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今西 錦司

いまにし・きんじ


今西 錦司  『生物の世界』 講談社学術文庫
今西 錦司  『自然学の提唱』 講談社
今西 錦司 1970 『私の進化論』 思索社
今西 錦司 1974 『人類の進化史』 PHP研究所
今西 錦司 1976 『進化とは何か』 講談社学術文庫
今西 錦司 19770925 『ダーウィン論――土着思想からのレジスタンス』 中公新書479,189p. 400 杉並
今西 錦司 1978 『自然と進化』 筑摩書房
今西 錦司 1979  『人間の進化と未来』 第三文明社
今西 錦司 19800725 『主体性の進化論』 中公新書583,218p. 440 杉並
今西 錦司・飯島 衛 1978 『進化論――東と西』 第三文明社
今西 錦司・吉本 隆明 1978 『ダーウィンを超えて――今西進化論講義』 朝日出版社
今西 錦司 責任編集 1979 『世界の名著50 ダーウィン』 中央公論社
今西 錦司・柴谷 篤弘 対談 米本 昌平 司会 1984 『進化論も進化する』 リブロポート 1300 
今西 錦司 編 19840725 『森』 作品社,日本の名随筆21,258p. 1200 三鷹041

◆関さんからの転送を転載

みなさま

辻 淳夫です

いつも連絡がぎりぎりで申し訳ありませんが、
明日の夜は歴史に残る瞬間になるでしょう。

6月15日(土)夜18:00-20:30・名古屋市公会堂
講演とパネル討論会:<今西錦司没後10周年「今西進化論復活祭」>
で、ダーウィンの進化論を根底から覆す、今西ー水幡の種社会進化論が
明らかにされるからです。(催しの詳細は最後に、新本売り出しも)

それは地球の生命史を見つめなおし、文明(特に西欧)の根底にある
人間観をつきくずし、生命共同体のありように真の理解をみちびき、
絶望の淵にある人類社会を救うきっかけになるかもしれません。

そんなおおげさな!、なんで辻が?、と思われるでしょう。
それは来てのお楽しみとして、
ちょっと硬い(きまじめな)雰囲気かも知れませんが、
ぜひ、名古屋発進化論革命の場に立ち会ってみてください。



―――――――――講演とパネル討論会――――――――

今西錦司没後10周年「今西進化論復活祭」
                「今西進化論復活祭」実行委員会

日時・場所 02年6月15日午後6時30分・名古屋市公会堂(鶴舞下車)
開会挨拶   河宮信郎
講演     映像で見る『新今西進化論』 水幡正蔵
今西錦司追悼 故人を偲んで黙祷(19時33分) 

パネル討論会 −生態史から見直す生きものと人− 
       司会:河宮信郎・辻淳夫・河田昌東・(水幡正蔵)・
閉会挨拶 実行委員会

「今西進化論復活祭」呼びかけ
        「今西進化論復活祭」実行委員会 西暦2002年6月3日

 「今西進化論復活祭」は今西錦司を没後10周年に追悼する催しとして開かれる。
開催実行委員会としては、この会を開くにあたって以下のようなことを考えています。

 環境・生態系保全の重要性、生物世界の相互連関について、われわれの知識は
全く不十分である。たとえば、藤前干潟は「守る会」を始めとする広範な人々の
尽力で辛くも保全された。しかし、干潟を潤す川水や海水の環境ホルモン汚染が
進むと、やがては干潟の生物をついばむ鳥たちを滅ぼす。現に、環境ホルモンの
攪乱作用のために、オス鷲が番いをつくることに関心を失ったり、カモメがメス
同士で番いになり無精卵を孵化しようとした事例がアメリカなどで発見されている。
こんなことが起こると、現世代の死とともにその群集団が死に絶える。生態系の
危機は不断に深化していることを忘れてはならない。翻って考えると、地球生命
共同体(人類もその一員)を構成する生物たちがいかに生きているのか、それら
の相互関係はどのような「共生・棲みわけと共進化」の結果なのか・・・。

 このことを明快に解きあかす視座を故今西錦司が築いていた。彼の生物観や進
化論は多くのひとの共感を得ていたが、ひとつ致命的な限界をもっていた。彼の
主張する「生物の主体性」が直観的な確信にとどまり、霊長類を超える動物一般
の行動学的な観察や進化史的な知見と結びつかなかったのである。
 この隘路を切り開く画期的な理論が誕生した。すなわち、生物の共生・棲みわ
けと共進化の過程において、生物の主体的な「交配選択」が種社会のアイデン
ティティの確立(種分岐)や発展(定向的進化)に決定的な役割を果たす、とい
う新今西進化論(水幡理論)である。首の長さを競う雄キリン、尾羽根の目玉飾
りを競う雄クジャク、角の壮麗さを競う雄トナカイ・・・という「交配競演」は
種社会の願望や価値観の表れであるとともに発展の方向をみずから定めるもので
ある。ここから、進化の方向を種社会が主体的に選択している−種社会選択−と
いう考え方が導かれる。

 この新今西理理論は、ダーウィン進化論(優位な変異をもつ個体が生存闘争の
結果種全体に拡がるとみる)では解けなかった大進化(新たな綱・目の形成など)
や急速な進化に対して明快な説明を与える。
 この理論を集大成した著書、水幡正蔵『新今西進化論≪種社会選択による種社
会の分岐≫』発行:地球社会基金、発売:星雲社、2002年]は今西理論の再構築
であり、発展的継承である。

