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Kass, Leon R.

レオン・カス



■文献

◆Kass, Leon R. 1971 The New Biology: What Price Relievmg Man's Estate? Efforts to eradicate human suffering raise difficult and profound questions of theory and practice, Science 174(4011), pp.779-90
◆Kass, Leon R. 1971 Babies by Means of In Vitro Fertilization: Unethical Experiments on the Unborn?, New England Journal of Medicine, vol.285, p.1177
◆Kass, Leon R. 1972 Making Babies―The New Biology and the “Old”Morality,The Public Interest, vol.26, p.49
◆Capron, Alexandre and Kass, Leon R. 1972 A Statutory Definition of the Standards for Determining Human Death : An Appraisal and a Proposal, University of Pennsylvania Law Review 121, pp.87-118
◆Kass, Leon R. 1973 New Beginnings in Life, in M. Hamilton(ed.), The New Genetics and Future of Man, Eerdmans Publishing, Grand Rapids, Michigan,pp. 53-4.
◆Kass, Leon R. 1973 Implications of Prenatal Diagnosis for the Human Right to Life, Hilton et al.eds.
◆Gaylin, Willard. Kass, Leon R. Pellegrino, Edmund. and Siegler, Mark 198804 Commentary: Doctors Must Not Kill, Journal of the American Medical Association,vol.259,no.14,April 8,pp.2139-2140.
◆Kass, Leon R. 1993 Organs for Sale ? : Propriety, Property, and the Price of Progress Shanon ed.[1993:468-487](「科学技術の発達と現代社会II」企画運営委員会編[1995:142-145]に片桐茂博の紹介「臓器は売り物か?――良俗・所有物・進歩の代償」)
◆Kass, Leon R. 1997 The Wisdom of Repugnance, The New Republic, June 2.
なおこの論文はその後何度もアンソロジー等に収録されている。たとえば次のものを見よ。
・Kass, Leon R. & Wilson, James Q. 1998 The Ethics of Human Cloning, Washington D.C.,The AEI Press, pp.3-59
・Pence, Gregory 1998 Flesh of My Flesh, Lanham, Rowman & Littlefield, pp.13-37
・Brannigan, Michael 2001 Ethical Issues in Human Cloning, New York, Chatham House Publishers, pp.43-66 etc.
◆Kass, Leon R. 19970602 The Wisdom of Repugnance, The New Republic,
◆Kass, Leon R. 199909 The Moral Meaning of Genetic Technology, Commentary, p.36
◆Kass, Leon R. 20010517 Preventing a Brave New World, New Republic,
◆Kass, Leon R. 2002 L'Chaim and Its Limits: Why Not Immortality, in Philip Zaleski, ed.,Best Spiritual Writing of2002,San Francisco, p.98
◆Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco=20050415 堤 理華 訳,『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』,日本教文社,420p. ISBN-10: 4531081455 ISBN-13: 978-4531081455 \2600 [amazon][kinokuniya] ※ be.et.
◆Kass, Leon R. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York, Dana Press=200510 倉持 武 監訳 『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店,407p. ISBN-10: 4250205339 ISBN-13: 978-4250205330 \6825 [amazon][kinokuniya] ※ be.en. →エンハンスメント


■言及

Illich, Ivan 1976 LIMITS TO MEDICINE:MEDICAL NEMESIS(=19790130, 金子嗣郎訳『脱病院化社会――医療の限界』晶文社).
(p77)
 治療は死を前にした患者をめぐる死の舞踏において極点に達する(186)。一日当り五〇〇ドルから二〇〇〇ドル(187)かけて、白衣・青衣の司祭たちが消毒の香りの中に患者の残れる部分をつつみ込む(188)。香煙と火葬壇が異国風であればあるほど、死は僧侶をあざける(189)。医療技術の宗教的利用はその技術的利用以上に盛んとなり、医師と葬儀屋を画する一線はぼんやりしてきている(190)。ベッドは死者でもなく生者でもない者によっていっぱいである(191)。祈願する医師は自分自身を危機を管理する者だと考える(192)。彼は、最後の時間にある市民ひとりひとりに、無限の力というすでに社会で消滅しつつある夢に、こっそりとめぐりあわせる(193)。銀行、国家、寝台の危機の管理者のように、彼は破滅的な作戦を立て、無駄で無用、かつ奇怪にすらみえる手段を動員するのである。最後の瞬間に彼は、患者ひとりひとりの絶対的な優先権という要求に約束を与えるのであるが、大多数の人々は自分自身それを要求できるほど重要なものと考えていないのである。
(pp262-263)
 (191) 身体の死と生の対立する要求に関する文献のインフレーションから判断すると、新しい名のもと「ゾムビー」は、医療―法学上の議論の重要な主題になっている。Institute of Society, Ethics, and the Life Sciences, Research Group on Ethical, Social, and Legal Issues in Genetic Counseling and Genetic Engineering, "Ethical and Social Issues in Screening for Genetic, Disease," New England Journal of Medicine 286 (1972) : pp. 1129-32.死がはじまったということを決定する判断基準に関して現在闘わされている意見のよき総括。著者らはこの問題を慎重に死を定義する試みとは切り離している。Alexandre Capron and Leon R. Kass, "A Statutory Definition of the Standards for Determining Human Death : An Appraisal and a Proposal," University of Pennsylvania Law Review 121 (November 1972) : pp. 87-118.医師が墓掘りの領域まで侵入することについての法的側面への入門。


Singer, Peter ; Walters, William A. W. eds. 1982 Test-Tube Babies: A Guide to Moral Questions, Present Techniques, and Future Possibilities, Oxford University Press(=19831024, 坂元正一・多賀理吉訳『試験管ベビー』岩波書店).
(pp138-139)
 ついでながら、体外受精・胚移植はそもそも正当な医学的操作とみなすべきかどうかという疑問が提出されているが、論ずるまでもない。R・G・エドワーズは、体外受精や胚移植によって、患者である女性の状態は以前と変らないから、これらは不妊の治療とはいえない、という「注目すべき意見」に注釈をつけている。糖尿病をなおすのにインシュリンを注射することや、視力障害を矯正するのに眼鏡をかけさせることに対比させて、彼はこの意見に反論する。「実際、ほとんどの医学の治療、とくに体質的あるいは遺伝的な病気の治療は、本質的には同じような対症療法である。まったく同じ議論が不妊の治療にも当てはまる。患者が望みどおり子供を得たならば、治療は目的を達成したことになろう。これが治療ではないというのはナンセンスだ(*1)」と。この答えには、素朴な常識がみられるが、反対論も、彼のいうほどに無意味なものではない。不妊は特殊な病気である。これは、病気というより症候群であるといった方がよいかもしれない。病気ないしは障害とみなしているのは、その女性の卵管の閉塞である。だから、彼女のつまった卵管を再建して、ふつうの方法で妊娠できるようにするのが真の治療であろう。ところが、体外受精の場合に治療されているのは、自分の子供をもちたいという彼女の願望であり(*2)、しかも夫婦関係や生殖に生物学の技術を導入することによってなされているのである。「この操作を医学の実践と解釈するためには、医学は、願望を満足させるために寄与するものと解釈しなければならない」ということになる(*3)。
 私がこの議論に言及したのは、これが体外受精・胚移植に対する強硬な反対論であると考えているからではなく、この議論が、標準的な医学倫理でこの問題を解決するのが難しいことを示しているからである。
 ふつう医学は、癒す機能によって正当化されている。疾病は災いであり、医学はこれに対抗しようとする。たとえ治療がその過程で害を及ぼそうとも(たとえば、四肢切断による機能の喪失や、ある種の治療用薬剤による衰弱があっても)、われわれは、その損失を病気をなおしたり、鎮めたりする利益と比較考量するのである。
 しかし、医学あるいは生物学の技術が機能障害の治療から、機能の増進へ向けられるとなると、これを正当化するのはそれほど単純でも明快でもない。リウマチの患者を歩けるようにするために薬を与えることと、運動選手に薬を与えて記録を破らせることとは、別である。
 医学という職業が病気の治療をこえて、「願望を満足させる」ところまで進んでも、それ自体間違いではないが、その基本的な治療の役割という限界を超えていることは認めなくてはならないし、願望の正当性や用いる手段の妥当性についての質問にすべて答えなくてはならない。

(*2) L. R. Kass, 'Babies by Means of In Vitro Fertilization: Unethical Experiments on the Unborn?', New England Journal of Medicine, vol. 285, 1971, p. 1177.

(pp147-148)
 性倫理は、男性と女性との関係を問題にする。他人を物体として、あるいは自己の欲求を満足させるためのただの道具として扱うことは人間の尊厳に反する。性は、人と人の間の非常に親密なコミュニケーションの機会を提供するが、すべてのコミュニケーションの場合と同様に、正直であるか、誠実であるかが問題となる。性はまた、新しい生命を生み出す機会を提供する。
 愛と生殖のつながりは偶発的なものではない。これには十分な神学的根拠をあげることもできるが、そこまで遡る必要はない。レオン・カスは次のように問うている。

 いったい、連綿と人間を存在させ続けている性の喜び、愛の交歓、そして子供をもちたいという願望を結びつけている自然の神秘の中に何かの叡知があるのだろうか。生物学的な親の役割とは、子孫をよりよく保護できるようにしくまれた「知恵」なのであろうか。新しい生殖の方式に着手する前に、性と愛と生殖の結びつきの意味、それらを分離した場合の意味と結果を、われわれは考察すべきである(*11)。

 カスは体外受精・胚移植には悲観的である。なぜなら、彼はそれを、人工受精に始まって遺伝子工学やクローニングなどへ続く過程の一部であるとみているからである。そして、技術屋たちに物質環境の破壊を許したように、この過程はやがてはヒトの生殖や家庭の荒廃をもたらし、人間の未来からますます叡知を奪うものであるとみているからである。
 彼は必要以上に悲観的になっているのではないかと私は思う。体外受精・胚移植の手法は必ずしもその後に恐るべき事態をひきおこすものではない。また、たとえ結婚した男女の不妊を改善するためにのみ体外受精を正当化したとしても、そのことは、人間の生殖の機械化や人類の将来の遺伝への干渉など、それ以上の段階をも正当化するとは思わない。しかし、警告のことばはやはり、傾聴すべきであろう。
 近代的な避妊法の開発によって、われわれの世代は生殖から愛の行為を分離することにほぼ成功した。一方、体外受精・胚移植の成果は、生殖を愛の行為から分離するものであった。ふつうの人は誰も、これが積極的な価値をもつものではなく、むしろ、愛の行為によっては達成できないものを夫婦のために達成する、かなり、やむにやまれぬ便法とみているのではないか、と常々私は考えてきた。
 私は、子供のない夫婦の、子供が欲しいという願望は正当な願望であるし、体外受精・胚移植の技術的要素は、夫婦の求める生殖を完全に非人間化するほどのものではないと主張してきた。これは、ふつうの生殖活動では自分たちの望む子供をつくることができない夫と妻との関係に反するものではない。
 私は、はじめから、この手法は結婚という状況の中で用いられるべきであると想定してきた。

(*11) L. R. Kass, 'Making Babies―The New Biology and the “Old” Morality', The Public Interest, vol. 26, 1972, p. 49.

(pp171-174)
 他方、ヒューマニストや若干のキリスト教徒は、「人間は、製作者であり、選択者であり、設計者であるから、いかなるものでも合理的に考案され、十分に考慮されたものであればあるほど、それはそれだけ人間的である」と主張するだろう。この考えに基づくと実験室内での生殖、もしくは実験室内で手助けされた生殖は、「人間の通常の性行為による受胎と比べて根本的に人間的である。この生殖は、意図され、選択され、決意され、管理されている。そしてこれらの行為は、確かに他の霊長類からホモ・サピエンスを区別する特徴にほかならない(*3)」ということになるのである。
 これは、キリスト教的状況倫理学者の長老、ジョゼフ・フレッチャーの規範的な人間性に関する独自の理解に基づく議論である。彼の議論は、規範的な人間性とは何かについてのアプリオリな仮定から始まり、この最初の仮定が結論を決定している。この見解に反論する人たちも、ある仮定から議論を進めているが、その仮定は受胎の正常な形態は本来自然なものであるという仮定である。非宗教的な立場から体外受精に批判的である生物学者のレオン・カスは、「この世に子供をもたらすいくつかの人間的方法があるが、実験室で人間を生み出す行為は、もはや人間的な生殖ではない」といっている(*4)。
 彼の問題の扱い方では、「自然の」受胎が本来優っている、という仮定と直観が一体になっている。このように、受胎という行為は、科学者があまり深く立ち入るべきではない一つの神秘とみなされている。カス博士は、受精前の段階で、人間による技術的な介入に対して限度を設けているように思われる。試験管内で受精させられた子供は、単に合理的な技術計画の産物というだけでなく、感情的な体験もない産物ということになるであろう。かつてのように子供の受胎と誕生には「自然の神秘」はほとんど伴わなくなるであろう。神学の用語を借りれば、親権授与(Parenting)は、非神話化されてしまうであろう。このカスの見方は、特に宗教的要素はないが、ラムゼイの見解のいくつかの側面とあまりかけはなれてはいない。
 生殖への介入に対する伝統的なローマカトリックの反対の根拠の一つに、それが受胎のときの愛と性行為の結びつきを切り離してしまうというのがある。法王ピウス一二世は、第二回国際不妊学会のあいさつで人工受精を非難したとき、基本的には自然の法則の立場をとって、次のように述べた。
(略)
 法王ピウス一二世とカス博士が反対するのは、実験室内で手助けする受精、および生命の発生過程への外的因子の侵入であるが、その根底にはまたある種の恐れも存在している。カス博士はその恐れを、「人間の生殖に手を下すということは、人間自身を人工の物にすることに向かって大きな一歩を踏み出すことである(*6)」と強く表現している。この見解によれば、作られた人間は、終局的には人間性を奪われているから、劣等であるだけでなく、脅威を与えるものでもある。
 また、人間性を奪うといわれている人間の生殖への技術的な介入に対する反対の根底には、倫理的な意味でそのほかにも何かあるのだろうか。カスのいうような、「性の喜び、愛の伝達、子供が欲しいという願望を結びつける自然の神秘」の知恵や、あるいは法王ピウスが述べているような「心からの愛の結実」としての子供によって示される以上の何ものかが、いったいあるものなのだろうか。
 生物学的な反対も確かに倫理的に重要かもしれないが、これを別にすると、その根底にある倫理的根拠としてはこれまでに二つの点が指摘されてきた。ダニエル・キャラハンは、これらの反対は、「人間の幸福を手助けするのに役立っている人間同士の絆や価値が確立している」ことに関連があるのではないかと示唆している(*7)。まず最初に、子供を生むという生物学的な行為は、社会のまさに基礎となる義務感を創り出すことに向けられている。この社会的義務感は、親子関係で始まり、そしてこの関係によってよく示されている。第二に、一部は、自然で具体的な親子関係から生まれる、自らの子供に対するおとなの特殊な責任がある。生物学的な基盤と愛情面での基盤が、変えることのできない関わりを強固にし、そして促進するのである。キャラハンは、これが、おそらくカスが心に抱いていたことであろうと考えている。子供が技術の介入によって「創造される」ならば、科学者の責任とは何であろうか。科学者は、カスの示唆するように、新しい種類の親なのだろうか。そしていままで述べた親子の関係という点でみると、それはどのようなことを意味するのであろうか。生殖への介入は、伝統的な親と子の絆を弱め、その結果社会の新しい変化が出現し、ついには新しい種類の社会を迎えるのだろうか。

