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石川 正一/石川 左門

いしかわ・しょういち/いしかわ・さもん
1955/11/13〜1979/06/1927〜2016/01/06

last update:20151231
■石川正一

19551113生
197906没

◆石川 正一 19730720 『たとえぼくに明日はなくとも――車椅子の上の17才の青春』,立風書房,234p. ASIN: B000JA018M ISBN-13: 9784651140025 ISBN-10: 4487755301 ISBN-13: 978-4487755301 810 [amazon][kinokuniya] ※ md

◆石川 正一・石川 左門 19821215 『めぐり逢うべき誰かのために――明日なき生命の詩』,立風書房,287p. ISBN-10:4651140084 ISBN-13:978-4651140087 [amazon][kinokuniya] ※ n02. md.

◆1987 16ミリ記録映画『ありがとう』(55分)

◆記録映画『ありがとう』石川正一〜たとえ僕に明日はなくとも〜紹介映像
 https://www.youtube.com/watch?v=WwkpChyvUH0


■石川左門

◆2016/01/06逝去
 http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2090&forum=1
 https://ameblo.jp/gracias39/entry-12240909987.html
 インタビュー映像「石川左門さん自身を語る」
 http://d.hatena.ne.jp/TEIJI/20120316/1331857512

◆中井正義「左門さん自身を語る/第一部・第二部」自主製作
 http://ameblo.jp/gracias39/theme-10026297366.html
 中井正義 1987年製作 16mm 記録映画「ありがとう」
 2010年初DVD化。カラー・55分
 http://ameblo.jp/gracias39/theme-10026297366.html
 DVDご購入のお問い合わせはこちらへ→株式会社 桜映画社 TEL:03-3478-6110 / FAX:03-3478-5966

◆2016年4月17日 『とうきんきょう』134
 追悼 石川左門さん 石川さんを偲ぶ
 http://to-kin-kyo.org/info/no-134/

◆2016年8月31日 『とうきんきょう』135「石川左門理事長をしのぶ」,『とうきんきょう』135
 http://to-kin-kyo.org/info/no-135/

2009/07/19インタビュー
 ◆2009年のインタビュー関連

■略歴

石川 左門:1927‐
昭和後期-平成時代の市民運動家。
昭和2年8月15日生まれ。42年患者の家族として東京進行性筋萎縮症協会を設立し、国立療養所に特別病棟設置などを実現させる。47年全国難病団体連絡協議会を結成し、会長。54年長男の死亡を契機に自宅を改造し、障害者などを一時的にあずかる愛隣舎をつくる。東京出身。早大中退。
http://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B7%A6%E9%96%80

◇ケア・センター やわらぎ 理事 http://www.yawaragi.or.jp/B-01_2.html
◇社会福祉法人 にんじんの会 理事 http://www.ninjin.or.jp/B-01_2.html

■著書

◆石川 正一 19730720 『たとえぼくに明日はなくとも――車椅子の上の17才の青春』,立風書房,234p. ASIN: B000JA018M ISBN-13: 9784651140025 ISBN-10: 4487755301 ISBN-13: 978-4487755301 810 [amazon][kinokuniya] ※ md

◆石川 正一・石川 左門 19821215 『めぐり逢うべき誰かのために――明日なき生命の詩』,立風書房,287p. ISBN-10:4651140084 ISBN-13:978-4651140087 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ n02. md.

◆石川 左門 19901120 『ささえあう暮らしとまちづくり――地域ケアを担った市民グループの活動記録』,萌文社,237p. ISBN-10: 4938631040 ISBN-13: 978-4938631048 1600 [amazon][kinokuniya] ※ c04

◆石川 左門 ほか 19920828 『死と直面する――“死”をとらえ直すことによって、新しい“生”が見えてくる』,致知出版社,240p. ISBN-10: 4884743091 ISBN-13: 978-4884743093 1500+税 [amazon][kinokuniya] ※ d01

■論文等

◆『民医連医療』1974年3月号 No.28
 https://www.min-iren.gr.jp/press-library/iryo1974.html  特集 患者会と医療従事者 座談会 患者会からみた医療改善の現状と課題 小林孟史(東京都腎臓病患者連絡協議会副会長)/坂本正治(全国心臓病の子供を守る会運営委員)/末永稔雄(鉛中毒患者会副会長)/石川左門(全国難病団体連絡協議会会長)/斉藤三朗(全日本民医連機関紙・出版委員/群馬・前橋協立診療所所長・医師)

◆1975-02-22 第75回国会 衆議院 予算委員会 19号
 http://kokalog.net/viewer.html?meeting_url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/075/0380/07502220380019a.html
 参考人:石川左門(全国難病団体連絡協議会会長) 

