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北浦 雅子

きたうら まさこ

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last update: 20171027

■訃報

◆ 「北浦雅子さん死去 「全国重症心身障害児(者)を守る会」会長」
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/233295
 2023年2月26日 07時18分
 「北浦雅子さん(きたうら・まさこ=「全国重症心身障害児(者)を守る会」会長)16日、東京都内の自宅で死去、101歳。告別式は近親者で行った。後日お別れの会を開く予定。」

◆『福祉新聞』


重症心身障害児(者)/重症心身障害児(者)施設/「全国重症心身障害児(者)を守る会」

・2018/01/16 北浦尚様72歳で死去
・2023/02/26 北浦雅子死去



http://www.fukushishimbun.co.jp/topics/4464
 『創立50周年の重症児を守る会 式典に両陛下ご臨席』
 2014年06月16日福祉新聞
 両陛下をお迎えする北浦会長(右)
 「全国重症心身障害児(者)を守る会(北浦雅子会長)が創立50周年を迎え、天皇、皇后両陛下ご臨席のもと、9日に都内で約1200人が参加し記念式典が開催された。」


◆北浦雅子 1966 『悲しみと愛と救いと――重症心身障害児を持つ母の記録』,佼成出版社,212p. ASIN: B000JABYE2 [amazon]
◆―――― 1983 「この子たちは生きている」、全国重症心身障害児(者)を守る会編[1983:10-24] ◆―――― 1993 「「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の三〇年をふりかえる」、あゆみ編集委員会編[1993:59-65] ◆北浦雅子 1993 「「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の三〇年をふりかえる」、あゆみ編集委員会編[1983:59-65]

◆全国重症心身障害児(者)を守る会 編 198309 『この子たちは生きている――重い障害の子と共に』,ぶどう社,230p.
◆全国重症心身障害児(者)を守る会編 19930312 『いのちを問う』,中央法規出版, 161p.

■言及

◆立岩 真也 2016/08/01 「国立療養所・5――生の現代のために・15 連載・126」,『現代思想』44-(2016-8):
 ↓
◆立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※


 「★02 「私の次男は昭和二一年に福岡で生まれました。生後七ヵ月目に種痘を接種したために半身不随、ちえおくれ、言葉もない重症児となってしまいました。当時、こうした子供たちの施策は皆無でしたので、親の愛情だけでひっそりとすごしておりました。この子が一四歳の時東京へ帰ってきて、小林提樹先生にめぐり会ったのが、私にとり大きな転換点となりました。私たち親は当時「自分か死んでしまったらこの子はどうなるだろうか」という不安で一杯でした。小林先生が毎月一回開いて下さる「両親の集い」の例会の時は、親同志ひそかによりそってこのことを話し合っていました。その時、先生が重症児のための施設(島田療育センター)を計画されているのを知り、五〇床の施設が完成した時、親同士でよろこび合ったことを忘れることができません。
 しかしこの施設を運営するためには、何とか国の援助を得なければならないと、小林先生のあとについて、議員会館、大蔵省、厚生省へと、初めての陳情活動を行いました。昭和三六年のことです。
 その時の国の姿勢は、社会の役に立たない重症児に国の予算を使うことはできない、というものでした。私たちは「どんなに障害が重くても、子供は真剣に生きています。また親にとってはこの子も健康な子も、その愛情には少しも変わりはありません。しかし親の力には限界があります。」(北浦[1993:59-60]、続きは本文)
 こうした活動とともに各地の組織の成立と活動はそれとして興味深い。京都の「守る会」の成立と活動について東出[1983]。その全文をホームページに掲載している。」

 「★03 「最近、施設の先生に「重症児の親御さんたちは、みなさんよくがんばっておられますが、なかにはいろいろな方がいます。″うちの子は社会の子です。職員が世話をするのは当り前でしょう″などという親もいるのですよ」と聞かされたときには、私は血の気のひくような悲しみにおそわれました。たった一人のこうした親のために、すべての親が同じようにみられてしまいます。私たちのニ〇年にわたる運動も、根本からくつがえってしまいます。いいえ、それは重症児の生命を危うくしてしまうのです、と私は叫びたくなります。/故市川房枝先生が長い問婦選運動をつづけられ、逝くなるまで、「権利の上に眠るな」といいつづけられたことを、私たちは忘れてはならないと思います。」(北浦[1983:19])」

