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国方正昭




以下、畑中 良夫 編 19990315 『尊厳死か生か――ALSと苛酷な「生」に立ち向かう人びと』,日本教文社 より

199003  ALSと宣告される
199009  国立療養所高松病院に入院
199103  歩行器で歩いていて転び、頭に七針縫う裂傷を負い、車いす生活に
19920312 尊厳死宣言「私が生きていることでの家族のメリットとデメリットを考えて達した結論が三月十二日の尊厳死宣言」([41])
199204  「だが、一カ月後に痰が詰まって呼吸困難に陥ったとき、「まだ末期ではない」と聞き入れて(p.41)もらえず寝たきりに。何分か何十分かわからないが、完全に意識はなくなっていた。喉を切開して人工呼吸器の世話になる決心をするまでの二日間の心の葛藤は何年間にも相当するすさまじいものだった。」([41-42])
19930512 「私の闘病記」,『四国新聞』
     畑中編[1999:39-40]に再録

 「一九九二年、「私が生きていることでの家族のメリットとデメリットを考えて達した結論が三月十二日の尊厳死宣言/「だが、一カ月後に痰が詰まって呼吸困難に陥ったとき、「まだ末期ではない」と聞き入れて(p.41)もらえず寝たきりに。何分か何十分かわからないが、完全に意識はなくなっていた。喉を切開して人工呼吸器の世話になる決心をするまでの二日間の心の葛藤は何年間にも相当するすさまじいものだった。/急に襲ってきた寝たきりに、心の準備ができておらず、精神的に落ち込みは激しく、しばらくは何をする気も起きなかった。」(国方[41-42])
 「平成四年の三月、国方さんに尊厳死を宣言され、私は大いに動揺させられた。本人もご家族も院長を信頼してくれていたのに、どうしてなのだろうか、と考えた。この頃、国方さんと奥さん、主治医、看護婦と私との対話が、毎日のように続けられた。人工呼吸器を装着して「一日でも長く生きていてほしい」という奥さんの気持ちも、痛いほど分かるようになっていた。
 また国方さんご本人の心の奥底にも「生きていたい」という思いがあることも直感できた。その思いを率直に表現できないのは、高松病院の医療体制に対する不信感(不十分な設備、看護婦不足、看護への不満……など)があるためと、家族に苦労させることへの配慮があるためだろうということは容易に推測できた。
 医療体制への不信感で、尊厳死を宣言されることは、院長として一番つらいことであった。看護婦が国方さんに、特別といったいいほど関わってくれているのも実感できた。それでも、国方さんの信頼を得ていないのもまた事実であった。
 私は看護婦に「尚一層の献身」を求めた。看護婦からは、「院長はなぜ国方さんだけにこんなに力を入れるのですか。私たちはもう体力の限界です」という言葉が返ってくることがあった。こんな会話が一カ月ほど続いた。国方さんもつらかったと思う。私も悩みに悩んだ。
 四月、国方さんはたんがつまって呼吸困難に陥った。人工呼吸器を装着しないと死んでしま(p.46)う。主治医の出口医師が、国方さんにそのことを説明した。同意が得られない。私も説明した。やはり同意が得られない。血圧が下がり、呼吸器機能は最悪となり、顔色は蒼白になってきた。手記で、国方さんが「意識がなくなった」と書いているのは、脳内動脈の炭酸ガスが最高まで上がり、意識が朦朧状態になっていたからである。すると出口医師が、/「人工呼吸器を装着して助けられるリミットは、あと五分しかありません」/と悲痛な様相で知らせてくれた。私は、もう一度同意を求めてみよう、それでも同意が得られないならば、院長である私の責任で、人工呼吸器装着を強行する腹を決めた。
 そのとき出口医師が、「院長、同意してくれました。うなずいてくれました。奥さんも喜んでいます」と告げにきてくれた。国方さんの手記によると、本人と同意したのではなく、無意識にうなずいていたそうである。
 このように、なかば強引に人工呼吸器を装着された形の国方さんだったが[…]」(畑中[1999:46-47])

 「この患者さんは、ご自身で医学書を渉猟して、病名の見当をつけていた。そして真実に耐(p.143)えられる気力も十分にあると判断されたので、院長から病名を告知された。
 しかし、看護スタッフへの不信から、この患者さんは尊厳死を望んでいた。だから呼吸困難に陥った時にも、気管切開を拒み続けたのだ。しかし、この患者さんは、なかば強引に院長に説得されて、人工呼吸器生活に入ることになった。[…]
 断言したいのは、当時、この患者さんに人工呼吸器を装着すべきだと確信していたのは畑中院長だけであったことである。[…]患者さんが、みずからの病状を十分に理解していると思えない時には、患者さんに判断と選択権を用意に渡してはいけないということを学んだ。患者さんの心も、揺れ動いている。死を選ぶ方がよいとは、今はいえない。」(藤井[143-144])

 

立岩の文章における言及

 さらに、家族は呼吸器をつけて生きていくことを望んでいるが本人は拒否しており、そこに医療者がより積極的に介入した例がある。同じ本からの最初の引用は一九九〇年にALSであることを知らされた国方正昭の文章、次は同じ年に国方が入院した国立療養所高松病院の畑中良夫院長の文章、そして副院長の藤井正吾の文章。
 [189]一九九二年、「私が生きていることでの家族のメリットとデメリットを考えて達した結論が三月十二日の尊厳死宣言/だが、一カ月後に痰が詰まって呼吸困難に陥ったとき、「まだ末期ではない」と聞き入れてもらえず寝たきりに。何分か何十分かわからないが、完全に意識はなくなっていた。喉を切開して人工呼吸器の世話になる決心をするまでの二日間の心の葛藤は何年間にも相当するすさまじいものだった。/急に襲ってきた寝たきりに、心の準備ができておらず、精神的に落ち込みは激しく、しばらくは何をする気も起きなかった。」(国方[1993→1999:41-42])
 「四月、国方さんはたんがつまって呼吸困難に陥った。人工呼吸器を装着しないと死んでしまう。主治医の出口医師が、国方さんにそのことを説明した。同意が得られない。私も説明した。やはり同意が得られない。血圧が下がり、呼吸器機能は最悪となり、顔色は蒼白になってきた。手記で、国方さんが「意識がなくなった」と書いているのは、脳内動脈の炭酸ガスが最高まで上がり、意識が朦朧状態になっていたからである。すると出口医師が、/「人工呼吸器を装着して助けられるリミットは、あと五分しかありません」/と悲痛な様相で知らせてくれた。私は、もう一度同意を求めてみよう、それでも同意が得られないならば、院長である私の責任で、人工呼吸器装着を強行する腹を決めた。/そのとき出口医師が、「院長、同意してくれました。うなずいてくれました。奥さんも喜んでいます」と告げにきてくれた。国方さんの手記によると、本人と同意したのではなく、無意識にうなずいていたそうである。/このように、なかば強引に人工呼吸器を装着された形の国方さんだったが[…]」(畑中[1999:46-47])
 「看護スタッフへの不信から、この患者さんは尊厳死を望んでいた。だから呼吸困難に陥った時にも、気管切開を拒み続けたのだ。しかし、この患者さんは、なかば強引に院長に説得されて、人工呼吸器生活に入ることになった。」(藤井[1999:144])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
・作成:立岩 真也
・UP:20021015

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