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Kant, Immanuel

カント

last update: 20131001

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◆Noda, Matao (野田 又夫) ed. 1972 Kant(『カント』), Chuo Koron Sha(中央公論社), The World Classics (世界の名著) 32


◆カントの年表(作成:森本誠一さん)
 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~morimoto/Japanese/Gakugyou/Studies_in_ethics/nennpyou.html
◆ 『啓蒙とは何か 他四篇』 =1974 篠田英雄訳, 岩波文庫
◆1764-65 "Bemerken zu den Beobachtungen uber das Gefuhl des Schoneund Erhabenen"=1966 尾渡達雄訳 1764-65 「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」,『教育学・小論集・遺稿集』 (カント全集 16):259-355 ,理想社
◆1784 Beantwortung der Frage: Was ist Aufklarung Die BerlinischeMonatsschrift 1784-12
 1784 「啓蒙とは何か」 =1974 篠田英雄訳, Kant [=1974:5-20]
◆1785 Grundlegung zur Metaphysik der Sitten 
 1785 『道徳形而上学原論』 =1960 篠田英雄訳, 岩波文庫
◆1785 「人倫の形而上学の基礎づけ」 =1972 野田又夫訳,野田又夫 (責任編集) 『カント』 (世界の名著 32) :223-311, 中央公論社
◆1788 Kritik der praktischen Vernunft 
 1788 「実践理性批判」 =深作守文訳,『実践理性批判・ほか』 (カント全集 7):129-371, 理想社
◆1793 Uber den Gemeinspruch : Das mag in den Thorie richtig sein, taugt uber nicht fur die Praxis Die Berlinische Monatsschrift1793-9
 1793 「倫理と実践」 =1974 篠田英雄訳, Kant[=1974:109-188]
◆1797 Metaphysik der Sitten
 =1972 加藤新平・三島淑臣・森口美都男訳,「人倫の形而上学」,野田又男編『カント』 (世界の名著32):313-664, 中央公論社


 
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■所有

◆Kant, Immanuel 1764-65 "Bemerken zu den Beobachtungen uber das Gefuhl des Schoneund Erhabenen"=1966 尾渡達雄訳 1764-65 「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」,『教育学・小論集・遺稿集』理想社,カント全集16):259-355

 「肉体は私のものである。なぜなら、それは私の自我の一部であり、私の選択意思によって動かされるから。自分の選択意思をもたない生命ある世界や生命なき世界の全体は、私がそれを強制して自分の選択意思のままに動かすことができるかぎり、私のものである。太陽は私のものではない。他の人間においても同一のことがあてはまる。したがって、どのような所有権もproprietasつまり独占的な所有権ではない。しかし、私があるものを、もっぱら自分のものにしようと欲するかぎり、私は、他人の意志を、少なくとも自分の意志に対するものとして前提したり、あるいは、その行為を自分の行為に反するものとして前提したりすることはしないであろう。したがって、私は、私のものというしるしをもっている行為を実行するであろう。木を切るとか、これに細工をするとか、等々。その他人は私に言う。それは自分のものである。なぜなら、それは自分の選択意思の行為により、言わば自分自身に属するから。」(Kant[1764/65=1966:309])
 立岩『私的所有論』第1章扉(p.1)に引用

 "My body belongs to me. That is because my body is part of my ego and is driven by my will. As long as I can coerce it and move it around with my will, the world that has no individual will or the entire inanimate world is mine. The sun is not mine. The same is true of other human beings. Thus, any proprietary rights (proprietas) are not exclusively a proprietary right. However, as long as I desire to exclusively own a certain thing, at least I would not presuppose others' will as being against my own will, nor would I presuppose that action is contrary to my own action. Therefore, I will implement the actions that symbolize my own possessions, like cutting trees; I would work these into various things. Other might say to me, "That is mine." That is because it belongs to me by my actions of selective will." (Kant 1764/65=1966:309, cited in Tateiwa 1997:1)

 
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■啓蒙

 「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状
態は人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他
人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得えない状態である。ところでかか
る未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。というのは、この状態に
ある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分
自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。」
 (Kant[1784=1974:7])
 立岩『私的所有論』第7章「代わりの道と行き止まり」冒頭に引用
〇英訳

 "Enlightenment is man's emergence from his self-incurred immaturity. Immaturity is self-incurred if its cause is not lack of understanding, but lack of resolution and courage to use it without the guidance of another. The motto of enlightenment is therefore: Sapere aude! Have courage to use your own understanding!" (Kant [1784=1974:7])

