◆Kass, Leon R. 1971 The New Biology: What Price Relievmg Man's Estate? Efforts to eradicate human suffering raise difficult and profound questions of theory and practice, Science 174(4011), pp.779-90
◆Kass, Leon R. 1971 Babies by Means of In Vitro Fertilization: Unethical Experiments on the Unborn?, New England Journal of Medicine, vol.285, p.1177
◆Kass, Leon R. 1972 Making Babies―The New Biology and the “Old”Morality,The Public Interest, vol.26, p.49
◆Capron, Alexandre and Kass, Leon R. 1972 A Statutory Definition of the Standards for Determining Human Death : An Appraisal and a Proposal, University of Pennsylvania Law Review 121, pp.87-118
◆Kass, Leon R. 1973 New Beginnings in Life, in M. Hamilton(ed.), The New Genetics and Future of Man, Eerdmans Publishing, Grand Rapids, Michigan,pp. 53-4.
◆Kass, Leon R. 1973 Implications of Prenatal Diagnosis for the Human Right to Life, Hilton et al.eds.
◆Gaylin, Willard. Kass, Leon R. Pellegrino, Edmund. and Siegler, Mark 198804 Commentary: Doctors Must Not Kill, Journal of the American Medical Association,vol.259,no.14,April 8,pp.2139-2140.
◆Kass, Leon R. 1993 Organs for Sale ? : Propriety, Property, and the Price of Progress Shanon ed.[1993:468-487](「科学技術の発達と現代社会II」企画運営委員会編[1995:142-145]に片桐茂博の紹介「臓器は売り物か?――良俗・所有物・進歩の代償」)
◆Kass, Leon R. 1997 The Wisdom of Repugnance, The New Republic, June 2.
なおこの論文はその後何度もアンソロジー等に収録されている。たとえば次のものを見よ。
・Kass, Leon R. & Wilson, James Q. 1998 The Ethics of Human Cloning, Washington D.C.,The AEI Press, pp.3-59
・Pence, Gregory 1998 Flesh of My Flesh, Lanham, Rowman & Littlefield, pp.13-37
・Brannigan, Michael 2001 Ethical Issues in Human Cloning, New York, Chatham House Publishers, pp.43-66 etc.
◆Kass, Leon R. 19970602 The Wisdom of Repugnance, The New Republic,
◆Kass, Leon R. 199909 The Moral Meaning of Genetic Technology, Commentary, p.36
◆Kass, Leon R. 20010517 Preventing a Brave New World, New Republic,
◆Kass, Leon R. 2002 L'Chaim and Its Limits: Why Not Immortality, in Philip Zaleski, ed.,Best Spiritual Writing of2002,San Francisco, p.98
◆Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco=20050415 堤 理華 訳,『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』,日本教文社,420p. ISBN-10: 4531081455 ISBN-13: 978-4531081455 \2600 [amazon]/[kinokuniya] ※ be.et.
◆Kass, Leon R. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York, Dana Press=200510 倉持 武 監訳 『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店,407p. ISBN-10: 4250205339 ISBN-13: 978-4250205330 \6825 [amazon]/[kinokuniya] ※ be.en. →エンハンスメント
■言及
◆Illich, Ivan 1976 LIMITS TO MEDICINE:MEDICAL NEMESIS(=19790130, 金子嗣郎訳『脱病院化社会――医療の限界』晶文社).
(p77)
治療は死を前にした患者をめぐる死の舞踏において極点に達する(186)。一日当り五〇〇ドルから二〇〇〇ドル(187)かけて、白衣・青衣の司祭たちが消毒の香りの中に患者の残れる部分をつつみ込む(188)。香煙と火葬壇が異国風であればあるほど、死は僧侶をあざける(189)。医療技術の宗教的利用はその技術的利用以上に盛んとなり、医師と葬儀屋を画する一線はぼんやりしてきている(190)。ベッドは死者でもなく生者でもない者によっていっぱいである(191)。祈願する医師は自分自身を危機を管理する者だと考える(192)。彼は、最後の時間にある市民ひとりひとりに、無限の力というすでに社会で消滅しつつある夢に、こっそりとめぐりあわせる(193)。銀行、国家、寝台の危機の管理者のように、彼は破滅的な作戦を立て、無駄で無用、かつ奇怪にすらみえる手段を動員するのである。最後の瞬間に彼は、患者ひとりひとりの絶対的な優先権という要求に約束を与えるのであるが、大多数の人々は自分自身それを要求できるほど重要なものと考えていないのである。
(pp262-263)
(191) 身体の死と生の対立する要求に関する文献のインフレーションから判断すると、新しい名のもと「ゾムビー」は、医療―法学上の議論の重要な主題になっている。Institute of Society, Ethics, and the Life Sciences, Research Group on Ethical, Social, and Legal Issues in Genetic Counseling and Genetic Engineering, "Ethical and Social Issues in Screening for Genetic, Disease," New England Journal of Medicine 286 (1972) : pp. 1129-32.死がはじまったということを決定する判断基準に関して現在闘わされている意見のよき総括。著者らはこの問題を慎重に死を定義する試みとは切り離している。Alexandre Capron and Leon R. Kass, "A Statutory Definition of the Standards for Determining Human Death : An Appraisal and a Proposal," University of Pennsylvania Law Review 121 (November 1972) : pp. 87-118.医師が墓掘りの領域まで侵入することについての法的側面への入門。
◆Singer, Peter ; Walters, William A. W. eds. 1982 Test-Tube Babies: A Guide to Moral Questions, Present Techniques, and Future Possibilities, Oxford University Press(=19831024, 坂元正一・多賀理吉訳『試験管ベビー』岩波書店).
