石川 信義
いしかわ・のぶよし
1930〜
last update:20101230
◆http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%D0%C0%EE%BF%AE%B5%C1
精神科医。1930年群馬県桐生市に生まれる。平成21年2月まで、医療法人赤城会・三枚橋病院理事長。旧制二高を経て、1952年、東京大学経済学部を卒業。会社勤務ののち、1962年、東京大学医学部を卒業して精神科医となる。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、1968年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に力を尽くす。一方、1961年、第5次南極観測隊に参加。1965年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長をつとめる。
■著書
◇石川 信義 20100527 『開かれている病棟――三枚橋病院でのこころみ 新装版』
,星和書店,381p. ISBN-10: 4791100182 ISBN-13: 978-4791100187 2284 [amazon]/[kinokuniya] ※ m
◆仙波 恒雄・石川 信義 198310 『精神病院を語る――千葉病院・三枚橋病院の経験から』,星和書店,336p. ISBN-10: 479110093X ISBN-13: 978-4791100934 [amazon]/[kinokuniya] ※ m
◆石川 信義 19900520
『開かれている病棟 おりおりの記』
,星和書店,327p. ISBN-10: 4791101987 ISBN-13: 978-4791101986 [amazon]/[kinokuniya] ※ m
◆石川 信義 19900501 『心病める人たち――開かれた精神医療へ』,岩波新書,248p. ISBN-10: 400430122X ISBN-13: 978-4004301226 819 [amazon]/[kinokuniya] ※ m
◆石川 信義 19780425 『開かれている病棟――三枚橋病院でのこころみ』,星和書店,381p. ISBN-10: 4791100182 ISBN-13: 978-4791100187 2284 [amazon]/[kinokuniya] ※+[広田氏蔵書] m.
■
「昭和三八年、精神科医になってはじめて、私は精神病院というところを見た。
鉄格子の向うには、これまで想像したことのない世界が広がっていた。
「これはひどい」。心の底からそう思った。あまりのことに心が凍りついて、私は声も立てられなかった。この日に受けた衝撃を私は生涯わすれまい。
「N病院の閉鎖病棟……。鍵のなかへ入ったとたん、顔をしかめて私は棒立ちになった。」(石川[1990:12])
■言及
◆広田 伊蘇夫 20010810 「序説」,藤沢・中川編[2001:3]*
*藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon]/[kinokuniya] ※ m
「あらためて記すまでもなく、島は日本における戦後、唯一の政治闘争、1960年安保闘争の指導者だった。しかし、私にとっての島は、砂川基地反対闘争以来、心の奥底に居座り続けた信頼の星だった。年月を経て、精神病院の開放運動に一石を投じつづけた私の朋友、石川信義と共に、当時、砂川小学校の講堂に寝泊まりし、降り続く雨の中、デモ隊の一員として国家権力に対峙し、反安保闘争の前哨戦として、1959年11月の国会突入時には、これも石川と共に国会の横柵を越え、正門の鉄扉を叩きつづけた。いずれも島の信条に共感した行動であった。論理を越え、自らの行動をもって、亡びゆかんとする人間的情念を呼び起こす魔性こそ、島成郎の本質だった。」(広田[2001:3])
◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料
◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-5(2011-5):- 資料
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◆立岩 真也 20131210 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,434p.