(4) L. R. Kass, 'New Beginnings in Life', in M. Hamilton(ed.), The New Genetics and Future of Man, Eerdmans Publishing, Grand Rapids, Michigan, 1972, pp. 53-4.
(6) Kass, 'New Beginnings in Life', p. 54.


Singer, Peter ; Wells, Deane 1984 The Reproduction Revolution : New Ways of Making Babies, Oxford Univ. Press / Oxford [Oxfordshire] ; New York : Oxford University Press PTBL:Studies in bioethics, ISBN:0192177362 ; 0192860445 $25.90 (U.S.) ; $6.95 (U.S.) =19881120 加茂直樹訳,『生殖革命――子供の新しい作り方』,晃洋書房.
(pp68-71)
 われわれの考えでは、少なくとも体外受精の最も単純なケースに関しては、これらの問いへの答えは明らかである。新しい技術は社会制度をまったく変えないであろう。最も単純なケースにおいては、体外受精児の親は、子供の親であるという点に関して、他のどのような親にも劣っていない。このような仕方で用いられた技術によって、すばらしい新世界に接近するということはまったくない。
 このような主張にたいしてはおなじみの反論があることが予想される。滑りやすい坂道論である。体外受精に関連してはこの議論はレオン・カス博士によって、米国の保健教育福祉省の倫理諮問委員会の委託により書かれた論文において、最も強力に展開された。この委員会は1978年9月、米国政府は体外受精の研究に資金を提供すべきか、という問題を検討するように求められた。カスは資金を提供すべきでないと答え、その論文において、不妊の夫婦のための体外受精を正当化するのに用いられる論理は「限界を知らない」という主張を明らかにした。よく用いられる比喩を茶化してひっくり返して、彼はいった。「いったん、天才たちが赤ん坊を壜に入れるのを許したら、再び取り出すことは不可能であろう。」要するに、カスは体外受精に関するどのような研究にも政府資金を出すべきでないと論ずるのだが、その理由の一つは、この研究の現在および未来の危険な応用と論理的な拡大にあらかじめ対処することは難しい、ということであった。
倫理諮問委員会に寄せられた別の論文において、哲学者サミュエル・ゴロヴィッツはカスの主張に反論した。ゴロヴィッツは自らのスキーヤーとしての経験を例に引いて、滑りやすい坂道のどれを乗り切ることができるかできないかについての判断が可能であるという事実に、委員会の注目を促す。「それは制御の問題であり、部分的には判断の問題である。」未来の発展をまったく制御することができないと主張する見解をまじめにとりあげる理由はない、と彼は述べている。われわれは判断と制御の能力を持っており、過去において他の問題に関してその能力を発揮した。たとえば、妊娠中絶の自由化は、社会的に嫌われている人々を選択的に殺すというような結果をもたらしはしなかった。体外受精に関しても、われわれは今後この能力を発揮できるであろう。
この論争を『偶然から目的へ』という著書において要約したクリフォード・グロブスタインは、目的が果たす決定的な役割に注目を促している。彼によれば、体外受精を開発する目的が結婚における卵管閉塞による不妊の治療だけにあるのならば、これを越えるどのようなことにたいしても承認は与えられていないのである。もし目的がもっと広いものであるならば、われわれが止まることの難しい坂道に踏み出しているということもできよう。われわれに必要なのは、目的が何であるか、どこまで進もうとしているか、を明確に表現することである、とグロブスタインは提案する。だから、元来の目的に含まれていない新しい問題点は個々に新しく検討されなければならない。
 不妊の夫婦を救うために体外受精を行なうという限定された目的は、特に最も単純なケースの厳しい制約の範囲内では、すばらしい新世界への接近を促進し、いっそう遠くまで影響を及ぼすような発展の先例になることはない、という判断において、われわれはグロブスタインと一致する。スキーの比喩を重ねて用いるならば、最も単純なケースにおける体外受精は、われわれが大した苦労もなくスキーをあやつることのできる初心者用のゲレンデである。体外受精の他の使い方がわれわれをもっとけわしく危険な坂道に位置させることになるか否かについては、以下の諸章で検討することにしよう。
  危険はどのくらい大きいか
 1971年にワシントンDCで開かれた「製造される赤ん坊」についてのシンポジウムにおいて、発表者の1人はジェームズ・ワトソンだった。彼は遺伝を支配する分子DNAの二重らせん構造の発見でノーベル賞を受けていた。ロバート・エドワーズも出席していた。ワトソンはエドワーズに向かって直接にいった。「もし幼児殺しの必要を認めるのならば、あなたは今やっている研究を進めてもかまわない。多くのあやまちが起ころうとしている。これらのあやまちをどう処理しようとしているのか。」シンポジウムの別の発表者にプリンストン大学の神学の教授であるポール・ラムゼイがいた。ラムゼイは、体外受精の研究の初期の段階で少なくとも何人かの奇形や知恵おくれの子供が生まれてくることが予想されるが、その理由だけでもこの研究を続けることは絶対的に不道徳であると断定できる、と主張した。ラムゼイの見解は翌年、非常に権威のある『アメリカ医学会雑誌』に発表された。彼の結論はシンポジウムの第3番目の発表者であったレオン・カスに支持された。カスはいった。「赤ん坊が母親の子宮にいる間に何度検査を受けようとも、そのことは問題ではない。赤ん坊が欠陥なしに生まれてくる保証はない。」カスもこのような見解をまもなく『公共の利益』誌に発表した。権威あるアメリカ合衆国科学研究協議会による1975年度の研究である『生物医学技術の評価』も、知恵おくれまたはその他の損傷の危険が非常に大きいので、体外受精は試みられるべきではない、と結論している。
(pp73-74)
 幸いなことに、最初のヒトの体外受精児はどこから見ても完全に正常である。これまでに生まれたすべての体外受精児も実質的にそうであるといえる(1人の赤ん坊には心臓の先天的な欠陥があったが、手術に成功した。この欠陥が体外受精に関係しているとは考えられない)。
 体外受精児の正常さについての心配は取り除かれた。ワトソン、ラムゼイ、カスや合衆国科学研究協議会の報告に見出される極端な主張は、今になってみると不当に人騒がせなものであったように思われる。しかし、問題点は二つの理由でまだすっかり片付いたとはいえない。第一に、体外受精児の数はまだ非常に少ない―本書執筆の時点でまだ200名未満である―ので、異常のある子供の率が通常の生殖の方法を用いた場合と比較して高くない、とだれも自信を持って断言できない。(略)
 問題がまだ片付かない第二の理由は、最初の体外受精児たちは完全に正常であるようにみえるけれども、彼らが大人になるまでの精神的、心理的発達を評価することができるようになるまでは、彼らがあらゆる点で正常であるとはいえない、と一部の人々が主張していることにある。(略)
 体外受精児の身体的、精神的正常さの絶対不変の証明が後の検査を待ってはじめて得られるのは事実であるが、われわれはこのことを体外受精に反対するための十分な根拠とみなしはしない。体外受精児の正常な発達を示す証拠はすでにきわめて強力であり、絶えずいっそう強力になりつつある。絶対的な証明がないことから出発する議論は状況を注意深く見守ることの必要性を説く議論にしかなりえない。さらに、もし体外受精が異常を作り出すとしたら、それは重度の異常であって、出生時または幼児期において明らかであるか(これは事実ではなかったが)、あるいは、自然流産または着床の失敗に終ったか(これは大いにありそうなことである)、のどちらかであろう。
(pp94-100)
 体外受精に関してさまざまな懸念、つまり、すばらしい新世界に向かっての前進になるとか、生殖行為への技術の不自然な介入であるという懸念が表明されているが、体外受精の単純なケースにたいして最も挑戦的である反対論は、われわれの見解によれば、もっと世俗的な性格のもの、つまり金である。
 体外受精を現在の発展段階にまで到達させるのに必要とされた研究の費用は、それほど問題ではない。医学研究に費やされる金はいつも賭けの要素を含んでいる。(略)
 個々の患者の治療費はまた別の問題である。これは継続的に要する費用であって、支払う価値があるか否かはわれわれが決めなければならない。前章でみたように、卵子の採取、受精とそれに続く胚の子宮への移植の費用は2000から4000豪ドルである。この方法の成功率は25%以上ではないから、生まれた子供一人当たりの費用は1万から2万豪ドル程度である。この金額は支払うに値するだろうか。
 体外受精について検討する倫理諮問委員会に寄せた論文において、レオン・カスは支払うに値しないという意見を述べている。
 「一回の妊娠に成功するための費用は控え目に見積もって5000から1万ドルになろう。体外受精によってしか子供を持つ望みのない卵管閉塞性の不妊女性が控え目にみて米国に50万人いるとすれば、控え目にみて25億から50億ドルという費用になる。将来、技術的進歩によって費用が赤ん坊一人につき1000ドルにまで下がったとしても、見積もられる費用はなお5億ドルである。連邦政府がこの方向に進みはじめるのは、財政的にみても、本当に賢明といえるだろうか。(中略)私は不妊のカップルがおかれている立場には同情するけれども、彼らに公費で子供を生むためのサービスを受ける権利があるとは思わない。特に現在、このような価格で、しかも多くの道徳的難問を含むようなやり方で、行なわれているからなおさらである。」
 公費で不妊のカップルが子供を生めるようにすることに反対する人々への一つの回答は、体外受精は許されるべきであるが、ただしそれを望むカップルが治療の全費用を支払う用意がある場合に限る、というものである。(略)
 さて、治療費をすべて患者が負担する場合でも、高くつくという理由でこの治療法に反対できるだろうか。そうすることはあまりに干渉主義的であるように思われる。もしカップルが赤ん坊を持つ機会はそれだけの費用に値すると考えるとしたら―多くの夫婦は明らかにそう考えている―、彼らの決定は賢明でないと彼らにどうしていうことができるだろうか。1万2000ポンドでぜいたくな車を買うことが許されるなら、赤ん坊を得るために金をかけてどうして悪いといえるだろうか。ただしこの議論が有効であるためには、そのカップルは本当に全費用を支払わねばならない。そこに問題がある。英国やオーストラリアにおけるように、医学生が公費で教育される場合、ここにも納税者からの隠された支出がある。なお悪いことに、医者の供給は速やかに需要に応えることができないので、体外受精の費用の自己負担の結果として、稀少な医療技術を持った医者たちが彼らをもっと必要としている他の領域に行かなくなる、というような事態も起こるであろう。
 このようなわけで、体外受精の費用を自己負担するといっても、費用を根拠とする反対論に部分的にしか答えていないことになる。その上に、われわれは、金持の不妊患者は赤ん坊を生むことができ、貧乏人はできないという状況をみていて平気か、と問わなければならない。(略)公正という理由、あるいは、それが避けることのできる苦痛を減少させるための方法であるからという理由のどちらによるとしても、国家はすべての国民が貧富の別なく基本的な医療を受けられるように配慮すべきである、とわれわれは信ずる。しかし、体外受精はわれわれの理解する基本的な医療に含まれるであろうか。
 レオン・カスを含め一部の批判者たちは、不妊の人々は他の人々と同様に健康であり、生命の危険はなく、身体的な苦痛や不快もないから、不妊は疾患ではない、と主張する。さらにカスはいう。たとえ不妊が疾患であるとしても、体外受精は、卵管形成手術と違って不妊という基礎的な条件を変えるわけではないから、不妊の治療法とはいえないであろう。体外受精は赤ん坊を作り出しはするが、卵管閉塞の女性は依然として不妊なのである。
 ジャン・ブレナンは明らかにこのような意見には同意しないであろう。彼女はいっている。「私はまさに欠陥、障害を持つ人間です。明らかに外見上は何も悪いところはありません。しかし、それは欠陥なのです。」この発言は確かに正しい。片手の自由を失った人が具合が悪いように、卵管閉塞の女性は身体的に具合が悪いのである。どちらの状態も生命を脅かすことはないし、身体的な苦痛や不快を引き起こすこともない。しかしそのために、欠陥のある人は普通の人のできる一つまたはそれ以上のことができないのである。体外受精が欠陥を治療しはしないという批判に関していえば、眼鏡が近視を治療しはしないし、インシュリンが糖尿病を治療しはしない。.しかし、どちらも治療法として認められているのである。
 だから、問題は、不妊が医学的な欠陥であるか、にあるのではなく、その欠陥がどの程度に重いか、そして、われわれの持つ医療資源にたいする他のすべての要求と比較して、不妊の治療にどのような優先順位が与えられるべきか、にある。
 この問題を論ずるにあたって、問いを提出する上での二つの可能な観点を区別することが有用であろう。つまり一方では、次のように問うことができる。「われわれが今、医療に費やしているすべての資源を完全に合理的な仕方で配分するとしたら、われわれは試験管ベビーの研究に資源を割り当てるだろうか。」これにたいして、次のように問うこともできる。「現在における医療資源の全体的配分から考えて、今われわれが試験管ベビーの研究に費やしている金額に特に不適当なところがあるか。」
 第一の観点は、われわれが試験管ベビーに費やす金額をある理想的な基準と対比して算定しようとしている。第二の観点は、われわれの現在の支出の形態を基準にして算定する。明らかにこの二つはかなり異なる基準である。理想の世界では、医療支出の1ドル1ドルが病気や欠陥をなくすのに最大の効果をもたらすような使い方がされるであろう。一方では、何百万人の子供たちが栄養不良のために(また栄養不良で弱っていて抵抗力がないからかかる疾患のために)死に、他方では、大病院が技術の粋をつくしているが生命を救うという点での価値はまだ明らかでない冠状動脈治療ユニットを開発している、というような状況はなくなるであろう。ほとんど疑いの余地なく、心臓発作の患者のための最新の電子機器を備えることによってよりも、十分な食物ときわめて基本的なレベルの健康管理を、それを必要とする人々に提供することによって、より多くの生命が救われるであろう。しかし、この種の再配分は、富める国が貧しい国ともっと平等にわかちあうことを要求するであろう。そして、富める国はこれまでのところではそれにあまり乗り気ではなかったのである。
(略)
 しかし、医療支出を理想的に合理的なものにするのを妨げる強力な制度的障害があることを認めないならば、われわれは非現実的であるというそしりを免れないであろう。政治、マスメディア、行政、医療機関等の指導的地位にある人々は根強い偏見を持っていて、彼ら自身や彼らの家族と友人たちがかかりそうな病気の治療により多くの資源を配分するとも予想される。そして、この病気には心臓発作は含まれるが、栄養不良に関連する疾患は含まれないのである。その上、医者や医学研究者たち自身も、自分の知性と腕に最も興味深い課題を与えてくれるような研究と治療の領域に自然に引き寄せられる。それは必ずしも患者に最大の利益をもたらすような領域ではないのである。
 だから、理想的に合理的な優先順位の尺度を用いて体外受精への費用支出を評価するのは、非常に厳しい基準を適用することを意味する。この基準によれば、広く世間に受け入れられている医療支出の多くが非難されることになるであろう。われわれはすべての医療支出の一般的評価を企てているのではなく、体外受精の倫理性を特に考察しているのであるとするならば、不当に厳しい基準を適用していることになる。
現在の医療支出の基準で測るならば、体外受精はそう悪くないようにみえる。前章でみたように、体外受精は損傷した卵管をなおす顕微鏡手術よりも安くつく。現在、腹腔鏡手術による方法の成功率は顕微鏡手術のそれよりも僅かに低く、このことは不妊を克服する方法としての費用効果が僅かに小さいことを意味する。しかし、その差は大きくないので、体外受精の成功率が今後も向上し続けるならば、容易にその差を逆転することができるであろう。だから、体外受精を擁護する人々はレオン・カスにたいして、夫婦が公費で子供を持つためのサービスを受ける権利を彼が認めないのであれば、卵管手術についても、全費用を本人が負担するのでない限り、彼はこれに反対すべきではないか、と反問することができよう。


◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂道夫・長岡成夫訳『医療倫理1――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).
(pp165-166)
 何人かの批判者は、医師による死の幇助が、医師にとっての新たな役割を生み出すものであり、しかもその役割は治療者という医師の伝統的な役割とは対立する危険なものである、との危惧を表明している。たとえば、ボストン大学の法律学の教授のジョージ・アナスは、ジャック・キボーキアンが「少数過激派」に属しており、彼を「支持するような他の医師を一人たりともこの国において見つける」ことは困難だろうと述べている(61)。医師のレオン・カスは、キボーキアンについて「彼が医師の一人と見なされていることを考えると、私は自分の職業を非常に恥ずかしく感じる」と言っている(62)。アーサー・カプランは、医療倫理の専門家としてミシガン州の法廷で証言台に立ち、キボーキアンを批判する証言を行った(63)。
(略)
 ここでの真の争点の一つとして、「医療は何のためか」という問いがある。患者のほうは、「自分たちが援助を求めるような形で医師が援助の手をさしのべること」と答える。医師のほうは、「治療すること」と答え、さらに「医療専門職の理想を前進させ、専門職としての規範を維持すること」と付け加えるかもしれない。患者の答えと医師の答えが同じ結果に至る場合もあるが、すべての場合にそうなるとは限らない。たとえば、医療の理想の一つが生命の神聖さだとすれば、それは末期の患者の死を幇助することと対立する可能性がある。
(pp188-190)
 体外受精で生まれた最初の赤ん坊には、何らかの欠陥があるかもしれないと予測した人は多かった。ある産科医は、重度の欠陥を持った赤ん坊ができるかもしれないことや、「不適格な科学者が胚を粗雑に扱えば、重大な異常が起こる可能性がある」ことを強調した(25)。別の産科医はこう述べた。「もし……眼が一つの子供が生まれたらどうするのだろう。いったい誰に責任があるのだろうか。親だろうか。政府にはその面倒を見る義務があるのだろうか。」(26)保守的な論客として有名なレオン・カスは、人為的な受精によってつくられた赤ん坊は奇形児になるかもしれないと強く訴えた。「赤ん坊が母親の子宮にいるあいだに何度検査を受けようが、問題ではない」と彼は断固として主張した。「赤ん坊が欠陥を持たずに生まれないとは、決して断言できない。」(27)
(略)
 こういった批判をする人たちは、リスクをまったくともなわないような方法で生命現象を扱うのは不可能だということを見落としているように思える。さらに彼らは、有害ではあっても現実には起こりそうにない出来事のリスクを誇張している。これは心理的にはしかたのないことではあるが、論理性を欠く議論である。予測される結果の一つがまったく起こりそうにないものであれば、たとえその内容が非常によくないものだとしても、それはきわめて小さなリスクとしか言えない(32)。たとえば、無脳症の赤ん坊が生まれるという結果は、非常によくないものであるが、起こりそうにない結果でもある。無脳症の赤ん坊が生まれるという(小さな)リスクがあるからといって、それを理由にして子供を持つことをあきらめさせるというのは不適当なことだろう。

(pp165-166)
 何人かの批判者は、医師による死の幇助が、医師にとっての新たな役割を生み出すものであり、しかもその役割は治療者という医師の伝統的な役割とは対立する危険なものである、との危惧を表明している。たとえば、ボストン大学の法律学の教授のジョージ・アナスは、ジャック・キボーキアンが「少数過激派」に属しており、彼を「支持するような他の医師を一人たりともこの国において見つける」ことは困難だろうと述べている(61)。医師のレオン・カスは、キボーキアンについて「彼が医師の一人と見なされていることを考えると、私は自分の職業を非常に恥ずかしく感じる」と言っている(62)。アーサー・カプランは、医療倫理の専門家としてミシガン州の法廷で証言台に立ち、キボーキアンを批判する証言を行った(63)。
(略)
 ここでの真の争点の一つとして、「医療は何のためか」という問いがある。患者のほうは、「自分たちが援助を求めるような形で医師が援助の手をさしのべること」と答える。医師のほうは、「治療すること」と答え、さらに「医療専門職の理想を前進させ、専門職としての規範を維持すること」と付け加えるかもしれない。患者の答えと医師の答えが同じ結果に至る場合もあるが、すべての場合にそうなるとは限らない。たとえば、医療の理想の一つが生命の神聖さだとすれば、それは末期の患者の死を幇助することと対立する可能性がある。
(pp188-190)
 体外受精で生まれた最初の赤ん坊には、何らかの欠陥があるかもしれないと予測した人は多かった。ある産科医は、重度の欠陥を持った赤ん坊ができるかもしれないことや、「不適格な科学者が胚を粗雑に扱えば、重大な異常が起こる可能性がある」ことを強調した(25)。別の産科医はこう述べた。「もし……眼が一つの子供が生まれたらどうするのだろう。いったい誰に責任があるのだろうか。親だろうか。政府にはその面倒を見る義務があるのだろうか。」(26)保守的な論客として有名なレオン・カスは、人為的な受精によってつくられた赤ん坊は奇形児になるかもしれないと強く訴えた。「赤ん坊が母親の子宮にいるあいだに何度検査を受けようが、問題ではない」と彼は断固として主張した。「赤ん坊が欠陥を持たずに生まれないとは、決して断言できない。」(27)
(略)
 こういった批判をする人たちは、リスクをまったくともなわないような方法で生命現象を扱うのは不可能だということを見落としているように思える。さらに彼らは、有害ではあっても現実には起こりそうにない出来事のリスクを誇張している。これは心理的にはしかたのないことではあるが、論理性を欠く議論である。予測される結果の一つがまったく起こりそうにないものであれば、たとえその内容が非常によくないものだとしても、それはきわめて小さなリスクとしか言えない(32)。たとえば、無脳症の赤ん坊が生まれるという結果は、非常によくないものであるが、起こりそうにない結果でもある。無脳症の赤ん坊が生まれるという(小さな)リスクがあるからといって、それを理由にして子供を持つことをあきらめさせるというのは不適当なことだろう。
(pp207-208)
クローン技術によって人間がつくられることに対する大きな懸念が広がった。多くのヨーロッパ諸国がヒトをクローン化しようとする試みを禁止し、アメリカでは、国家生命倫理諮問委員会が連邦議会に対して、そのような試みを連邦法上の犯罪とするような法律をつくるべきだと勧告した(69)。〈ヒトのクローン化〉は、より冷静な呼び方をすれば〈ヒトの無性生殖〉であるが、もっとも中立的な言い方として「体細胞遺伝子導入(SCGT)」と呼ばれる。以下で、体細胞遺伝子導入についてのいくつかの誤解について論じる。
 第一に、「クローン人間」「クローンの群れ」「誰それのクローン」といった言葉は、人間の場合に用いると、誤解を招くし、思考をそこで停止させてしまう。昔のSF作品や大衆メディアは、体細胞遺伝子導入についての偏見を助長し、それについての客観的な評価をできなくしている。これはかつて「試験管ベビー」という言葉がそうであったのと似ている。
(略)
レオン・カスはドリーのクローン化の発表後に書いた文章のなかで、こう主張している。
 「ヒトのクローン化は、子供を持つことを製造に変え、出産を製作に変える(文字どおり、「手づくり」である)ことにつながる大きな一歩である。このプロセスは、すでに体外受精や胚の遺伝検査で始まっている(73)。」
(p212)
 すでに述べたように、ジェームズ・ワトソンはかつて体外受精に反対し、体外受精でつくられた子供が世間の人々の偏見に満ちた態度によって危害をこうむると主張していた。しかしこれは、世間の人々ではなく、とりもなおさずワトソン自身が偏見を持っていたということなのである。恐怖心をあおることで、通常の人間の反応を招くのではなく、むしろ偏見を招くのに一役買っていた。同様に、レオン・カスはヒトの無性生殖を「嫌悪すべきもの」「恐るべきもの」と呼ぶことによって、まさしく彼自身が予言しているような偏見に基ついた反応を引き起こしている(76)。これは、彼が二〇年前に体外受精について予言したのと同じものである。こうした問題に対しては、自分の頭のなかで考えたにすぎない予言を述べ立てるのではなく、経験に基づいて考えるほうがよいのではないだろうか。普通の観たちの反応について、もっと楽観的になったほうがよいのではないだろうか。

Willard Gaylin,Leon Kass,Edmund Pellegrino,and Mark Siegler,“Commentary:Doctors Must Not Kill,”Journal of the American Medical Association,vol.259,no.14,April 8,1988,pp.2139-2140 .