 「地域によってそのつながり方も一様でなかった――だからこそ、各地域についての研究・記述の意義もある。京都について前田こう一[1982]があり、それを引きつつ自らが関わった「滋賀県難病連絡協議会」について葛城貞三が記している。京都の難病連の結成は七四年八月。スモンの会とベーチェット病京都府支部がよびかけた。他にリウマチ友の会、重症筋無力症友の会、腎炎ネフローゼ児を守る会、△211 筋ジストロフィー協会、腎臓病協議会が加わった。個々に運動をしていても成果が上がらないこと、また京都府としても「窓口」が一本化されることを望んだことが連絡会の結成に関わるという(葛城[2019])。  例えば結核療養者の運動では本人の多くに経済的困難があり、それで運動する。他方、障害児の親たちは、扶養したり世話したりするために後に困難になっていく人は多いが、すくなくとも当初さほどでないこともある。筋ジストロフィー協会や「重心」の親の会の初期の(なかにはずっと続けた)役員には社会的地位その他を得ている人たちがいる。そうした人たちが活動に関わる、そんな人だから活動のために動けたということもある。中高年になって多く発症するALSの人などの場合には本人にもそんなところがある。
 そしてもう一つ、どこに頼むかということがあった。野党は、今より力が強かったとしても、野党ではある。予算を引きだすには与党に言っていくのがよい。しかしもちろん、その人たちに受け入れられねばならない。そのことにおいて、結核療養者は普通の大人であって、見栄えも普通である。さらにその歴史的経緯もあって、共産党などと繋がっているから、他の政治勢力に話を聞いてもらうのは難しい。それに対して、まず子どもは、かわいいし、かわいそうであり、その子をもつ親もかわいそうである。母親が訴え、大臣や議員が受け入れるという構図になる。その人たちに受け入れてもらうには左翼的でないほうがよいということがある。
 筋ジストロフィーについては親の運動があって、一九七〇年代初頭に始まる「難病」対策・政策に先んじて政策対応がなされた。進行性筋萎縮症児親の会が発足したのは一九六四年、「全国重症心身障害児を守る会」が結成されたのも同じ年だ。その人たちは「争わない」人たちだった。得たいものを得るためには「イデオロギー」を排するのがよい。杉田があげた「争わない」とは、まずは、そういう立ち△212 位置、立ち位置からの主張を言う言葉である。
 すると、内部において、もっと争ってよいはずだと主張する人たちは抑えることになる。それは争いと言わないか。その争わないと言う人自身も例えば次のように争っている。会の創設以来、夫が会長を務め、その死後会長を継いで、二人合わせて会長であった期間が五〇年ほどになる北浦雅子(126頁)の文章より――まったく同じ箇所を前章で引いている(127頁)★10。

 ▼最近、施設の先生に「重症児の親御さんたちは、みなさんよくがんばっておられますが、なかにはいろいろな方がいます。″うちの子は社会の子です。職員が世話をするのは当り前でしょう″などという親もいるのですよ」と聞かされたときには、私は血の気のひくような悲しみにおそわれました。たった一人のこうした親のために、すべての親が同じようにみられてしまいます。私たちの二〇年にわたる運動も、根本からくつがえってしまいます。いいえ、それは重症児の生命を危うくしてしまうのです、と私は叫びたくなります。/故市川房枝先生が長い問婦選運動をつづけられ、逝くなるまで、「権利の上に眠るな」といいつづけられたことを、私たちは忘れてはならないと思います。(北浦[1983:19])▲

 親がせいぜい苦労した上で、そして苦労しているがゆえに、その苦労を社会や政治家に理解してもらい、同情・共感してもらって、社会的支援を求めようというのと、それと別の主張をするのと、どちらが正しいのかは別に、ここに二つの立場はある。しかし、北浦は、「血の気のひくような悲しみ」をもたらすような一つの立場を非難し、除外している。その人にとってはそれは争いではないのだろうのだが、実際には争っており、しかも争いでないとすることによって、議論からも運動からも一つを除外し△213 ているのである。
 それは、たんなる戦術と言えないところもある――本気でそのような献身的な心性の人たちだったようでもある――のだが、その時において、政策と生活を得るには有効な方策であった。運動に「政治」をもちこまないことを唱えた。あるいはそのように言いながら、政権党(の有力者)に陳情するという政治活動を行なった。
 そしてそれに政治が、有力な政治家が応えた。例えば研究所の設立を田中角栄が約束する――結局はロッキード事件で失脚し約束は果たされなかったのではあるが(139頁)。そして施策・施設の必要性をメディアが訴え、支援する。この時期善意は様々にあった。島田療育園に集団就職の女性たちが勤めたことがあり(藤原陽子[1967])、それが報道されたりした。伴淳三郎、森繁久彌――山田富也らのありのまま舎の本の題字を書いたりもしている――といった芸能人たちが社団法人(の認可は一九六六年十二月)「あゆみの箱」の活動を行なった★11。これにもあまり知られていない、少なくとも私はまったく知らなかった挿話がある★12。
 それは有効な手だてだった。それしかなかったのかもしれない。繰り返すと、いちいち言葉を補わねばならないのも悲しいことではあるが、私は、「世の光」の人たちや「争わない」の人たちが、「命を護る」ことにおいて、すくなくとも今どきの「リベラル」な人たちや私自身に比して、頼りになる人だと思っている。そしてまた私は、たしかにこれらの人たちと別の宗派に属しているのだろうが、だからことさらに差異を言い立てたいのでもない。ただ、言い立てなくとも存在する差異はあって、それはまずは受け止めるべきだと考えている。受け止めたうえで、たいした差異でないということになればそう言えばよいと思うのだ。
 そしてその人たちは、とくに筋ジストロフィーの親の会の人たちは、原因究明と治療法[…]