(pp138-139)
ついでながら、体外受精・胚移植はそもそも正当な医学的操作とみなすべきかどうかという疑問が提出されているが、論ずるまでもない。R・G・エドワーズは、体外受精や胚移植によって、患者である女性の状態は以前と変らないから、これらは不妊の治療とはいえない、という「注目すべき意見」に注釈をつけている。糖尿病をなおすのにインシュリンを注射することや、視力障害を矯正するのに眼鏡をかけさせることに対比させて、彼はこの意見に反論する。「実際、ほとんどの医学の治療、とくに体質的あるいは遺伝的な病気の治療は、本質的には同じような対症療法である。まったく同じ議論が不妊の治療にも当てはまる。患者が望みどおり子供を得たならば、治療は目的を達成したことになろう。これが治療ではないというのはナンセンスだ(*1)」と。この答えには、素朴な常識がみられるが、反対論も、彼のいうほどに無意味なものではない。不妊は特殊な病気である。これは、病気というより症候群であるといった方がよいかもしれない。病気ないしは障害とみなしているのは、その女性の卵管の閉塞である。だから、彼女のつまった卵管を再建して、ふつうの方法で妊娠できるようにするのが真の治療であろう。ところが、体外受精の場合に治療されているのは、自分の子供をもちたいという彼女の願望であり(*2)、しかも夫婦関係や生殖に生物学の技術を導入することによってなされているのである。「この操作を医学の実践と解釈するためには、医学は、願望を満足させるために寄与するものと解釈しなければならない」ということになる(*3)。
私がこの議論に言及したのは、これが体外受精・胚移植に対する強硬な反対論であると考えているからではなく、この議論が、標準的な医学倫理でこの問題を解決するのが難しいことを示しているからである。
ふつう医学は、癒す機能によって正当化されている。疾病は災いであり、医学はこれに対抗しようとする。たとえ治療がその過程で害を及ぼそうとも(たとえば、四肢切断による機能の喪失や、ある種の治療用薬剤による衰弱があっても)、われわれは、その損失を病気をなおしたり、鎮めたりする利益と比較考量するのである。
しかし、医学あるいは生物学の技術が機能障害の治療から、機能の増進へ向けられるとなると、これを正当化するのはそれほど単純でも明快でもない。リウマチの患者を歩けるようにするために薬を与えることと、運動選手に薬を与えて記録を破らせることとは、別である。
医学という職業が病気の治療をこえて、「願望を満足させる」ところまで進んでも、それ自体間違いではないが、その基本的な治療の役割という限界を超えていることは認めなくてはならないし、願望の正当性や用いる手段の妥当性についての質問にすべて答えなくてはならない。
(*2) L. R. Kass, 'Babies by Means of In Vitro Fertilization: Unethical Experiments on the Unborn?', New England Journal of Medicine, vol. 285, 1971, p. 1177.
(4) L. R. Kass, 'New Beginnings in Life', in M. Hamilton(ed.), The New Genetics and Future of Man, Eerdmans Publishing, Grand Rapids, Michigan, 1972, pp. 53-4.
(6) Kass, 'New Beginnings in Life', p. 54.
◆Singer, Peter ; Wells, Deane 1984 The Reproduction Revolution : New Ways of Making Babies, Oxford Univ. Press / Oxford [Oxfordshire] ; New York : Oxford University Press PTBL:Studies in bioethics, ISBN:0192177362 ; 0192860445 $25.90 (U.S.) ; $6.95 (U.S.) =19881120 加茂直樹訳,『生殖革命――子供の新しい作り方』,晃洋書房.
(pp68-71)
われわれの考えでは、少なくとも体外受精の最も単純なケースに関しては、これらの問いへの答えは明らかである。新しい技術は社会制度をまったく変えないであろう。最も単純なケースにおいては、体外受精児の親は、子供の親であるという点に関して、他のどのような親にも劣っていない。このような仕方で用いられた技術によって、すばらしい新世界に接近するということはまったくない。
このような主張にたいしてはおなじみの反論があることが予想される。滑りやすい坂道論である。体外受精に関連してはこの議論はレオン・カス博士によって、米国の保健教育福祉省の倫理諮問委員会の委託により書かれた論文において、最も強力に展開された。この委員会は1978年9月、米国政府は体外受精の研究に資金を提供すべきか、という問題を検討するように求められた。カスは資金を提供すべきでないと答え、その論文において、不妊の夫婦のための体外受精を正当化するのに用いられる論理は「限界を知らない」という主張を明らかにした。よく用いられる比喩を茶化してひっくり返して、彼はいった。「いったん、天才たちが赤ん坊を壜に入れるのを許したら、再び取り出すことは不可能であろう。」要するに、カスは体外受精に関するどのような研究にも政府資金を出すべきでないと論ずるのだが、その理由の一つは、この研究の現在および未来の危険な応用と論理的な拡大にあらかじめ対処することは難しい、ということであった。