石川参考人(石川左門)
○石川参考人 私も筋ジストロフィーという難病患者の一親でございますし、また患者運動の面では、多くの仲間の団体の方々と接触を持っているものでございます。そういった立場から、私個人としてお話を申し述べさせていただきたいと思います。
 私ども、この難病患者というものは、病気という条件を除いては、全く重度な身体障害者の方々と同じような社会的状態におる、にもかかわらず、身体障害者の手帳等そういった制度がないために、医療対策はあっても生活面での保障、福祉対策が全く欠落しているのではないかというふうにかねがね思っているわけでございます。私どもの病気というのは治療法がございません。したがって、生涯病気と切り離せないで生活をいたします。生涯病気であるということは、自分で自分の体が当てにならないわけでございますから、まともな就職はできないわけでございます。ことに、こういった問題についての仕事ができない、社会復帰ができないがゆえの生活面の悩み、苦しみというのは、常人にはわからないほどの深刻な問題があるわけでございます。
 幾つかの例を引いてまいりますと、先ほども金子先生の御指摘がございましたとおり、外見はなるほど身体的な問題はないかもしれない、しかしながら、内部的な疾患のために、さまざまな理解されにくい問題を実は抱えているわけでございます。たとえば膠原病系統、べ−チェット、そういった病気などは、まず外出する場合でも、きょうはお天気かどうかということが気になります。と申しますのは、非常に日光が強いというだけで、日光に、ある時間照射を受けたというだけで、すぐそれが病状にはね返ってまいります。したがって、天候が非常に気になる。それからまた寒さ、湿度、こういった条件で、その日その日のコンディションが非常に狂ってしまう。無理をすれば、すぐぶり返してしまうというようなことがございます。さらに加えてショック、いわゆる騒音であるとか、あるいはまた雑踏した人中へ出たときのいろいろな煩わしさ、あるいはまた感情的な問題、人間関係の煩わしさ、そういったことが常にすぐ病気のぶり返しということではね返ってきてしまうわけでございます。こういった病気の状態を抑える有名なステロイドというような薬がございますが、なるほどこの薬を用いている間は、若干体が言うことを聞きます。だが、これを飲み過ぎますと、たちまち副作用が出てしまいまして、働くために薬を飲んで何とか体を動かす、しかしながら、副作用でやられてしまう、しかしながら、働かなければ食べていけないというような、非常に深刻なジレンマを繰り返しておるわけでございます。
 また、難病の中には、重症筋無力症という病気がございます。これは、いつ突然呼吸困難、クリーゼを起こすかわからない。そして、これを起こしたが最後、たちまちのうちに、いままでおしゃべりができていたのが言語障害に陥る、そのために助けを呼ぶこともできない、こういった状態では、常時何らかの介護者がそこに監視をしていなければならないというような状態でございます。それから先ほど申しましたように、温度差、湿度、こういった問題で、少し無理をすると、いわゆる筋肉が全く脱力をして無力になってしまいます。そして、いままで元気で歩いていたのが、たちどころに最重度の患者さんになってしまう、起き上がることもできない、自分でトイレに行くこともできないというような状態になってくるわけでございます。
 こういったことを考えますと、たとえばこんなぐあいな状態では、最重度の身体障害者とまさしく等しいわけでございますけれども、身障手帳を取ろうといたしまして体を動かそうとする、そのためには自分で自分の体を使うわけですから、マイテラーゼであるとかワゴスチグミンであるとか、そういった薬を飲みながら何とか自分の体を動かす、そして身障手帳を取りたいのだけれどもというふうな相談に参りますと、何ですか、あなたはりっぱに体が動いているじゃございませんか、そういうふうに言われる。まさにそのとおりでございます。しかしながら、この薬も、下手な飲み方をしますと、だんだん効かなくなって、最後にはリミットの何倍もの薬を飲まなければ体が言うことを聞かない。そして同じく副作用で、むしろ本来の病気よりも副作用の結果、死亡するというような例が実は出てまいります。しかしながら、やはりこういった状態の中では、現在の社会環境の中では、こういったような病人、本当にどうしようもない状態にある病人の人たちに、働きの場を提供してくれるなどとは夢にも考えられないわけでございますし、また厳しい医療管理下の制限がございます。
 こういうことを考えますと、目の前の症状の高低、あるいはまた介護負担の軽重を問わず、こういった状態にあるならば、現実的には全く社会復帰が望めないのではないか。むしろある病人にとっては、働いてはいけないというような状態さえあるではないか。また、やや軽度の場合を考えてみても、慢性の肝炎であるとか慢性の腎臓患者の方々は、お医者さんからば、あなたは一日何時間しか動いてはいけません、一日置きに体を動かしなさいというような制限がございます。一日に何時間、何日置きに働きなさい、結構でございますからどうぞいらっしゃい、というような企業主がございますでしょうか。こういうような状況の中では、まさに難病患者の社会復帰はきわめてむずかしい。その結果、私たちは若干の医療保障はあるかもしれないけれども、生活保障がない。もしも働く人たちが突如としてこの難病患者になってしまったとするならば、まず長年勤続して積み重ねた退職金が多少当てになりましょう。しかしながら医療費、公費負担以外の医療費が大きくかさむ現状では、そのなけなしの退職金ばまたたく間に消えてしまいます。そして結核患者のような三年サイドの傷病手当金もございません。発病して退職を勧告された途端から、たちどころに生活苦が始まるわけでございます。
 また中には、母子家庭、年とった介護者が何とかめんどうを見ている、だが、この患者を置いて自分が先に死んだらどうしたらいいだろう、あるいはまた、この患者のめんどうを見るためには、自分自身が働かなければならない、だけれども、働いてしまったらだれがこの患者をめんどうを見るのであろう、そして、働きたいと思っても働けずに、暗い閉鎖的な在宅の状態を続けておる。これがいわば難病患者の生活の実態であります。なるほど病気という特殊な条件がございます。しかしながら、永続的に内科的な治療を生涯にわたって必要とする、しかもなお、その結果、日常的に著しい制限を加えられておる、その結果、社会復帰が非常に困難である、こういった概念をとらえてみますと、まさしく重度な身体障害者と同じような社会的な状態にあるのではないか、にもかかわらず、これらに対するところの生活面での保障が全くない、こういったようなのが現在の難病、ことに在宅患者の実態ではなかろうかというわけでございます。」

◆石川 左門 1975 「筋ジスの子をもつ親の立場」,『理学療法と作業療法』559(8)
 http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/risa9.htm

◆石川 左門(東京進行性筋萎縮症協会)1975/11/1 「東筋協キャンプについて」(第9回東京進行性筋萎縮症協会宿泊検診から)pp.1154-1156
 http://medicalfinder.jp/doi/pdf/10.11477/mf.1661917380

◆石川 左門 197610 「難病患者の実態とその課題」,『医療と福祉』30(日本医療社会事業協会)
 cf. http://www.livingroom.ne.jp/e/0403ky.htm

◆石川 左門 19770618 「難病の実態と患者の生きる権利」,『リハビリテーション医学』14(2): 135-136([外部リンク]J-Stageで全文閲覧可.PDFファイル)

◆1979 
 http://www.normanet.ne.jp/~rehab/1979/index.html

◆石川 左門 1986 「これからの医療・福祉――患者の立場から」,『ジュリスト臨増総合特集』44,日本の医療−これから
 cf. 小泉 義之 2007/02/10 「<難病と倫理>研究会配布資料・補足資料」

◆石川 左門 199809 「愛燐舎(日野市地域ケア研究所)の施設」,『難病と在宅ケア』4-6(1998-9)
 http://www.jpci.jp/file/nanback/1998-09.html

◆石川 左門 200403 「難病患者支援から、まちづくりへ」,『公衆衛生』68-3:236-237(連載 インタビュー・住民VOICE・12[最終回],ISID:1401100553
 http://ej.islib.jp/ejournal/1401100553.html?journalId=1&query=%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3&ss=%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3
 「私が,だれもが共に住めるまちづくりにかかわったきっかけは,息子・正一が筋ジストロフィーを患い,23年の短い生涯を閉じたことにあります.正一がこんな詩を書きました.
 たとえ短い命でも生きる意味があるとすれば それは何だろう 働けぬ体で一生を過ごす人生にも 生きる価値があるとすれば それは何だろう もしも人間 の生きる価値が 社会に役立つことで決まるなら ぼくたちには生きる価値も権利もない しかしどんな人間にも差別なく 生きる資格があるのなら それは何によるのだろうか
 正一は,難病末期であっても,家族の一員として,人間らしい当たり前の生活を営めるような地域であってほしいと願っておりました.[…]」

◆2004/05/21 http://www.normanet.ne.jp/~rehab/1979/index.html">http://www.normanet.ne.jp/~rehab/1979/index.html</a>

◆石川 左門 200406 「NPOの地域活動――その運動と実践」,『公衆衛生』68-6:.434-437(特集 転換期のリーダーシップ, ISID:1401100396)
 http://ej.islib.jp/ejournal/1401100396.html?journalId=1&query=%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3&ss=%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3
 「疾病運動からの出発
 筆者の長男が小児型筋ジストロフィー症(以下,筋ジス)であったことから,筋ジスの患者運動に参加したのは,全国組織と東京組織とが同時に発足した,1964年の秋のことであった.当時私は,全国組織の役員と東京組織の代表を兼ねていた.
 ところが就任早々に,専門施設と遺伝という2つの問題について,全国組織から厳しい批判を受けることになった.[…]」

◆石川 左門(特定非営利活動法人 愛隣舎) 2004 「公的サービスの谷間とNPO活動」,『日本難病看護学会誌』8-3:314-318
 http://210.155.69.200/journal/jsearch.php?jo=cv1nursi&ye=2004&vo=8&issue=3

