となって。で、千葉大の小島〔純郎、〜2004〕先生、ご存知ですよね?

立岩 僕、それ、福島さんに話したことあるけれども、

福島 ええ、なんか重なってるんですよね?

立岩 千葉大に2年いた時〔1993.4〜1995.3〕に、小島先生が僕がいた部屋の下の階にいらして、あの、

福島 (笑) うるさかったでしょう。

立岩 面白い先生でしたね。バイオリン弾いたりしてたよね。

福島 そうそう、そうそう。そうそうそうそう、バイオリン弾いてる。そうそうそう、金曜日に、何か、

立岩 それからね、研究室に、研究室に鍋釜があるわけ。鍋釜があって、そのサークルの子たちと一緒に飯炊いて食べたりするの。そういう、ドイツ語の先生だっけ? あの人。

福島 そう。そうです、そうです。それで、自分で、

立岩 盲ろう協会の会長さんとかなさったよね。

福島 そうそうそう、あの人。そうそう、理事、のちに理事長もなってくれました。最初、私を支援する会の会長になってくれたんです。
 で、何で小島先生かっていうと、小島先生は、障害者とかの専門ではないけれども、全然。ドイツ文学だし、ヘルダーリンとかゲーテなどの詩の研究が専門なんですよね。で、だけど、その人が和光大学ですね、和光大学に非常勤講師に行ったら、あそこには視覚障害とか聴覚障害の学生が割といるので、最初わからなかったけれども、「何だか目をつぶって、いつも目をつぶってる学生がいるな」とか。あるいは、「話が聞いてるのかどうか、わからない学生もいるな」と思っているうち、2、3年が過ぎて。「どうもこれはおかしい」と思って、「視覚障害と聴覚障害の学生がいるんだ」ということがわかって。それから「自分で点字の教材を作ろう」というふうに考えて、ドイツ語の点字も勉強して、それから手話もやって。50歳ぐらいからやって、それが、いや40歳ぐらいかな、45か50ぐらいですね。そこ、かなりのレベルにまで、両方とも、あの、上手になったんです。そしてね、特徴的なのは、常に当事者と接する盲関係、ろう関係、両方にたくさん仲間が、あ、友だちがいて、学生で。だから「こういう人がいてもらえるといいんじゃないか」と、塩谷先生が考えたんですね。はい。それで、その支援グループというのを作った。支援グループは何をするかというと、今後、私が大学に行くためには、

立岩 その、その会を作ろうって言ったのは、誰なんですか?

福島 塩谷先生です。

立岩 ああ。塩谷さんは小島先生を知ってたの?

福島 はい。小島先生は、何か点字のことを習いに行くために、その、何か教えを受けるために、附属盲学校へ時々出入りしていたんです。

立岩 ああ、なるほど。

福島 そしてその小島先生が受け持っていた和光大学での授業をとっていた学生の中に、かつて塩谷先生のクラスにもいた全盲の女性がいて。その女性が三浦さんというんですが、私の最初の頃の、その、通訳を始めた人なんです。その三浦さんがいわば引き合わせた感じなんですね。

立岩 うんうんうん。で、塩谷さんが…、どうぞどうぞ。

福島 それでその、うーん、塩谷先生が会を作るっていうことは、あの、彼は色んな会を作って、誰かに引き渡して自分は身を引く、みたいなことを何度かやっていて。例えば早稲田大学に、学生でいた時も、点字、点字の教科書がないという現実を見て、「点字あゆみの会」というのを作って、点訳、今で言うところの点訳ボランティアのグループですね、そういうのを作って。大学の中と外で活動をして、社会人も巻き込んで、その、点訳するっていう会を作っていったんですよね。そういうことをやった経験のある人で、盲ろうの私を支援するには、とにかく会を作って、あの、負担を分散する、一部の人に集中するんじゃなくて負担を分散して、あの、やっていくのが良いというふうに考えたんですね。
 ちなみにそのあと、これは小島先生の強い意見でもありましたが、当時、無料ボランティアが割とありましたけども、それでは長続きしないし、制度的にも、制度化にも繋がらないし、更に、「福島君がいつもその、何と言うか、気がひける状態でいないといけないから、わずかでも謝金が払えるようにしましょう」と。それであの、カンパをね、カンパを全国的に募って、少しずつ、例えば年会費2千円とかだったかな。で、1口それぐらいでカンパを募って、それで通訳者への交通費と、えーと、謝金が当時千円だったと思いますが、1時間千円の謝金を出すっていう体制にすれば、あの、大学は支えるということでいいんじゃないか、ということ、それが提案されたんです。それが結果的にはうまくいったんですね。で、私が大学に行く、あるいは大学に行ったあと、卒業するまでを支える、という明確な目的があったので、それで、今で言えばあの、クラウドファンティングみたいな感じですよね。あれはメディアを通してやって、「支えてもらいましょう」。
 で、話戻りますが、浪人時代は、まずアパートを見つけるというのが大変で、そこでも何軒も断られて。あの、でも、どうしたんかな、どう、どういう経緯か忘れたけど、とにかく、まあどっか一つのとこ見つかって、そこにクラスメイトの男ともう一人、手話通訳さんに後になる男性と3人で小さいアパートに暮らす、

立岩 え? 3人、男が、

福島 ていうことをやりました。

立岩 男3人が一世帯用のところに住んでたってこと?

福島 そうそう。6畳と、3畳と、小さい台所でした。で、6畳に僕と盲学校のクラスメイトで、弱視でピアノのうまい男。ピアノがうまかったから、最初点字知らなかったけども、すごく指点字が上手になった男がいて。そしてもう一人の男性は3畳の小さい部屋に住んでくださって。それはまあいわば、僕とそのクラスメイトだけでは頼りないから、4歳か5歳か年上の人なので、もう社会人だったので、いわばその、何と言いますかね、一緒に住んでくださったということです。その時の、

立岩 それは何、3人がその家賃をその分担っていうか、したみたいな住み方だったんですか?

福島 そうです。えーっとね、ただ、どうしたかな? もしかしたら会から若干、どちらかには補助をしたかもしれませんね。部分的に。でも謝金とかは出してないな。はい。」


UP:20041025, 20200113
盲ろう  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO
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