倫理諮問委員会に寄せられた別の論文において、哲学者サミュエル・ゴロヴィッツはカスの主張に反論した。ゴロヴィッツは自らのスキーヤーとしての経験を例に引いて、滑りやすい坂道のどれを乗り切ることができるかできないかについての判断が可能であるという事実に、委員会の注目を促す。「それは制御の問題であり、部分的には判断の問題である。」未来の発展をまったく制御することができないと主張する見解をまじめにとりあげる理由はない、と彼は述べている。われわれは判断と制御の能力を持っており、過去において他の問題に関してその能力を発揮した。たとえば、妊娠中絶の自由化は、社会的に嫌われている人々を選択的に殺すというような結果をもたらしはしなかった。体外受精に関しても、われわれは今後この能力を発揮できるであろう。
この論争を『偶然から目的へ』という著書において要約したクリフォード・グロブスタインは、目的が果たす決定的な役割に注目を促している。彼によれば、体外受精を開発する目的が結婚における卵管閉塞による不妊の治療だけにあるのならば、これを越えるどのようなことにたいしても承認は与えられていないのである。もし目的がもっと広いものであるならば、われわれが止まることの難しい坂道に踏み出しているということもできよう。われわれに必要なのは、目的が何であるか、どこまで進もうとしているか、を明確に表現することである、とグロブスタインは提案する。だから、元来の目的に含まれていない新しい問題点は個々に新しく検討されなければならない。
不妊の夫婦を救うために体外受精を行なうという限定された目的は、特に最も単純なケースの厳しい制約の範囲内では、すばらしい新世界への接近を促進し、いっそう遠くまで影響を及ぼすような発展の先例になることはない、という判断において、われわれはグロブスタインと一致する。スキーの比喩を重ねて用いるならば、最も単純なケースにおける体外受精は、われわれが大した苦労もなくスキーをあやつることのできる初心者用のゲレンデである。体外受精の他の使い方がわれわれをもっとけわしく危険な坂道に位置させることになるか否かについては、以下の諸章で検討することにしよう。
危険はどのくらい大きいか
1971年にワシントンDCで開かれた「製造される赤ん坊」についてのシンポジウムにおいて、発表者の1人はジェームズ・ワトソンだった。彼は遺伝を支配する分子DNAの二重らせん構造の発見でノーベル賞を受けていた。ロバート・エドワーズも出席していた。ワトソンはエドワーズに向かって直接にいった。「もし幼児殺しの必要を認めるのならば、あなたは今やっている研究を進めてもかまわない。多くのあやまちが起ころうとしている。これらのあやまちをどう処理しようとしているのか。」シンポジウムの別の発表者にプリンストン大学の神学の教授であるポール・ラムゼイがいた。ラムゼイは、体外受精の研究の初期の段階で少なくとも何人かの奇形や知恵おくれの子供が生まれてくることが予想されるが、その理由だけでもこの研究を続けることは絶対的に不道徳であると断定できる、と主張した。ラムゼイの見解は翌年、非常に権威のある『アメリカ医学会雑誌』に発表された。彼の結論はシンポジウムの第3番目の発表者であったレオン・カスに支持された。カスはいった。「赤ん坊が母親の子宮にいる間に何度検査を受けようとも、そのことは問題ではない。赤ん坊が欠陥なしに生まれてくる保証はない。」カスもこのような見解をまもなく『公共の利益』誌に発表した。権威あるアメリカ合衆国科学研究協議会による1975年度の研究である『生物医学技術の評価』も、知恵おくれまたはその他の損傷の危険が非常に大きいので、体外受精は試みられるべきではない、と結論している。
(pp73-74)
幸いなことに、最初のヒトの体外受精児はどこから見ても完全に正常である。これまでに生まれたすべての体外受精児も実質的にそうであるといえる(1人の赤ん坊には心臓の先天的な欠陥があったが、手術に成功した。この欠陥が体外受精に関係しているとは考えられない)。
体外受精児の正常さについての心配は取り除かれた。ワトソン、ラムゼイ、カスや合衆国科学研究協議会の報告に見出される極端な主張は、今になってみると不当に人騒がせなものであったように思われる。しかし、問題点は二つの理由でまだすっかり片付いたとはいえない。第一に、体外受精児の数はまだ非常に少ない―本書執筆の時点でまだ200名未満である―ので、異常のある子供の率が通常の生殖の方法を用いた場合と比較して高くない、とだれも自信を持って断言できない。(略)
問題がまだ片付かない第二の理由は、最初の体外受精児たちは完全に正常であるようにみえるけれども、彼らが大人になるまでの精神的、心理的発達を評価することができるようになるまでは、彼らがあらゆる点で正常であるとはいえない、と一部の人々が主張していることにある。(略)
体外受精児の身体的、精神的正常さの絶対不変の証明が後の検査を待ってはじめて得られるのは事実であるが、われわれはこのことを体外受精に反対するための十分な根拠とみなしはしない。体外受精児の正常な発達を示す証拠はすでにきわめて強力であり、絶えずいっそう強力になりつつある。絶対的な証明がないことから出発する議論は状況を注意深く見守ることの必要性を説く議論にしかなりえない。さらに、もし体外受精が異常を作り出すとしたら、それは重度の異常であって、出生時または幼児期において明らかであるか(これは事実ではなかったが)、あるいは、自然流産または着床の失敗に終ったか(これは大いにありそうなことである)、のどちらかであろう。
(pp94-100)
体外受精に関してさまざまな懸念、つまり、すばらしい新世界に向かっての前進になるとか、生殖行為への技術の不自然な介入であるという懸念が表明されているが、体外受精の単純なケースにたいして最も挑戦的である反対論は、われわれの見解によれば、もっと世俗的な性格のもの、つまり金である。
体外受精を現在の発展段階にまで到達させるのに必要とされた研究の費用は、それほど問題ではない。医学研究に費やされる金はいつも賭けの要素を含んでいる。(略)
個々の患者の治療費はまた別の問題である。これは継続的に要する費用であって、支払う価値があるか否かはわれわれが決めなければならない。前章でみたように、卵子の採取、受精とそれに続く胚の子宮への移植の費用は2000から4000豪ドルである。この方法の成功率は25%以上ではないから、生まれた子供一人当たりの費用は1万から2万豪ドル程度である。この金額は支払うに値するだろうか。