◆石川 左門(東京進行性筋萎縮症協会長)「患者家族が求める地域ケアの条件」21
http://www.eubios.info/INDJ.htm

◆石川 左門 **** 「生きる意味と価値を求めて――筋ジストロフィー症児の生と死に学ぶ」
 http://www.smile-cosmos.co.jp/kinzisutodofi.html

http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/327/1/bungaku-48_191-215.pdf
・日野市地域ケア研究所(以下、「日野」と略す)
 1975 年設立の「日野市医療と福祉を進める会」をベースに、難病患者の地域ケア研究を目的に85年5月設立された団体である。患者のケアをおこなうための中間施設「愛隣舎」も併設されている。「日野」および愛隣舎は 1999 年に NPO 法人格を取得、「特定非営利活動法人愛隣舎」として現在も活動中である。
 団体は、筋ジストロフィー症の長男を抱えた石川左門氏が、1963 年に患者の親の会に参加したことをきっかけに設立され、地域における難病患者全般のケア体制を構築する活動を中心に続け、現在に至る。

http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/11032/4/NUE65_1_35-45.pdf
 筋ジストロフィー児の親であり「日本筋ジストロフィー協会」の結成にもかかわった石川左門氏は著書「ささえあう暮らしとまちづくり」の中で,旧厚生省が筋ジストロフィー患者を旧結核療養所に収容する決定に至る経過について,「厚生省の素早い対応」であったと驚きを記している。筋ジストロフィー患者の親も驚くほどの「素早い対応」はいかに打ち出されたのかは不明である。しかし,親の驚きは,心配でもあった。それは,結核患者の看護を担当していた医師や看護師が,自分たちの介護している筋ジストロフィー児を果たして介護できるのか,という心配である。
 →石川左門(1990)「ささえあう暮らしとまちづくり」一萌文社



小泉 義之 2007/02/10 「<難病と倫理>研究会配布資料・補足資料」,難病と倫理研究会第1回京都セミナー
 http://www.arsvi.com/2000/0702ky2.htm

◆立岩真也 『現代思想』→

 「(1)と(3)はときの体制・政府に対して批判的であることにおいて共通性を有する。比べて(2)はそうでもない。しかし、いま述べたように、まず職として支援に関わったのは医療者、とくに在宅の人に対しては看護師、保健師たちだった。そして難病政策の手前に始まった筋ジストロフィーに関わり、石川正一の死後にその父とも関わり、東京での支援に関わったのがそんな人たちだった。病院を出て、地域で活動を展開しようということ自体、当時では(今でも)革新的なことであり、それは使命感、正義感によっていることがあった。当時「革新自治体」がいくつかあったことも関係しただろう。
 そしてその人たちは、政府が設定した難病という枠組みをそのまま受け入れたわけではなかった。現在でも指摘されている、疾患単位の認定方法を批判し、より「生活」を目を向けた施策であるべきだとの指摘は、そもそも難病政策が始まった当初から、有力な医学者、例えば東大医学部長を務め美濃部都知事時代の東京都の参与であった白木博次によってなされている。そして、厚生省の枠組みを批判し白木の主張を支持するという記述は、難病者を支援する人の文献、例えば木下[1978:58-59]等々多くの文献で繰り返されている。このことも後で紹介する。
 ただいったんできた枠組みは基本的には変わらなかった。そしてその政策の枠組みとは別に、その関わり方は、日患同盟、朝日訴訟等々を支持する側に共感した自らの出自と、そして看護師や保健師という自らの職に忠実なものであった。そうした人たちが長く実践に関わり、研究にも関わり、出版物も出していく。さらに、難病看護学会といった学会もでき、政策にもいくらか関与することにもなっていく。施設・病院も変化しないところは変化しないながら、地域・在宅を重視すべきことは誰もが認めることになり、訪問看護にも保険点数が付き、いくらかずつ増えていく。
 こうしたことが、次にあげる(4)の動きが別途現れたことにも関係し、同時に、その間に無関係という関係が続き、そして使えるものが使われないという事態を生じさせることにも関係したと私は考えている。そして、それはまずはこの国に特殊に起こったできごとだが、それだけのことではなく、世界のどこでもこれから行ける道筋を示すことになるとも考えている。」

★06 ただその熱心さは一人ひとりでも組織によっても一様ではなかった。増床要求について日本筋ジストロフィー協会(日筋協)と東京都筋ジストロフィー協会(東筋協)との方向が一致しなかったことがある。さらに、デュシェンヌ型の場合は遺伝するのだが、このことを公表したり告知したりすることを巡っても対立があった。前者の役員を務め後者の会長だった石川左門(一九二七〜)――後述する石川正一の父――は、これらのことを巡って、全国組織の役員を解任された。石井に対する二〇〇九年のインタビュー記録がある。許可が得られれば引用することがあるかもしれない。

 まず知られ、今でも時に言及されることのある『たとえぼくに明日はなくとも――車椅子の上の一七才の青春』(石川[1973])の著者石川正一は一九五五年生まれで、二三歳で亡くなった★09。その父石川左門にはふれる必要があるから、その時に紹介しよう★10。

★09 その前にこれも一部では知られていた、というより出版当時はかなり話題になった石坂直行(一九二四〜)の『ヨーロッパ車いすひとり旅』(石坂[1973])がある。ただ彼は、進行性で子どもの時に発症するデュシェンヌ型の人ではなかった。石坂に行動と思想についての著作に馬場[2004]。
 「石坂さんは一九二四年一〇月大分県別府市に生まれた。中学生の頃、柔道でケガをした後、手足が少し不自由になり、筋ジストロフイーの一種と診断された。その後銀行に就職。それでも杖を使わずに歩けたし、日常生活そのものはそれほど不自由を感じなかったこともあり、自分を「身体障害者」と自認することだけは絶対にしないとの思いで過ごしていた。
 ところがある日、車での出勤の途中、わき見運転のダンプカーに追突され、その半年後、突然一夜にして両足がマヒし、立っていることもできなくなった。」(馬場[2004:18])
 石坂は七一年に車いすで単独でヨーロッパへの団体旅行に参加し、その体験をさきの本に書いた。「その本の与えたインパクト」は「大きかった[…]これは日本におけるバリアフリー旅行の歴史の出発点ともいえる書物だろう」(馬場[2004:18])と馬場は述べる。石坂の本は絶版になったが、その全体が石坂・日比野[2000]に再録された。また石坂の文章の一覧も馬場[2004]にある。
★10 正一没後、石川・石川[1982]が出版されている。
 最首悟の話の中の石川についての言及だけをここでは引いておく――他にもあった記憶があるが、まだ見つけられていない●。
 「筋ジストロフィーの青年たちに見られるような、私の出合った石川正一君もそうでしたが、その明るさというのは、もう、世を越えての明るさです。でも、普通私たちが言える明るさというのはそういうのじゃあない。にもかかわらずそういうことを無神経に言われたら、障害をもつ人とか、障害をもつ家族はがっくりするわけです。」(最首[1995→1998:322-323])

◆石川正一 1973 『たとえぼくに明日はなくとも――車椅子の上の17才の青春』,立風書房 [120]
◆石川正一・石川左門 1982 『めぐり逢うべき誰かのために――明日なき生命の詩』,立風書房 [120]