第1章 前史・既に言われたこと
5 幾つかの「開放」の試み・他
「中井は、第2章に紹介したように――大学の医局講座制を(匿名で、最初に)批判した本を出しつつ――「政治」から距離をとり続けた人だったが★22、二〇一〇年に当時に出した筆名の文章を幾つか再録した本で当時のことを幾らか記している。
「『日本の医者』の反響は四つだった。/まず、版元を介して私の了解を求めてから、京都の下宿まではるばる訪ねてこられた近藤廉治先生という精神科医があった。」(中井[2010b:295])△053
「『日本の医者』の読者でただ一人、京都に訪ねてこられた近藤廉治先生には今日まで御親交をいただき、後に精神医学の多くを実地に学ぶ師の一人になった。時々、淺草の大道芸見物などに誘って下さった。私の硬さをほぐそうと思われてのことであったか。
とにかく、私は、今後の身の振り方を決めなければならなかった。助手という地位を差し出すというと、京大ウイルス研究所はにわかに私に好意的になって、臨床ならいるでしょうから、と学位を出すといい、私は未発表のデータをまとめ、岩波から出ていた『生物医学』に投稿した。[…]
年度末までの短期間、私は伝研に研究に来ていた東大小児科の医師の紹介で、東京労災病院の神経内科と脳外科に一か月ずつ見学に行った。私は精神科もたずねてみようと、近藤先生にお会いしに行った。先生は、「おお、それを言いだすのを待っていた」と言われ、「あなたには東大分院神経科の笠松教授のところがいい。あの大きな頭であなたでも受け入れるだろう」と言って紹介の労をとって下さった。」(中井[2010b:300-301])
そして中井は――「要約すれば、私は一九八〇年から一九九七年まで神戸大学医学部精神神経科の教授をつとめた。その期間について、私は大きくない手中の権力を活用することに努めたとしかいうことができない。」(中井[2010b:305-306])――とまとめる自らについて、その自分がなした大きな仕事の一つに神戸大学附属病院の改築を後にあげることになる(中井[1993]等)。
そして中井が影響を受けた近藤の病棟全開放が七二年からだとしてその四年前、六八年の五月には石川信義(→72頁)が三枚橋病院(群馬県太田市)を開設している。その試みが著書として報告されるのが一九七八年(石川[1978])。「「開かれている病棟」は、学会闘争という表舞台での空中戦ではなく、日常の臨床の場から改革を問うという意味で説得力を持っていた。全国から三枚橋への見学が集中した。」△054(藤沢[2010:22])
そしてそのさらに四年前の六四年、「六〇年安保の時に[…]組合を作って、院長と対立したりして、危険人物視されてしまった。それでまともに雇ってくれる病院がなかった」なだいなだは国立療養所久里浜病院のアルコール依存症専門病棟に務め出したのだが、その病棟を開放病棟にする(なだ[1998:129-133])。さらに八年遡って五六年、臺(台・うてな)弘から群馬大学精神科に呼ばれた江熊要一一は「佐久病院で完全開放をやった実績を買われて群馬大学に戻されて、生活臨床を同僚と創り出された指導者です」(伊勢田[2003])とも紹介されている。
こうしていくつかを見るだけでも。その業界ではきちんとまとめられ整理されているのはあるだろうが、複数の起源が――もちろん「開放」を幾種類かの意味に解することはできるのだから各種あって不思議でないのだが――語られていることになる。
それはどんな時代であったのか。大勢として見た時に、[…]」
第2章 造反:挿話と補遺
1 とはいえ始めた人たちとその政治活動的紐帯
「◇石川信義(一九三〇〜)一九五二年、東京大学経済学部卒。会社勤務ののち、一九六二年、東京大学医学部を卒業して精神科医となる。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、一九六八年五月、群馬県太田市に三枚橋病院を創設。二〇〇九年二月まで医療法人赤城会・三枚橋病院理事長。単書に『開かれている病棟――三枚橋病院でのこころみ』(石川[1978])『心病める人たち――開かれた精神医療へ』([1990a])『開かれている病棟 おりおりの記』([1990b])、共書に『精神病院を語る――千葉病院・三枚橋病院の経験から』(仙波・石川[1983])、等。」([72])