体外受精について検討する倫理諮問委員会に寄せた論文において、レオン・カスは支払うに値しないという意見を述べている。
「一回の妊娠に成功するための費用は控え目に見積もって5000から1万ドルになろう。体外受精によってしか子供を持つ望みのない卵管閉塞性の不妊女性が控え目にみて米国に50万人いるとすれば、控え目にみて25億から50億ドルという費用になる。将来、技術的進歩によって費用が赤ん坊一人につき1000ドルにまで下がったとしても、見積もられる費用はなお5億ドルである。連邦政府がこの方向に進みはじめるのは、財政的にみても、本当に賢明といえるだろうか。(中略)私は不妊のカップルがおかれている立場には同情するけれども、彼らに公費で子供を生むためのサービスを受ける権利があるとは思わない。特に現在、このような価格で、しかも多くの道徳的難問を含むようなやり方で、行なわれているからなおさらである。」
公費で不妊のカップルが子供を生めるようにすることに反対する人々への一つの回答は、体外受精は許されるべきであるが、ただしそれを望むカップルが治療の全費用を支払う用意がある場合に限る、というものである。(略)
さて、治療費をすべて患者が負担する場合でも、高くつくという理由でこの治療法に反対できるだろうか。そうすることはあまりに干渉主義的であるように思われる。もしカップルが赤ん坊を持つ機会はそれだけの費用に値すると考えるとしたら―多くの夫婦は明らかにそう考えている―、彼らの決定は賢明でないと彼らにどうしていうことができるだろうか。1万2000ポンドでぜいたくな車を買うことが許されるなら、赤ん坊を得るために金をかけてどうして悪いといえるだろうか。ただしこの議論が有効であるためには、そのカップルは本当に全費用を支払わねばならない。そこに問題がある。英国やオーストラリアにおけるように、医学生が公費で教育される場合、ここにも納税者からの隠された支出がある。なお悪いことに、医者の供給は速やかに需要に応えることができないので、体外受精の費用の自己負担の結果として、稀少な医療技術を持った医者たちが彼らをもっと必要としている他の領域に行かなくなる、というような事態も起こるであろう。
このようなわけで、体外受精の費用を自己負担するといっても、費用を根拠とする反対論に部分的にしか答えていないことになる。その上に、われわれは、金持の不妊患者は赤ん坊を生むことができ、貧乏人はできないという状況をみていて平気か、と問わなければならない。(略)公正という理由、あるいは、それが避けることのできる苦痛を減少させるための方法であるからという理由のどちらによるとしても、国家はすべての国民が貧富の別なく基本的な医療を受けられるように配慮すべきである、とわれわれは信ずる。しかし、体外受精はわれわれの理解する基本的な医療に含まれるであろうか。
レオン・カスを含め一部の批判者たちは、不妊の人々は他の人々と同様に健康であり、生命の危険はなく、身体的な苦痛や不快もないから、不妊は疾患ではない、と主張する。さらにカスはいう。たとえ不妊が疾患であるとしても、体外受精は、卵管形成手術と違って不妊という基礎的な条件を変えるわけではないから、不妊の治療法とはいえないであろう。体外受精は赤ん坊を作り出しはするが、卵管閉塞の女性は依然として不妊なのである。
ジャン・ブレナンは明らかにこのような意見には同意しないであろう。彼女はいっている。「私はまさに欠陥、障害を持つ人間です。明らかに外見上は何も悪いところはありません。しかし、それは欠陥なのです。」この発言は確かに正しい。片手の自由を失った人が具合が悪いように、卵管閉塞の女性は身体的に具合が悪いのである。どちらの状態も生命を脅かすことはないし、身体的な苦痛や不快を引き起こすこともない。しかしそのために、欠陥のある人は普通の人のできる一つまたはそれ以上のことができないのである。体外受精が欠陥を治療しはしないという批判に関していえば、眼鏡が近視を治療しはしないし、インシュリンが糖尿病を治療しはしない。.しかし、どちらも治療法として認められているのである。
だから、問題は、不妊が医学的な欠陥であるか、にあるのではなく、その欠陥がどの程度に重いか、そして、われわれの持つ医療資源にたいする他のすべての要求と比較して、不妊の治療にどのような優先順位が与えられるべきか、にある。
この問題を論ずるにあたって、問いを提出する上での二つの可能な観点を区別することが有用であろう。つまり一方では、次のように問うことができる。「われわれが今、医療に費やしているすべての資源を完全に合理的な仕方で配分するとしたら、われわれは試験管ベビーの研究に資源を割り当てるだろうか。」これにたいして、次のように問うこともできる。「現在における医療資源の全体的配分から考えて、今われわれが試験管ベビーの研究に費やしている金額に特に不適当なところがあるか。」
第一の観点は、われわれが試験管ベビーに費やす金額をある理想的な基準と対比して算定しようとしている。第二の観点は、われわれの現在の支出の形態を基準にして算定する。明らかにこの二つはかなり異なる基準である。理想の世界では、医療支出の1ドル1ドルが病気や欠陥をなくすのに最大の効果をもたらすような使い方がされるであろう。一方では、何百万人の子供たちが栄養不良のために(また栄養不良で弱っていて抵抗力がないからかかる疾患のために)死に、他方では、大病院が技術の粋をつくしているが生命を救うという点での価値はまだ明らかでない冠状動脈治療ユニットを開発している、というような状況はなくなるであろう。ほとんど疑いの余地なく、心臓発作の患者のための最新の電子機器を備えることによってよりも、十分な食物ときわめて基本的なレベルの健康管理を、それを必要とする人々に提供することによって、より多くの生命が救われるであろう。しかし、この種の再配分は、富める国が貧しい国ともっと平等にわかちあうことを要求するであろう。そして、富める国はこれまでのところではそれにあまり乗り気ではなかったのである。
(略)