◆最首悟

 「社長に対して「水銀飲め」、「お前もこのからだになってみろ」、「私を嫁にもらってみろ」とせまって(p.322)いくけれども、そういうことが全部実現されたからといって、どうなるもんじゃあない。どうなるもんじゃあないというところの、その這いずりまわり方の中で水俣病の人たちがそれぞれの人生をおくり、その中から水俣病になってよかったという言葉も出てきた。深い言葉です。
 障害というのは、私はすべて一大事だといいましたけども、それはそういうもんなんです。どのようなことが、いろんなことが実現したとしても、障害自体どうなるもんじゃあない。そのことによって人生どうなるもんじゃあない。そのところのすれ違いが大きいのです。つまり、障害をもっていない人や行政的な立場の人の方が、あるいは一般的に物事を考える人の方は、どういうことをすれば障害をもつ人の環境が楽になって、そして、障害をもつ人の気持も少しゆるやかになるか、家族も少し気持がほぐれるのか、と考えたりパパッと言ってしまう。生活が楽になるのはいいです。ひとまずいいことです。けれど、その先は、言っちゃあいけない。というか、言うこと自体が間違っている。障害をもって明るく生きようというようなことはないです。宗教的な透明な明るさというようなものはある。筋ジストロフィーの青年たちに見られるような、私の出合った石川正一君もそうでしたが、その明るさというのは、もう、世を越えての明るさです。でも、普通私たちが言える明るさというのはそういうのじゃあない。にもかかわらずそういうことを無神経に言われたら、障害をもつ人とか、障害をもつ家族はがっくりするわけです。」
「私たちは何をめざすのか」『平成六年度障害福祉関係者研修報告書』障害福祉報告書通算第5集、三重県飯南多気福祉事務所、1995年→「星子と場」(『星子が居る』pp.301-343)pp.322-323)

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

 
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■2009年のインタビュー関連

◆◆2009/05/15 21:25
  [mlst-ars-vive 4232] 石川左門氏→伊藤(佳)様
◆◆2009/05/16 22:23
  [mlst-ars-vive 4251] 石川左門氏続
◆◆2009/05/19 07:40
  [mlst-ars-vive 4274] 反精神医学続/石川氏続
◆◆2009/05/19 18:28
  [mlst-ars-vive 4282] 石川氏続2
◆◆2009/05/20 07:41
  [mlst-ars-vive 4296] 別件です他(Re: [mlst-ars-vive 4291] Re: 石川氏続2
◆◆2009/05/25 20:39
  [mlst-ars-vive 4401] 人頁を(Re: [mlst-ars-vive 4400]石川左門さんの訪問について
☆☆2009/07/19 インタビュー
◆◆2009/09/09 07:59
   [mlst-ars-vive 5889] 伊藤原稿に/石川左門氏
◆◆2009/09/19 12:42
   [mlst-ars-vive 5977] 御礼+御伺(石川左門氏)(Re: [mlst-ars-vive 5976] 文字化・テープ起こし
◆◆2010/04/07 08:58
  [mlst-ars-vive 8024] 石川左門氏/『現代思想』/筋ジス
◆◆2010/07/03 00:04
   [mlst-ars-vive 8891] 石川左門氏文字化終了→関係者様
◆◆2010/07/08 11:05
   [mlst-ars-vive 8949] 筋ジストロフィー
◆◆2010/07/21 14:27
   [mlst-ars-vive 9056] 筋ジストロフィー続
◆◆2015/07/06 23:38
  [mlst-ars-vive:016030] 難病関連歴史続
◆◆2015/10/24 21:22
  [mlst-ars-vive:016270] 2007/09石川左門氏インタビューの件


◆◆2009/05/15 21:25
  [mlst-ars-vive 4232] 石川左門氏→伊藤(佳)様
  http://www.arsvi.com/ml/2009p05.htm

本日、りつりつ研究会。
(立命館と立教の院生の東京での研究会、ということで
始まった研究会。)
盛況でした。盛況すぎてとくに後半時間的にきびしかった
ですが、続きはまたそのうちということで。

伊藤(佳)さんの関係で、川口さんが言及した
石川左門氏。「死生学」にも関係する方です。
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
とりあえずいま作成。本は3冊現在注文中。

さっそく伊藤さん、インタビューにうかがとのことで
いっしょにという方、募集とのことです
(上記研究会のMLより)。

立岩


◆◆2009/05/16 22:23
  [mlst-ars-vive 4251] 石川左門氏続
  http://www.arsvi.com/ml/2009p05.htm

http://www.arsvi.com/w/is11.htm
すこし増補しました。
川口さん、小泉さん、田島さんの文章に
出てきてて、なにかしら心強いものを感じました。
(書誌情報の記載がちょっとわかりませんでした→田島様。)

ある程度調べられるだけのことを調べてから
うかがうというのは礼儀、でもありまた
お話を伺う方に敬意を表するということでもあります。

上記ぐらいの情報増補は30分もあればできるので
みなさんよろしく。

あと左門氏の子で、亡くなった石川正一氏の著書も
さっき注文しました。

小泉さんの資料
http://www.arsvi.com/2000/0702ky2.htm
に以下の引用(これから上掲ページに引用させてもらいます)。

石川左門「これからの医療・福祉――患者の立場から――」『ジュリスト総合特集』第二四号(一九八一年)
「医療・福祉の需要のすべてを、行政責任による社会資源の量的拡大に期待することは、単なる幻想を追うことにしかすぎない」

在宅ケアの実現
石川正一(昭和五一年五月から五四年六月、二三歳七ヵ月で死去、筋ジストロフィー症・デュシャンヌ型)
「正一を囲むチーム」
専門医、地元主治医、保健婦、メディカル・ソーシャル・ワーカー、理学及び作業療法士など、月に延べ一〇数人の専門職が訪問。(200)
「ところが……検診事業の一環としての在宅ケアはやがて立ち消えになった。」(204)

「在宅ケアに関与した専門職種の多くは、こうした職業的自律の問題を抱えていた。そして、在宅ケアはそれに極めて有効な解答を与えてくれる試みだったのである。」(206)
「在宅ケアには、専門職を引き付ける吸引力が備わっていたのである。」(207)

「昭和四九年に開始された府中病院神経内科の在宅診療を皮きりに、東京都下では、公的サービスからボランタリーな活動まで様々な難病患者の在宅ケアが試行され、実施され、かつ一定の成果を生み出した。そして、こうした試行からほぼ一〇年後、国において難病対策に在宅患者を支える事業が付加され、さらに訪問看護や在宅診療が健康保険制度の中に組み込まれた。それは、あたかも東京都下での試行を観察し、その成果を見届けるようなタイミングであった。」(213)

あと、私のおぼつかない記憶では
最首悟さん(木曜に『天の魚』の企画で会いました)
http://www.arsvi.com/w/ss02.htm
の著書に石川正一氏についての言及があったかと。
わかる方は御教示いただければと。
(私の手元にあった本は今はみな書庫に行ってますので
確認できません。)

立岩


◆◆2009/05/19 07:40
  [mlst-ars-vive 4274] 反精神医学続/石川氏続
  http://www.arsvi.com/ml/2009p05.htm

以前もこのMLにお知らせしましたが
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4779503140/africajapanfo-22
の安藤論文にすこし言及があります。
それはたいへんすこしですが、それでも
秋元氏の1976年の本からひかれてたりしていて
芋づる式に文献を探していくことができます。

社会学の方で論文があるのが
筑波の院にいていま早稲田の教員の
周藤さん
http://www.f.waseda.jp/ssuto/
で、(こちらにいらっしゃる前の)天田さんの企画
(だったのかな?)で、熊本学園大学での
保健医療社会学会大会の催しで話をしましたが
かみあいませんでしたね。



前便で示した石川氏の(共著の)本では
筋ジストロフィーの遺伝について(患者会などが言いたくない気持ちは
たいへんよくわかるが、でも)言わねばならんのだという
主張が出てきます。

上記の『概念分析の…』の中では
前田さんの「遺伝学的知識と病いの語り」という章があります。
今日もっていきます。

立岩


◆◆2009/05/19 18:28
  [mlst-ars-vive 4282] 石川氏続2
  http://www.arsvi.com/ml/2009p05.htm

