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秦 茂子

はた・しげこ



・福岡県
日本ALS協会福岡県支部

・1988 38歳のときに発病
 このとき子供は5歳、9歳、11歳

 在宅で暮らす。
 人工呼吸器はつけていない。

◆秦 茂子
 筋萎縮性側索硬化症と共に闘い歩む会 福岡県支部だより 第3回総会特集号
 http://www.oita-h.ed.jp/~tabe/sigeko.html

◆秦茂子・祐司 19981203 「ALS病患者の現状と支援体制への期待」
 「福岡県重症神経難病患者入院施設確保等事業」運用開始記念事業
 ー難病患者とその家族の生活の向上を目指してー  福岡県庁講堂
 http://www.ashibi.com/wv/hata.htm

 「私が発病したのは1988年、38歳の時でした。それから数えて今年は11年目になります。 まずはじめに、私が病気の宣告を受けて、どう感じたかから話したいと思います。当時、夫を通じてお医者さんから、「残念ですが原因はわかりません。3年から5年の命でしょう」と言われました。」

 「ALS患者は、24時間そばにいる介護が必要で、しかも大変手がかかります。今のホームヘルパーによる短時間介護ではなく、少なくとも半日そばについてほしいと思います。そうしたら、家族は、勤めや学校を続けながら介護のローテーションが組めます。
 そして吸引もしてほしいのです。吸引は看護婦さんしか出来ないという点に困っています。吸引は注射と違って誰でも出来ます。現に、我が家の娘も小学生の時からやっています。患者のためを思って、誰がやってもいいことにしてほしいのです。」

◆秦 茂子
 筋萎縮性側索硬化症と共に闘い歩む会 福岡県支部だより 第5回総会特集号 http://www.oita-h.ed.jp/~tabe/sigeko3.html

 「こんにちは、秦茂子と申します。このALS協会福岡県支部の総会へは、いつもは夫が参加していますが、私は今回が初めてです。きょうはよろしくお願いします。
 最初に、簡単に私の身体の具合から話したいと思います。38歳で発病してから今年で13年目に入りました。」

 「告知は医者からではなく、夫から間接的に受けました。この病気の治療法はなく、あと3年から5年の命でしょう、と言われたそうです。ショックでした。いきなり大きい漬物石が頭上に覆いかぶさってきたようで、重苦しく不快でした。それまで大した苦労もせず、のほほんと暮らしていた身にはこたえました。」

 「なぜ他人から認められるか否かによって、こんなに感情が動くのでしょうか。それは、人は、社会の網になにがしかの地位を得て、そこに根をおろして定着しないと、生きるための食べ物と安全を手にいれることができないけれども、その地位は自分で勝手に決められず、他人から認められる必要があるからです。そして、その地位は社会の中心に近いほど、収入が増えるなど、生きる上で有利になります。だから人は、有利な地位を目指して努力を惜しみません。例えば、成績を上げたい、出世したい、痩せて美しくみせたい、などなど総ては、有利なおいしい地位に定着したいという欲求のあらわれなのです。
 そのため、他人から少しでも高い点数で認められるように努力すると思います。以上が、人の心の動きを私なりに考えたものでした。
 これを私にあてはめると、私の精神的苦しみは、社会的地位の点数がさがることでした。社会的地位といっても一介の主婦にすぎませんが、お母さんとしての役割を果たせなくなるだけでなく、逆に面倒をみられる存在になるのは辛いことでした。しかし、肉体的には駄目でも、精神的には、家族は、私を変わることなくお母さんとして認め、期待してくれていました。
 それが私の元気の元になりました。それに発病当時、3人の子供達は、小6、小4、幼稚園の年長さんでした。ちょうど育ち盛りで、次から次へと事件がおこり、笑いや喧嘩や心配がたえまなく、私ひとりで落ち込んでいるヒマはありませんでした。私は、夫をはじめ、子供達、応援にきてくれたふたりの母や夫の妹に支えられて、というより、すがってここ迄きました。」

 「病気暮らしは毎日同じことの繰り返しで、しかも私は何もやっていないから、退屈しないか、と子供から聞かれたことがあります。かりにALSを敵とすると、強力そうで私はハナから闘う気はなかったけれど、これから敵がどうでるか分からない不安があるので、緊張が抜けず、退屈できなくなりました。」

 「話は変わりますが、4月からの介護保険制度のスタートにより、我が家にも何人もヘルパーさんがきてくれています。私の介護は、いつくるか分からない吸引にそなえて私の側にいるのが眼目です。そのため介護時間をどんどん使ってしまいます。私は要介護度5級なので月35万円程度の介護を受けられますが、それは週の内、二日間だけの、朝8時から夕方6時までの介護と週一回の風呂で消えてしまうのです。
 もし介護保険がドイツのように現金給付も選べるなら、直接ヘルパーさんにたのむことにより、介護保険でまかなえます。そこで、私のような立場の病人には、現金給付を選択できる制度に変えてほしいと思います。」

 

立岩の文章における言及

 [10]一九八八年・「三年から五年の命でしょう。」(夫に。秦・秦[1998])
 [46]一九八八年、三八歳で発病し、「夫を通じてお医者さんから[…]「三年から五年の命でしょう」」と言われた[10]秦茂子(福岡県)は、九八年に「今年は十一年目になります」(秦・秦[1998])、二〇〇〇年に「今年で十三年目に入りました」(秦[2000])と話し始める。
 [141]秦茂子[46]は「告知は医者からではなく、夫から間接的に受けました。この病気の治療法はなく、あと三年から五年の命でしょう、と言われたそうです。ショックでした。いきなり大きい漬物石が頭上に覆いかぶさってきたようで、重苦しく不快でした。それまで大した苦労もせず、のほほんと暮らしていた身にはこたえました。」(秦[2000])
 [271]秦茂子[141]は一九八八年に発病し、いまは自宅で暮らしている。「病気暮らしは毎日同じことの繰り返しで、しかも私は何もやっていないから、退屈しないか、と子供から聞かれたことがあります。かりにALSを敵とすると、強力そうで私はハナから闘う気はなかったけれど、これから敵がどうでるか分からない不安があるので、緊張が抜けず、退屈できなくなりました。」(秦[2000])


※おことわり
・このページは、公開されている情報に基づいて作成された、人・組織「について」のページです。その人や組織「が」作成しているページではありません。
・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。
*作成:立岩 真也
REV:20011206,20020710,0717,1003,20030408,12
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