しかし、医療支出を理想的に合理的なものにするのを妨げる強力な制度的障害があることを認めないならば、われわれは非現実的であるというそしりを免れないであろう。政治、マスメディア、行政、医療機関等の指導的地位にある人々は根強い偏見を持っていて、彼ら自身や彼らの家族と友人たちがかかりそうな病気の治療により多くの資源を配分するとも予想される。そして、この病気には心臓発作は含まれるが、栄養不良に関連する疾患は含まれないのである。その上、医者や医学研究者たち自身も、自分の知性と腕に最も興味深い課題を与えてくれるような研究と治療の領域に自然に引き寄せられる。それは必ずしも患者に最大の利益をもたらすような領域ではないのである。
だから、理想的に合理的な優先順位の尺度を用いて体外受精への費用支出を評価するのは、非常に厳しい基準を適用することを意味する。この基準によれば、広く世間に受け入れられている医療支出の多くが非難されることになるであろう。われわれはすべての医療支出の一般的評価を企てているのではなく、体外受精の倫理性を特に考察しているのであるとするならば、不当に厳しい基準を適用していることになる。
現在の医療支出の基準で測るならば、体外受精はそう悪くないようにみえる。前章でみたように、体外受精は損傷した卵管をなおす顕微鏡手術よりも安くつく。現在、腹腔鏡手術による方法の成功率は顕微鏡手術のそれよりも僅かに低く、このことは不妊を克服する方法としての費用効果が僅かに小さいことを意味する。しかし、その差は大きくないので、体外受精の成功率が今後も向上し続けるならば、容易にその差を逆転することができるであろう。だから、体外受精を擁護する人々はレオン・カスにたいして、夫婦が公費で子供を持つためのサービスを受ける権利を彼が認めないのであれば、卵管手術についても、全費用を本人が負担するのでない限り、彼はこれに反対すべきではないか、と反問することができよう。
◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂道夫・長岡成夫訳『医療倫理1――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).
(pp165-166)
何人かの批判者は、医師による死の幇助が、医師にとっての新たな役割を生み出すものであり、しかもその役割は治療者という医師の伝統的な役割とは対立する危険なものである、との危惧を表明している。たとえば、ボストン大学の法律学の教授のジョージ・アナスは、ジャック・キボーキアンが「少数過激派」に属しており、彼を「支持するような他の医師を一人たりともこの国において見つける」ことは困難だろうと述べている(61)。医師のレオン・カスは、キボーキアンについて「彼が医師の一人と見なされていることを考えると、私は自分の職業を非常に恥ずかしく感じる」と言っている(62)。アーサー・カプランは、医療倫理の専門家としてミシガン州の法廷で証言台に立ち、キボーキアンを批判する証言を行った(63)。
(略)
ここでの真の争点の一つとして、「医療は何のためか」という問いがある。患者のほうは、「自分たちが援助を求めるような形で医師が援助の手をさしのべること」と答える。医師のほうは、「治療すること」と答え、さらに「医療専門職の理想を前進させ、専門職としての規範を維持すること」と付け加えるかもしれない。患者の答えと医師の答えが同じ結果に至る場合もあるが、すべての場合にそうなるとは限らない。たとえば、医療の理想の一つが生命の神聖さだとすれば、それは末期の患者の死を幇助することと対立する可能性がある。
(pp188-190)
体外受精で生まれた最初の赤ん坊には、何らかの欠陥があるかもしれないと予測した人は多かった。ある産科医は、重度の欠陥を持った赤ん坊ができるかもしれないことや、「不適格な科学者が胚を粗雑に扱えば、重大な異常が起こる可能性がある」ことを強調した(25)。別の産科医はこう述べた。「もし……眼が一つの子供が生まれたらどうするのだろう。いったい誰に責任があるのだろうか。親だろうか。政府にはその面倒を見る義務があるのだろうか。」(26)保守的な論客として有名なレオン・カスは、人為的な受精によってつくられた赤ん坊は奇形児になるかもしれないと強く訴えた。「赤ん坊が母親の子宮にいるあいだに何度検査を受けようが、問題ではない」と彼は断固として主張した。「赤ん坊が欠陥を持たずに生まれないとは、決して断言できない。」(27)
(略)
こういった批判をする人たちは、リスクをまったくともなわないような方法で生命現象を扱うのは不可能だということを見落としているように思える。さらに彼らは、有害ではあっても現実には起こりそうにない出来事のリスクを誇張している。これは心理的にはしかたのないことではあるが、論理性を欠く議論である。予測される結果の一つがまったく起こりそうにないものであれば、たとえその内容が非常によくないものだとしても、それはきわめて小さなリスクとしか言えない(32)。たとえば、無脳症の赤ん坊が生まれるという結果は、非常によくないものであるが、起こりそうにない結果でもある。無脳症の赤ん坊が生まれるという(小さな)リスクがあるからといって、それを理由にして子供を持つことをあきらめさせるというのは不適当なことだろう。
Willard Gaylin,Leon Kass,Edmund Pellegrino,and Mark Siegler,“Commentary:Doctors Must Not Kill,”Journal of the American Medical Association,vol.259,no.14,April 8,1988,pp.2139-2140 .
◆Conrad, P. and J. W. Schneider, 1992, Deviance and Medicalization: From badness to sickness, Temple University Press(=2003, 進藤雄三監訳『逸脱と医療化――悪から病いへ』ミネルヴァ書房).