『死と直面する』(1992)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4884743091/africajapanfo-22
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4884743091.html

配架用の棚に先頭に(さきに紹介したもう1冊とともに)置きました。

第1章 残された時間をよりよく生きるために
第2章 尊厳死を選択するということ
第3章 家族に囲まれる幸せを噛みしめて
第4章 告知で生の時間はよみがえるか
第5章 死をみつめることで生が見えてくる
第6章 いま医療に問われている生と死の問題

アマゾンも紀伊國屋も細かい書誌情報は出てきません。
 →ここは手で入力を
1つの章を2〜3人の人が書いてます
第1章の先頭の石川氏の文章の他、
第2章に沖氏(尊厳死協会)の文章
第6章に太田和夫氏「オートバイ事故で亡くなった青年の腎臓がいま六人の生命を
支えている」等。


◆◆2009/05/20 07:41
  [mlst-ars-vive 4296] 別件です他(Re: [mlst-ars-vive 4291] Re: 石川氏続2
  http://www.arsvi.com/ml/2009p05.htm

大谷(い)さんどうも。

> 石川左門氏の表題のもとで反精神医学の話題もあったんですが、これは別件なん
> でしょうか?

別件です。とりあえず関係ないです。

> 生と死を考える会と東京・生と死を考える会が分裂したのは、デス・エデュケー
> ションをめぐる見解の違いであったかと記憶しています。
> 筋ジスでお子さんを亡くされた会員との溝がうめられなかったようなことを風の
> 便りでききましたので、それが石川氏なのでは、と。
> (今、知人に問い合わせ中)

たぶんそうではないかと。

石川氏は、筋ジス協会の全国と東京の分裂(というか)
にも関係しているはずで、そのこともあります。



石川氏の本、千葉にいる伊藤さんはご自分で3冊買ったそうです。
京都の人がすぐに必要ならわかりませんが、その本
借りてよいではと。→有吉様

立岩


◆◆2009/05/25 20:39
  [mlst-ars-vive 4401] 人頁を(Re: [mlst-ars-vive 4400]石川左門さんの訪問について
  http://www.arsvi.com/ml/2009p05.htm

伊藤(佳)さん
http://www.arsvi.com/w/ik10.htm
どうも。(このページ、全文や要旨掲載できるものは
して(もらって)、リンクする(してもらう)とよいです。
2007年の障害学会のは既に掲載されているので
リンクだけでよいはず。)

> 石川左門さんにお話を伺う機会を7月19日に設けました。

けっこう時間ありますね。誰か
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
の増補おねがいします。
(まだグーグルではひっかからず、自分でこの頁作ったの
忘れてました。)

「人」のインデックスに記載されてませんでした
よろしく→HP様

立岩


◆◆2009/09/09 07:59
   [mlst-ars-vive 5889] 伊藤原稿に/石川左門氏
  http://www.arsvi.com/ml/2009p09.htm

伊藤(佳)さん
http://www.arsvi.com/w/ik10.htm
の原稿。

すくなくとも論文3本書かれてもよいことが
書いてあります。

1)筋ジスの親たちの運動、国立療養所との関係
石川左門氏らの活動

2)当人たちの著作、活動

3)病院の経営

今回のメインは3)ということで、まずは、書き足すべきを
書き足していってください。

1)2)については、本格的には別稿で
と但し書きをする。3)が増えていって規定量を超える場合には
ここを削るあるいはなくしてもよいでしょう。



ところで、石川氏
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
へのインタビュー、文字化されていないのでは?
直接に関わった人が忙しいのであれば、
誰かにお願いしてやっていただいてもと思います。

じつは1)〜2)、合わせて2本ですむようなものではないと
思います。もっと書かれるべきだし、書けるものだと思います。



文献表は、『Core Ethics』では特定の形式を規定していませんが
この種の論文では、著者名アルファベット順の文献表を
用意した方がよいと思います。

あと表記には、なおした方がよいところが多数あります。
堀田さんにみてもらっているとのことですが
他の「教育力強化予算」の人たちにもお願いするなどして
なおしてもらってもよいかもしれません。

立岩


◆◆2009/09/19 12:42
   [mlst-ars-vive 5977] 御礼+御伺(石川左門氏)(Re: [mlst-ars-vive 5976] 文字化・テープ起こし
  http://www.arsvi.com/ml/2009p09.htm

篠木さんありがとうございます。よさそうですね。

/z/r01.htm
として、HPに掲載していただければと

> ぽけっとれこーだー
> http://www.vector.co.jp/soft/win95/art/se096521.html
> Okoshiyasu2
> http://www.forest.impress.co.jp/lib/offc/document/docsupt/okoshiyasu2.html



石川左門氏への聞き取り結果はどうなってますか?
→行った人

立岩


◆◆2010/04/07 08:58
  [mlst-ars-vive 8024] 石川左門氏/『現代思想』/筋ジス
  http://www.arsvi.com/ml/2010p04.htm#8024

昨年の石川氏
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
(関係ある人、この頁読んでください)
への聞き取りの文字化、樋口さん
http://www.arsvi.com/w/hy12.htm
がやってくれるということになり、あとは
データの受け渡し→作業ということになって
いましたがその辺り円滑に進んでいますか?

(こないだ買って、使ってもらったフットスィッチ
同じところにおいてあるので使ってもらってよいです
→樋口様)

こないだ『現代思想』
http://www.arsvi.com/m/gs.htm
の編集者と話していて
来年あたり患者(等)運動(史)の特集をしたいと。
そういうことにも関係してくるので。
(聞き取りの一部を掲載という可能性もありえます。)

 *この雑誌関連の頁の増補・整理もお願いしてありますのでよろしく→係様

上記の雑誌は(しばしばとんでもなく)依頼から締切
までの期間が短いです。素材だけでも
そろえておく必要があります。よろしく。

伊藤(佳)さん
http://www.arsvi.com/w/ik10.htm
事業の方きわめて多忙で大変だと思いますが、すこし
なにか進んだでしょうか?

立岩


◆◆2010/07/03 00:04
   [mlst-ars-vive 8891] 石川左門氏文字化終了→関係者様
  http://www.arsvi.com/ml/2010p07.htm#8891

樋口さんより連絡あり
昨年の石川氏
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
のインタビュー記録、文字化終了とのこと
チェック(校正)、そして石川氏と連絡とるなどして
利用法決めていく仕事担当する人
必要です。関係者連絡ください。立岩


◆◆2010/07/08 11:05
   [mlst-ars-vive 8949] 筋ジストロフィー
  http://www.arsvi.com/ml/2010p07.htm#8891

http://www.arsvi.com/d/md.htm
伊藤(佳)さん
http://www.arsvi.com/w/ik10.htm
のテーマなのですが、事業所の経営兼ヘルパー業で
きわめて多忙。
あろうことに、筋ジス関連のここ数十年について
書かれた社会科学的な論文はないのではないかと
思います。伊藤さん自身はいくらでも書くことあるので
あまり昔話に時間かけらていられないだろうということも
あります。どなたか、いっしょに――いつも言ってますが――
副業としていかがでしょう?
こないだようやくあがってきた石川左門氏
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
インタビュー関連のメールのやりとりの流れということでも
あります。石川氏関連の本2冊着きました。
もっていきます。1冊はすでにページありますが
(白井さん作成)。
http://www.arsvi.com/b1900/7307is.htm

立岩


◆◆2010/07/21 14:27
   [mlst-ars-vive 9056] 筋ジストロフィー続
  http://www.arsvi.com/ml/2010p07.htm#8891

