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川越 修

かが・おとひこ かわごえ・おさむ
http://202.23.190.192/~okawagoe/database.html


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■HP
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■著書・編書

◆川越 修・姫岡 とし子・原田 一美・若原 憲和 19900330 『近代を生きる女たち――一九世紀ドイツ社会史を読む』,未来社,311p. 2575 ※
◆見市 雅俊・高木 勇夫・柿本 昭人・南 直人・川越 修 19900622 『青い恐怖 白い街――コレラ流行と近代ヨーロッパ』,平凡社,297p. ISBN-10: 4582452051 ISBN-13: 978-4582452051 3010 [amazon] ※ h01.
◆川越 修 1995 『性に病む社会――ドイツ ある近代の軌跡』,山川出版社,256+22p.
◆川越 修・鈴木 晃仁 編 20080523 『分別される生命――二〇世紀社会の医療戦略』,法政大学出版局,332p. ISBN-10: 4588672096 ISBN-13: 978-4588672095 3675 [amazon][kinokuniya] ※ h01.
◆川越 修・友部 謙一 編 20080523 『生命というリスク――20世紀社会の再生産戦略』,法政大学出版局,318p. ISBN-10: 4588672088 ISBN-13: 978-4588672088 3570 [amazon][kinokuniya] ※ h01.

■論文

◆川越 修 19900330 「一九世紀ドイツにおける女性論」,川越・姫岡・原田・若原[1990:019-05]*
◆川越 修 19900330 「統計資料」 川越・姫岡・原田・若原[1990:291-308]*
*川越 修・姫岡 とし子・原田 一美・若原 憲和 19900330 『近代を生きる女たち――一九世紀ドイツ社会史を読む』,未来社,311p. 2575 ※
◆川越 修 20010105 「優生学と人口政策――ヴァイマル・ドイツからナチス・ドイツへ」,『思想』920(2001-01):99-118 ※

■言及

◆1995 『性に病む社会――ドイツ ある近代の軌跡』,山川出版社,256+22p. <320>
 →立岩 真也 1997 『私的所有論』,勁草書房 p.320

 第7章註31
 「◇31 「国民の政治参加権と社会的生存権の国家による承認を基本原則(ヴァイルマル憲法はそれを成文化したものである)とする社会国家システムは、不可避的に、国民の私的領域の社会化、すなわち家族や性といった私的領域への国家介入の拡大をもたらす。この拡大した課題を、国民の自発的な参加を原則とする社会の下からの組織化=自己調整的社会国家化によってはたそうとするソーシャルかつリベラルな「夢」は、多様な利害の交錯状況に足をとられ、国家および自治体の組織と財政の肥大化という自己撞着的問題を解決しない。…/しかし他方、社会の強権的な上からの組織化=管理主義的社会国家化の道は、組織の合理化と財政の合理化をいっきょに実行する可能性をもってはいるが、その代償として社会的生存権と政治的参加権が肥大化した国家目的に従属させられ、制約をうける危険性をつねにはらんでいるのである。…/ナチスに人びとをひきつけるものがあったとすれば、その一つはまさに、ナチスが一九三〇年前後にヴァイマル社会国家が直面したこうしたアンビヴァレントな問題状況から脱出する道を切りひらく姿勢をみせたことにあるのではないか。すなわち、ナチスは普通選挙によって選出され議会を足場に合法的に政権を掌握し、一つの運動体として国民大衆を動員しつつ、社会領域における組織と財政の合理化を強権的に推進し、かつ同時に社会的生存権の確保のための社会的給付を充実させるという両面作戦をとったのである。」(川越修[1995:230-231])
 重要な指摘である。ただ、ここでは第一文だけを見たい。まず、社会的生存権を国家が承認することによる私的領域への国家介入の拡大を「不可避的」と言い切れるか。第8章3節で私の考えを述べる。もう一つ、「私的領域」と「国家」とを対置させれば引用文のように言えるとしても、一人の人にとっては、家族という領域も国家と同様に介入してくる主体でありうることが看過されていないか。第9章7節2(425頁)でこのことに関して述べる。福祉国家批判の論点はPearson[1991=1996]にまとめられている。」
 註31のある本文
 「単純な誤解を解いておこう。前節に見たように、「福祉国家」は、一方で、過度な介入をすることによって批判され、他方で、直接的な関係を破壊することによって批判された。そして両者は矛盾した批判ではない。ただ、もし配分が自発的な関係の中で不可能なのであれば、また配分に関わる義務を認めるのであれば、それを担う主体としては――さしあたって国境の存在を前提するしかないのであれば――国家しかない。そして――これはしばしば見落されていることだが――私的な関係に移すことが、介入を弱くするという根拠はない。むしろ、私的な関係の中で、人の質を巡る介入はより多くなされるはずである。とすれば、私達に残されているのは、非介入的な福祉国家、機械的な分配だけが行われ、それ以外を人々に委ねる「福祉国家」を構想することだけだと考える。◇31」


UP:20070731
身体×世界:関連書籍  ◇WHO

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