◆Conrad, P. and J. W. Schneider, 1992, Deviance and Medicalization: From badness to sickness, Temple University Press(=2003, 進藤雄三監訳『逸脱と医療化――悪から病いへ』ミネルヴァ書房).
(pp56-57)
 疾病と病いとは何であろうか。表面上はどちらかというと簡単な概念のように思われる。常識的な観点では,疾病は人間の身体からも切り離された「外側」に存在している何かであり,身体に入り込んで害を及ぼすものである。ウィルス,細菌または他の「病原体」を回避するという観念はこの見方に従っている。常識的な見方の変異形として,疾病を「特定の原因と特定の症状を示す生体内における特定の破壊的過程」であるとするものがある(Webster's New Ideal Dic1tionary)。疾病は単に健康からの離脱であるとみられる場合もある。病いが疾病と違うものとされるならば,病いは疾病によって引き起こされた状態,またはより普通に言えば病気である状態としてとらえられる。しかしながら,これから指摘するように,疾病と病いはきわめて複雑な実体であり,上記のような常識的な見方が示しているより,もっと多くの問題を有している。ここでの目的は,疾病と病いの本性をめぐる長い学問的な論争に決着をつけることではない。むしろ多くのアプローチと病いの認定の性格に対して読者に敏感になってもらうことが目的である。
 実証主義者の病いの概念は,常識的な見方に最も類似している。病いとは,生体の(最も広義での)生理学的な器官の機能,レオン・カスの言葉で言えば「良好な作動」(Leon Kass, 1975)を阻害する生体内の疾病の存在のことである。この厳密で限定された定義では,器官の機能不全のみが疾病とされていた。この定義には,機能作用や良好な作動は標準として使用されうる一定の正常状態があるという暗黙の仮定を含み,またこうした正常の状態は医学の観察者によって認識されるという暗黙の仮定を含んでいる。「よく機能している器官」という概念それ自体が問題をはらんでいることを理解するには,扁桃摘出術にまつわる最近の医学的な論争と,何が「健康」でまた何が「不健康」な扁桃であるかを考えるだけで十分である。さらに,病いと疾病を器官の機能不全に限定するこのような考えには,環境への適応と思われる未発見の疾病や器官の変化が含まれるのだろうか(たとえば,鎌状赤血球形質[訳注:鎌の形をした赤血球を有する遺伝体質で疲労しやすいが,マラリア耐性があり,マラリアの多い地方に広く分布している])。「客観的な」器官の状態にだけ焦点を合わせることによって,実証主義者は(少なくとも理論において)疾病の概念を限定している。われわれが精神病,特に機能障害と呼んでいるものの大半について,この定義はまったく当てはまらないということを指摘することは重要である。


立岩真也, 19970905, 『私的所有論』勁草書房.
(pp.x-x)(*1章、1節、2項「所有=処分に対する抵抗」の冒頭から)
 だがやはりそれにしても、少なくとも私の身体に関わることは私のことではないか、と言われるかもしれない。しかし、自己決定が認められていないものがある。また、少なくとも抵抗のあるものがある。例えば、臓器の売買は実際に行われている(*3)が、それが認められるべきだとする人は少ない。また、代理出産の契約について、それをよしとする人がいる一方で、そうは思わない人達もいる。市場の優位が語られるこの社会にあっても、実は、私的所有の原理によっては正当化されない事態がいくらもある。
 もし、身体が自身のものであるなら、処分、譲渡も許容されることになる。合意がある以上問題はないというのが「自由主義」の主張である。身体の自己所有を認め、自己決定を認めるとしよう。互いが自分のものを互いの合意の上で譲渡し合う。この関係の中では、誰も強制されてはおらず、誰も不利益を被ってはいない。むしろ自発的に、自らの利益を求めて関係し合っており、実際利益を得ている。このような論理の内部では話は完結しており、そのことは誰に言われるまでもなく、何かものを考えたりするまでもなく、自明である。だから、なすべきことはこの自明のことを「発見」したりすることではない。発見する前に既にそれは明らかだからである(*4)。そして例えば売買を批判しようとする者もそんなことは知っている。その上で、その言い方の上手下手は別として、批判しようとしている。私もまず、もっともな主張に対して違和感がある時、違和感の方を明らかにしようと思う。
 しかも、抵抗を示すのは他ならぬ自己決定を主張する人達でもある。男によって決められてきた。これに対する抵抗としてフェミニズムがある。また、今まで障害を持つ人、病を得た人は、施設の中で、医療・理療の現場で、職員、専門家、等々によって自分達の生き方を決められてきた。つまり自己決定を剥奪されてきた。これは不当だ。それで自己決定権を獲得しようというのである。だが他方で、自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば、死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人達だった(*5)。ここには矛盾があるように見える。私自身、かなりの部分は「自由主義者」だと思う。生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんど全てが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえる虫のよい御都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。引き裂かれているように思われる(とりあえず私の)立場は、実は一貫しているはずだと感じる。両方を成り立せるような感覚があるはずである。その者のもとに置かれることには同意するが、譲渡(特に売買、そして「再分配」を含む)を全面的に肯定することはできないものがある。これは私的所有権としての自己決定権からは出てこないのだが、だからといって、自己でない他者(達)に権利を認めているわけでもない。このことをどのように言うか。あまり複雑なことを私達は考えられない。明確な言葉で表現されていないとしても、それはそれなりに単純なもののはずだ。
(pp.x-x)(*p19あたり)
 (*3)「インド、アフリカ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパなどでは臓器売買が許されている。食事や家、借金の返済、さらには大学の授業料を得るため、人びとは臓器を売るのである。現在、エジプトでは臓器が一万から一万五〇〇〇ドル、もしくは同額の電気製品と引き換えに売られている。インドでは、生きた提供者からの腎臓は一五〇〇ドル、角膜は四〇〇〇ドル、皮膚一切れ五〇ドルが相場である。インドやパキスタンでは、腎臓病の患者で、近親に腎臓提供者がいない場合、新聞に最高四三〇〇ドルの買い値で「求腎」広告を出すことが許されている。/最近の調査によると、インドで臓器を売る人の大部分が低所得者であり、彼らにとって臓器を売って得た額は一生涯にかせぐ額よりも大きくなるという。腎臓を売って中規模の喫茶店を開いたある提供者は、「この額なら片方の眼か片腕だって売ってもいいです」と語った。夫が職を失ったので腎臓を売ることにした二児の母親は、「私に売れるものがそれしかなかったんです。いまでも自分の腎臓に感謝しています。」と語った。インドでは臓器バザーが、よくもうかることで知られている。ボンベイの臓器バザーは、「金持ちのアラブ人たちで混み合っており、彼らは腎臓をいくらでもあっても買って、近くの入院費一日二〇〇ドルの医院か病院でそれを移植してもらう」という。マドラスは、臓器を求めるシンガポール人やタイ人の好む場所だという。」(Kimbrel[1993=1995:59])
 臓器の売買の実情について他に粟屋剛[1993]等。是非を巡っては、Mavrodes[1980]、G.Dworkin[1994]等の肯定論、Sells[1989]、Kass[1993]等の否定論がある。井上章一・森岡正博[1990]では臓器の贈与・売買が性の売買とともに論じられている。第3章・第4章はこれらの主張にも応えうるように書かれている。
(pp.x-x)(*9章、1節、1項の途中)
 一つに優生学だという批判がある。歴史的そして現在の現実としての優生学(第6章3節)の問題は何だったか。一つは遺伝に関する説の多くが間違いだったことだ。ところが事実の把握として外れていない部分が出てくるし、それに基づいて変えたり除去することが可能になる部分が出てくる。一つは暴力だった。ところがこれは暴力でない。強制、抹殺として現れてはこない。とすると何が残るのか。よいものを増やす、よくないものを減らすことは、よいことである。とすると、批判は倒錯しているように思われる。「正しい」優生学を否定することは困難なように思われる。戦後、少なくとも、ナチズム、人種主義と結びつく限りでの優生学の評判は落ち、戦前にあったその勢いは失せるが、それでも、その主張がなくなったわけではなく、また優生学的施策がなくなったのでもない。むしろ、能力と能力のないこと=障害disability に関わる、つまり優生学の「本体」に対する批判が行われるのは一九七〇年代に入ってからだと──そしてそれは「出生前診断」の出現と無縁なことではないと──私は考えている(第6章注44・45、265頁)。ただ批判がこの場面に来た時、批判自体もまた困難なものになるのである。(*2)
 「不可侵」のものの侵害という言い方がある。しかしこれはそれだけでは何も言っていない。第一に、介入・改変することができないという事実の水準で言っているのだとすれば、既にその可能性が現れているのであるから、これは事実として否定される。次に、これまで不可侵であったからと理由が語られるとすれば、なぜその過去を優先しなければならないかが問題である。また、不可侵であるべきであるというのであれば、ただ結論を述べているだけで、その根拠を述べていない。また、不可侵という言葉には「大切な」という意味が含まれているだろう。しかし、例えば障害があることは大切なことなのだろうか。
 これには決定や差別に関わる十分な議論のなされていない多くのことが関わっている。この主題に限らず人の質の決定をどう考えるかというこの時代の重要な主題に、たいした議論がなされていないのだ。ただ難しい、十分に議論すべきだと繰り返すのはとにかくくやしいから、少し前に進めようとした。だが何度も、一度考えたことを別様に考えうることに思い至ることになった。以下議論はかなり多岐に渡るが、それでも考察の一つの始まりでしかない。さらに考えるべきことがいくつもある。今後の議論の一つの手掛かりとなればよいと思う。不備、綻びを見つけ、あるいは前提を替え、そこから新たに議論を積み上げていけるほどのものであれば、この文章の意義はある。
 日本では、一九七二・七三年に、第一四条「…医師会の指定する医師は、左…に該当するものに対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる」に、第四項「その胎児が重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病または欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの」、いわゆる「胎児条項」の新設を含む優生保護法の改正案が出された際、女性・障害者の側から強い反対運動が起こった。また同時に、女性運動における女性の決定権の主張と障害者の側の論理とが時に厳しい対立を見せた。この時に提出された論理と論理の対立は現在に引き継がれている(*3)。また、日本より広範に出生前診断が行われている国もあるが、それでも批判がないのではない(*4)。まず、この国で出生前診断がどのように批判されたかを確認し、そこから何を得、何を考えるべきか検討する。語られた具体的な言葉を見る時、そのままに受け取れない部分もある。だから、論点をただ列挙して、あるいは論点の混在を指摘して終わらせるのが良いやり方だとは思えない。そこには確かに重要な提起がある。問題があるからと言ってそれを無視することはできず、また無視しないためにも、全てを言葉の通り受け入れる必要はない。論議の不十分なことを指摘するだけでなく、その先を考えることが必要なのだと感じる。ここでは、批判者達の論理の基本的なところを押さえ、そこで何が問題にされなかったのか、その理由は何かを考えながら、どのように批判を受け継ぐことができるのか検討するという道筋をとる。
(pp.x-x)(*p428あたり)
 (*4)少なくとも社会運動、論争という次元では、日本と諸外国とでは異なった展開を見せているようだ。米本昌平は欧米では一般にこれが受け入れられているのに対して、日本ではそうでないとし(米本[1985a:205-211])、「これは、日本人は前世と現世を連続的にみ、生まれてくる以前の世界をのぞき込んでそこに人間の手を加えることは不自然だと考える傾向が強いことを示唆している。」(米本[1985a:208])としている。たしかにこうした国々では、選択的中絶の問題性を指摘し、これにはっきり反対する人は多くはないようだ。だが、批判の動きも存在する。実情については、フランス、スウェーデンについて河野博子[1983]、フランスについて棚沢直子[1987]。米国を中心に米本[1987b:34-40]。高齢出産する女性に向けて書かれたKitzinger[1982=1989:84]などにも一端が伺える。米国での受診のあり様についてPress ; Browner[1994=1996]、Rapp[1994=1996]、Nsiah-Jefferson[1994=1996]。ドイツの状況と障害者の側の反応に触れているものとしてGallagher[1995=1996:326-327](他の諸国と異なるドイツの状況については第5章注08・第6章注47)。
 遺伝学、遺伝子診断についての専門書にも日本で出されたもの(武谷雄二編[1995]等)に比して倫理的・社会的側面についてより立ち入った記述が見られる。Childs et al.[1988=1991]中のHoltzman[1988=1991]、イギリスについてConner et al.[1987=1991:123-124,194-196]等。
 また、中国、北朝鮮などで出生前からの質的な統制がかなり行われているという。「中国では、人口抑制という目的で、一人っ子政策と同時に優生という面にきめわて力を入れている。例えば八一年に改正された上海市の条例は、その第一条で「計画出産において基本的に必要なことは、晩婚・晩産・少数出産・優生であり、一組の夫婦が一人の子しか生まないことを普遍的に提唱することである」と明確に宣言している(若林敬子編『現代のエスプリ』190「中国の人口問題」(1983))「四川省計画出産条例」(一九八七年)の第三章は「優生、優育と産児制限措置」(第一二条〜第一七条)とされ、次のような規定がある。「第一二条(優生と産児制限)県以上の医療・婦人幼児保健単位と計画出産宣伝技術指導単位は、優生と産児制限のための相談と診療を進めなければならない。/婚前には健康診断を実施し、結婚と出産にあたっては優生と産児制限の指導をうけなければならない。/第一三条(優生のための出産禁止)遺伝性の精神病患者、遺伝性の知能欠陥、遺伝性の形態異常など、重大な遺伝性の疾患に罹患している夫婦の出産を禁止する。すでに懐妊したものは、妊娠を終了しなければならない。」(若林[1989:86]、他に堂本暁子[1989])「平壤で開かれた日朝婦人討論会の参加者によると、北朝鮮の医療関係者は、「妊婦は出産までに十数回、定期検診を受ける。それで障害児と分かった場合は、堕胎を勧めている」と語ったという。」(「老人、障害者がいない不思議──埼玉福祉研究会代表が見た平壤」、『AERA』1990-9-25:49])以上の文献の該当箇所をhpに引用。
 論議の動向については白井・白井・藤木[1982][1983]、また長尾・米本編[1987]も参考になる。倫理学からの批判的な見解としては、Callahan[1973]、Kass[1973]、Ramsey[1973](以上保木本一郎[1994:217-221]に紹介)。翻訳書中の言及としてBodmer ; McKie[1994=1995:370-381]、Mattei[1994=1995:107-170]。
 女性にとっての出生前診断についてRothman[1986]、Hubbard[1984=1986][1987]、また、NIH女性健康局と国立看護研究所が中心となり一九九一年に開催されたワークショップ「出生前遺伝検査──女性への衝撃」の講演(全員女性)を元に刊行されたRothenberg ; Thomson eds.[1994=1996]が重要。次のような指摘がある。「多くの女性に聞き取り調査をした結果、妊娠に新たな事態が生じていることが確かめられた。胎児のいない妊娠がそれである。そのために、妊娠を気づかれないようにマタニティ・ウェアを着るのを避けて毎日少しずつ膨らむお腹を大きなセーターで隠すという、冷たい沈黙が広まっていた。夢を断つ恐れを抱きながら、最初のかすかな胎動にも気づかないふりをしたり無感動を装い、ひたすら検査結果を知らせる電話を待っていた。」(Rothman[1994=1996:298]、他に「仮の妊娠」(the tentative pregnacy)という表題のRothman[1986]、Gates[1994=1996:206-208]、Black[1994=1996]を参照のこと)。第5章に述べた、他者が現われる、現われ始めるという経験を、自らが制御、抑制しなければならないということであり、重要な指摘である。ただ、各論者の立場は一様ではないし、その根拠も時に定かでない。Faden[1994=1996]は伝統的な「悪行回避の原則」「善行の原理」そしてフェミニストの「ケアの倫理」(→第5章注04)から出生前検査が正当化されるとする。「胎児の最大利益に決して適っていないとする意見に私は全面的に賛成する」(King[1994=1996:147])といった見解もある。障害を持つ女性によって書かれたものとしてSaxton[1984=1986][1988]、Kaplan[1994=1996]、また障害者の主張への言及としてHubbard[1984=1986:174]。