(pp56-57)
疾病と病いとは何であろうか。表面上はどちらかというと簡単な概念のように思われる。常識的な観点では,疾病は人間の身体からも切り離された「外側」に存在している何かであり,身体に入り込んで害を及ぼすものである。ウィルス,細菌または他の「病原体」を回避するという観念はこの見方に従っている。常識的な見方の変異形として,疾病を「特定の原因と特定の症状を示す生体内における特定の破壊的過程」であるとするものがある(Webster's New Ideal Dic1tionary)。疾病は単に健康からの離脱であるとみられる場合もある。病いが疾病と違うものとされるならば,病いは疾病によって引き起こされた状態,またはより普通に言えば病気である状態としてとらえられる。しかしながら,これから指摘するように,疾病と病いはきわめて複雑な実体であり,上記のような常識的な見方が示しているより,もっと多くの問題を有している。ここでの目的は,疾病と病いの本性をめぐる長い学問的な論争に決着をつけることではない。むしろ多くのアプローチと病いの認定の性格に対して読者に敏感になってもらうことが目的である。
実証主義者の病いの概念は,常識的な見方に最も類似している。病いとは,生体の(最も広義での)生理学的な器官の機能,レオン・カスの言葉で言えば「良好な作動」(Leon Kass, 1975)を阻害する生体内の疾病の存在のことである。この厳密で限定された定義では,器官の機能不全のみが疾病とされていた。この定義には,機能作用や良好な作動は標準として使用されうる一定の正常状態があるという暗黙の仮定を含み,またこうした正常の状態は医学の観察者によって認識されるという暗黙の仮定を含んでいる。「よく機能している器官」という概念それ自体が問題をはらんでいることを理解するには,扁桃摘出術にまつわる最近の医学的な論争と,何が「健康」でまた何が「不健康」な扁桃であるかを考えるだけで十分である。さらに,病いと疾病を器官の機能不全に限定するこのような考えには,環境への適応と思われる未発見の疾病や器官の変化が含まれるのだろうか(たとえば,鎌状赤血球形質[訳注:鎌の形をした赤血球を有する遺伝体質で疲労しやすいが,マラリア耐性があり,マラリアの多い地方に広く分布している])。「客観的な」器官の状態にだけ焦点を合わせることによって,実証主義者は(少なくとも理論において)疾病の概念を限定している。われわれが精神病,特に機能障害と呼んでいるものの大半について,この定義はまったく当てはまらないということを指摘することは重要である。
Kass, Leon R. 1973 "Implications of Prenatal Diagnosis for the Human Right to Life", Hilton et al. eds.[1973] <433>
───── 1993 "Organs for Sale ? : Propriety, Property, and the Price of Progress", Shanon ed.[1993:468-487](「科学技術の発達と現代社会II」企画運営委員会編[1995:142-145]に片桐茂博の紹介「臓器は売り物か?──良俗・所有物・進歩の代償」) <20>
◆McKibben, Bill, 2003, ENOUGH : Staying Human in an Engineered Age, (=20050830,山下篤子訳『人間の終焉――テクノロジーはもう十分だ!』河出書房新社).
(pp62-63)
長年『サイエンス』の編集をしていたダニエル・コシュランドの言葉をとりあげてみよう。コシュランドは一九九八年にUCLAで開催されたあるシンポジウムで、次のような発言をした。「この世界に絶対に安全というものはない。……たいていの人が承知しているようにリスクは相対的なもので、リスクがあっても比較のうえで得るもののほうが大きそうなら、ものごとは実行される。考えてみれば妊娠、出産という過程全体がリスクの大きい危険な仕事だ。生殖系列操作は自然とされているものと十分にはりあうようになると私は思っている(注146)」。つまり、この試みにつきもののリスク――必然的に人問に実験をすることになるという事実――は、歯止めにならないということである。
保守主義者にとっていちばん納得のいく議論は、たぶんこれとは少しちがう。彼らはこれらのテクノロジーが危険をもたらすことよりも、堕落をもたらすことを懸念している。コラムニストのチャールズ・クラウトハマーの表現を借りれば、それは「極めつけの脱感作」、「人間の尊厳に対する暴行」なのだ(注147)[脱感作は、アレルゲンに対して過敏になった状態(感作した状態)にあるとき、微量のアレルゲンにくり返しさらすなどの方法によって、その過敏反応を減弱させること。減感作とも言う]。シカゴ大学の倫理学者で、ジョージ・W・ブッシュから大統領諮問生命倫理委員会の委員長に任命されたレオン・カスは、科学者や医師に「神のような創造者、審判者、救世者の役割」をもたせるものだと述べた(注148)。
こうした議論を導いているのは、カスやジェイムズ・Q・ウィルソンが「本能的反発」と呼んでいる、遺伝子操作された未来の見通しに対する激しい反応である(注149)。しかしこれまでに提示されたものを見るかぎり、十分に強力な議論だとは思えない。宗教右派にはアピールするが、たとえば中絶に対する女性の権利を支持している多数派をおびやかす。中絶には、よかれあしかれ神のようにふるまう要素があるからだ。それに、学校で進化論を教えることを望まない人たちが言うようなたわごとだと思われたり、信仰のために人の生殖の自由をさまたげるべきではないと反論されたりすることも、容易に想像できる。そのような膠着状態になったら、「進歩」をもたらし「迷信」を笑う科学者のほうに軍配があがるだろう。ある調査によれば、イギリスの一流の研究者たちは、人間のクローニングや遺伝子操作はまもなくはじまるだろうと考えている。オクスフォード大学で科学理解の普及のための講座の教授を務めるリチャード・ドーキンスは、「この種の研究に反対する人たちは、だれが被害を受けると考えているのかをきちんと説明すべきだ。『神の役割』といった言いまわしでは、説得力のある議論にはならない」と述べている(注150)。