「こうした人々だけをとっても、幾つかの方向、動きが並存していたことがわかる。森山のように大学・大学病院に居残った人たちもいる。(そこでのできごとについても第5節でいくらか紹介する。)ただそれ以外にも、病院の運営・経営にあたる部分があった。石川が一九六八年に始めた三枚橋病院が日本初の完全開放の精神病院として知られている★01。中川もこの病院に勤めたことがある(一九九一〜九四)。また、東大精神科医師連合の医師が集まっていたが分裂し、労働問題の収拾がつかず、破綻しかけという陽和病院(東京都練馬区)の経営を、医局と組合から要請され、藤沢が経営を引き継ぎ(一九八一〜八五、cf.服部[2004]、佐原[2010]、徳田虎雄(→◆頁)に会おうとしたことがあったことも記されている中里[2010])、病院の改革が試みられた。さらに島成郎が引き継ぐ(一九八五〜八九)。二人とも苦労し、島は体調を崩して院長を辞す(藤沢[2001:44]、その後森山公夫が院長)。
また一つに、浜田のように(一九七四〜)、より小さな規模で、地域の診療所で医療を進めていった人たちがいる。藤沢も陽和病院の院長になる前から計画のあったその方向を進む(一九八一〜)。」([73])
★01 「一九七八年、年明けと同時に、産経新聞が東大精神科医師連合を攻撃するキャンペーンを開始した。[…]/一方、この年の秋、石川信義の「開かれている病棟」が出版された。石川は一九六八年に群馬県太田市に全開放の三枚橋病院を創設し、一〇年の実践記録を公にしたのである。「開かれている病棟」は、学会闘争という表舞台での空中戦ではなく、日常の臨床の場から改革を問うという意味で説得力を持っていた。全国から三枚橋への見学が集中した。」(藤沢[2010:22]、石川の著書は石川[1978])
石川・三枚橋病院について最近の紹介では織田[2011:85-128]。次のような記述もある。筆者笠陽一郎は、『天上天下「病」者反撃!――地を這う「精神」者△371 運動』(「病」者の本出版委員会編[1995])の出版にも協力した精神科医で、『毒舌セカンドオピニオン』というHPを開設、そこから、誤診・誤処方を受けた患者とその家族たち+笠[2008]、適正診断・治療を追求する有志たち[2010]が刊行されている。
「一九七七年に、「中予精神医療有志の会」は、スタートした。医師一人、PSW一人、他全ては看護者だった。/たばこの制限や蚊取線香をやめようというところから始まった取り組みは、若さの勢いもあって好調だった。良いところは取り入れようと、全国の精神病院も回った。上山(山形)松沢・陽和(東京)千葉(千葉)三枚橋(群馬)駒ケ根・南信(長野)聖隷三方が原(靜岡)岩倉(京都)光愛・中宮・浅香山(大阪)光風・関西青少年(兵庫)西条・友和(広島)藍里(徳島)そしてやどかりの里(埼玉)……。/当時、ブームとなっていた三枚橋では、ホテルのようなデイルームを見た途端、興味を失ってしまった。それよりもビラと落書きに溢れた光愛や岩倉の猥雑さに、大いに心惹かれたものである。しかしながら、その後の精神病院近代化路線によって、「病棟自主管理論」や「精神病院下宿屋論」も、瞬く間にかき消されてしまった。」(笠[2000:59])
陽和病院については本文、千葉病院は仙波恒雄(→65頁)が院長としてまた計見一雄(→167頁)がいた病院、南信病院については51頁、岩倉病院については62頁、光愛病院については116頁)。谷中輝雄や坪上宏(cf.樋澤[2000])らが関わった「やどかりの里」についてはたいへん多くの文献があり、本書では取り上げられない。精神病院、その開放化について、社会学者による調査研究として山田富秋[1986][1991]、他。これらについてHP参照のこと。
◇笠陽一郎(一九四七〜)味酒心療内科味酒心療内科理事長・副院長。ウィキペディアより:「八年間の医局及び精神科病院勤務を経て1980年5月より、味酒心療内科勤務。勤務する診療所の精神障害者患者会運動「「精神病」者グループごかい(松山精神障害者互助会)」やその交流団体に医師として深くかかわる。二〇〇三年、精神科医としての過ちの検証を目的としたウェブサイト「毒舌セカンドオピニオン」を開設。その後、二〇〇五年、患者・家族との協働によるウェブサイト「精神科セカンドオピニオン掲示板」で、患者への情報提供ボランティアを開始。誤診とみられる診断や抗精神病薬などの医薬品の不適切な処方の指摘と対案の提供を行う。」([372])
