http://www.fukushishimbun.co.jp/topics/4464

◆北浦雅子 1966 『悲しみと愛と救いと――重症心身障害児を持つ母の記録』,佼成出版社,212p. ASIN: B000JABYE2 あゆみ編集委員会編[1983:59-65]

◆全国重症心身障害児(者)を守る会 編 198309 『この子たちは生きている――重い障害の子と共に』,ぶどう社,230p.
◆全国重症心身障害児(者)を守る会編 19930312 『いのちを問う』,中央法規出版, 161p.



◆立岩 真也 2016/08/01 「国立療養所・5――生の現代のために・15 連載・126」,『現代思想』44-(2016-8):

 「★02 「私の次男は昭和二一年に福岡で生まれました。生後七ヵ月目に種痘を接種したために半身不随、ちえおくれ、言葉もない重症児となってしまいました。当時、こうした子供たちの施策は皆無でしたので、親の愛情だけでひっそりとすごしておりました。この子が一四歳の時東京へ帰ってきて、小林提樹先生にめぐり会ったのが、私にとり大きな転換点となりました。私たち親は当時「自分か死んでしまったらこの子はどうなるだろうか」という不安で一杯でした。小林先生が毎月一回開いて下さる「両親の集い」の例会の時は、親同志ひそかによりそってこのことを話し合っていました。その時、先生が重症児のための施設(島田療育センター)を計画されているのを知り、五〇床の施設が完成した時、親同士でよろこび合ったことを忘れることができません。
 しかしこの施設を運営するためには、何とか国の援助を得なければならないと、小林先生のあとについて、議員会館、大蔵省、厚生省へと、初めての陳情活動を行いました。昭和三六年のことです。
 その時の国の姿勢は、社会の役に立たない重症児に国の予算を使うことはできない、というものでした。私たちは「どんなに障害が重くても、子供は真剣に生きています。また親にとってはこの子も健康な子も、その愛情には少しも変わりはありません。しかし親の力には限界があります。」(北浦[1993:59-60]、続きは本文)
 こうした活動とともに各地の組織の成立と活動はそれとして興味深い。京都の「守る会」の成立と活動について東出[1983]。その全文をホームページに掲載している。」

 「★03 「最近、施設の先生に「重症児の親御さんたちは、みなさんよくがんばっておられますが、なかにはいろいろな方がいます。″うちの子は社会の子です。職員が世話をするのは当り前でしょう″などという親もいるのですよ」と聞かされたときには、私は血の気のひくような悲しみにおそわれました。たった一人のこうした親のために、すべての親が同じようにみられてしまいます。私たちのニ〇年にわたる運動も、根本からくつがえってしまいます。いいえ、それは重症児の生命を危うくしてしまうのです、と私は叫びたくなります。/故市川房枝先生が長い問婦選運動をつづけられ、逝くなるまで、「権利の上に眠るな」といいつづけられたことを、私たちは忘れてはならないと思います。」(北浦[1983:19])」