いずれにしてもこうした議論は、新しいテクノロジーの真に恐ろしい面、すなわちこれまでのテクノロジーとは異なる特徴をとらえていない。
(p85-86)
親が神王のように、子どもの人生の水路をつくる。新世界のイメージはたとえばこんなふうである。レオン・カスの言葉を借りれば、「自分の存在や性質や能力が、デザインのおかげでできた子どもは、製作者と同列にはならない。生産物に対しては、たとえそれがどれほどすぐれたものであっても製作者が上位に立つ。対等の相手ではなく優位者として、意志と創造力によってそれを超越するのだ(注177)」
しかしそこには留意すべきひねりがある。それは、遺伝子操作が意図したとおりにうまくいけば、子どものほうが親よりもすぐれた人間になるという点である。子どものほうが親よりも高いIQや、扱いやすい性質や、すぐれた音感や、いい反射神経をもっている。成長とともに息子の力がだんだん強くなり父親のほうは衰えて、ついにあるとき立場が逆転するという話ではなく、子どものほうが無条件に、桁ちがいにすぐれている。ちがうのだ(校正者注:「ちがう」強調)。生物学者の見解によれば、私たちが子どもをいつくしみ育てるのは、一つには、自分の遺伝子を受け継がせるという、言葉では表現されない願望のためである。しかし遺伝子操作された子どもがもつ遺伝子は、すべてが親の遺伝子というわけではない。多国籍にまたがる遺伝子も受け継いでいる。それにそうした子どもたちは、正確に言えば私たちの子どもではなくなってしまう。彼らの世代と私たちの世代の隔たりはとてつもなく大きなものになり、彼らの「進化」は加速されるだろう。遺伝子操作がすべて予定通りにうまくいけば、子どもたちは親にとってではなく、彼らにとって快適な世界をつくりだすだろう。
(pp174-176)
ヒト・クローンは、私が「十分なポイント」と呼んでいるものの向こう側に位置する。ヒト・クローンは、自分の未来について、遺伝子組み換え作物よりも明確なロードマップをもって生まれてくる。彼らの人生はある意味で、すでに生きられた人生だからだ。もちろん彼らは、遺伝的に同一のもう一人とはちがう人間である。育つ時期もちがうし、環境のちがいも、彼らを別の方向に向かわせるはずだ。しかし彼らが自分自身を独自の存在として感じることはないだろう――彼らは今日までにデザインされたどんな人間よりも、本質的な意味でデザインされた存在になるからだ。世界初のクローン人間は、一人の親しかもたない初めての「人間」であり、その親はある意味で彼自身なのである。第1章で検討した、子どもの遺伝子増強に対する異議は、ほぼすべてクローンにもあてはまる。
それだけではなく、初のクローンは、ほかのあらゆる種類の遺伝的増強に通じるドアをたたき破るだろう。クローニングの技術は胚の遺伝子操作の技術とほとんど同じであるから、クローニングの作業を経験すると、遺伝子工学者は、たとえばIQ操作などの遺伝子操作もうまくできるようになる。さらに重要なことに、クローニングに対する心理もときほぐされる。『エコノミスト』誌が近ごろ指摘したとおり、「遺伝子研究に対する姿勢は、初のヒト・クローンによって決定づけられる(注52)」。もしその子が「正常な」赤ちゃんで、普通の赤ちゃんのように愛らしく、二〇〇二年の初めに各新聞の一面を飾った初のクローン子猫のように愛らしければ、遺伝子操作に対する世論の反対は消えてしまうかもしれない。「クローニングの支持者は、ヒト・クローンが誕生すれば、世間の反感は急速にうすれると踏んでいる」とある批判者は書いている。「ヒト・クローニングは今後の動向を決める鍵になると支持者はみなしている。もしヒト・クローニングが認められれば、ほかのテクノロジーによる優生的処置に対して、線引きをすることがむずかしくなるからだ(注53)」。一方、ヒト・クローニングを阻止すれば、それが防火線になる。倫理学者のレオン・カスはこれを「生物学が人間をどこまで連れていくのか、その行き先について、いくぶんかの支配力を行使するまたとない機会」であるとし、「さらには、ポスト人類の世界に向かっている暴走車両の車輪に手をかけて、それをもっと尊厳のある未来に向けるためにも、絶好の機会かもしれない」と述べている(注54)。
したがって連邦議会の審議で討論の中心になったのは、ヒト・クローン作成を容易にしてしまうことなしに、胚性幹細胞研究の続行を認める方法があるかどうかという点だった。「地球2」にコロニーを形成するクローンをつくりだすことなしに、「十分なポイント」のこちら側に位置するテクノロジーの恩恵に浴することが可能だろうか? カスが委員長を務める大統領諮問委員会は、実行可能な一つの方法を提言した。「治療的」クローニングを禁止するのではなく、四年間の猶予期間を設けて、そのあいだに、個々の胚を登録、管理し、輸出を禁止し、「ヒト・クローン胚を成長させる期間と発達段階に限度を設ける」仕組みを関係官庁が立案するという方法である(注55)。つまりは、研究者に守らせる道筋を考案しようというのである。
(pp210-211)
しかし真のジレンマはもっと深く、意味の領域を直撃する。一部の未来主義者はこれらのテクノロジーを、進歩の道筋に沿って一歩先に行くだけのものだととらえている。「死を克服し、若返りをもくろむという目標は、もはや近視や喘息の特効薬を発見するという目標以上にはばかげてはいない」とダミアン・プロデリックは書いている(注144)。しかしこれはナンセンスである。いまのところ私たちは「死すべき者(人間)(モータル)」であり、それは私たちが死ぬという事実によって定義づけられている。もし死なないとしたら、人間が木から降りてこのかた私たちの知っている人生は、もはや意味のないものになってしまうだろう。人間は根本的にちがう生きものになってしまうからだ。「新しい不死の人たちは、私たちとはまったくちがうだろう」と倫理学者のレオン・カスは述べている(注145)。新しい種、ホモ・パーマネンスである。それは私たち人類にとって過去最大の変化になるだろう。しかしそれは、よりよくなる変化なのだろうか?