Kass, Leon R. 1973 "Implications of Prenatal Diagnosis for the Human Right to Life", Hilton et al. eds.[1973] <433>
─────  1993 "Organs for Sale ? : Propriety, Property, and the Price of Progress", Shanon ed.[1993:468-487](「科学技術の発達と現代社会II」企画運営委員会編[1995:142-145]に片桐茂博の紹介「臓器は売り物か?──良俗・所有物・進歩の代償」) <20>


◆McKibben, Bill, 2003, ENOUGH : Staying Human in an Engineered Age, (=20050830,山下篤子訳『人間の終焉――テクノロジーはもう十分だ!』河出書房新社).
(pp62-63)
長年『サイエンス』の編集をしていたダニエル・コシュランドの言葉をとりあげてみよう。コシュランドは一九九八年にUCLAで開催されたあるシンポジウムで、次のような発言をした。「この世界に絶対に安全というものはない。……たいていの人が承知しているようにリスクは相対的なもので、リスクがあっても比較のうえで得るもののほうが大きそうなら、ものごとは実行される。考えてみれば妊娠、出産という過程全体がリスクの大きい危険な仕事だ。生殖系列操作は自然とされているものと十分にはりあうようになると私は思っている(注146)」。つまり、この試みにつきもののリスク――必然的に人問に実験をすることになるという事実――は、歯止めにならないということである。
 保守主義者にとっていちばん納得のいく議論は、たぶんこれとは少しちがう。彼らはこれらのテクノロジーが危険をもたらすことよりも、堕落をもたらすことを懸念している。コラムニストのチャールズ・クラウトハマーの表現を借りれば、それは「極めつけの脱感作」、「人間の尊厳に対する暴行」なのだ(注147)[脱感作は、アレルゲンに対して過敏になった状態(感作した状態)にあるとき、微量のアレルゲンにくり返しさらすなどの方法によって、その過敏反応を減弱させること。減感作とも言う]。シカゴ大学の倫理学者で、ジョージ・W・ブッシュから大統領諮問生命倫理委員会の委員長に任命されたレオン・カスは、科学者や医師に「神のような創造者、審判者、救世者の役割」をもたせるものだと述べた(注148)。
 こうした議論を導いているのは、カスやジェイムズ・Q・ウィルソンが「本能的反発」と呼んでいる、遺伝子操作された未来の見通しに対する激しい反応である(注149)。しかしこれまでに提示されたものを見るかぎり、十分に強力な議論だとは思えない。宗教右派にはアピールするが、たとえば中絶に対する女性の権利を支持している多数派をおびやかす。中絶には、よかれあしかれ神のようにふるまう要素があるからだ。それに、学校で進化論を教えることを望まない人たちが言うようなたわごとだと思われたり、信仰のために人の生殖の自由をさまたげるべきではないと反論されたりすることも、容易に想像できる。そのような膠着状態になったら、「進歩」をもたらし「迷信」を笑う科学者のほうに軍配があがるだろう。ある調査によれば、イギリスの一流の研究者たちは、人間のクローニングや遺伝子操作はまもなくはじまるだろうと考えている。オクスフォード大学で科学理解の普及のための講座の教授を務めるリチャード・ドーキンスは、「この種の研究に反対する人たちは、だれが被害を受けると考えているのかをきちんと説明すべきだ。『神の役割』といった言いまわしでは、説得力のある議論にはならない」と述べている(注150)。
 いずれにしてもこうした議論は、新しいテクノロジーの真に恐ろしい面、すなわちこれまでのテクノロジーとは異なる特徴をとらえていない。
(p85-86)
 親が神王のように、子どもの人生の水路をつくる。新世界のイメージはたとえばこんなふうである。レオン・カスの言葉を借りれば、「自分の存在や性質や能力が、デザインのおかげでできた子どもは、製作者と同列にはならない。生産物に対しては、たとえそれがどれほどすぐれたものであっても製作者が上位に立つ。対等の相手ではなく優位者として、意志と創造力によってそれを超越するのだ(注177)」
 しかしそこには留意すべきひねりがある。それは、遺伝子操作が意図したとおりにうまくいけば、子どものほうが親よりもすぐれた人間になるという点である。子どものほうが親よりも高いIQや、扱いやすい性質や、すぐれた音感や、いい反射神経をもっている。成長とともに息子の力がだんだん強くなり父親のほうは衰えて、ついにあるとき立場が逆転するという話ではなく、子どものほうが無条件に、桁ちがいにすぐれている。ちがうのだ(校正者注:「ちがう」強調)。生物学者の見解によれば、私たちが子どもをいつくしみ育てるのは、一つには、自分の遺伝子を受け継がせるという、言葉では表現されない願望のためである。しかし遺伝子操作された子どもがもつ遺伝子は、すべてが親の遺伝子というわけではない。多国籍にまたがる遺伝子も受け継いでいる。それにそうした子どもたちは、正確に言えば私たちの子どもではなくなってしまう。彼らの世代と私たちの世代の隔たりはとてつもなく大きなものになり、彼らの「進化」は加速されるだろう。遺伝子操作がすべて予定通りにうまくいけば、子どもたちは親にとってではなく、彼らにとって快適な世界をつくりだすだろう。
(pp174-176)
 ヒト・クローンは、私が「十分なポイント」と呼んでいるものの向こう側に位置する。ヒト・クローンは、自分の未来について、遺伝子組み換え作物よりも明確なロードマップをもって生まれてくる。彼らの人生はある意味で、すでに生きられた人生だからだ。もちろん彼らは、遺伝的に同一のもう一人とはちがう人間である。育つ時期もちがうし、環境のちがいも、彼らを別の方向に向かわせるはずだ。しかし彼らが自分自身を独自の存在として感じることはないだろう――彼らは今日までにデザインされたどんな人間よりも、本質的な意味でデザインされた存在になるからだ。世界初のクローン人間は、一人の親しかもたない初めての「人間」であり、その親はある意味で彼自身なのである。第1章で検討した、子どもの遺伝子増強に対する異議は、ほぼすべてクローンにもあてはまる。
 それだけではなく、初のクローンは、ほかのあらゆる種類の遺伝的増強に通じるドアをたたき破るだろう。クローニングの技術は胚の遺伝子操作の技術とほとんど同じであるから、クローニングの作業を経験すると、遺伝子工学者は、たとえばIQ操作などの遺伝子操作もうまくできるようになる。さらに重要なことに、クローニングに対する心理もときほぐされる。『エコノミスト』誌が近ごろ指摘したとおり、「遺伝子研究に対する姿勢は、初のヒト・クローンによって決定づけられる(注52)」。もしその子が「正常な」赤ちゃんで、普通の赤ちゃんのように愛らしく、二〇〇二年の初めに各新聞の一面を飾った初のクローン子猫のように愛らしければ、遺伝子操作に対する世論の反対は消えてしまうかもしれない。「クローニングの支持者は、ヒト・クローンが誕生すれば、世間の反感は急速にうすれると踏んでいる」とある批判者は書いている。「ヒト・クローニングは今後の動向を決める鍵になると支持者はみなしている。もしヒト・クローニングが認められれば、ほかのテクノロジーによる優生的処置に対して、線引きをすることがむずかしくなるからだ(注53)」。一方、ヒト・クローニングを阻止すれば、それが防火線になる。倫理学者のレオン・カスはこれを「生物学が人間をどこまで連れていくのか、その行き先について、いくぶんかの支配力を行使するまたとない機会」であるとし、「さらには、ポスト人類の世界に向かっている暴走車両の車輪に手をかけて、それをもっと尊厳のある未来に向けるためにも、絶好の機会かもしれない」と述べている(注54)。
 したがって連邦議会の審議で討論の中心になったのは、ヒト・クローン作成を容易にしてしまうことなしに、胚性幹細胞研究の続行を認める方法があるかどうかという点だった。「地球2」にコロニーを形成するクローンをつくりだすことなしに、「十分なポイント」のこちら側に位置するテクノロジーの恩恵に浴することが可能だろうか? カスが委員長を務める大統領諮問委員会は、実行可能な一つの方法を提言した。「治療的」クローニングを禁止するのではなく、四年間の猶予期間を設けて、そのあいだに、個々の胚を登録、管理し、輸出を禁止し、「ヒト・クローン胚を成長させる期間と発達段階に限度を設ける」仕組みを関係官庁が立案するという方法である(注55)。つまりは、研究者に守らせる道筋を考案しようというのである。
(pp210-211)
 しかし真のジレンマはもっと深く、意味の領域を直撃する。一部の未来主義者はこれらのテクノロジーを、進歩の道筋に沿って一歩先に行くだけのものだととらえている。「死を克服し、若返りをもくろむという目標は、もはや近視や喘息の特効薬を発見するという目標以上にはばかげてはいない」とダミアン・プロデリックは書いている(注144)。しかしこれはナンセンスである。いまのところ私たちは「死すべき者(人間)(モータル)」であり、それは私たちが死ぬという事実によって定義づけられている。もし死なないとしたら、人間が木から降りてこのかた私たちの知っている人生は、もはや意味のないものになってしまうだろう。人間は根本的にちがう生きものになってしまうからだ。「新しい不死の人たちは、私たちとはまったくちがうだろう」と倫理学者のレオン・カスは述べている(注145)。新しい種、ホモ・パーマネンスである。それは私たち人類にとって過去最大の変化になるだろう。しかしそれは、よりよくなる変化なのだろうか?

142. Leon Kass, "Moral Meaning of Genetic Technology," Commentary, Sept. 1999, p. 36.
148. Kass, "Moral Meaning," p.35.
149. James Q. Wilson and Leon Kass, "The Ethics of Human Cloning," www.theamericanenterprise.org/taema99q.
177. Leon Kass, "Preventing a Brave New World," New Republic, May 17, 2001.
54. Leon Kass, "Preventing a Brave New World," New Republic, May 17, 2001.
57. Kass, "Preventing a Brave New World."
62. Leon Kass, "The Moral Meaning of Genetic Technology," Commentary, Sept. 1999.
145. Leon Kass, "L'Chaim and Its Limits: Why Not Immortality," in Philip Zaleski, ed., Best Spiritual Writing of2002 (San Francisco: 2002), p. 98.
120. Leon Kass, "Preventing a Brave New World," New Republic, May 17, 2001.