昨日、伊藤(佳)さん、PDの村上(潔)さん
http://www.arsvi.com/w/mk02.htm
とすこし話。
依然として共同研究者求めています。

まず
http://www.arsvi.com/d/md.htm
を増補。「協会」のファイルを別にして
/o/jmds.htm
として
http://www.jmda.or.jp/
にリンク、不要な情報(支部の連絡先など
ないほうがよいのでしょう&HPにあれば
そこにリンク等)

伊藤さんが村上さんに
伊藤さんの所蔵の関連本リスト送る
そうしたものを使い、他も探して関連本を購入。
刊行物の出版年順リストを増補・修正

まずはそんなことから。
様々なすべきこと、するとよいことあります。
(適宜問いあわせ等に応じます。)

繰り返し
依然として共同研究者求めています。
伊藤(佳)さんフォローしていただければと。

立岩

----- Original Message -----
Sent: Thursday, July 08, 2010 11:05 AM
Subject: [mlst-ars-vive 8949] 筋ジストロフィー


◆◆2015/07/06 23:38
  [mlst-ars-vive:016030] 難病関連歴史続
  http://www.arsvi.com/ml/2015p07.htm#016030

長谷川さん
http://www.arsvi.com/w/hy06.htm
がその西谷さん(宇多野病院院長退職後富田病院顧問)
に最近インタビューしたという
知らせをもらいました。そういうこともあるのだとと思いました。
文字化され公開もされるようです。
そういうことは今のうちにやっといた方がよい※と思います。

葛城さん
http://www.arsvi.com/w/kt25.htm
からも資料いただきました。
ありがとうございます。

※ずっと前に石川左門氏
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
に何人かで話伺いにいったものなど。
たしかに聞き方が散漫なところはあってまとめにくいかと
思いますが、貴重な聞き取りではあったと思います。
(私はいちど文字に起こしたものはもらっていますが
それきりです。〜長い時間とっていただいたはずで
そのままでにしては失礼なことでもあるのではないかと。)

立岩


◆◆2015/10/24 21:22
  [mlst-ars-vive:016270] 2007/09石川左門氏インタビューの件
  http://www.arsvi.com/ml/2015p10.htm#016270

前にもここに書きましたが
このインタビュー65000字ぐらいあるもので
読みたいという人もいるはずで
石川氏
http://www.arsvi.com/w/is11.htm
から許諾を得られる人(連絡つけられる人)
いませんか?