2 病院経験
「そんな過去があったりなかったりした人が精神医療でなにか違うことをしようとする。病院とそこに暮らす人たちのことを知ったからだと言う。まず、ここであげてきた人たちは、東大の「赤レンガ」と呼ばれてきた病棟を知っている★06。そして浜田・石川・藤澤・広田は、長い歴史があり、日本の精神病院として最初にその名が挙げられることも多い都立松沢病院に、長い短いの違いはあれ、勤めている。
石川は、医師免許取り立ての一九六二年頃、医局長に「T県で最大の規模を誇る総合病院」N病院で「医者が留守になるんで受持病棟担当の代わり人を廻してくれと言って来ている。半月ほどなんだけど君が行ってくれないか」と言われて赴く(石川[1978:1])。
「生まれて初めての精神病棟のなかの印象。それは<ひどいところ>の一言につきた。あまりのことに心が凍りついて、私は声も立てられなかった。/<精神病院とはこんなところだったのか。これはとてつもなく非条理な世界だ!>/心の底から、私はそう思った。/この日のことが忘れられなくなった。」(石川[1978:5])△078
そして、その時に思い出したのは大学病院のことだと言う。
「私はその時、大学病院のことを思い出していたのである。/<あそことと、ここはおんなじだ>/
[…]赤レンガは年を経てすっかり黒ずんでしまい、いかにも陰気くさい建物である。大震災の後建てられたというから、建物自体がかなり時代物のうえ、精神病棟はそこの半地下のようなところにあるので、中に入っても昼なお暗い。/私はこの「赤レンガ病棟」に入ってゆくたびに、これは医学に占める精神医学の地位を象徴しているようなものではないか、とよく考えたものだ。」(石川[1978:2-3])
次に記されるのは一九六六年頃のT病院(都立松沢病院)での多磨霊園への日帰りのバス旅行のことで、次のように続く。
「<やっぱり、すべてをひっくりかえしたところから出発するのでなければ駄目ではなのではないか。/とにかく、このままでは絶対に駄目だろう。鍵も格子も、そしてまた、そのなかの患者の生活も。/みんな一度ひっくり返してみなければならない。そうしなければ変わらないのだ。絶対に何も変わらない…………>/私が、T病院をやめて新しく病院を作ってみようと思い、実際にそれに向かって走り出したのは、この日の、この思いがきっかけとなった。/N病院でのこと。/T病院でのこと。/これらは随分、昔の話になってしまった。/随分昔の話だが、しかし、それはずっとこれまで私の中に生きつづけ、今もなお鮮やかに生きつづけている思いでもある。
大学病院のうす暗い赤レンガ病棟と、N病院の朽ち果てんばかりの精神病棟の内部と、そして墓△079 石林立するなかをうつ向いて歩くT病院の患者達と、それらの光景は私の脳裏でひとつに重なり合って、一枚のおそろしい心象風景をつくっている。」(石川[1978:8])
藤沢も一九六二年頃、民間病院にアルバイトで通う。[…]」
◆大熊(由)氏より 2020/07/02
イタリアより早く「開かれた病棟」に挑戦した
精神科医の石川信義doctor、けさ、未明に逝去◆
愛弟子の山崎英樹doctorから:
東大山岳部の弟弟子が教授をつとめる帝京大学病院で、けさ未明に。
癌が胸骨まで転移していたとのこと。89歳。
公開講義にお越しいただいたときの
★「私と三枚橋病院」は、日本の精神医療を知るために欠かせない歴史の証言
http://www.yuki-enishi.com/yuki/yuki-180412-1.pdf
★開院当時からから病院で過ごした岡住貞宏さんの保育園児から見た証言
(有名な精神病院の中のディスコ風景も載っています)
http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d98-1.pdf
★公開講義に登壇されたときの粋な和服姿:
http://www.yuki-enishi.com/yuki/yuki-18-01.pdf