香川知晶, 20050825, 「生命倫理教育の反省――大学」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:281-305.
(pp288-290)
 1970年前後の状況ということでは、まず生物学や医学の急速な発達に対する懸念を指摘すべきであろう。例えば、バイオエシックスの代表的な論者の一人、L・R・カスの論文をみてみよう(Kass, 1971)。カスは、その中で、生物学と医学が人間工学というまったく新たな技術の段階に入りつつあることに注意をうながしている。従来の技術は技術者が道具を設計、操作して対象としての自然に働きかけることを目的としていた。これに対して、人間工学は技術者が技術者自身を対象にして設計、操作しようとする。技術の性格がすっかり異なっているのである。多くの人たちは、そのことに注意せず、医学や遺伝子工学、神経生理学などの発展が従来の技術と同様に人類の改善に寄与するものと素朴に信じこんでいる。しかし、予想される結果は本当に改善なのであろうか。医学は死や老化をあたかも一つの疾病であるかのように扱い、治療の対象に化しつつある。生殖医学の研究はまもなく体外受精や人工胎盤を可能にするであろう(ちなみに、最初の体外受精児ルイーズ・ブラウンが英国に誕生するのは、1978年である)。優生学的目的でのクローンの利用や、心理学や神経生理学的操作による知的能力の増強、快を生み出す機械の実用化もそう遠いことではないかもしれない。人間工学的な技術は人間の条件を根本から改変しようとしている。しかし、何が人間や社会にとって良いといえるのか、問われることはまれである。その上、われわれの文明には、こうした新段階の技術に対処できる知恵が欠けている。その点を謙虚に認めれば、新しい生物医学研究に対して、従来の放任主義でいくことは許されない。十分な知恵を欠くわれわれには、規制、延期、中断という態度をもって処する以外にはない。カスは、こうして、新しい技術の意味や価値を問いながら、生物医学研究の制度的規制の必要性を説くことになった。
 こうした問題意識は、遺伝子組み替え技術の原理が確立されようとしていた1970年代初頭に特に強く現われていた。新しい段階を迎えつつある生物学や医学の研究が予測させる未来社会への懸念、それは生物医学研究の意味とともに、人間の条件や社会のあり方を根本的に問い直そうとする志向を呼び起こすものであった。しかし、実際の米国における生命倫理の成立を考えると、求められたのは文明論的視野にたつ問いかけではなかった。そうした大きな問いへの志向は、あくまでも背景にとどまる。もっと個別的で具体的な問題が、非専門家の登場を余儀なくさせるような事情を生んでいたからである。その一つが、人間を被験者とする実験(ここでは簡単に人体実験とよぶ)を含む医学研究の問題であった(香川、2000)。
(pp294-295)
 この国家委員会の活動に具体化された米国の生命倫理の議論は、どのような特徴をもつものであったのか。委員でもあったA・R・ジョンセンは、様々な『報告と勧告』を作成する過程の中に「倫理学の新しいやり方」を見出したと述べている(Jonsen, 1998)。出発点は、早急な政策的対応を要求する具体的な個別的問題にある。その問題に関して、医学の現状を把握し、それをめぐる価値的な対立を明らかにしながら、合意しうる方策を編み出し、それを場合によっては、ガイドラインや法というかたちに定着させる、というやり方である。ジョンセンによれば、この作業を実際にやってみると、きわめて厳しい価値観の対立が生じるような場合でも、具体的な結論に関しては、合意点を見出すことは難しくはなかった。倫理学は医学研究と社会とをつなぐ具体的な政策的合意を明示できる。それが、ジョンセンや共に仕事をしたS・トゥールミンの強調する経験的発見であった。この点は、例えば、脳死は人の死かという問題に関する見解が大きく分かれても、臓器移植を真っ向から否定する者は少ないといった場合を考えればよいのかもしれない。ともかく、生命倫理の議論では、緊急性をおびた個別的課題に対して具体的に解答することが求められる。大きな文明論的な問いを問うことは求められてはいない。必要なことは、明確な政策的許諾を示すことである。その意味では、生命倫理は、D・キャラハンがいうように、「規制の倫理」と言い換えてよい。ただし、規制とはいっても、カスが示唆していたような規制、延期、中断とはかなりニュアンスを異にしている。ここで規制とは、医療技術に対して一律の禁止でも黙認でもないかたちで対応し、対立の調停をめざすことを意味する(Callahan, 1993)。そのため、多くの場合、規制の倫理は、新しい技術に対して、制限をつけることによって、むしろそれを促進するかたちで働くことになるのである。
(p300)
 こうした議論にみられるのは、上に規制の倫理、原則主義、最小隈倫理としてあげたのと同型の思考法である。そこには、カスが示唆していたような文明論的視野をふまえながら人間の運命を考えようといった体のものはほとんどなかったし、あいまいなことをあいまいだと認めて踏み止まる知性の働きを説くH・ヨナスのような論者も例外であった。これは背景が具体的政策の要求にあったことを考えると当然ともいえるが、少なくとも移入の当初はそうした観点は十分には意識されていなかったと思われる。単純明快な大胆さが生命倫理の議論の特徴であった。技術が人々の願望から発するものである以上、それはしかるべくして登場したものとしかいえないところがある。

Kass, L. R., 1971 "The New Brology: What Price Relievmg Man's Estate? Efforts to eradicate human suffering raise difficult and profound questions of theory and practice", Science, 174 (4011), pp.779-90.


金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(pp122-123)
 他方、いうまでもなく、反対派のなかにも重要人物は何人もいます。たとえばレオン・カス。彼は非常に優秀な学者で、生命倫理学者のなかでも、深い学識と繊細な倫理感を兼ね備えた、バランス感覚に優れた人だと思います。特に彼のクローン人間批判論は、私がいろいろと読んだもののなかでも、哲学的にも、社会政策的な方向性の点でも、極めてバランスのとれた素晴らしいものです。その「忌避(きひ)の知恵(2)」という論文のなかで彼は、クローン人間がなぜ許されるべきではないのかを、意を尽くして論じているのですが、綿密に読んでみると分かるように、それは、クローン人間批判であると同時に、デザイナー・チャイルド批判でもある。つまり、親じゃなくてもいいですが、とにかく前の世代が、次の世代の人間を何かの目的のために生まれさせるようにするということ、より一般には、或る企図をもって或る生命を生み出すということ自体が持っている重大な倫理的逸脱の射程を、ねばり強く問題化したものです。これはもちろん、ここで私が話題にだしている生殖系列の遺伝子操作にも直接絡(から)んでくることですので、多少ともこれに関わる議論を考察しようとするからには、レオス・カスのような論点はもっと詰めるべきだと考えています。いまのところ、まだやり残した宿題のようなものです。
(pp135-137)
金森 ところで、技術の強さが何によって測られるかというと、それは、公共的なベネフィットによって以外にはないでしょうね。〈一般的な福祉〉という、この顔の見えないような概念が、にもかかわらず、技術を支える根拠になっているんです。いまの話題に関連する技術の場合、それはまだ海のものとも山のものともつかなくて、公共的なベネフィットがあるとはいえないから、規制が加えられているだけです。問題なのは、やってみなければ分からない、どのくらいのベネフィットがあるかないかが、そもそもやっていないのだから分からない、そういうものを、技術以外の論理によって止めるといったときに、それを止める根拠とはなんなのか、ということですよね。
 先程言ったように、そのタイプの議論の代表的な論者として、カスやフクヤマのような人たちがいるわけです。フクヤマの論理は、共通の人間性があることをまずは認め、その人間性を毀損(きそん)するからいけない、というもの。つまり「人間の尊厳」の概念をもとにしていますから、若干弱い部分を抱え込んでいる。他方、カスの場合は、設計ということ自体のあり方が、人間の子どもの存在にそぐわないというのが基本的な論点です。この論点については、いま詳細に検討するわけにはいきませんが、それなりに強い論点ですよ(8)。
 要するに、強い弱いの違いはあるにしろ、カスもフクヤマも、技術的思考内部の文脈に位置しながら、その地平に沿った判断をするというのではなく、技術外的な地点から、倫理的な判断をしている、ということです。彼らの論理は、技術的思考のラインには位置しえない、技術外的な論理の最たるものなのです。倫理を、技術的思考の延長線として設定することも、技術的思考に隠れていたものを発見したとして持ち出してくることも、できないということです。いや、私は、なんとも当たり前のことの回りをぐるぐる回っているだけのような……。
松原 技術が仮にパーソナルなもので、それぞれの好みに応じて個別に使えるものであるとしたら、使いたい人が使えばいい。ですが、技術自身は自律的に展開しているように見えて、実は技術自身が公共性を持っているわけですよね。
金森 そもそも、技術はパーソナルなものではありえませんよ。私がさっきまで敵に対して撃っていたライフルを、逃げる時に置いて行ってしまうと、逆に敵に使われてしまいます。使い方のプロセスさえ踏めば誰でも使えるわけです。パーソナルな技術というのはありえない。確かに、より正確にいえば、特異な文脈を抱え込んだローカルな技術、さらには或る特定の職人さんにしかほとんど真似のできないこつ(校正者注:「こつ」に傍点)のようなものはあります。しかし、それは技術のなかの亀裂のようなものであり、ラフな視線で見たときには隠蔽される、または周辺化されるものとして位置づけられることには変わりはない。
 松原さんがおっしゃったことは技術の波及のことですね。技術が直接、間接にもたらす社会的な効果のことをおっしゃっているわけで、それが公共かというと、いろいろな人間を巻き込むから公共ですが、これは普通われわれが公共圏を設定する時の公共とは、意味が違います。技術の〈錐〉(きり)みたいなものが社会空間に射しこまれていく、その過程で、周辺にひび(校正者注:「ひび」に傍点)が入りますね。そのひび(校正者注:「ひび」に傍点)が困るのでなんとかしなくてはということになるわけであって、われわれが普通考える社会科学的、あるいは哲学的な意味での公共圏とは違うんですよ。
松原 ただ、技術開発のアイデアのレベルでは多様な展開がありえますが、実際それに開発費が投入されるのか、あるいは商品化されるのかという局面では、公共的な判断が働かざるを得ないと思います。

(2)Leon Kass, “The Wisdom of Repugnance”, The New Republic, June 2 1997.なおこの論文はその後何度もアンソロジー等に収録されている。たとえば次のものを見よ。Leon R.Kass & James Q.Wilson, The Ethics of Human Cloning, Washington D.C., The AEI Press, 1998, pp.3-59: Gregory Pence ed., Flesh of My Flesh, Lanham, Rowman & Littlefield, 1998, pp.13-37: Michael Brannigan Ethical Issues in Human Cloning, New York, Chatham House Publishers, 2001. pp.43-66 etc.