 
>TOP

■2009/07/19インタビュー

 「私が一番最初に筋ジスの運動に加わったのは、昭和39年〔1964年〕。その時に全国組織と都道府県組織ができて、私が東京の代表であると同時に、全国組織の役員をした。その中で、一番最初に出した運動方針というのが、まず難病の場合だったら治療法がないのだから原因の究明をしてくれ、研究を促進してくれというような回答、そしてその時は公的サービス制度が難病にまで及ばなかったものですから、やはり医療費の負担軽減ということがあったわけです。
 医療費といっても、医療保険制度の対象となる医療費はごく一部で、我々の生活者としての立場を考えたときに、医療保険で賄う医療費以外の医療費がもっと多い。例えば、定期通院をしなければならないとなると、東京の場合ではタクシーが利用できない。車いすを持ってきて、子どもを乗っけて、タクシーで手を出しても誰も止まってくれない。そうすると、どうしてもやはりタクシー会社に頼むことになる。入院をすれば、昔のことですから、医療、病院の医療費があったときも、あの頃はいわゆる付添者にお願いをして、医療の看護不足を補うというようなことでもって、その入院の医療費の問題で付添料の差額が必要になる。そういった負担がかかってくる。医療費の軽減、医療保険で賄う範囲のことだけではなく、もっともっと生活に役立つような医療費の軽減、というようなことも思い当たる。
 それから末期になると、非常に在宅の介護負担が深刻化します。そういったことで家族の介護には限界がある場合には、どうしても専門的な環境を整えたところ、難病の筋ジスの患者さんであっても、末期でも対応してくれるような専門的な施設を建ててくれとか、というようなことがだいたいあの当時の疾病運動の始まりのどこでも掲げるような項目だったのですね。
 最初は、4・5年は同じことを訴えてもですね、右の耳から左の耳へになっているのですね。5・6年くらいになると、そろそろ真剣に聞いてもらおうと。具体的にどのような要求を考えているのか、正式な話を聞く受け皿の窓口を作ることができた。少し動き出していく。
 それからしばらくたってから、今度は医療の専門の問題とか、ならばそのためのどんなふうな医療を考えたらいいか。子どもが安心して教育を受けられるような専門施設を建てるときに、施設作りの問題だけは、厚生省はその地域に横並びに強化する。それは厚生省OBの発想がありまして。予算を国立療養所の空きベッドに付けた。既存の国立の病養所の空きベッドを利用して、筋ジスの専門施設を作るという発想だったのですね。あの頃、抗生物質の開発によって、結核患者が短期で社会復帰ができるようになった。そうすると、今まではいったん入ったらずっと一生国立病養所のお世話になっていたのがどんどん退院患者が増えてきた。そうすると空きベッドができた。その空きベッドをどう埋めるかということで筋ジスの施設づくりを生んだものだから、待っていましたとばかりに、1年という、とても普段の普通の運動じゃ考えられないような短期でもって対応をしてくれたということになる。血の通った首相、行政官がいるものだと思ったのですね。喜びをもって、子供にも延命効果がでるようなということで、どんどん入れた。
 入れてみたところがですね、入れた後どんな生活をしているのかと思うと、親御さんたちが顔を出してですね、どんな様子かと。すると、どんな小さな小さな声でもって、看護師さんやお医者さんに聞こえないような声で気を遣いながら、「お父ちゃん一緒に帰って。お母ちゃんおうちに帰りたい。」みたいな、そこから初めて子どもの幸せって何なのか。一分でも一秒でも子どもの延命を期待することだけが幸せなのか。短くても、生まれてきてよかったと思えるような人生を送ること、最大な願いというのは、出来れば家族一員として最後まで生きて終わりたい、それが子どもの本音だということがわかったわけです。  そこで、東京だけがですね、子どもが生まれてきてよかったということの生活基礎を実現するためには、何でもかんでもとにかく延命効果を期待するだけのその施設の生活・施設づくりであっていいのだろうか、条件が整えれば、最後の最後まで子どもが家庭の一員として送れるようなそういう運動こそが本来の子供の幸せを考える運動じゃないかということがあってですね。東京の場合には、国がお子さんを引き取るようなことだけの運動はしなかったですね。
 そうしたところがですね、大問題になってしまう、全国組織の中で。というのはですね、設備と医者がついた。すると、その翌年は出来た予算の額をいかに増やすかということが、第二の運動の目標となる。ところが東京のアピールは、子どもを引き取って、とりあえず頑張るところまで頑張ろうということで、末期の難病を気にする子どもでも、とにかく人間らしい生活をできるようなそういう生活の保障を地域の中で考えることも、一つの大きな大きな親としてのなすべき課題じゃないだろうかというものでした。
 私たちが地域のことを考えるときは、だいたい在宅を中心として、在宅の介護が最後の最後まで全うできるような手続きとは何だろうかいうことが、私たち親の気持ちだったのですね。だから地域というと、私たちにとっては区市町村なんです。都道府県というような広域の地域ということではなくて、末端の末端の、本当に家庭の日常生活を送るその場を地域と呼んでいます。ちょっと手を貸してとかね、お金がなくなっちゃったからちょっと借りに行く間がなくて、間に合わないからちょっと貸してという昔の隣組的なそういう範囲を地域と呼んでいます。
 その地域を実践するための運動は何かということが、私が疾病運動から連合運動へ、連合運動から今度は地域運動へと転換をしたという理由で、私たちにとっての地域というのは本当に隣一辺倒での隣人同士の付き合いができる範囲のツーと言えばカーというようなそういう人間関係を維持すると、可能な範囲での距離、それが私たちの言う地域なんです。それが私どもの地域という考え方なんです。
 運動というと、国とか都道府県となるけれども、そうじゃなくて、まず地域の中で私たちの在宅の介護を可能にするようなところが、どこまでを対応してくれるのか。できないとするならば、できない条件を考えて、それは都道府県に持っていって、それを都道府県としては末端の地域の中でどのように解決すると、何をしようとしているのかということをまず住民の人たちが問題意識を持つ。都道府県でも同じような問題があって、ならばそれをどうお国に持っていこうということが本当の運動じゃないのではないか。だからまず地域の生活を中心にしたところで、それで足ないところは何を都道府県に要求するのかと考えてもらう。どういうふうに利用するのかということの下から上、何からが疾病運動にしろ、いろんな運動というのはすぐ数値を作ると、お国レベルの運動は違うですね。だから一生生活に密着して、サービスが可能になるようなそういう運動をするために、まず自分たちの日常生活の場から市区町村に何をどうするか。それから都道府県に何をどうするか。それからコミュニティというのが、昔みたいな上から下へというような運動じゃなく、ボトムアップで下から上へというような発想で、もう一度自分に対する福祉運動を含めた全ての運動を見直すべきではないかということが、私が大きな転換をした理由です。
 ですから、いろんな学会で言うのですけれども、あなたの考えていらっしゃる経験発表が、都道府県に向けてのテーマであって、もっと私たちの日常生活の介護の問題も共有したときに、今はどうなっているのですか。今は一生懸命難病問題で地域に生きたいと思っても、医療施設の改革は逆に保健所をつぶすような運動をやっている。だとすれば、あなたがたはそういうふうな方向に対して、ノーというようなことを言わなかったのか、それを私たちは学会で発表を聞きたかったということを言います。私自身が親の立場から方々の学会に顔を出しているものだから、普通の団体の親父とは違うので、生活者の立場から専門職の担っている問題をどう考えるかということを、逆に聞かしてもらおうじゃないかということを、東京医科歯科の資料研(?)でもやってみたり、慶応大学の看護学部からも発売されています。保健婦さんの現場の集会に私たち親の立場からこの村についてどんな介護があるかというテーマを話すというのをお願いするようになったので、何かよその患者会とはちょっと違ったりするのかなあというふうに、私自身は思っています。
 ですから、地域ということはあくまでも自分たちの家庭の中では患者の中での一緒に共同生活できるようなそういう地域の保健医療基準のあり方、その勉強をどうするのか、医師会にどのようなアプローチをするのか、医師会と病院医療との連携をどうするのか、そんなことが地域という感覚の中からそのことに取り組んでもらわなきゃ意味がないというのが、私自身の感覚論です。
 私自身難病運動の会長に祭り上げられて、その次に総評という大きな労働組合がありまして、労働組合があって、そしてあの時第一次オイルショックが昭和46年〔1971年〕にありました。オイルショックで、主婦たちがトイレットペーパーを行列して買うというようなことがありました。
 その時に国民春闘、つまりその大きな生活の危機のしわ寄せで一番弱くなる弱者がいる。あの時、労働組合の人たちが「自分たちは弱者」というように思ったのですね、労働の組合の立場は。だから、国民春闘というのをやって、生活不安のために国民運動を展開しなければならない。でもどうも労働組合だけじゃ迫力がでない。それから、弱者と思われているところの難病の団体に呼びかけて、一緒に国民春闘を共闘しようという話だったのですけれども、私はこのときに社会党の生活局長から電話があって、是非乗っかってくれないかということでした。
 私たちは、労働運動のイメージアップのために福祉運動に利用されるのはどうも納得できないと言ったのだけれども、よその団体の場合には本人が運動を展開する。ところが、筋ジスの場合には親が運動の中心をやっている。私は仕方がなくなるまでは商売やっていたのですよ。中小企業でありますけれども、運送会社の経営をやっていて、それをたまたま自分の子供の原因でもって福祉運動に関わってしまう。ですから、何か問題があると、待てよというふうな考え方をする癖がついているのですね。不況になった、この不況で散々問題が起きた。起きた問題について取り組む前に、「待てよ」と、それは別なチャンスになるんじゃないかというようなそういう訓練を受けていたものですから、ほとんど勘だけれども、「待てよ」、これはいい機会にならないかなと思ったときですね。今まで厚生省は何回言っても、こっちがこれを国民春闘に乗っかっちゃって、それでアピールしたらアピールするチャンスにしたらいいんじゃないかなと思って、一緒にやりましょうということになったので。