 「何びとといえども、彼自身の流儀(すなわち彼自身が他人の幸福であると考えているようなあり方)によって私を幸福たらしめようと強制することはできない。そうではなく他人の自由…(すなわち他人の権利)を侵害しないならば、各人は自分の幸福を、自分自身が適切であると見なす方法で追求してよいのである。――子どもに対する父親のごとく、国民に対する温情を原理として築かれる政府、すなわち家父長的政府(imperium paternale)は、考えうる限りで最大の専制政治(すなわち臣民のあらゆる自由を奪い、その結果、臣民が何の権利も持たないような国制)である。こうした政府のもとでは、臣民たちは自分にとって何が本当に有益なのか、また有害なのかを弁別できない未成年の子どもと同様、ひたすら受動的にふるまうよう強制され、その結果、自分がどのような仕方で幸福であるべきかについては唯々、国家君主の判断をまち、そして、君主の望むところでもあろうが、彼の慈悲深さを期待するだけということになろう」。(Kant[1793=1974:143]、訳は市野川容孝)
 立岩『私的所有論』第7章に引用

 
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■嫉妬/羨望

 「嫉妬〔livor〕とは、他人の幸福をみると、そのために自分の幸福が少しも妨害されているわけではないのに、苦痛をおぼえるという性向であって、それが燃え上がって実行〔他人の幸福を侵そうとする〕に至った場(p.624)合には、本格的嫉妬と呼ばれ、そのほかの場合には単に羨望〔invidentia〕と名づけられるが、ともかく、間接的に性の悪い心術である。いいかえると、われわれ自身の幸福が他人の幸福によって光を奪われるのをみての不満である。そういうことになるのは、われわれが幸福と比較して評価し、この評価を具体化するすべを心得ているからである。」(Kant[1797=1972:624-625])

 
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■カントと生命倫理

 第5章註24
 「◇24 功利主義に対して個々人の「尊厳」を言おうとし、例えばカントが持ち出される。その事情はわかる。しかし、そこに「人格」が登場することにより、その違いはそう大きくならない。例えばカイザーリンクはQOLSOLとが矛盾しないと述べ(Keiserlingk[1983=1988])、黒崎政男がその両立はSOL概念をQOLの側に変質させることによって成立していると指摘している(黒崎[1987→1991])が、これと同様のことが起こる。カントと生命倫理学については土山他編[1996]で論じられている。井上義彦[1996]ではカイザーリンクの立場がカントの立場であることが主張され(他に塚崎智[1996])、平田俊博[1996]で▽366 はカント倫理学が基本的にQOLの立場に立つことが主張される。他方、樽井正義[1996]では、「権利とは、カントによれば、ある人に生命や財産を保持する「経験的」な能力がなくても(たいていの人にはない)、他のすべての人がその侵害を控えて保護するという拘束を引き受けるような「一人格の諸人格に対する関係」、一共同体の成員相互の「仮想的」な関係を意味しているのである」(樽井[1996:61])と、個別の存在に実際にしかるべき能力が必要とされてはいないと主張される(シンポジウムをまとめた小熊勢記[1996]も参照のこと)。樽井のように解釈できることを否定しない。だが、ならば何が権利の主体、所有の客体…として指定されることになるのかという問題が現われる(cf.第2章注04)。カントとヘアの議論の検討として新田義彦[1994][1996]、カントの自殺論・義務論へのエンゲルハートの批判等の検討として円谷裕二[1996]、「自律」と「啓蒙」について谷田信一[1996]、英語圏の生命倫理学とカントとの関連について蔵田伸雄[1996]。第7章3〜5節で関連したことを述べる。▽367」

Philosophers like Kant are cited by those who attempt to assert the "dignity" of each individual in opposition to utilitarianism. I understand why this approach is taken. Because of the invocation of the idea of the "person," however, there is not such big difference between the two viewpoints. Keiserlingk, for example, states that there is no contradiction between "Quality of Life (QOL)" and "Sanctity of Life (SOL)" (Keiserlingk [1983]), and while, as Kurosaki points out, this compatibility is achieved by altering the concept of SOL to bring it in line with an approach based on QOL (Kurosaki 19871991]), this sort of manipulation is often carried out. Kant and bioethics are discussed in Tsuchiyama ed. [1996]. In Inoue [1996] it is claimed that Keiserlingk's perspective is that of Kant (see also Tsukasaki [1996]), and in Hirata [1996] it is asserted that Kantian ethics are fundamentally based on a QOL perspective. In Tarui [1996], on the other hand, it is asserted that the Kantian view does not require that some appropriate level of ability be present in individuals: "Rights, according to Kant, amount to an 'assumed' relationship between members of a community, a 'relationship between each individual and all other individuals' in which each person accepts an obligation to protect and not to harm other individuals, even those who lack (as most people do) the 'empirical' ability to maintain their own lives and resources" (Tarui [1996:61]. See also the symposium summary in Oguma [1996]). I do not deny that this kind of interpretation is possible. If this approach is taken, however, the question of what is being designated as the subject of rights and what is being designated as the object of ownership arises (cf. Chapter 2 Note 4). For an examination of the arguments of Kant and Hare, see Niita [1994] [1996]. On Engelhardt's criticisms of Kant's writings concerning suicide/deontology, see Marutani [1996]. On "autonomy" and enlightment," see Tanida [1996]. On the relationship between Kant and bioethics in the English speaking world, see Kurata [1996]. Related issues are also discussed in Sections 3 to 5 of Chapter 7.