(pp165-167)
 ところで、先のNBACの報告書が公表されるのとほぼ同じ頃の一九九七年六月初頭に、いままでも何度か触れる機会があった重要な生命倫理学者、レオン・カス(Leon Kass)が重要なクローン人間反対論を公表していた。第四章の対談でも話題に出した「忌避の知恵(18)」のことである。この論文はいくつもの重要な提言をしている繊細な論文だが、とりわけ人間の性のあり方についての省察が深みを見せている。クローン人間がいわば無性生殖のような誕生の仕方をするということと、通常の人間の生殖とを対比させ、通常の生殖がもつ深い生物学的意味を再確認する。また、クローン人間が普通人にグロテスクでぞっとさせるような感じを抱かせるとすれば、その直感的な感じには或る深い根拠、まさに人間の「知恵」の発露があると考える。確かに、直感的な嫌悪感や禁忌(きんき)感は論理ではない。だが、それが論理的な反論ではないからといって、深みがなく重要でないとはいえない、というところがこの論文のポイントの一つになっている(19)。
 さらに、カスは言う、クローンではなくても、どんな子どもでも望まれて誕生すべきものだが、その「望まれて」というところが、クローンによって変質してしまうというところが大きい。そのうちに、親の欲望を十全に満たしてくれる子どもだけが望まれるようになる。クローン技術の文脈のなかで、われわれは、通常の生殖が必然的に孕む飛躍や予見不可能性を減殺して、或る特定の性質をもつ可能性が若干でも高い子を作る、という意味で、子どもの自己同一性自体に踏み込むようになる。次世代に命を繋(つな)ぐということが、半ば自己愛的な自己再創造に近くなる(20)。確かに、人間は遺伝だけではなく、環境要因にも左右されるという、あまりに自明の留保は、いつの時代にもある。だからその意味で、Aさんのクローンは別にAさんその人になるわけではない。だが、そうはいっても、わざわざAさんという、どういう人格、体格、能力をもつ人なのかが分かっている人のクローンを作ろうとする企画のなかには、必ずそのAさんの能力などに対する一定の評価が入り込んでいる。(略)その意味で、クローン人間は、通常の新生児が〈神の贈り物〉として生まれてくるというのに比べて、企図を設計図のように抱えた〈生産物〉としての性格を担うようになる(21)。
 カスは、この事態を、通常の生殖により子どもを授かるbegetと、クローン技術によってクローン人間を作るmakeという二つの動詞によって対比的に表現している。クローンによって、子どもは授かり物から、makingの対象物、つまりmanufacturesに近付くのだ(22)。――私がなぜ、遺伝子改造論一般を論じるという目的をもつ本書のなかに、わざわざ似て非なるクローン人間論を挿入したかが、分かっていただけるだろう。この問題は、事実上、私が設計的生命観と呼ぶ問題構制のなかに吸収される問題系なのである。もしこのbeget/make問題をきわめて重大で、乗り越え困難な問題だと見なすなら、設計的生命観に基づいて、生殖系列も含めた遺伝子治療・遺伝子改良一般への一定の評価をし続けることは相当難しくなる。なぜなら、仮に治療目的に限定したとしても、それがなんらかのmakingの成分を含むということは、否定しがたいからである。ただ、このように問題を照射し直すと、逆にそれはクローン人間論の枠を超えてしまうので、本書の結論部分に当たる第七章で再び取り上げ直すことにして、ここではひとまずクローン人間論に戻るべきなのかもしれない。
(pp171-179)
 アメリカで、先の『ヒトをクローニングする』と『ヒト生殖クローニングの科学的・医学的様相』に次いで、実はあともう一つ、国立科学アカデミーの報告書にわずかに遅れて公刊された政府系の報告書がある。それは、二〇〇一年一一月にブッシュ大統領の命を受けて誕生した生命倫理大統領諮問委貝会が書いた報告書『ヒトクローニングと人間の尊厳(26)』(二〇〇二)である。この委員会は一七人のメンバーからなり、活発な活動をしている重要な委員会だ。この報告書はクローン人間と、ヒトクローン胚研究という二つの主題を扱い、それぞれに対して、かなり踏み込んだ検討を加えている。前半のクローン人間論については後で触れるとして、後半のヒトクローン胚研究では、重要な点で意見が分かれ、収拾しようがなかったので、まるで我が国の脳死臨調答申(一九九二)の時のように、一〇人の多数派と七人の少数派の意見を併記するという形になった(27)。多数派と少数派とはいっても、あまり数の違いはないので、かろうじてという印象が強いが、この時点では、多数派の意見として、ヒトクローン胚研究を少なくとも四年間は凍結すべきだという提言がなされている。 p172
 では、クローン人間については、どのような議論が展開されているのだろうか。以下に重要なポイントだけを挙げてみよう。この委員会の議長が他ならぬレオン・カスその人だということもあり、「忌避の知恵」での論点は、ここでもきちんと繰り返されている。そしてクローン人間研究史の簡単な回顧の後、クローン人間作りが希求されるかもしれないケースとして、次のような事例が列挙されている(28)。
 @不妊のカップルが生物学的に関係のある子どもを欲している場合。もし精子がない男性の場合なら、その男性の体細胞を使ったクローンをつくる。
 A重い遺伝病を避けるため。ともに劣性の因子をもつカップルが、健康児の出産を望む場合。
 B拒絶反応のない移植用組織を作るためのもの。
 C愛された存在の複製。
 D才能ある個人の複製。
 私が本書第二章第1節で触れた「サラとアビ・シャピロの事例」を思い出していただきたい。あの事例は、ここではCに相当すると考えていい。第二章では事柄の是非をあえて決着させず、「決着させない」という宙づりの議論構成が可能なのだ、ということを目的にした文章になっていた。だが、ここでは、あと一歩踏み込んだ議論をするべきなのかもしれない。
 まず初めに、@の不妊症カップルの生殖法の一選択肢として、という論点。実は、この論点が最も強い肯定論の一つになっている。その文脈で「アイゼンシュタット対ベアード」判決(29)(一九七二)での司法判断が、引き合いに出されることが多い。つまり、州や連邦政府などの公的権力は、各個人の生殖という秘匿性と私事性の高い事柄には、よほどのことがない限り介入してはいけない、という考え方である。この論点は〈生殖の自由〉(reproductive freedom)、または〈生殖の選択〉(reproductive choice)権として、その後何度も言及される重要な考え方になる。なかなか子どもができないカップルは、不妊治療をそのまま続ける、養子を取る、子どもをもつことを諦めるなどのいろいろな可能性を抱えて生活しているわけだが、どのような選択をするかは、基本的には当該のカップルの自律的な判断に委ねられるべきだ、とする考え方だ。そしてクローン人間も、不妊治療の可能的種類の一つとして常態化されうる、とする(30)。
 実は上記のAも、この文脈で正当化されうる。重篤な遺伝病を背負って生まれてくる新生児は、障害があって仮に数年しか生きられなくても、それなりに有意義な人生を送るかもしれないし、その子を援助する親たちも、そう思うかもしれない。また、逆に、やはりその子の苦しみは見ていられない、と思うかもしれない。後者の場合には、だから、妊娠の過程で妊娠を諦めるか、それとも「健康な」胚だけを選択して着床させるという方法を探すかもしれない。それらいずれの場合でも、なにかの公的権力が「こう思いなさい」と命令に準ずるような形で介入することは、原理的におかしい、とする判断だ。
 実は、クローン人間においても、遺伝子改造論一般においても、この論点は推進的な流れにとって、最も強力な基盤の一つになっている。私が前に〈リベラル新優生学〉として、リベラリズムを事柄の前提に置いたというのも、この文脈があるからだ。(略)
 Bは再生医療に絡むことなので、別個の主題であり、ここでは論じない。残るCとDは、似てはいるが、重要な点で違っている。まずDなのだが、これはいわゆる〈アインシュタインのクローン人間〉問題に相当する。だがこれは、比較的簡単に検討を済ませることができる。人間のあり方は遺伝と環境との複雑な相互作用で決まるのだから、アインシュタインのクローンが天才的な物理学者になるという確率はむしろきわめて小さい、といわねばならない。そのためにこんなことをするのは、とうてい正当化しえない。卓越した人を祈念しながら作られたクローンが、凡庸な人でしかない場合、その凡庸さは際だち、その凡庸さをもつその人は、普段よりも一層、両親の落胆の対象になる可能性がある。親の側からいっても、子の側からいっても、この種の目的設定によるクローン人間作成は、あまり良いことがないということは、ほぼ明らかだ。
 他方、Cの事例は、ちょうど私が本書第二章で論じた際に判断を宙づりにしたのを根拠づけるような、微妙な複雑さを抱えている。〈第二人称〉の近親者が死亡した場合、どうしてもその人を過去の思い出にできないと感じる親族が、その人のクローンを作りたいと思ったとしても、それを一概に弾劾(だんがい)することはできるだろうか。肯定的には、その親族の心情の忖度(そんたく)、そして上記の「生殖の自由」権のことがある。他方、否定的には、安全性の不確かさ以外にも、やはり上記のbeget/make問題がここでも効いてくる。どれほど愛した人であっても、その人の〈生き写し〉をクローン技術によって作るというのは、makingであることは避けられない。先に私は、この問題を第二章に次いで二度目に取り上げ直すということで、一歩踏み込んだ判断をすべきかも、と述べておいたが、その意図にもかかわらず、やはりどの要素を重視するかによって、諾否が左右されるという複雑な構図がここでも生きているということが改めて確認される。だから、再びこの事例への決定的回答を試みることを諦め、もう少し別の、クローン人間作成のための肯定論を続けてみよう。
 実は、生命倫理大統領諮問委員会の報告書『ヒトクローニングと人間の尊厳』には、肯定論として、次のような考え方も取り沙汰されている。それは、〈存在の良さ〉という論点だ。クローン技術を通して子どもを作るというのは、その子どもにとっては利益以外ではあり得ない。なぜなら、仮にクローン技術が未熟でその子の健康にいろいろな問題があったとしても、もしクローン人間として生まれてこなかったとしたなら、その子は端的に存在しないということを意味しているだけだからだ。つまり、どれほどいろいろな問題があったとしても、そして仮に数年で寿命が尽きてしまうとしても、最初から生まれてこないよりは生まれてきた方がいいだろ、という判断である(33)。
 だが、これは、説得的だといえるだろうか。どれほど寿命が短く、どれほど苦痛があったとしても、それは〈端的な非存在〉に比べればいいだろうとすること、しかもそれを「当人の目から見れば」とする議論の構造になっていること、その二つの要素を並列させ、結合させることには、やはり無理があるのではないだろうか。文脈が違うので、拡大解釈や気軽な敷衍は許されないが、この種の考え方は、下手をすると次のような議論を援護することにもなりかねない。或る未熟な両親が、普通の子どもを産む。だが、まともに育てるということをしないで、その子を栄養失調状態にし、しかも何度も多様な虐待を加える。或るきっかけでその事実が明るみに出たとき、両親は言う、「確かに、〈虐待〉というのは、好ましい行為ではない。とても反省している。だが、この子の身になって考えて欲しい。確かにこの子はろくに食べさせてももらえず、親に何度も暴力をふるわれたかもしれない。だが、それでも両親があったおかげで、この世に存在することができた。空腹や怪我を伴って生きているということと、最初からまったく存在しないということを比べれば、まだ前者の方がいいと思うはずだろう。だから、私たちとしては、虐待の可罰性を減殺して欲しいのだ」と……。繰り返すなら、この二つが似て非なるものだということは承知している。だが、「どんな状態でも、生まれないよりは、生まれている方がいい」とする議論は、このような周辺事例をも抱え込まざるを得ないということは間違いなさそうだ。
 『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、これらの擁護論に或る程度紙数を割いた後で、委員会としての結論である否定論と、その根拠を提示している。簡単にまとめよう。
@まずは安全性の問題。動物実験からの経験で、死産の頻発、短い寿命、肝臓障害、脈管系障害などの多様な障害がでる可能性が高い。また、技術的経路の前段階である卵子採取の対象になる女性にも、ホルモン剤の影響などが残る可能性がある。妊娠する女性も、妊娠中毒症、妊娠期間が比較的多くなってからの胎児喪失の可能性などがある。
 これ自体がとても重要な論点だが、それに続けて報告書はもう一つ、注目すべき議論をしている(34)。つまり、この安全性問題は、クローン胚作成一般に関わる技術的問題ではあるが、あくまでも現状の技術的限界に即した暫定的問題点にすぎないように見えるかもしれない。しかし、実はそうではない、ということである。仮にこの問題で大量の動物実験が蓄積されたとする。だが、動物と人間の差はこの場合大きいので、類推にはどうしても限度がある。そうなると、人間への実験がなされなければならないわけだが、その人体実験自体を倫理的に正当化する手段が、今日ではもちろん、近未来にも、いや、原理的には未来永劫(えいごう)、見当たらないということである。つまり、クローン人間の安全性を実験的に確かめる実験自体が、倫理的実験ではありえないということだ。それは、クローン人間の安全性を技術的に固める順路が、そもそも倫理的には存在しえない、ということを意味している。この事態は、関連技術の進歩という付帯条件の変化があっても、その条件下で実験する人間にとっては、あくまでも「最初の、どうなるかは分からない成分を含む」実験であらざるをえない以上、その条件の変化に関わらないという特徴をもっている。だから、これは、少なくとも理念的な社会空間においては本質的な重要性をもつ論点だといえる。これを便宜的に、安全性問題の系として、安全順路不在問題、と呼んでおく。
A同意という特殊な問題。これからクローン人間として生まれてくる当の子どもに、そのような形で生まれてくることの同意を取ることが原理的にできない。
B女性の搾取と、リスクの分配の問題。技術的経路の前段階で、卵子を収集しなければならない場合、もし経済的インセンティヴなどを働かせるとなると、貧困な女性たちがその対象になる可能性が高まる。たとえば開発途上国の女性たち、または先進国でも極貧層の女性たちなどだ。たとえその人たちだけがとまではいえなくても、主としてそのような人たちがホルモン剤漬けなどのリスクを背負うということになると、それは、社会的公正の観点からみて好ましくない。
Cさらには文化的問題とでもいうべきものがある。まず、いままでも何度か出てきたbeget/make問題。子どもは愛の結果なのであり、意志の産物ではない。通常の生殖がもつ開放性、非定型性、不可測性が侵害される。人間の生殖がもつ生物学的意味を熟考することは、クローン・アセスメントに不可欠である。
Dアイデンティティ毀損問題(これは前にも触れたので、詳述はしない)。つまりAのクローンはAの影を引きずるということ。
Eこれは、家族関係に混乱を与え、社会全体に優生学的問題群を生ぜしめる。デザイナー・チャイルドなどのような人間改良が、徐々にクローン人間作成の目標になる。
 以上である。こうして、報告書『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、委員全員の総意によって、クローン人間に否定的な結論をだす。最後の指摘(E)を見ても、この問題が、われわれが本書の主題にしている遺伝子治療・遺伝子改良問題とも自然にリンクするということが再度確認されたであろう。  いままで、アメリカ政府の報告書関係の資料を中心に、クローン人間をめぐる賛否を検討してきた。反対論が、多様な根拠と意味づけを提示している一方で、賛成論は、事実上ほぼ〈生殖の自由〉論一点に絞られるという印象は否めない。だが、まさにこの〈生殖の自由〉論は、家族にしか分からない心情や情念に十分に配慮し、できる限り当事者の意志を尊重していくというものであるために、本書全体で見ても遺伝子改造論全般を背後から支える論理になっているのと同程度の強さを、ここでももっている。これを、生殖は本性的に個人の内部に押さえつけておくことができないものなので、個人が何を望んでもいいとはいえない、などといって批判しても、それは事実上、〈生殖の自由〉の自由性を、コミュニティ、社会、人類という種など、なんでもいいから何か違う位相のものを持ち出すことによって抑制するという、コミュニタリアン的な論理を反復すること以上のものではない。やはり〈生殖の自由〉論は、全能で無際限の妥当性をもつとまではいえなくとも、一定の配慮の対象であらざるをえないという判断に、私はどうしても落ち着いてしまう(35)。