142. Leon Kass, "Moral Meaning of Genetic Technology," Commentary, Sept. 1999, p. 36.
148. Kass, "Moral Meaning," p.35.
149. James Q. Wilson and Leon Kass, "The Ethics of Human Cloning," www.theamericanenterprise.org/taema99q.
177. Leon Kass, "Preventing a Brave New World," New Republic, May 17, 2001.
54. Leon Kass, "Preventing a Brave New World," New Republic, May 17, 2001.
57. Kass, "Preventing a Brave New World."
62. Leon Kass, "The Moral Meaning of Genetic Technology," Commentary, Sept. 1999.
145. Leon Kass, "L'Chaim and Its Limits: Why Not Immortality," in Philip Zaleski, ed., Best Spiritual Writing of2002 (San Francisco: 2002), p. 98.
120. Leon Kass, "Preventing a Brave New World," New Republic, May 17, 2001.
Kass, L. R., 1971 "The New Brology: What Price Relievmg Man's Estate? Efforts to eradicate human suffering raise difficult and profound questions of theory and practice", Science, 174 (4011), pp.779-90.
(2)Leon Kass, “The Wisdom of Repugnance”, The New Republic, June 2 1997.なおこの論文はその後何度もアンソロジー等に収録されている。たとえば次のものを見よ。Leon R.Kass & James Q.Wilson, The Ethics of Human Cloning, Washington D.C., The AEI Press, 1998, pp.3-59: Gregory Pence ed., Flesh of My Flesh, Lanham, Rowman & Littlefield, 1998, pp.13-37: Michael Brannigan Ethical Issues in Human Cloning, New York, Chatham House Publishers, 2001. pp.43-66 etc.
(18)Leon Kass, “The Wisdom of Repugnance”, The New Republic, June 2 1997.ここでは、Leon R.Kass & James Q.Wilson, The Ethics of Human Cloning, Washington D.C., The AEI Press, 1998を使った。
(19)ibid., p.18.ちなみに、ニュージーランドの哲学者アガールは、カスのこのような議論の仕方を批判している。それは「本能的な嫌悪感」にすぎず、胃がむかつくような感じだけでは信頼できる道徳上のガイドとはいえない、とする。cf. Nicholas Agar, Perfect Copy, Cambridge, Icon Books, 2002, chap.1, pp.18-19.確かにそういいたくなる気持ちも分かる。だが、その一方で次の議論にも相応の説得性を感じる。ハインバーグの『神を忘れたクローン技術の時代』(Richard Heinberg, Cloning the Buddha, Wheaton, Quest Books, 1999.橋本須美子訳、原書房、2001)第五章には、「精神的および道徳的な視点でバイオテクノロジーを理解したいと思うなら、自分の直感を見つめてみるべきである。そうした感覚こそ、まさに倫理と精神性の本質へと通じる道だからだ。宗教は畏敬や畏怖の念、罪の意識、謙虚さといった感覚のうえに成り立っている。いかに論理と理性で道徳原理を創り上げようとしても、私たちは必ず直感的な感覚へと引き戻される」(p.154)とある。
(20)Leon Kass, “The Wisdom of Repugnance”, art. cite, p.9.
(21)ibid., pp.38-42.
(22)実はこの問題はかなり重要なものなので、カス以外にも何人かの論者がそれを取り上げている。たとえば次のものを参照せよ。Gregory Pence ed., Flesh of my Flesh, op.cit., chap.4: Glenn McGee ed., The Human Cloning Debate, op.cit., chap.13 etc.
(26)The President’s Council on Bioethics, Human Cloning and Human Dignity, New York, Public Affairs, 2002.
(28)The President’s Council on Bioethics, Human Cloning and Human dignity, op.cit., chap.5.
(30)リベラリズムの雄、法律家のロバートソンは、この議論の代表的論客の一人である。cf. John A.Robertson, Children of Choice, Princeton, Princeton University Press, 1994: Gregory Pence, Flesh of my Flesh, op.cit., chap.8.また、公共政策の専門家、ウィルソンも基本的にはこのラインに沿った考え方をする。もし良識ある両親が心から子どもを欲している場合、そしてその子が母親から普通に誕生する場合、もともとの生殖様態がどんなものであれ、それが両親にとって問題にならないなら、なぜ他人や国家がそのことを問題にしなければならないのか、というわけだ。James Q.Wilson, “The Paradox of Cloning”, in Leon R.Kass & James Q.Wilson, The Ethics of Human Cloning, op.cit., pp.61-74.ちなみに、この場合、生殖の自由には、例えばレズビアン同士のカップルが子どもを欲するというようなケースも含まれている。cf. Philip Kitcher, “There Will Never Be Another You”, in Barbara MacKinnon ed., Human Cloning, Urbana, University of Illinois Press, chap.3.
(34)The President’s Council on Bioethics, Human Cloning and Human Dignity, op.cit., chap5, p94.