■岩崎裕治 「院長室のきのうきょうあした その5 追悼 北浦尚様」
 「2018年1月16日 北浦尚様は72歳でお父様の北浦貞夫様の待つくにへむらさき愛育園から旅立たれました。残念ながら生前お目にかかることはかないませんでしたが、全国重症心身障害児(者)を守る会(守る会)北浦雅子会長の愛息子として、種痘後脳炎の後遺症として重症心身障害を背負うことになった方として、また48歳になってはじめて絵筆を握って「なぐり描き」ができるひとであることがわかっただけでなく、多くの人びとの心に響く作品を描けるひとであることを知らしめた奇跡のひととしてのお名前はながく心に刻まれていました。
もし尚様がこの世に命をさずかっていなかったら、もし北浦貞夫様、雅子様ご夫妻の次男としてお生まれにならなかったら、もし北浦ご夫妻が小林堤樹先生と出会わなかったら、今日の「守る会」はなかったし、重症心身障害児・者のため医療や福祉の制度や機能が、十分とはいいえないにしても今日のような手厚さを期待できることはなかったはずです。私たち職員もこの都立東部療育センターという場で、ごいっしょに利用者のみなさまのための仕事をさせていただく機会もなかったのではないかと思います。
 1月26日 品川区桐ヶ谷斎場で行われた告別式で、北浦尚様に初めてお目にかかりました。苦しむことなく、静かに眠るように亡くなられたという尚様は、たくさんの献花に囲まれたにこやかな遺影の前で、やさしいおこころをうつす表情のまま眠っていらっしゃいました。
 北浦尚様のお生まれになった1946年当時、 生後7ヶ月で重症心身障害となられた方が72歳を迎えることは難しかったにちがいありませんが、わが子の病気と障害への苦悩の中で、北浦家の天使、北浦家の宝として大切に大切に育てられ、24歳で入所なさった板橋区のむらさき愛育園でも手厚いケアとスタッフの熱い思いを受けられたことが、大いなる命の力のひとつになっておられたのでしょう。最後の時を前に、お目にかかって尚様の笑顔は御家族だけでなく、多くの人々、むらさき愛育園のスタッフをも力づけてこられたということは容易に想像できることでした。
 お兄様である北浦隆様が、出棺を前にして「尚は幼くして種痘後脳炎をわずらいましたが、守る会の活動の原動力となりました。あらためて大きな仕事をしたな、と心をうたれています」とご挨拶なさいました。ほんとうにその通りだと思いました。
 重症心身障害児のお母様方が、この子を置いては死ねない、死ぬときはいっしょと思い詰めていらした時代を超えて、「親亡き後」を支えるためのシステムが、多少なりとも整えられてきているのは、北浦会長はじめとする「守る会」の方々のお力が大きいことはいうまでもありせん。
 でも、あたりまえのことですが、北浦会長はとても悲しそうでした。告別式という、会長の至高の宝 とのお別れの場は、お声をおかけするのも、おそばで拝見するのも切ないものでしたが、「この子は重症心身障害児のためにうまれてきたの」と小さな声でおっしゃいました。私も小児科医としてこどもに先立たれた親御さんたちのはかりしれない悲痛に接するたびに、非力な思い、はかなさとともにいのちのあたたかさと力強さをも感じてきました。いくつになっても親や親、こどもはこども、かけがえのない愛情で結ばれたいのちのきずなというひとの世の真理にまた触れた思いでした。
北浦尚様のご冥福を祈り、北浦雅子会長とご家族の皆様が尚様を偲ぶ静かな時を持てますようにと願っております。私も北浦尚様を忘れずに思い続けられるひとであるようにと思っています。合掌」

■「ごあいさつ」 東京都立東部療育センター院長 岩崎裕治
 「当センターは東京都区部東側地域の障害児、特に重症心身障害児(者)のための医療と療育を提供する中核的施設として東京都によって設立されました。平成17年12月に開設されて以来、東京都から指定管理者として指定を受けた社会福祉法人全国重症心身障害児(者)を守る会が運営を行っています。
 当センターは「最も弱いものをひとりももれなく守る」という全国重症心身障害児(者)を守る会の基本原則を理念として、重症心身障害のある方々のうち、特に手厚い医療・介護を必要とする超(準超)重症心身障害児(者)を病棟に積極的に受け入れ専門的な医療はもとより、院内外での暮らしを実りあるものにすべく療育サービスに力を入れています。
 ご家庭ですごしていらっしゃる方々のためには、成人と乳幼児それぞれのために通所療育を行っており、短期入所事業にも力を入れています。外来にもさまざまな障害をお持ちの患者さんがお越しになり、センターのスタッフ一同は、障害をもつ方々の命を守るだけでなく、利用者の皆様に生きていて良かったと思っていただけるよう医療・療育を考え、各部門一致協力して実践するように日々努めております。
 多くの皆様のご支援とお力添えを賜りますようよろしくお願い致します。


UP: 20160711 REV: 20171027, 20230313, 14
重症心身障害児(者)/重症心身障害児(者)施設/「全国重症心身障害児(者)を守る会」  ◇物故者  ◇WHO
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