(18)Leon Kass, “The Wisdom of Repugnance”, The New Republic, June 2 1997.ここでは、Leon R.Kass & James Q.Wilson, The Ethics of Human Cloning, Washington D.C., The AEI Press, 1998を使った。
(19)ibid., p.18.ちなみに、ニュージーランドの哲学者アガールは、カスのこのような議論の仕方を批判している。それは「本能的な嫌悪感」にすぎず、胃がむかつくような感じだけでは信頼できる道徳上のガイドとはいえない、とする。cf. Nicholas Agar, Perfect Copy, Cambridge, Icon Books, 2002, chap.1, pp.18-19.確かにそういいたくなる気持ちも分かる。だが、その一方で次の議論にも相応の説得性を感じる。ハインバーグの『神を忘れたクローン技術の時代』(Richard Heinberg, Cloning the Buddha, Wheaton, Quest Books, 1999.橋本須美子訳、原書房、2001)第五章には、「精神的および道徳的な視点でバイオテクノロジーを理解したいと思うなら、自分の直感を見つめてみるべきである。そうした感覚こそ、まさに倫理と精神性の本質へと通じる道だからだ。宗教は畏敬や畏怖の念、罪の意識、謙虚さといった感覚のうえに成り立っている。いかに論理と理性で道徳原理を創り上げようとしても、私たちは必ず直感的な感覚へと引き戻される」(p.154)とある。
(20)Leon Kass, “The Wisdom of Repugnance”, art. cite, p.9.
(21)ibid., pp.38-42.
(22)実はこの問題はかなり重要なものなので、カス以外にも何人かの論者がそれを取り上げている。たとえば次のものを参照せよ。Gregory Pence ed., Flesh of my Flesh, op.cit., chap.4: Glenn McGee ed., The Human Cloning Debate, op.cit., chap.13 etc.
(26)The President’s Council on Bioethics, Human Cloning and Human Dignity, New York, Public Affairs, 2002.
(28)The President’s Council on Bioethics, Human Cloning and Human dignity, op.cit., chap.5.
(30)リベラリズムの雄、法律家のロバートソンは、この議論の代表的論客の一人である。cf. John A.Robertson, Children of Choice, Princeton, Princeton University Press, 1994: Gregory Pence, Flesh of my Flesh, op.cit., chap.8.また、公共政策の専門家、ウィルソンも基本的にはこのラインに沿った考え方をする。もし良識ある両親が心から子どもを欲している場合、そしてその子が母親から普通に誕生する場合、もともとの生殖様態がどんなものであれ、それが両親にとって問題にならないなら、なぜ他人や国家がそのことを問題にしなければならないのか、というわけだ。James Q.Wilson, “The Paradox of Cloning”, in Leon R.Kass & James Q.Wilson, The Ethics of Human Cloning, op.cit., pp.61-74.ちなみに、この場合、生殖の自由には、例えばレズビアン同士のカップルが子どもを欲するというようなケースも含まれている。cf. Philip Kitcher, “There Will Never Be Another You”, in Barbara MacKinnon ed., Human Cloning, Urbana, University of Illinois Press, chap.3.
(34)The President’s Council on Bioethics, Human Cloning and Human Dignity, op.cit., chap5, p94.

(pp195-197)
 (b)ハミルトン編の『新遺伝学と人間の未来(21)』(一九七三)のなかでも、ヒトの遺伝子改変について、科学者だけでなく、法律家や神学者などが議論を戦わせている。内容重複が多いので、ここではただ一点、次の事実を喚起するだけに留める。例のレオン・カスが、科学者の予想を受けて発言した神学者の一人、ラーナー(22)(Karl Rahner, 1904-1984)の意見に注目している部分だ(pp.59-60)。ラーナーは、われわれには自由があるからこそ自分自身を作ることも選択できたと考える。それを受けてカスは、神学者は或る意味で科学者よりももっと過激だと見なす。科学者はその時点で可能なことの限界を探り、せいぜい「できることは、されるだろう」と述べるだけだ。ところが、「テクノクラートに変わった神学者たち」は、「できることは、されねばならない」という新たな自由を神聖化するというのだ。私が本書の第三章第3節で紹介したピーターズの議論を思い出していただきたい。少なくとも或る種の神学者たちは、思想の稜線を先鋭かつ鋭角的なものにして考え抜いていく過程で、科学技術の可能性の領野を拡大する思想に合体するという、私が仮定的に提示しておいた見方が、カスによっても援護されたような印象がある。
 (c)ところで、いまこのように述べたとき、私はピーターズ以外にも、一人、この議論にまさにぴったりの高名な神学者のことを念頭に置いていた。それは、プロテスタント系の神学者、ジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcher, 1905-1991)である。彼は状況倫理(23)の提唱者として名高い人だ。(略)フレッチャーはカスを批判する。カスは、実験室で行われる生殖は本当の生殖ではないというようなことを言っているが、それはどういうことなのだろうか。人間とは、作る人、選択する人、設計する人だ。何かが合理的に考案され、故意になされていればいるほど、それはより人間的なものになる(p.780)。彼は、高らかにこう謳(うた)っていた。
(pp202-203)
 (d)生命倫理学者ジョン・フレッチャーとフレンチ・アンダーソンの「生殖系列遺伝子治療――議論の新たな段階(39)」(一九九二)は重要論文である。彼らはまず冒頭で、技術的基盤が徐々に整備されてきたということを受けて、ヒト生殖系列遺伝子治療についての議論は新たな段階に突入しつつある、と診断。そして、この時点でこの話題についての歴史的鳥瞰を試みている。まず、私が先に第1節であげたハミルトン編の『新遺伝学と人間の未来』に触れ、そこに論文を寄せているカスやラムゼイが悲観的見解を述べる一方で、ジョセフ・フレッチャーが楽観的見解を述べていた、と分類する。また、一九八○年には三人の重要な宗教指導者がDNA技術と遺伝子治療への懸念を大統領委員会(40)(一九七八―一九八三)に表明したという事実を喚起。それを受けた大統領委員会は、この問題の倫理的側面を調査して、その結果を『命を継(つ)ぎ接(は)ぎする(41)』として八二年に報告する。皮肉なことに、その報告書は、組換えDNAなどの新技術のことを「内在的に悪」だと捉えるような議論(まさに或る種の神学的立場)は根拠がないと結論して、それらの新技術に原則的支持を表明することになった。ともあれ、宗教関係者たちは、リフキンらの後押しで次の年の八三年、生殖系列遺伝子治療の禁止を議会で提言した。その二、三年後からヒトゲノム計画が議論され始める。そして一九九〇年前後の二、三年に亘り、遺伝子治療や遺伝子改良についての数多くの議論がなされた。たとえば神学者のルロイ・ウォルターズ(42)らは、IVFとの兼ね合いで可能になる着床前診断(PGD)の発展や、哺乳類の着床前胚での遺伝子操作技術の発展のありように着目する。さらに、ヒト生殖系列改造へのタブー視が変化の兆しを見せ始めていると判断する。生殖系列介入問題は、八○年代の一般的禁忌の重荷を脱ぎ捨て始めていた。このような状況下で、著者たちはベルモント・レポート(一九七九)や「ジョージタウン・マントラ(43)」を念頭に置きながら、生物医学研究での倫理的原則について踏み込んだ議論をする。また最後の方で、我が国の犬山で採択されたいわゆる犬山宣言(44)にも触れている。そして一般的結論として、生殖系列介入は今後とも議論されるべきこと、ただもちろん子孫に伝わることなので長期の安全性の評価が重要なこと、未来世代の善のために、いま存在する個人を犠牲にしてはいけないこと、などの論点が確認された。

(76)The President’s Council on Bioethics, Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness, Washington D.C., Dana Press, 2003.

(pp238-239)
 ちなみに、『治療を超えて』第三章では、スポーツ選手の増強剤使用をめぐる議論の文脈で、ジャーナリスト、グラッドウェル(Malcolm Gladwell)の興味深い言葉が引用されている。「われわれは、生まれつき集中力があり、幸福で、美しいという幸せな少数者が恣意的に支配する世界よりも、気が散ればリタリンを飲み、気分が落ち込めばプロザックを採(と)り、魅力がなければ美容整形に走るような人々が住む世界の方を好むようになったのだ。確かに、美容整形がもたらす美は『苦労して勝ち取られた』ものではない。だが、そんなことをいえば、生まれつきの美も、苦労して得られたものではあるまい。二〇世紀終盤の主要な貢献の一つは、社会的競争の道徳的な規制緩和、つまり、人工的で通常以上の介入から得られた利点は、自然が与える利点よりも正統的でないわけではないという確認をすることにあった」(p138)。このように、生理学的所与を乗り越えようとする憧憬と渇望は、自覚的で、自己容認的なものになりつつある。
 とはいえ、本書第五章でクローン人間のことを論じていたときにも問題になった、例のbeget/make問題については、どう考えたらいいのだろうか。確認するなら、カスはこの両者の本性的違いのなかにクローン人間のもつ存在論的な蝦疵(かし)を見て取っていた。だが、いま、上記のグラッドウェルの言葉をもう少し注意深く聴いてみたらどうだろうか。「気が散ればリタリンを飲み、気分が落ち込めばプロザックを摂り、魅力がなければ美容整形に走る」ということは、まさにmakingの世界の住人になるということだ。『治療を超えて』で取り上げている話題は、近未来のものも含まれているとはいえ、大統領が読むことを想定して書かれたもの、つまり、純粋な虚構だけではない半ば現実化した話題に関することである以上、少なくともアメリカのような社会では、ますますこのmakingの成分が文化の諸相に多面的に発現しているということが分かる。その意味で、デザイナー・チャイルドは、その特異的性格を減殺せしめられる。それは、より広範な〈設計と製造の世界観〉という背景に融合してしまう。確かに、至るところでmakingが行われているのだから、それがもつ問題性はただちに免責される、とはいえない。生殖は、たとえばSSRIでの気分調整よりは、永続的で根源的な位相に関わることなのだから、なおさらだ。だが、私が何度も繰り返しているように、或る一定の倫理的配慮を怠らず、慎重な手続きで〈生物学的強化〉を行うという目的限定を伴う限り、そのmakingは、他の場面でのより気軽なmakingに比べても顕著な罪悪になる、とはいえない。確かに、begetではなくなる。だが、それが〈繊細なmaking〉である限り、あるいは、そうであろうとする限り、それは言語道断なものから、討議可能、検討可能なものに接近していく。カスの論点は重要な論点だが、やはり私はこのように考えざるを得ない。この場合、〈繊細な〉などというような響きのよい形容詞をつけることで、makingの問題性をうやむやにするのは、典型的な言葉だけの解決だ、とする批判も聞こえてきそうだ。だが、そんな批判者には、ただこの一節だけを読めば、そう読めるかもしれないが、私がいままで何百枚もかけて論じようとしてきたこと全体のなかから、私がこの形容詞によって意味させようとしているものを汲み取っていただきたい、としか応えようがない。


香川知晶 20061010 『死ぬ権利――カレン・クインラン事件と生命倫理の転回』,勁草書房,440p. ASIN: 432615389X 3465 [amazon][kinokuniya] ※, be.d01.et.
 「カスは、当時、国立科学アカデミー国立研究協議会の事務局長を務めており、一九七一年には、生命科学や医学の研究者だけでなく、科学史、心理学、人類学、哲学、社会学、経済学、政治学、法学など多様な研究者を集めた二週間にわたるシンポジウムを組織している。それが、一九七五年の国立研究所協議会報告書『生物医学テクノロジーの評価』(Assessing)を生む。[…]ここで注目されるのは、報告書が、[…]新しい技術自体の評価や目的、人間の本性の理解、選択されるべき価値といった哲学的問いの重要性を強調している点である。そうした問いを研究し、答えを与えることは難しい。しかし、人間とは何であり、何であるべきかという問いを問うことなしには、個々の技術評価は十分なものとはなりえない。それがカスを中心に報告書をまとめた生命科学と社会政策委員会の確信だった。
 ここには、生命倫理がまだ形をとっていなかった時代における問題意識を見ることができる。新しい段階を迎えつつある生物学や医学の研究が予測させる未来社会への懸念、それは生物医学研究の意味とともに、人間の条件や社会のあり方を根本的に問いなおそうとする志向を呼び起こすものであった。その意味では、カスのいう制度的規制は、規制の倫理とはかなりニュアンスを異にしている。規制の倫理では、医療技術そのもののもつ意味よりも、その技術の受容の仕方に議論が集中するからである。そこには、カスの論文に見られるような文明論的視野に立つ問いかけと評価の意識は希薄であ<0365<る。」(香川[2006:365-366])


金森 修 20070130 「装甲するビオス」,石川編[2007:3-26]*
*石川 准 編 20070130 『脈打つ身体――身体をめぐるレッスン3』,岩波書店,276p. ISBN-10: 4000267299 ISBN-13: 978-4000267298 2835 [amazon][kinokuniya] ※
 「上記のように、社会的、哲学的、医学的な問題群を抱えた上でなお、今でも多くの人々がこの種の薬剤による人格改変をやめようとしないという事実の射程を見極める必要がある。アメリカの大統領生命倫理評議会報告書『治療を超えて』(カス 二〇〇五)の標題が端的に示唆しているように、現代医学は、本来の治療的介入だけでは終わらずに、本当なら非本来的で逸脱的であるはずなのだが治療とあまりに深い連続性をもつために一概に排除できない多様なレベルでの<治療上の介入>に手を染め始めている。その意味で、抗うつ剤の本来的使用から、美容精神薬理学への展開は、ほぼ必然的な成り行きだと言っても過言ではない。[…]
 身体にフィットする仕立ての良い服や美しい宝石で身を飾る。身体がもつ若干の瑕瑾に外科的処置を施し、たとえばより形の良い鼻を手に入れる。身体を動かす中枢部としての脳が、自分自身の能力に不足を感じ、それを精神的鍛錬によってではなく、薬剤によって改良しようとする。――これらの間に存在する差異は、それらを各時点で可能にしてきた技術的限界や知識分節の差異に基づくと言った方が正確で、それらを統べる精神的傾性に大きな飛躍はない。その意味で、美容精神薬理学もまた、人間のこれまでの技術的介入の伝統を延長し、敷衍こうするものなのだ。」pp.20−21


*作成:山口真紀植村要
UP:20080824 REV:20080825, 20081123
生命倫理 bioethicsエンハンスメント  ◇WHO
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