 本来であればこのような催しは、今西の学統をつぐべき一門の研究者たちが開
くはずのものである。しかし彼らの多くは彼の死を機に今西理論を放棄してダー
ウィン進化論に鞍替えしてしまった。これは研究者の理論的退廃を示しており、
自然生態系への正しい理解と認識を再構築していくためには、環境保全に関心の
深い市民や運動体が理論的にもアクティブに活動していくべきでであると考え
る。このような視点から、当実行委員会は今西進化論復活祭を企画し、環境保全
に関心の深い市民や組織や今西理論に関心を寄せてきた人々に参加を呼びかける
ことにした。

今回の「今西復活祭」では、まず『新今西進化論』著者水幡正蔵に、映像資料
を交えながら分かり易く理論の骨子を語ってもらう。(「映像でみる新今西進化論」)
 そして今西錦司が他界した午後7時33分に故人を偲びながら、全員で黙祷を
行う。 さらにその流れで「生態史からす見直し生きものと人」と題したパネル
討論会[辻淳夫・河田昌東・(水幡正蔵)・司会:河宮信郎)]を催すものとす
る。閉会の辞は大松沢光敏が行う。

「今西進化論復活祭」実行委員会
実行委員会 河宮信郎(委員長)・河田昌東・辻淳夫・大松沢光敏・小林収・内
藤耕太郎・宮永正義・加藤徳太郎・児玉克哉・水幡正蔵

連絡先:中京大学河宮研究室 052−832−211 内線6341
    携帯 090−9177−2791
http://www.econo.chukyo-u.ac.jp/kawamiya/

 

■立岩『私的所有論』第4章より(pp.111-112,注はp.165)

「次に、守るべきものは「法則」としての自然ではなく、守るべきなのは、守らないことがその「掟」に反するからではない。技術が自然を改変することに疑問を持つのは、それが自然の法則を逸脱するからではない。第一に、そもそも私達が自然の法則に違反することは不可能である。どんなことをしても、少なくとも私達は力学の法則には従っている。すべてが法則の内部で行われている。そして、人間が他の種に優越する制御能力を獲得したこともまた自然史の一部であり、自然を制御し支配することもまた自然の一部である。第二に、自然がしかじかであることから、私達がこうでなくてはならないということを言えない。実際にはその類いの議論が横行している。例えば、だいぶ昔に流行ったものでは、ダーウィン流の進化論はしかじかであるのに対して今西(錦司)流の進化論はしかじかといったものがあった。どちらがより自然認識として妥当であるかはここではどうでもよい。こちらの見方が私は好きだというまず選好があって、それを支えてくれるものとして「自然」そして「自然科学」が持ち出される。あるいは、「自然」はこうだから、私達はこうであるべきである、私達がしていることは正しい、あるいは正しくないとする。人間が「生存」していくためには掟に従わなくてはならないということはあるだろう。だがこのことを除けば、これら――第6章で少し触れる「社会ダーウィニズム」や「優生学」もその一種である――はみな、自らの主張の根拠、主張の補強として、自然に依拠している、自然を持ち出しているのであり、ただ単に「自然(科学)」信仰のもとにあるというだけである。◆05」

「◆05 注01にも関連し、例えば一元論が科学的真理として唱えられそのことをもって流布するといったこと、また、一時「ニューサイエンス」が少し流行ったのも同類の事態である(cf.森岡正博[1988:5-6])。「今西進化論現象」については岸由二[1991]、cf.第9章注31(442頁)。本書は、思想としての全体論を拒絶し、同時に、どんな思想であれその根拠として自然(科学)に遡及することの意味を否定する。」

 cf.岸由二

■立岩『私的所有論』第9章注31より(pp.442)

◆31 「種の多様性が、人工物の意図的な増殖のなかで、性のみが保証する偶然の終りのなかで消滅するとき、おそらく人類の死がまっているだろう。」(Attali[1988=1994:520])この種の議論は多い。畦地豊彦[1987]について加藤秀一が次のように指摘する。  「「類的種族としての人間存在の認識」(畦地[1987:187])といった全体主義(「種」主義というべきか)は反差別運動の射程を根本から堀り崩す倒錯であるように、私には思われる。女性も障害者も、その解放運動の出発点は、自らを、他に置き換えのきかない一人の人間=個人として認めよという叫びではなかったか。個人は種内の遺伝子の多様性を保存するプールとして価値があるのではない、という思いに立ち帰ること――障害者運動とフェミニズム運動は、個人の尊厳の擁護というこの出発点を徹底して共有するところから、生命の質を一元化する優生思想に反対するという、原理的な共存を獲得できるはずだ。」(加藤[1991a])この箇所に付された注には、「より典型的な表現は同じ論集の中の山下恒男の文章にみられる。そこでは「個体と種を二つにして一つのもの」とみる今西進化論の「おおらか」さが称揚されている」とある。ここで加藤が言及しているのは山下[1987:388-389]。著書(山下[1977])にも同様の主張が見られる。
 本書を通して言おうとしたのは、これらと別の立場である。」



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