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石井 保男

いしい・やすお
1933〜

last update:20101020

http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.phpより

1933年8月2日 東京生まれ
1953年4月 東大教養学部理科2類入学
1955年4月 東大医学部進・入学
1959年2月25日 (3月31日卒業予定直前)
羽田空港よりプラハに向け出発
1959年3月’67年 国際学生連合(IUS)副委員長
’68年9月まで引き続き日本全学連代表としてIUS本部書記局に常駐
1968年9月’68年9月 ベルリン自由大学東洋研究所講師
1969年10月 帰国
1961年 東大医学部依頼退学
1972年4月 同学部復学
1973年3月 同学部卒業
1973年2008年 医療法人一陽会 陽和病院 勤務
副院長、附属高等看護学校校長を歴任
2004年4月’08年1月 老健「練馬ゆめの木」施設長
2008年2月現在 医療法人尚寿会 大生病院 勤務

■著書

◆石井 保男 20100703 『わが青春の国際学連――プラハ1959‐1968』,社会評論社,190p. ISBN-10: 4784514791 ISBN-13: 978-4784514793 2100 [amazon][kinokuniya] ※

■言及

◆「当時の学生活動家の処分と温情措置風聞」
 【多田靖氏の証言・島成郎記念文集刊行会編「60年安保とブントを読む」追加文】
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/daiithijibundco/syobuntoonjyosothi.htm

 「次に処分と停学とについてまとめておきたいと思う。
 東大当局にはおそらく50年レッドパージ闘争処分に原型をもつ処分の一般方針がある。ストライキの提案者、採択者(議長)、執行者を退学処分とするというものである。医学部でも58年以後、この処分の壁をめぐるきわどい攻防が展開された。最初は、58年 秋の警職法闘争である。石井保男の発案で処分を最小限に絞るために、執行部の中から一人を選びそのひとが議長と提案者とを兼任する。その一人に4年の高橋国太郎がなった。当時3年の野々村によると、なかなかの出来栄えであったという。見事スト可決。退学処 分、ただし1年で救済された。
 ここにひとつのエピソードがある。当時の学部長の吉田富三に石井が「真の責任者は自分だ」と迫ったことである。これには吉田も 困惑した。もともと不承不承にした処分である。だか掟は曲げられない。1年とは板挟みの中での救済たったのだろう。卒業の寸前石 井はプラーグに出発している。もちろん国際学連副委員長就任のためである。石井としてみたら、島の要請もさることながら、高橋処 分をはためにノホホンと卒業することは人として許されないことだとの思いもあったようだ。
 出発間際に石井は吉田を訪ねている。席上吉田は自らの秘話を話している。第一高等学校時代、寮の同室者に尾崎秀実がいたこと、 自分もかなり左にゆれたこと、など。吉田は1928年東大医卒だが、その前に国崎定洞(1919年卒)小宮義孝(1926年卒)曽田長栄 (1927年卒)の系譜が並ぶ。国崎(衛生学助教授)は1926年渡独、1927年KPD(ドイツ共産党日本人組織の責任者)、スターリン粛清。 小宮(衛生学助手)は全協の4人の指導者の一人。治安維持法で逮捕。曽田は社医研の中心で卒業後労働科学研究所で逮捕。
 この会談は石井が革命運動にかける自らの決意を述べ、吉田もそれを激励するという感激の場面となった。石井と吉田の親密な関係 は吉田の死まで続く。吉田は1968年定年退職しているが、その少し前、プラーグに石井を訪ねている(学会の機会を利用したか)。し かしこのとき復学の話はまったく出ていないという。国際舞台に活躍する石井の姿を見届けたかったのだろう。
 1960年高橋の処分が解けるが、その数ヶ月後彼は事務の志村氏に呼び出しを受けている。石井と島が退学手続きをとってないが 、医学部の在学上限は8年であり、このままの状態が続けば入学8年後に除籍になり復学の可能性は消えるというのだ。自己都合退学 の手続きをとりさえすればその時点で時間はストップするというのである。結局高橋が二人の手続きを代行したような気がするといっ ている。その際、島にも処分されているわけではないのだからこの手続きをとってあればいつでも復学できると説明したという。この 志村氏の配慮が彼の個人的意志によるものかどうかはわからない。
 安保闘争では60年卒の野々村禎昭(彼は都立西高時代から著名な活動家で高校1年でメーデー事件に参加している。医学部でも組織 には属さなかったが全学連主流派の立場で同級生をまとめていた)も、4年のとき高橋国太郎と同様(4年生、一人3役)でスト提案 を行い、必ずスト採択の票読みだったが、級友が彼の処分回避のため反対に回ったため実現できなかったという際どい闘いがあった。 このときの学部長も吉田。  62年大管法闘争では2年の今井澄が医学部自治委員長として一人3役をこなし、ストを実現させ、退学処分を受けた。当時の医学 部長は薬理の熊谷洋教授。吉田以上の学生運動の理解者。今井の身柄を当時大学院生の野々村に預け、1年で処分を解いている。ちな みに時計台前集会で野々村は大学院自治会代表で連帯の演説をおこない、譴責処分を受けている。東大の大学院生として最初にして最 後の処分だと誇りにしている。
 このようななかで島の復学問題がおきている。吉田は自らの定年を前に島の状況を見極めようという心配りがあったのだろう。なに しろ学部長の時代の出来事だから。島本人がその気になれば学則からなんら障害はないのだから、本人の判断が焦点になったはずだ。 塾で生計を立てるやり方は一時的には有効てもそれがためには旧同志の献身が要求されるし、到底抜本的解決にはなりえないものだ。 私は結局島自身の判断でこの吉田による「いきな計らい」の場を利用し復学の意志を伝えたものと思っている。学部長は熊谷である。 スムースに運んだに違いない。矢内原の学則の壁は厚く、吉田自身が高橋処分で自ら味わったところであり、定年間近の一介の教授で しかなかったのだから。「超法規的処置」など問題外である。またその必要もなかった。  石井保男の復学はさらに遅れて73年になる。当時の学部長は解剖の中井準之助教授。復学の意志を伝える石井に、中井はひとこと 「ああいいよ」で終わったという。
 […]」

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

1958 「当時、医学連の左翼の親玉は石井保男という男(10)で、彼は医学連の書記長でもあった。」(市田・石井[2010:23])

註10 「卒業を待たずにプラハの国際学連に副委員長として出向(五九年)。そのまま退学し、全学連分裂後も「全日本自治会総連合」代表のまま六八年まで同地に滞在した。ベルリン自由大学講師を経て帰国。七三年に復学した。その後精神科医として練馬区陽和病院に勤務。最近、回想録を出版した(『わが青春の国際学連かに、二〇一〇年、社会評論社」)(市田・石井[2010:40])

1959 「石井保男、あいつ無責任にぜんぶほっぽりだして国際学連に行ったんだよ。翌年の医学連大会がもう大変。会計報告とかできないんだもん。なんにもなしで、なんにも分かんない。僕はもう居直って、石井のせいにして、なにも報告できませんけどとにかく予算案承認してくれってお願いしてさ。承認されましたけど、冷や汗もんでしたねえ。そのときの委員長が、僕より<0023<たしか二年上の池澤康郎(13)です。現、日本病院副会長で、当時は東京医科歯科大学生です。なお彼は、血のメーデー事件(一九五二年五月)の時にピストルで足を撃たれて、入院した経歴をもってる。事件当時は大学二年生だったはずだよ。」(市田・石井[2010:23])

◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.


UP:20101020 REV:20101211
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