 もう一つはですね、厚生省の厚生行政の原案というのはですね、厚生省が考えたんじゃないんですよ。社会保障制度審議会というのがあるのです。これは厚生省の場合にはちゃんとしたそのような部門があって、あの当時はですね、東大の闘争があって、学生運動をもって追い返された大河内一男という人がですね、社会保障制度審議会の会長をやっていたのです。そこで厚生行政の原案を作ったのです。だから厚生省の原案そのものに私たちの保健医療に対する切実な要望を持っている。難病患者の当事者がその社会保障制度審議会の中に取り込みたかった。あの当時は社会保障制度審議会の審議の構成メンバーのある行政の立場、それから政治家の立場、それから学者の立場、それから労働組合その四者構成であるため、差別を受ける本人の立場は入っていなかった。だからそれに私は食い込むという発想を持っている。それで、その国民春闘に乗っかって、その要求をして、強引に入っていこうと思ったわけです。そういう野心があったものですからね、乗っかることにOKしたのです。
 それで国民春闘に乗っかったのです。福祉団体には、様々な団体、大から小なりいっぱいあるのです。一番できたばっかりで弱い団体というのは、普段は厚生省の丸の内の主任クラスが、話を聞いてくれるのですよ。よく分かりましたと言うんだけれども、こっちからこっち〔右耳から左耳〕なんですね。もうちょっと力の強い団体は年度末の予算編成のチームだったり、課長が出てくるのです。課長が出てきて、じゃ今年度は皆さん要求事項をちょっと進めておきましょうかと言って、課長が出てくるのです。そうすると、今度は課長でももう何年も何年も特に理解している。その次のもうちょっと力の強い組織力のある会の人数の多いところは、部長折衝ができるのですね。
 ただ、リウマチも深刻なんだけど、数が多いのだけれども、もう大した問題ではない、議員さんにとってもこれだという興味がない場合は、部長でもなかなか聞いてくれない。もっと強い団は局長折衝をやっている。もっと強い場合には、傷痍軍人の会だとか、遺族の会だとかね、これが第2次折衝、大臣を呼びつけて、お国のために命を惜しむというような人がいた、その団体を無視するなということなんだけれども、大臣折衝。けれどできたばかりの難病患者の会は、いつも出てくるのは課長折衝の前なんですよ。
 だから私は国民春闘を利用して、局長折衝を実現するために乗っかったのですよ。ところ局長を通り越して、大臣が出てきたのです。国民春闘に乗っかってよかったと思うのです。
 あの頃は報道関係が難病という言葉を活用すればですね、記事になった時代だったのです。そういう時代があったのです。それまでは、疾病、リウマチとか近視とかね、筋ジス症とかそういうような疾病別の団体が小さな小さな一握りの数でもって運動したのです。難病という大きな組織になると、もう行政は報道関係を無視できないということになって、もう大々的なスターですね。やはり大臣が出てきた以上はですね。これは簡単な質問じゃすまされない。しっかりと難病の根本的な解決をもたらすようなお土産をもらわなければならないということを考えたときに、せっかくの大臣折衝だから、じゃ我々は何を要求すべきかということなんですが、全国の参加の難病団体の代表者に会って、難病問題はどうだと考えてみようという。
 いろんな問題がある。だいたいどこの問題も同じなんですね。私は思ったのです。例えば、3時間待ち3分診療。3時間待つ体力があったら、難病患者じゃない。そうですよ。だから3時間待ちの3分診療ということは、深刻な難病問題になるわけですよね。そのような問題も出てくるわけです。
 それから、短期の退院勧奨、入院してパッパッパと検査したらすぐ出てくれ、あとがつかえていますよとか、あれも難病患者の疎外というところから考えたらね。あれも無視できない問題である。難病患者だから、じっくりと面倒を見てくれて、入院してパッパッパと検査したらすぐ出てくれ、あとがつかえていますよとか、あれも難病患者の疎外というところから考えたらね。あれも無視できない問題である。退院するときには、しばらくの間これでもって適正な在宅サービスできるようなことが、懇切丁寧な時間をかけて人間を看てくれということです。  それから継続診療ができない。もっともっと身近なところに専門医療の窓口が欲しいのに、地元のお医者さんに頼もうと思っても、地元のお医者さんは専門医じゃないからと言って、主治医になってくれない。主治医になってもらわないと、保険婦さんが面倒見ようと思っても、主治医があって初めて看護婦さんも保健婦さんも力量が発揮できる。院医療ともっと地域医療が連動して、専門医療と地域の医療とが連動してくれたら、開業医の熱心な人だったら、主治医になってくれるだろう。主治医になったら、初めて今度は看護婦さんの世話になるんだ。というようなこと、病院医療とか地域医療とか問題がいっぱい出てきたのです。
 難病問題をアピールする、私たちはこんなに悩み苦しんでいるのだということを、そういうことを言えば言うほど、行政は理解してくれて、政策を進めてくれるだろう。そしてこれらは難病問題になると同時に難病問題を越えた問題だと思うようになった。例えば、医療保険制度に問題がある。医療経営というのは、病院の所得というのは、何かというと、来た患者さんがたくさん薬を取って、たくさん薬を飲んで、それで入院したらたくさん検査を受けてくれて、検査が終わったら、さっさと帰ってくれて、病院のベッドの回転数を高めている。そういう患者さんは良い患者さん。ところが、難病の患者さんというのは、治療法もないから、長年病院のベッドを占拠してしまう。病院の経営を考えたら、ベッドを占拠する患者さんは、良い患者さん、お得意さんとは言えない。たくさんお薬を飲んでくれて、薬代を払ってくれる患者さん、これは病院の経営になる良い患者さん。しかし難病患者さんはお薬をたくさん持っていってくれない。
 これはもうまさに医療制度と医療保険制度のどう変えるかという問題になります。この医療保険制度の矛盾にこそ、難病問題を生み出す背景があるんじゃないか。高度な医療の恩恵を必要な患者さんに受けさせるためには、患者さんがみな大病院に行かなくてもいいじゃないか、地元の開業医の医者で十分じゃないか、そうすると、病院の役割り分担、地域医療との分担をどうして。そういうことを国は考えていくべきじゃないか。そういう問題を背負い込んでもらおうと、そういうふうになってきたわけですよ。
 それあんたの問題、医療保険の問題、あんたの問題、病院の経営の問題、あんたの問題、あんたはこの問題を担ってくれというのですね。みんな代表に即座に役割分担をして、私は大臣折衝に臨んだ。ところが、早いこと固い約束をして、役割分担を聞いて決めて、難病問題を生み出す背景にはこういうふうな社会矛盾が、社会的な制度の矛盾がある。そういった矛盾が疾病の問題じゃなくて、本当に大きな国づくりの問題になるんじゃないか。で、その大事な問題もあなたはこの問題を担って、大臣に言っておいて、そしたらこの問題を担って大臣に問題が起きたのですよ。で、それに基づいて大臣折衝に臨んだところなんです。あんな厚生省とやって、みんな自分の団体の短編と思って、そこから私がその会長を3年でやめて、もうこんな運動なんかやってられないかと思って、これが地域の中で変え、自分の子供が全うできるような人生を送ることだけがそういう街づくりとは何かということを感じました。
 ですから、私の経験の中に疾病運動から難病運動へ、難病運動から街づくりの運動へということを三段階の変化を考えています。で、この中でもっていて、全国の難病連の会長になったわけですから、難病患者とはね、週何回か会ったのです。難病の人たちの担っている根本的な問題を解決しようとすれば、それは各局・各課にまたがる問題です。難病対策課に行けば、話は承るけれども、難病の政策に対する決定権を持てない。各局・各課にまたがる問題はね、難病対策がこの医療保険の点数をつけることはどうであるかは、病院の医療経営に関わる大きな問題がね、難病対策課が決定権を持てるはずがない。だけど、定権のない対策課にえんえんと訴えるわけです。そこに当事者運動の限界があるということを私は感じた。
 で、私はもう一度地域に戻って、地域の中から地域の中で自分のたちの生活にどんな問題があるのか。そのためには医療が問われるためには、保険金の経営がどうあるべきなのか、医師会がどうあるべきなのか、自分の生活者の立場に立って、地域作りから始めていくべきだと思うのです。しかし当事者は素人です。専門職は専門職なりの問題をもっている。専門者の問題は私自身の街づくりの問題である、私自身の地域の問題でもある。それで、一緒に手を組んでね、政策について研究する、そういうのが私の理想なんですよ。どの学会に行っても事例研究はありますが。いま私は東京医科歯科大学の看護学科、今度は慶応大学の看護学科、仲間の団体から声がかかるので、けっこう忙しいのですよ。面白いとうれしい話を少し聞きます。で、その時で皆さんもそのようなことの噂を聞きつけて、いらっしゃって来たのかなと勝手に解釈をしているのですけれど。  ヘルパーの派遣業務にしても、数をこなして、経営を成り立たせる方向に行っちゃった。だから今最近はヘルパーさんのなり手が少なくなってきた。そんなことは地域だから問題になる。だから、地域運動の中で要求すること、広域の都道府県で要求する問題と、それを国レベルの政策だということと、その使い分けが一般の市民運動にはない。こういう問題が出てくる。それと同時に、専門職は事例作りとか専門職としてのプライドについ振り回されていく。私たちは社会的な見るものをどうこれからアップしていく。よりよいサービスをするためには、どんなふうな身分保障をやっていくことを、そういう運動を一緒にやろうという専門職の意識がなかなか私の耳に入って来ない。専門職というのは運動に弱いですね。専門職の方でいい話を聞きましたと言ってくれる方はいらっしゃるのですけれども、じゃ専門職の立場からどんな運動を展開して、どんなふうな連携を市民運動といっしょにやるかということまではなかなか出てこない。」

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP: 20090515 REV: 20090516, 20110331, 0404, 20170617, 19, 20180325
病者障害者運動史研究  ◇筋ジストロフィー  ◇「難病」  ◇WHO 
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