 
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■関連書籍

◆野田 又夫 編 1972 『カント』(世界の名著32) 中央公論社
◆坂部 恵 1976 『理性の不安──カント哲学の生成と課題』 勁草書房
◆Simmel, Georg 1976 『ジンメル著作集4 カント カントの物理的単子論』 木田元訳,白水社 千葉社0843共通
◆岩崎 武雄 1977 『カントからヘーゲルへ』 東京大学出版会
◆片木 清 1980 『カントにおける倫理・法・国家の問題──「倫理形而上学(法論)」の研究』 法律文化社,411+7p. 4500
◆知念 英行 19811015 『カントの社会思想──所有・国富・社会』 新評論,201p.  社9443
◆知念 英行 19841101 『カント倫理の社会学的研究』 未来社,234+6p. 1800 本郷B10-2623
◆広松 渉・坂部 恵・加藤 尚武 編 19900630 『講座ドイツ観念論〈2〉/カント哲学の現代性』 弘文堂, 338p. 4,200(本体4,078) ISBN4−335−10032−9
◆土山 秀夫・井上 義彦・平田 俊博 編 19960410
 『カントと生命倫理』
 晃洋書房,262p. 2800 ※
◆Zizek, Slavoj 20100210 『パララックス・ヴュー』 山本耕一訳 ,作品社,768p.

 
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■論文等

◆平田 俊博  1996 「バイオエシックスとカント倫理学──QOLとは何か」,土山他編[1996:33-47]
◆井上 義彦  1996 「カント倫理学と生命倫理──尊厳死は許容できるか」,土山他編[1996:3-32]
◆片木 清   1980 『カントにおける倫理・法・国家の問題──「倫理形而上学(法論)」の研究』,法律文化社,411+7p.
蔵田 伸雄  1996 「英語圏のバイオエシックス中のカント──英語圏の研究動向」,土山他編[1996:229-260]
◆Lacan, Jacques 1963 「カントとサド」 =1981 佐々木孝次訳 『エクリV』:255-293, 弘文堂
◆三島 淑臣  1992 「近代の哲学的所有理論──ロックとカントを中心に」 『法哲学年報』1991:6-24
◆新田 孝彦  1994 「インフォームド・コンセントの哲学的基礎づけ──功利主義かカント主義か」,飯田編[1994:109-117]
◆野田 又夫 編 1972 『カント』(世界の名著32),中央公論社
◆小熊 勢記  1996 「シンポジウム「カントと生命倫理」──質疑・応答のあらましと全体のまとめ」,土山他編[1996:83-104]
◆谷田 信一  1996 「カントと生命倫理教育」,土山他編[1996:171-193]
◆樽井 正義  1982 「カントの所有論」,『哲学』(三田哲学会)75:143-163
◆─────  1996 「人格とはだれのことか──生命倫理学における人間の概念」,土山他編[1996:49-64]
◆円谷 裕二  1996 「自由と他者──自殺論の観点からのカント倫理学の可能性と限界」,土山他編[1996:149-169]
◆塚崎 智   1996 「生命の神聖性と生命の質の問題──カント哲学に関連づけて」,土山他編[1996:107-124]
◆八幡 英幸  1993 「「自然目的として見る」ことの文法:カントの有機体論からの展望」,京都大学『実践哲学研究』, 16号, pp.1-18, 1993年.
 http://www.educ.kumamoto-u.ac.jp/~shakai/ethics/1993.html(38kb)
◆八幡 英幸 1995 「自我の二重性と身体――『純粋理性批判』と『オプス・ポストゥムム』における自己認識の問題」,日本哲学会『哲学』, 45号, pp.213-222, 1995年
 X http://www.educ.kumamoto-u.ac.jp/~shakai/ethics/1995a.html(23kb)
◆八幡 英幸 1997 「揺れ止まぬものとしての超越論哲学:最晩年のカントの思索から」,『人間存在論』, 3号, 竹市教授退官記念論集, 1997年
 X http://www.educ.kumamoto-u.ac.jp/~shakai/ethics/1996c.html
◆八幡 英幸 1998 「何が観ているのか: 人物、私、そして超越論的主観」,関西哲学会『アルケー』, 6号, 1998年
 http://www.educ.kumamoto-u.ac.jp/~shakai/ethics/1998b.html(23kb)


UP:? REV:20030604, 20091216, 20120403, 20131001
WHO  ◇哲学・政治哲学
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